賭け・賭ける(連載「かく・かける」の補遺・第2弾)

げんすけ

2020/09/11 07:51


 たとえば、東京の渋谷駅前の雑踏で、すれ違った見知らぬ人同士。この2人が、その後、ふたたびすれ違う確率は△%だ。そんなふうな話というかフレーズが、昔、流行ったことがありました。若かった自分は、ロマンチックな想像をふくらませて、うっとりしたものです。


 うろ覚えですが、サハラ砂漠でAという人とBという人が出会う確率、なんて話もあったような気がします。「佐原君じゃないか」。「おひさ、原君」。これじゃあ、ロマンチックというより、マンガチックです。


 今、固定電話の電話機や子機がそばにある方、またはガラケーをお持ちの方、ダイヤルボタンの縦列369をご覧ください。機種によって違いはあるかもしれませんが、たいてい、「さはら」が併記されていませんか? これこそ、「サハラ砂漠での出会い」みたいで、個人的には、こっちの偶然のほうに、ロマン(※これって、もう、死語ですか?)、を感じます。


 ちなみに147は「あたま」ですけど、ダジャレにもならなくて、ぜんぜん「あたま」いい感じはしません。「あ」っ「たま」たま、そうなっただけ~、そんだけ~、くらいですか。


 どうしようもないのが、真ん中の2580。あらっ、ひら「かなやわ」(※ひらがなだわ)くらいじゃ、使いもんになりまへんわ。


     *


 確率とか可能性というものには、何か夢に近い、気の遠くなるようなイメージを感じます。数学の確率・統計には、半端じゃなく弱い自分ですので、この感覚は、実際にものを知らない者の戯言=無知な発言=あほの言うことだと、片付けられても、返す言葉はありません。


「かく・かける(1)」~「かく・かける(8)」シリーズの補遺=おまけ=付録=追加の第2弾として、きょうは、「賭け・賭ける」について書こうとしていますが、「かく・かける(2)」で述べたように、いわゆるギャンブルには縁遠いです。自分が縁遠いものやことについて、あまり意識していない。そのために、恥をかいた経験をお持ちではないでしょうか? 


 よく冗談だと思われるのですが、自分は「ばばぬき」というトランプゲームを知りません。正確に言うと、今、「ばばぬき」を説明しろと言われてもできないという意味です。昔、2、3度やった経験はあります。その後、ほかの人たちがやっている様子を見たこともあります。でも、ルールがあたまに入らないのです。


 誓って申しますが、本当です。単純なルールだということだけは、何となく覚えていますが、どうやってやる遊びだったか、思い出せません。興味がない。覚える気がない。おそらく、そうしたメンタルブロックが働いているにちがいない、としか言えません。


 ですから、ほかのトランプゲームも知りませんし、できませんし、やる気もありません。こんなんだから、友達ができないのでしょうね。ついでに申しますと、あと、縁遠いものに、旅行と音楽があります。


 これも、ある人にこっそり白状したところ、冗談だと即断されましたが、高校2年生だった年の秋に、米国でほんの短期間のホームステイをしたのを最後に、泊りがけの旅行や観光旅行をした経験がありません。そういえば、その年の春に修学旅行もありました。それ以来、マジでなしです。これって、ギネスブックに掲載してもらえますでしょうか? 


 とにもかくにも、違った枕で眠ることが大嫌いなのです。そうなら、自分の枕を持参して旅行をすればいいのにと言われそうですが、少々閉所恐怖症気味なところがあって、自動車・バスをはじめ、列車、飛行機といった移動手段が苦手なのです。30分間でも長いです。15分くらいなら我慢できます。それ以上は、できれば、いや、何としてでも避けたいです。


     *


 もう1つの縁遠いものである音楽は、別に嫌いというわけではありません。ただ、大学生になったころから聴力が低下しはじめた以降は、楽しめなくなりました。複数のお医者さんの診断を受けましたが、ある周波数の部分を聞き取る能力が極端に落ちているらしいのです。現在は、補聴器で、そうした不自由さを補っているわけですが、器械を通して聞いているわけですから、快く聞こえてこない感じがあります。


 で、ある時、大恥をかいたのです。「レコード店」って、今でも言いますよね。レコードではなく、CDとかDVDとか、少し前ならレーザーディスクも売っていた時期でも、「レコード店」と言われていました。かなり前のことですが、ある時、ふと、何げなくレコード店に入ったのです。


 その頃は、円盤型のいわゆるレコードも売られていました。でも、その売り場面積が極端に狭いのです。そのかわり、「新譜○○」とかいう文字が印刷された細長い紙切れがプラスチックで包装されて、ずらりと売られているのです。あまり興味もないので、「新譜」だけが目に入り、きっと楽譜が売られているのだと思いました。楽譜がたくさん売られていることも、不思議だとは感じませんでした。何気なく、お店に入っただけでしたので、すぐに出ました。


 で、その少し後にCDというものが売られていること、レコードがもはや売られていないに等しいこと、そして、その「新譜○○」の包装を解けば、そのCDなるものが入っている事実を知ったのです。「あっ、そうだったのか」という感じでした。だから、あの時に入った店で、レコードが隅に追いやられていたのです。まさに、氷解というやつです。そのことを、ある知り合いに話すと、「うそー」という反応が言下に返ってきました。


 でも、本当なのです。もともと、語学は好きだったので、ラジカセと、ソノシート(※ビニール製のレコード)を聞くためのレコードプレーヤーは持っていましたが、レコード自体を買う趣味はなく、ステレオやコンポを持ったことはありませんでした。だから、レコード店に入るという機会も、数えるほどしかなかったのです。


     *


 一瞬、何の話をしていたのか、分からなくなりました。


「賭け・賭ける」ですね。さきほど、言い訳をしましたが、お金をかけてのギャンブルをするために必要な縁も円もないので、「かく・かける(2)」で書いたように、きょうも、


*「人生は賭けだ」「人生はゲームだ」


という具合に話を進めます。やっぱり、上の2つのフレーズは、自分にとって、偽らぬ実感です。宝くじやパチンコや競馬などの、個々の賭けの仕組みや、それぞれの分野での「当たる」確率については、まったく分からないのですが、


*「確率」という名で呼ばれている、得体の知れない「何か」


には、興味があります。でも、かつて学校の教科書にあった数学の確率・統計を思い出すと、気持ちが縮んでしまいます。


*言葉でしか知らないもの


ですので、せいぜい、「確率」という言葉の使われ方をあたまに浮かべ、そのイメージをつかむくらいしか、「確率」と取り組む方法が思いつきません。たとえば、


*この子が○歳まで生きる確率は、どれくらいかしら?


*□□癌にかかっていると診断されたが、あと5年間生き延びる確率はどれくらいだろう?


*宝くじよりも、競馬で儲かる確率の方が高いって、本当?


*△△で▲▲が出る確率は▽%である。


*この会社の株が、本日の午後3時までに○円を超える確率を計算することはできますか?


*円が、5分以内に1ドル□円△銭の大台を突破する確率を計算に入れて、いくら買うかさっそく決めよう。


*今、この車に乗って出掛けて、無事故で午後5時までに帰ってくる確率なんて、計算できるの? 


*降水確率って、どうやって出すの?


*サイコロを振って、1が出る確率を求めよ。


 こんなフレーズしか思いつきません。数学的な確率に詳しい人から見れば、無意味=あほの極みな文もあるにちがいありません。そもそも、


*確率と可能性のちがい


も分からないのです。こういう問題には、尻込みしてしまい、手も足も、口も出ません。絶句、です。


     *


 気分転換に、言葉のフェティシストのはしくれらしく、英語での「賭け・賭ける」にあたる言葉を英和辞典で調べてみます。いろいろありますが、メジャーなものだけを挙げておきます。


*gamble : game と語源が同じ。「勝負する」が転じたという説もある。「賭ける」「投機する」「一か八かの冒険をする」「あてにする」「期待する」「山を張る」


*game : 「お楽しみ」が語源。「遊び」「戯れ」「遊び道具」「気晴らし」「試合」「競技」「体育」「トランプのスコア」「駆け引き」「相手をだますこと」「たくらむこと」「トリック」「じょうだん」「からかうこと」「ふざけること」「猟の獲物の肉」「攻撃目標」「嘲笑の目標」「白鳥の群れ」「商売・職業」「度胸・勇気」


*bet : 「けしかける・そそのかす」が語源らしい。「賭ける・賭け」「きっと○○だと言い張る」「賭けたもの・賭けたお金」「賭けの対象となるもの」「山勘」「考え・思っていること」「何かを成し遂げるための方法・ノウハウ」


*venture : 「冒険」と語源的につながっているらしい。動詞でも名詞でも使える。「やばい=危険な試み」「投機的ビジネス=要するに、とんでもないほどのリスクを背負って、オオバクチ的なビジネスに、カネを賭ける」「やま」「いわば、清水の舞台からバンジージャンプする」「うへーっつ、そんな大胆な、という感じのことをする、または、そういうことを言う」「無鉄砲、向こう見ず、大胆不敵、ほぼ何も考えてない」


*chance : 「落っこちる」が語源らしい。「偶然」「めぐり合わせ」「とてつもないパワーに全部お任せする」「運・運命」「可能性」「勝ち目」「見込み」「機会・いわゆるチャンス」「好機」「賭け」「危険」「冒険」「不運」「たまたま○○する」「クツか下駄かスリッパを投げて、一か八かでやってみる」(※オバマ氏が、現在、実行中)(※鮮度が悪い話ですが、文章の勢いを生かすために加筆は最小限にとどめています。)


 以上ですが、語源だけで十分のようです。「そそのかされて」「お楽しみ」をして、図に乗って「冒険」をし、「落っこちる」。うーむ。やっぱり、CHANGE は CHANCE ですか。ピンチはチャンスですか。そうなると、結局、


*「人生は賭けだ」「人生はゲームだ」


でお茶を濁すしかなさそうです。


 で、思ったのですが、


*生きるためには、ヒトを含めたあらゆる生き物が、意識的か無意識のうちにかに関係なく、選択と排除をしている。基本的に、Aを選べば、Bを捨てなければならない。もちろん、AとB両方を選択することも可能であるし、両方を放棄する事態もあり得る。


みたいです。


 これって、立派な賭けです。話をヒトだけに限定し、後半のややこしいところを省略すると、


*ヒトは、故意に=よく考えて=マジに=真剣に=一生懸命になって、または、何となく=気まぐれに=テキトーに=でたらめに、何かを選び、何かを捨てて、生きて=前に進んでいる。


とも言えそうです。で、個人的にすごく気にかかるのは、


*「故意に=よく考えて=マジに=真剣に=一生懸命に」と「何となく=何も考えずに=気まぐれに=テキトーに=でたらめに」とのあいだに、違いがあるだろうか?


です。


 確率とかがからんでくるとすれば、前者の「よく考えて」を「確率を考慮に入れて」としてもいいです。結果として、違いはあるのでしょうか? 確率・統計に半端じゃなく詳しいらしい人が考え出したという金融工学とか証券化とかいうものの誤作動=エラー=「こんなはずじゃなかった!」が、引き金となって、金融危機や信用危機が起こり、今の大不況を招いているとするなら、「よく考えて」という部分に懐疑的になります。


*プロならプロらしく、しっかりやってちょうだい。


と文句を言いたくなるのは人情ではないでしょうか。


 経済と金融には、めちゃ弱いので、「しっかりやって」なんて文句を言っても意味があるのかさえ、見当もつきません。実際、どうなんですか? この方面にお詳しい方、どう考えていらっしゃいますか? 新聞の経済欄や、日経の電子版、英米のその手のニュースサイトを覗いてみても、何だか、


*プロの人たちみんなが迷っている=途方にくれている


としか思えません。週末なんかに競馬新聞を手に眉をひそめている人たちの様子と、酷似=激似です。


     *


 やっぱり、


*カジノ資本主義という比喩


に加担したくなります。それとも、いわゆる「金融危機」はとんでもない「わけあり=陰謀=一部の超あたまのいい人たちの企んだ悪さ」で、あれはあれで「正解」だったとか? 最初から毒饅頭だと知っていて、故意にばらまいたやつらがいる。慌てた振りをしながら、内心は「しめしめ」とか? そして、世界中の超お偉い方たちは、そのことを薄々知っていて、いちおう慌てた振りをしてみせている。自分たちは、それなりにお金がたんまりあるから、「まっ、いっか」って感じ。


 それより、スキャンダル=陰謀がばれるリスク=大混乱のほうが、やっかいだ。もしも、そうなら、「一部の人たち」以外の、超あたまがいいわけでもなく、超お偉いわけでもない、圧倒的多数の人たちは、とんでもない規模で馬鹿を見ているということになります。ああ、こわい。誇大妄想=トンデモな考え=杞憂であることを祈ります。


     *


 ところで、さきほどの問題、


*「故意に=よく考えて=マジに=真剣に=一生懸命に」と「何となく=何も考えずに=気まぐれに=テキトーに=でたらめに」とのあいだに、違いがあるだろうか?


ですが、結論から申しますと、


*「イエス・アンド・ノー」だ


と思います。


 まず、「イエス」から説明します。ヒトが生み出した=人工的なものとして存在している、


*理工学系の分野においては、コンピューターの仕組みの基本原理となっている「0/1」(2進法)に代表される2項対立が機能している。Aを選択すれば、Bは排除される、というきわめてシンプルな運動が原理となっている。したがって、「必然性 vs. 偶然性」「意味 vs. 無意味」「有 vs. 無」「指向性(or 志向性) vs. 無指向性(or 無志向性)」といった対立が有効性を備えている。


らしい。


 具体的に言い換えれば、たとえば、


*機械・器械は、「故意に=よく考えて=マジに=真剣に=一生懸命に」設計し、製作し、操作しなければならない。エラーや不具合や誤作動には、適切に=「故意に=よく考えて=マジに=真剣に=一生懸命に」対処しなければならない。


と言えそうです。


 一方で、その他の森羅万象においては、さきほどの問いに対して「ノー」と答えてもいいのではないかと思っています。さらりと書きましたが、確認のために、強調しますと、ヒトが生み出した機械・器械以外の全部についての話ですよ。宇宙的なレベルの話です。


 ちなみに、このあいだ(※2008年)(※だいぶ昔ですね。古い話で申し訳ありません。)日本人および日本出身の方々4名がノーベル物理学賞と化学賞を受賞されましたが、あの人たちの専門とされている領域も含んでの話です。あの人たちの「高尚な=学術的な=専門的な」お話をお聞きに、あるいはお読みになりましたか? 


*「対称性の破れ」


という、何だか、面白そうなことが書いてあったので、自分としては珍しくマジになって、何度も読み返しました。すごく摩訶不思議=あやしい=シュール=かなり吉田戦車している=尋常ではない=「ひょっとして」テキトー=良く言って禅問答=悪く言うと出来の悪いギャグ「みたい」=「でも」すごいこと「らしい」でした。


 あくまでも個人的な感想=妄想=誤解=浅知恵ですけど。とはいうものの、あの人たちが、研究用にお使いになっている、


*機械・機器・器材は「故意に=よく考えて=マジに=真剣に=一生懸命に」でなければならない。


しかし、あの人たちが研究なさっている、


*現象は、必ずしも「故意に=よく考えて=マジに=真剣に=一生懸命に」である必要はない。「何となく=何も考えずに=気まぐれに=テキトーに=でたらめに」であってもかまわない。


のではないかと、「ほぼ想像=多分に妄想」しています。


 このへんについては、きわめて生意気な=身の程をわきまえない=「あほでばかでおたんこなすな」ことを書いていることは、百も承知です。このブログは、学術や研究や学問ではなく、あくまでも。楽問=ゲイ・サイエンス=「楽しくやろうよ、お勉強ごっこ」ですので、ご勘弁願います。ただし、本気です。正気と言う勇気も自信もさらさらありませんが、本気なのです。


*「あんた、ほんまもんやから、こわいわー」


と言われるのは覚悟のうえでございます。なんで、こんなとほうもないことを書いているのかと申しますと、「かく・かける(1)」~「かく・かける(8)」シリーズを書いてきまして、いちおう、とりあえず、次のような結論というか、感想をいだくに至ったからです。


*森羅万象は、暴力的なまでに圧倒的な偶然性に侵され=犯され、支配=制御されている。必然性は、偶然性の反対ではなく、偶然性の一側面にしかすぎない。


みたいです。


 以上を簡単に直感的にイメージ=体感的に言うと、次のようになります。


*地球も含めて宇宙にある「何でもかんでも」が、半端じゃないすごいパワーの持ち主、「テキトー=気まぐれ大魔王」の、「けん玉遊び」に付き合わされて、もてあそばれている。「何でもかんでも」(当然、ヒトも含まれる)が、「木製の玉」であることは言うまでもない。しっかり糸でつながっているから、逃げようとしてもダメ。宙ぶらりんか、投げ出されて、てんてこ舞いするだけ。どうやら、大魔王は、「けん玉遊びが下手らしい」という有力な説があり。ああ、大変。


らしい。


 あとは、ちょっとややこしいですが、辛抱してお読みくだされば嬉しいです。


*ヒトは、ともすると偶然性と必然性を対立するものとして知覚するが、それは言語に起因する錯覚である。


*ヒトは、自らの知覚できる枠のなかで支配=制御できるものやことや現象に、必然性を見いだすが、それを枠外に当てはめることはできない。


*ヒトは、自らの知覚を基盤にしたうえで、自らが操作可能な機械・器械や仕組み・仕掛けを、設計し、製作し、また、実際に操作し、エラーや誤作動や不具合を修正している。しかし、それは、森羅万象を暴力的なまでに圧倒的な力で、侵し=犯し、支配=制御している、偶然性とはおそらく無縁の微力であり、圧倒的な偶然性のまえ=もとでは、徹底して無力さをさらすしかない。


*言葉を、原点とせざるを得ない条件下に置かれているヒトは、その言葉を利用することにより、自らの知覚できる枠のなかで支配=制御できるものやことや現象(これには、確率・統計も含まれる)を日々体験している。それは、自由さとも錯覚される、限定された力を持っているからであるが、もしも、ヒトが身の程をわきまえず、偶然性の反対は何かという問題を、言葉で処理しようとする願望をいだいたならば、偶然性の反対は「自由」という名の「不自由さ」であると言えよう。


 以上のように、妄想しております。


 というわけで、


*「故意に=よく考えて=マジに=真剣に=一生懸命に」と「何となく=何も考えずに=気まぐれに=テキトーに=でたらめに」とのあいだには、日常的レベルでは、差はなく、おそらく、学問的レベルにおいても、差はなく、個人の「自由=不自由」にまかされるべき問題である。


と思っております。ですので、


*「人生は賭けだ」「人生はゲームだ」


を広く=狭く理解するなら、


*圧倒的なテキトーさを覚悟して、生きる=人生を送るしかない。


ということになり、精神衛生上、今、述べたような戯言は忘れて、「故意に=よく考えて=マジに=真剣に=一生懸命に」なり、「何となく=何も考えずに=気まぐれに=テキトーに=でたらめに」なり、自分の「お好み」で「無理をすることなく」時を過ごすのが、


*かしこい生き方(※「ビジネス書」という名で売られている「処世術」本で、似たり寄ったりに=手を変え品を変え=ほぼ同じ=新しければ売れる式に書かれていること)


だと思います。


     *


 蛇足を覚悟で申しますと、


*自分自身の「快・不快」に忠実に生きましょう=行きましょう。


つまり、


*気持ちよければ、それでいいじゃない。


となります。


 次回は、できれば、「かく・かける(1)~(8)」シリーズの補遺=おまけ=付録=追加の第3弾(最終回)として、「書く・書ける」について書くつもりです。何とか、書けるといいのですが――。


 今回の記事の冒頭で、固定電話機やガラケーのダイヤルボタンの配列を利用しての、「賭け・賭ける=確率」と「書く・書ける=エクリチュール」についての、「私家版マラルメだじゃれごっこ」をしましたが、基本的には、あのようなくだらない話になりそうです。いえ、もっと真面目にやります。


 では、お待ちしております。



※以上の文章は、09.05.21の記事に加筆したものです。なお、文章の勢いを殺がないように加筆は最小限にとどめてあります。



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