ちょっとないんですけど

星野廉

2020/09/22 08:13


 前回の「3つの枠」では、単純化すると


*内と外と間


あるいは、


*内部と外部と辺境


という3つの「枠=場」があるという与太話に行き着きました。


     ■


 抑うつ状態がひどいので、今回は、いつもとは違った感じの形式で、書いてみます。


 思い出話です。一応、上記のテーマは外さないつもりです。


     ■


 大学生だった時に、ドイツ人の知り合いがいました。知り合いといっても、かなり年齢は離れていました。その方は、NHKの語学講座のゲストを務め、都内の音楽大学でドイツ語のオペラの指導などをなさっていました。


 もともとは俳優や演出家だったとのことで、テレビとラジオ講座の題材となるスキットやストーリーも、劇としてよくできていたと評価されていたようです。


 その方の活躍で、英語、フランス語、ドイツ語……というNHKのテキストの売り上げ順位が、逆転して、英語、ドイツ語、フランス語……となり、その功績をたたえられ、当時の西独政府から(※ひょっとすると日本政府だったかもしれません)勲章か褒章を受けたとも聞きました。


「カラヤンがもらったのと同じものだ」なんて、その方がうれしそうにしていた顔を、今も覚えています。現在の消息は知りません。


     *


 ちなみに、ヨーロッパでは、舞台演劇の俳優が一番正確な国語を話すという考え方が一般的にあるようです。今は、事情が変わったかもしれませんけど。


 たとえば、フランス語、ドイツ語と言っても、方言があります。全国ネットのテレビやラジオの中央局でニュース原稿を読んだり、お堅い番組でキャスターのような役割をするヒトは、いわゆる標準語とか共通語を話す必要があるみたいです。


 そういう人たちが、発音という点で厳しい訓練を受けるのは、当然のことでしょう。これは、日本のアナウンサーでも同じだと思います。ただ、ニュース原稿を読むのは、別に演劇関係者である必要はないのは言うまでもありません。


 また、キャスターには、経済や政治の専門家や、ジャーナリストや、大学教員など、さまざまな背景を持つ人たちがいるようです。


 一方、語学の先生、特に国内、あるいは国外で、外国人にその国の言葉を教える人には、俳優や元俳優が珍しくないと聞きました。


     ■


 昔、中学3年生から高校生のころに、NHKのテレビとラジオの外国語講座を全部視聴していたことがありました。外国語に興味があって、好きなことしかやらない性質なので、学校の勉強や部活をおろそかにして、講座ばかりを見たり聞いたりしていました。


 放送の時間帯がラジオとテレビで重なったり、部活とかち合う場合には、テレビのほうは再放送を利用し、ラジオはタイマーを使って録音していました。当時はテレビの録画をするビデオデッキは高価で、それほど普及していませんでした。


 語学講座のゲスト、つまり言葉について説明をする講師ではなく、その言語で書かれたスキット=スケッチや、例文を読む役を務めるのは、その言語を母国語とする人ですね。


 NHKのフランス語講座では、イヨネスコというヒト作の不条理演劇の演出で有名だった人が、長くゲストを務めていらっしゃいました。その世界では著名な方だったようです。ニコラ・バタイユというお名前でした。


 その人の向こうを張るような形で、さきほど触れた当時の西独の演劇人が、ドイツ政府から派遣された。そんな感じで、来日なさった方でした。仏独国境近くで生まれ育った方で、両国語のバイリンガルだとご自身ではおっしゃっていました。実際、私はその人からフランス語を短期間習いました。


 文学・絵画・演劇・映画など、多分野で活躍した、フランスのジャン・コクトー(1889-1963)という人が、監督として映画を製作したさいには、助監督を務めたという話も聞きました。そう言えば、その人の家を訪ねると、玄関脇の壁にコクトーのペン画か素描が飾られていました。


 今はどうか知りませんが、フランスもドイツも、自国語の海外での普及にお金をかけます。日本は、そうした事業には予算を回さない国です。


 前置きが長くなってしまい、ごめんなさい。つい、思い出にふけってしまいました。前回の記事で書いた、


*昔は良かったなあ


という「テリトリー=居心地のいい場」に、はまってしまいました。


 前回に書いたように、「昔」という時期がほんとうに良かったのではありません。「若かったころの自分」に郷愁をいだいているだけです。ヒトは、こうした「枠」から逃れることはできません。なんて、一般化して自己弁護。ごめんなさい。反省します。


     ■


 本題に入ります。みなさん、


*ちょっとないんですけど


という言葉というか言い方というかフレーズを、耳にすることがありませんか? 気になったので、グーグルで "ちょっとないんですけど" と、ちゃんと "○○" でくくって検索してみたところ、401,000件のヒット数が出ました。


 これだけのヒット数があるのですから、一種の慣用句とみなしてもいいのではないでしょうか。


 お店に入って、何かの商品が置いてないかと店員さんや店主さんに尋ねると、


*「すみません、ちょっとないんですけど」


なんて、よく言われることがありますよね。


 で、そのドイツ人の方、仮にMさんとしておきます(※イニシャルが、「M.M.」だったのです)――が、しょっちゅう、くどいほど、


*「日本語は、論理的な言葉ではない。たとえば「ちょっとないんですけど」と、いたる所で言われるけど、あれはどういう意味なんだ。「ちょっと」は「少し」という意味のはずだ。その「少し」が「ない」とは、非論理的ではないか。「ない」のなら、「ない」と言えばいい」


という意味のことを、言うのです。個人的にも何度聞いたことやら。また、ほかの人に対して、そうぼやくのを何度耳にしたことやら。英語と日本語を交えて、あるいはドイツ語の中に日本語を引用して、または片言の日本語で、言うのです。


 大学時代には、自分はフランス文学科に在籍していましたが、言語学にも興味があったので、その分野の本を拾い読みや、斜め読みすることがよくありました。小学生のころから、丹念な読み方や熟読が苦手でした。今でも、そうです。


 昔から、本をぺらぺらとめくり、内容をでっち上げてしまう癖があります。ですから、かなりいい加減というか、でまかせしゅぎ的な読み方が身に付いてしまっているようです。


     ■


 初めて、Mさんから、


*ちょっとないんですけど


が、論理的ではないと言われた時には、


*それはちょっとないんじゃない=ナイン= Nein.= No.=「ちがうよ」


という気持ちをいだきました。でも、反論できませんでした。ただ、気になったので、いろいろ考えてみました。そのころ斜め読みしていた言語学の本に、おもしろいことが書いてあったので、それを読んで、反論を思いつきました。


 ちょっとややこしい話なので、このブログの「翻訳の可能性と不可能性」という記事から、必要な部分をコピペさせてください。


     ■


*翻訳とは、「ばらばら」を「一本の筋」を頼りに「つなげる=こじつける」ことである。


と言えそうです。


 うろ覚えで恐縮ですが、ヒトの言語の「多様性=ばらばらぶり」の一つに、


*膠着語(こうちゃくご)、屈折語、孤立語という分け方


があるそうです。


 簡単な例を挙げます。


*「わたしはあなたを愛している。」


における、


*「は」「を」みたいなものが、語と語を接着剤のようにつないでいるのが、膠着語。日本語、朝鮮語、モンゴル語、トルコ語、フィンランド語、ハンガリー語、タミル語、スワヒリ語など。


であり、


*「 I love you. 」


における、


*「 I, my, me, mine 」「 love, loves, loved, loving 」「 you, your, you, yours 」みたいに語を「屈折=要するに変化」させて文を作るのが、屈折語。英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、アラビア語など。


であり、


*「我愛你.」


におけるように、


*「我」「愛」「你」は孤立していて変化せず、その語順で文の意味が変わるのが、孤立語。中国語、チベット語、ベトナム語、ラオス語、タイ語、マレー語、サモア語など。


だと記憶しています。間違っていたら、ごめんなさい。「正しい」ことをお知りになりたい方は、どうかお勉強なさってください。


     ■


 以上が引用です。


*ドイツ語は、英語と同じく屈折語


と分類されています。英語は、屈折語の中でも、屈折=語の変化・活用が小さいというか著しくない言葉です。それに対し、ドイツ語は冠詞にしろ、名詞・形容詞にしろ、動詞にしろ、すごく活用が激しい言語です。


 しかも、フランス語やスペイン語だと、


*女性名詞、男性名詞


しかないのに、ドイツ語はロシア語などと同様に


*女性名詞、男性名詞、中性名詞


の区別があります。そうした区別のない英語と比較すると、ややこしさが増します。


 ところで、名詞に女性、男性、中性があるというのは、あまり真剣に考えなくてもいいそうです。いわゆる性差とは、ほとんど関係がない、いわばお飾り的なものらしいです。そうした区別のある言語のネイティブスピーカーから、


*性差と重ねて意識することはない


という意見を聞いたことがあります。


 ちなみに、現在の英語は文法や活用という点では、かなりシンプルな言語です。上の例にある孤立語の中国語みたいに、活用よりも語順が意味を決定する重要な要素になっています。


     ■


 で、


*膠着語と分類されている日本語


ですが、ものすごく単純化した言い方をすると、


*「て・に・を・は」という「接着剤」で名詞をくっつける。


だけで話が通じるような性格を持っていると言えそうです。


*彼が彼女に私の秘密をばらした。 = 彼女に彼が私の秘密をばらした。 = 私の秘密を彼が彼女にばらした。 = 私の秘密を彼女に彼がばらした。 = ばらしたのよぉー、秘密をさぁ、私のだけどぉ、彼女にぃ、彼がね


という具合に、とにかくくっつければ、語順はどうでもいいみたいなところがありますね。もちろん、ニュアンスとか、強調したい部分とかは変わりますけど。


     ■


 そんなことを考えていて、


*ばらしたのよぉー、秘密をさぁ、私のだけどぉ、彼女にぃ、彼がね


という言い方のように、


*日本語は大切なところだけを言って、あとは必要に応じて情報を付け加えていく


つまり


*省略した言い方がしやすい言語


ではないかと思い立ったのです。たとえば、ファーストフードの店に、A、B、Cの3人が入ったとします。


A:「フィレオフィッシュ」


B:「おれ、チーズバーガー」


C:「わたしは、ポテトだけ」


なんて会話がレジのところでよく聞かれます。


*「わたしは□□を注文します」


という言い方を省略する。これは、屈折語でも、孤立語でも可能だと思いますが、


*膠着語は「省略」できる度合いが高い


のではないでしょうか。


     ■


 で、ミヒャエル・ミュンツァーさん(※あっ、本名、出しちゃった、とわざとらしく書く)が、


*ちょっとないんですけど


についてぼやくのを待っていて、ぼやいたのちに、すかさず次のように、言いました。


*「日本語は非論理的だというのは、とても非論理的な言い方です。言語の構造の違いを無視しているからです。日本語は、動詞以外に目立った活用がない言語です。語と語を、くっ付ける役割をする語を使えば、どんな語順でも、意味が通じます。そこから省略という日本語特有の現象が生じます。大切な語だけを言う。状況から相手に分かる語は、省略すればいい。それだけのことです。それを活用のやたら多い言語の尺度から、論じることに無理があるのです」


という意味の反論を試みました。


*「じゃあ、『ちょっとないんですけど』はどういう具合に省略されているんだい?」


と、予想通りの言葉が返ってきたので、用意していた言葉を出しました。


*「『ちょっと言いにくいことなのですが、今あなたがおっしゃった品物はないのですけど』です。『ちょっと』は、英語で言えば、I'm afraid とか、I'm sorry to say にあたり、最初に自分が恐縮していることを伝えているだけです。『ちょっと』が『 a little 』で、それが『ない』というのは、日本語を理解していない人の発想です」


 確か、そんなようなことを片言の英語で言って、説明しました。Mさんは、しばらく考え込んで、「N先生に聞いてみる」と答えました。N先生というのは、ラジオのドイツ語講座の講師を務めていた日本人で、ある大学の教授だった方です。


 N先生がどうおっしゃったのかを、その後Mさんからお聞きする機会はありませんでした。また、


*ちょっとないんですけど


をめぐる、「ぼやき=日本語非論理説=日本語批判=日本語への罵倒・悪態」を耳にすることもなくなりました。


     ■


*「○○語は論理的だ」、「○○語は美しい」、「○○語は□□語より優れている」、「○○語は□□語より普遍性を備えている」


というたぐいのフレーズを見聞きすることは多いです。


 これは、○○語を母語とするヒトの


*愛国心の表れ


とも言えますが、


*きわめてずさんな言語観に基づいている


と言わざるを得ません。自分の漏らしたおならは、他人のそれに比べて臭くない、というのと似ていませんか?


 また、


*母語という「枠」にとらわれている


と考えることもできるでしょう。


     ■


「枠」を「場」という語にずらして考えてみましょう。


 自分の母語にとっての


*異言語


にしろ、母語(標準語の場合)の変種とも言える


*方言


や、これもまた母語の変種と言っていいような


*世代間で異なる言葉遣い(※話し言葉では大きく、書き言葉ではいくらか異なります)


や、


*古文(=各時代の古語)


にしろ、自分の住んでいる国に存在する


*手話


や、


*指点字(目と耳とが不自由な人とのコミュニケーションで使われる手段です)


にしろ、そうした


*個人レベルでの母語以外の言語



*接触


したり、あるいは


*習得しようと試みること


は、スリリングな体験です。少なくとも、自分にとってはそうです。


     ■


*母語という「枠=場」=「内部」


にとらわれざるを得ない各ヒトは、


*異言語・方言・若者言葉( or オヤジ/オバサン言葉 or ジジ/ババ言葉)・古語という「枠=場」=「外部」


と、


*触れ合う「機会=事態=出来事=事件」が発生する「枠=場」=「辺境」


に常に身を置いている。そんなふうに思えます。


 そうした「枠=場」=「辺境」は、身近に体験できると思います。


というか、


*内部・外部・辺境といった「作り話=フィクション=考え方」は、うさんくさい与太話


であり、ヒトを「個人対個人」のレベルで考えると、


*すべての「枠=場」が辺境である


というのが正確だという気がします。これは、手垢の付いた、もっともらしく、またうさんくさい


*自と他


という2項対立を持ち出して考えると分かりやすいと思います。


 さらに言うなら、個人が集まった「共同体対共同体」レベルにおいても、


*「内部」「外部」「辺境」といった区別はない


と言ったほうが正確で、


*「内部」「外部」「辺境」という「枠=場」すべてが「辺境」である


と言えるような感じがします。


     ■


 きょうは、調子が良くないので、ずいぶんおとなしい感じの「でまかせ」になってしまいました。次回は、いつものように、とちくるった趣の「でまかせ」をかます予定です。



※この記事は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77



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