まことはまことか(前半)
星野廉
2020/09/18 12:31 フォローする
「ま」という言葉というか音(おん)は不思議です。ma とも表記できますね。ひっくり返すと am となります。「あむ・あん・あーむ・あーん・あうん・阿吽・aum・om 」とずらしてみる。そんな遊びが好きです。「げん・幻 -5-」や「げん・言 -10-」 や「言葉とうんちと人間(言葉編)」でも、やっています。実は、毎日やっています。呼吸法の一種なのです。沈んだ気分が楽になるので、やっているだけですけど。
この種のことは、やっている本人は真剣なのですが、はたから見ると、「こいつ、あやしい」「あやういんじゃないかい」「近寄らんとこー」という雰囲気になります。オカルト、カルト集団、スピリチュアル、新興宗教、大規模宗教、世界的宗教の別を問わず、自分が感情移入できないものは、とかくうさん臭く、いかがわしく見えるものです。他人様に迷惑をかけなければ、好きなようにすればいい、という感じでしょうか。
とはいえ、この種の行為は、お金と親和性がきわめて高いために、あまり深く考えずに、ある集団に入会=入信したら最後、いつの間にか寄付・お布施を始め、さまざまな形で奉仕活動を強いられる状況にはまり込んでいる。そんな話をよく見聞きしますね。選挙での集票マシンの一部に組み込まれることも、珍しいことではありません。このブログを書いているアホは、ファシズム=全体主義が極端に嫌いです。そもそも「群れる」ことに過剰なほどの拒否反応を示すので、宗教団体とは無関係に暮らしておりますし(※だいいち、さきだつものがございません)、神仏のたぐいも信じておりません。
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せいぜい、ひとり宗教くらいしかできそうもありません。友達がいないのも、「群れる」ことへの恐怖=憎悪が根底にあるように思われます。何しろ、飲み会、コンサート、スポーツ観戦の経験が皆無なのです。正確に言うと、飲み会は学生時代に1回しか参加したことがありません。
そもそも、煙草・お酒・男性整髪料・濃い化粧品のにおいに、アレルギー反応を示すのです。吐き気、蕁麻疹、頭痛、冷や汗、呼吸困難を起します。線香のにおいも駄目です。ですので、うちでは線香はあげません。もっとも、小さめの額縁に入った遺影はあっても、仏壇がありません。ほしくもありません。お墓も要りません。骨を拾っていただく必要はないという意味です。というか、拾ってほしくありません。拾うヒトはいないでしょうけど。
宗教と呼ばれているものに関しては、個人レベルでの心の問題だと思っています。形式や物で示すものだとは考えておりません。
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で、話を「ま・ma 」にもどします。
きのうから、ずっと「ま」について考えていて、きょうは「ま」をめぐって駄文を書こうと思っています。で、PCの前に座って、ふと思い出したことがあります。「あらわれる・あらわす(8)」で書いた冒頭の文章が頭によみがえってきました。では、まいります。さっそくコピぺをさせていただきます。
>本日は、とちくるわせていただいてよろしいでしょうか? えっつ? 勝手にとちくるえば~、ですか? おありがとうございます。では、きょうは、こころおきなく、乱れさせていただきます。はあ? いつものことだろう、ですか? お励ましの言葉をいただき、感謝に耐えません。いえいえ、決して皮肉などではなりません。おふざけにも、こころを込める。マジで乱れる。これが、当ブログのスタンスでございます。
自家中毒症のブログらしく、そのまま遠慮なく自己輸血=自己引用させていただきました(※ただ今、ある特定の疾患を比喩として用いました。不愉快な思いをされた関係者の方がいらっしゃいましたら、深くお詫び申し上げます)。
というわけで、きょうの記事はかなりとちくるう予定です。過去のサンプルとして、「と、いうわけです」がありますので、この種の文章に興味のある方は、ぜひご笑覧くださいませ。
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>「まこと・ま(真)こと(事・言)・真・実・誠・まことに」「まさし・正し・ただしい・正しい・まさしく・正しく・ただしく・正しく・ただす・正す・糺す・質す・まさに」「たしか・確か・慥か・たしかに・確かに・たしかめる・確かめる・慥かめる」「あきらか・明らか・あからむ・明らむ・はっきり」
以上は、きのうの「まことにまこと」からの引用です。いろいろな言葉が並んでいますが、自分には、それらがすべて「ま」をずらしたものに見えます。聞こえます。感じられます。
まことにまこと。
このフレーズを、きのうからけさまで何度口にしたことでしょう。何度口に出さず唱えたことか。夢にも出てきました。夢でも見ました。夢でも聞きました。「ゆめゆめ・努努・夢夢」こんなことになるとは、夢にも思いませんでした。「ま」が出た。「ま」と出あってしまった。「ま」がさした。そんな感じです。
「ま・真・眞・間・魔・麻・摩・目・身・ma 」
やまとことばがからことばへと「ずれる・うつる・かわる」。歴史的に見ると、これが、この国の言葉の「ありよう」だったとのことです。「なりよう」だったというべきでしょうか。そして、今もそうで「あるよう」なのです。
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きのうから、頭に浮かんだ言葉を走り書きメモにしていました。そのメモを「かき」「うつし」てみます。
真下・真上・真横・真ん中・真っ先・真後ろ・真ん前・まん丸・真冬・真夏・真四角・真ん中・真っ裸・真心・真顔・真昼・真夜中・真名(←→ 仮名)・真一文字・真向かい・真っ向・真面目・まとも・まっとう・真水・真綿・真っ暗・真っ白・真っ青・真人間・真に受ける・まさに・まさか・魔が差す・魔物・魔法・魔術・マジック・悪魔・まける・まかせる・まいる・まつ・まいうー・まったく・まま・ママ・まんま・まーむ・マーム・ママン・ma・am・mama・mam・mum・aum・om・mammal ……
以上のように、全然整理されていません。ノイズが混じってもいます。「頭に浮かぶ」とか「考える」とか「思う」とか「思考する」とか「思想する」とは、そんなものではないでしょうか。書物や新聞や雑誌などの編集された印刷物を読んでいると、言葉や、言葉の連なりである文章というものが、ある程度まとまっていたり、ときには理路整然としている印象を与えています。
印象=イメージですから個人的なものであり、それはそれでいいのですが、ともすると、その匿名化されニュートラルな「もの」となった言葉の集まりを、「考える」とか「思う」とか「思考する」とか「思想する」という「行為」と混同するヒトがいます。たくさんいます。でも、それは「当然」でも「自然」でも「まこと」でもなく、思い込みです。「言葉のありよう」のほんの一部でしかありません。言い換えると、「もの」と「おこない」は「ずれている」ということです。途方もなく「ずれている=隔たっている」のです。
思考イコール言葉。or 言葉で考える。
ヒトと言葉とのかかわり合いは、そんな「ちゃんとした」「すっきり」「はっきり」したものではありません。そうでない場合が圧倒的であることは、みなさんが日常生活で絶えず経験しているはずです。正直になりましょう。一部の「ちゃんとした」「すっきり」「はっきり」したものを「前提に=当たり前に」ものごとを考えるのは、それこそ本末転倒です。不正直であり、自分をあざむいています。
「言葉=語」は、「言葉=語」であって、「言葉=語」ではないようなところがあります。「言葉(or言語)で思考する」といったたぐいの言い回しがありますが、個人的には懐疑的です。もっとも、言葉or言語を、「狭義の言葉」、つまり話し言葉や書き言葉ではなく、「広義の言葉=代理=表象」としてとるなら話は別です。
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「広義の言葉=代理=表象」とは、話し言葉、書き言葉、表情や仕草や身ぶり手ぶりを含む身体言語=ボディランゲージ、手話、指点字、点字、音声(発声)、音楽、合図、映像、図像、さまざまな標識や記号や信号などを、ひっくるめた「こと・もの・行為・状態」です。個人的には、簡単に「イメージ」という言葉で呼ぶこともあります。感じとしては、もやもや、ごちゃごちゃぐちゃぐちゃ、といったところでしょうか。「広義の言葉=代理=表象」、あるいは「イメージ」は、「狭義の言葉」で「ことわり・事割り・言割り・理」することはできそうもありません。でも、その「できない」を「できる」と思い込んでいるのが、ヒトです。
(1)「何かの代わりに何かではないものを用いる」という「代理の仕組み」をつかう。
(2)個人のレベルにおいて、頭の中で、もやもやごちゃごちゃぐちゃぐちゃしている「何か」を「五感を基本とする『何か』=イメージ」として「勝手に=恣意(しい)的に=きわめてテキトーに」意識する。
以上の2つの「操作=作業=情報処理」をヒトは行い、それを「意識」や「思考」と呼んでいる。そんなふうに、この駄文を書いているアホは考えています。いや、勝手にテキトーにイメージしているだけです。ですので、今述べたことは、与太話=たわごと=作り話です。良く言って「フィクション=説=考え方」といったところです。
そうした与太話=たわごと=作り話を前提にすると、「広義の言葉=代理=表象」、あるいは「イメージ」によって、「考える」「思う」「思考する」「思想する」とは、「ちゃんとした」「すっきり」「はっきり」ではなく、むしろ「もやもやごちゃごちゃぐちゃぐちゃ」ということになります。その次の段階として、「狭義の言葉」で「ことわり・事割り・言割り・理」するという行為がしゃしゃり出てきます。その結果として、書物や新聞や雑誌などの編集された印刷物や、テレビやラジオで放送される番組の台本や原稿に代表される「まとまっている」とか、「理路整然としている」とか、「論理的である」という「印象=イメージ」を与える「言葉=語の連なり」が「捏造(ねつぞう)され=でっちあげられ」ます。
話はそれでだけで終わりません。以上の話は発信者(話し手・書き手)側から見たものです。受信者(聞き手・読み手)側は、「理路整然としている」とか、「論理的である」という「印象=イメージ」を与える「言葉=語の連なり」を、「考える」「思う」「思考する」「思想する」というプロセス、つまり「ちゃんとした」「すっきり」「はっきり」ではなく、むしろ「もやもやごちゃごちゃぐちゃぐちゃ」として受け取ります。それが「理解する」と呼ばれている状況の「ありよう」だと思っています。
ただし、その「ちゃんとした」「すっきり」「はっきり」も「もやもやごちゃごちゃぐちゃぐちゃ」も、程度の問題であることを忘れてはなりません。言い換えると、「グラデーション=濃淡」を成しているわけです。「まだら状=すかすか」と言う比喩も妥当かと思われます。いわゆる「理解する」においては、比較的「ちゃんとした」「すっきり」「はっきり」したものとして受信される場合もあれば、比較的「もやもやごちゃごちゃぐちゃぐちゃ」したものとして受信される場合もあるでしょう。その程度=グラデーションは、個人差やTPOに左右されると言えそうです。
Aというメッセージがあって、正確にAとして他者に伝わる。というのは、分かりやすく、すっきりしていますが、出来そこないの杜撰(ずさん)なイメージです。ぶっちゃけた話、出来の悪い嘘・冗談です。ヒトの世が、いかにアクシデントとしての誤解・曲解、故意の誤解・曲解に満ちていることは、みなさんが日々刻々と体験しているはずです。表現・意思伝達・解釈・理解なんて、絵に描いた餅です。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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