いみのいみ
げんすけ
2020/07/30 09:25
言語学という学問とそれを研究するギョーカイがあります。どの業界でもそうですが、さまざまな人がいて、いろいろなことを言いますから、喧嘩やいがみ合いも当然起こります。縄張り争いもあります。さらに言うなら、嫉妬あり、中傷あり、イジメあり、献金あり、です。議論とか論争とか言っても、中身は嫉妬・中傷・イジメ・カネがらみという点では「同じこと」で、どろどろの果し合いです。百家争鳴、百花繚乱といった、りんりんらんらんかんかんほあんほあん的言い方も可能です。「何と名づけようと」、喧嘩は喧嘩です。
その「何と名づけようと」「同じこと」に注目した言語学者が、昔いました。言い換えれば、言葉(音・声に限定する)とその言葉が指しているものごとの間に必然性=因果関係=因縁=切っても切れない関係=腐れ縁などない。要するに、両者の関係は、でたらめ=でまかせ=テキトー=恣意的=気まぐれ=こじつけだ、というわけです。確かスイスの人でした。名前が浮かばないのですが、そのうち出てくるでしょう。気配がするというか催すのです。
ぺらぺらの薄っぺらい言の葉を、お大根の皮をかざせば透けて向こうが見えるほどに超薄切りにする板前さんみたいに、異「味」スルコトと忌「身」サレルコトにわけわけするなんて、ある意味とってもシュール、イッツ・ソォ・シュール。あ、出ました。
思わずシニフィアンの「ト」チ狂「イ」を演じてしまいました。解離、離人、憑依かしら。「なる・なりきる・擬態・生成」恐るべし。魔に入られたのかもしれません。
軌道修正します。要するに、意味されるものと意味するものの関係性は、お刺身とその味のように、人それぞれ、人生いろいろ、口にする人によって味は変わる、同一人物でもそのときどきの気分でまちまち、ちまちま、同一物でも、時がたてば味も移り変わる、諸行無常、パンタレイ、男心と秋の空。つまり、きわめて気まぐれで、恣意的で、テキトーだという意味です。何だか、現代詩みたいなややこしい説明になってしまいました(現代詩さん、ごめんなさい)。
とにかく、言語学のギョーカイでは画期的な出来事=事件みたいだという話です。
ですので、
*「秋」を「あき」と言おうと、 fall と言おうと、autumn と言おうと、「なる=成」と言おうと、どうぞお好きなように、正解なんてなし、
という感じです。
*
以上は、「なる(5)」からの引用ですが、意味するものを音・声に限定する珍説に義理立てする必要も利害もなし。だいいち、日本語という現実を生きていてそんな抽象に同調できるわけがありません。また後にデリダさんが楯突く=脱構築=スクラップアンドビルド=新装開店出血大サービス=玉たくさん出まっせーするのも当然の成りゆきでしょう(ここは私の誤解・曲解である可能性が高いので、あはははと読み流すにとどめてくださいね)。ですので、自分なりに、だらだら=のらりくらりとやっていきます。このブログでやっているのは「お遊び」=楽問=ゲイ・サイエンスです。と、きのうに引き続き、断っておきます。
さて、意味について考えているのですが、きっかけは、数日前に書いた記事なので、以下に引用させてください。
★ ★
まず、きのうの記事から引用させてください。
★
*意味が分からないのに、うたう・となえる・はなす・くちにする・ひとにつたえる・かく・しるす・おぼえる
ということは、
*特殊な話ではない
のです。
*よくある話
なのです。たとえば、
*お経、保育園・幼稚園でのお歌の時間、学校の授業での音読、カラオケボックスでの覚えたての歌の練習、お習字、今流行の写経、文字を習いたてのコドモたち、言葉を習いたてのヒトたち、新聞の音読、プレゼン、役人の書いた答弁書を国会で読みあげる大臣、国会の議場での速記、裁判での答弁書の朗読、自分の書いたブログ記事を読み返しているこのアホ……
今挙げた例には、明らかに意味が分からずにしている行為=動作もあれば、意味がある程度分かっているかに思える行為=動作もありそうです。でも、個人的には、これらの行為=動作すべてが、
*意味が分かってやっているようで、そうではない
と思えてなりません。悪い意味で言っているのではありません。
*「良い悪い」といった次元の話ではない
のです。
*意味が分からないけど、やっている
むしろ、それが、
*ヒトという種(しゅ)にとっては、ふつうなのだ
と言いたいのです。このことについては、いつか、あらためて考え、書いてみたいとも思っています。
★
以上が引用ですが、「いつか、あらためて考え、書いてみたい」の「いつか」が「きょう」になりました。
★ ★
以上が引用なのですが、
*「★ ★」B「★ ★」のなかに、「★」A「★」
つまり
*「★ ★」 「★」・・・「★」 「★ ★」
というサンドイッチ型の引用になりました。Bは、「あわいあわい・経路・表層(1)」のなかの一節で、Aは、「まつはいつまでも、まつ」の一節です。
*いちばん単純な「入れ子構造」
ということになるのでしょうか。
*BのなかにAが入っている
という構造です。このブログでは、自己輸血=自己引用をよくやっていますが、こんな場合もあるのですね。今までにも、無意識にやったことがあるのかもしれませんが、きょうは、
*えっつ!?
という感じで意識しました。で、
*このことについては、いつか、あらためて考え、書いてみたいとも思っています。
↓
*「いつか、あらためて考え、書いてみたい」の「いつか」が「きょう」になりました。
↓
*「いつか、あらためて考え、書いてみたい」の「いつか」が、再度「きょう」になりました。
というわけです。2度も引用するなんて、よほど気になる部分を引用したのだと思います。
ここで、
*「引用」
について考えてみましょう。上の例で言うと、
*AをBという形で引用したとき、BはAの「注釈」となる
と言えるような気がします。そう考えるならば、きょうは
*Aの「注釈」であるBを「注釈」するCという「注釈」をつくる
とも言えます。でも、これは言葉の遊び=レトリック=論理ごっこであり、
*言葉は何とでも言える
という曲者(くせもの)ですから、別の言い方もできます。たとえば、きょうは、
*Bは無視して、あらたにAを再び「引用」してCという「注釈」をつくる
と言っても、いっこうに差し支えはありません。というか、むしろ、
*ヒトを含む森羅万象は、常に変わりつつある。
という立場から、
*Aを書いた時の自分と、Bを書いた時の自分と、Cを書こうとしている今の自分は、それぞれが異なっている=変化している=ずれている
と言ったほうが、A、および、Bに書かれている内容=テーマ=意味=「経路(=筋道)」に沿っている、と言えそうです。ということは、
*引用とは「注釈」であると同時に「変奏」でもある
とも言えそうです。
*
実は、今書いてきたような、
*形式論理もどき的な言葉の操作
が、とても苦手なのです。だから、「形式論理」ではなく、あくまでも「もどき」なのですが、イメージで言うと、「XはY、だから、Zになる」みたいな筋道の立て方が、大の苦手なのです。それよりも、
*勘=感=観=疳を頼りにする
つまり、「Xでぇ、Yでぇ、Zなんですぅ」みたいな、うじうじした「ま、いっか」主義=でまかせ主義的な、話の進め方のほうがずっと楽です。みなさんは、どうですかぁ?
*
先週の後半あたりから、
*意味って何だろう?
と考え続けています。こういう時には、よく似た感じ=感字の言葉をさがして、並べてみてじっと見つめながら、「ああでもあるこうでもある、ああでもないこうでもない」をします。
きょうの記事のために、きのう用意した走り書きメモの一部を、以下に書き抜きます=引用します。
*「いみ・意味・異味・忌み・忌・斎/い・意・異・衣・違・位・囲・謂・畏・唯・移・緯・依・委・為・惟・彙・斎/わけ・分け・訳・別け・分ける・別ける・分かる・判る・解る・別る・分かつ・別つ・わかち・ひきわけ/内容・コンテンツ・メッセージ・ねらい・価値・重要性・区別・筋道・道理・条理・事情・理由・子細・いきさつ/そうか・あ、そう・なるほど・アハッ・ほうー・うんうん・うむうむ・やっぱりね・はーあ・ふーん・ふーむ」
以上の言葉や文字をご覧になって、
*意味の意味
が何となくお分かりになったでしょうか? それとも、わけ分かんなくなってきたでしょうか? 自分の場合には、後者、つまり、
*わけわかんない状態
になってきました。ところで、わけわかるヒトなんているんでしょうか?
みなさんのなかで、国語辞典を引いていてがっかりした経験をお持ちの方は、いらっしゃいませんか?
*Aの意味を知ろうとして、Aを調べてみると、Bが書いてあって、Bを調べたら、Aが書いてあった。
という状況です。かつて、
*個性を打ち出さなければ売れない
というような辞書の販売合戦みたいなものがあった時期がありました。国語辞典であって、次に英和辞典でもあったような気がします。言語学の新しい波の成果が、辞書という形で結実しはじめた時期だったのでないか、と今になって思ったりしてもいます。
個人的な印象=感想=思い込み=思い過ごしかもしれません。いずれにせよ、そうした時期を経て、現在市販されている辞書では、上記の、がっかりする状況はいくぶん改善されたように思います。
*孫引き
という言葉があります。辞書の場合であれば、
*ある「権威ある=威張った=売れ筋の=学会のボスが弟子や出版社の社員をこき使う形で製作された」辞書
を、他の出版社がそっくり真似たり、ちょっと変えて新発売することです。むかしの辞書は、その「孫引き」が多かったようです。
*「コピペ」
は、今始まった話ではないということですね。
*
*現在は、PCとネットがあるため、コピペが飛躍的にやりやすくなった
というのが、正確な言い方だと思います。で、国語辞典を引く場合には、
*Aの意味を知ろうとして、Aを調べてみると、Bが書いてあって、Bを調べたら、Aが書いてあった。
は、「いくぶん」減ってきましたが、
*Aの意味を知ろうとして、Aを調べてみると、Bが書いてあって、Bを調べたら、Cが書いてあり、Cを調べて見たら、Aが書いてあった。
みたいな状況が出てきたり、
*Aの意味を知ろうとして、Aを調べてみると、ちゃんとAの「説明」が書いてある。
みたいな、わりとマシな=良心的な=がっかりさせない状況も経験するようになってきました。でも、主流は、やはり、
*Aの意味を知ろうとして、Aを調べてみると、Bが書いてあって、Bを調べたら、Aが書いてあった。
のような気がします。
*
で、手持の複数の国語辞典をあらためて飛ばし読みしてみて、辞書に書いてあることは、以下の5つのパターンに分けられるのではないかと、思いました。
1)見出しの言葉を、別のほぼ同じ長さの言葉に言い換える。 = 「Aは、Bなのよ。あと、Cとも言えるかも」。
2)見出しの言葉を、それより長い言葉で言い換える=説明する。 = 「Aは、XがYしてZとなることなの」。
3)見出しの言葉をつかった例文を挙げて、ほのめかそうとする。 = 「Aは、『PがAしたらQが起きた』みたいにつかうのだけど、分かるかしら」。
4)見出しの言葉の、語源や成り立ちを説明する。 = 「Aは、もともとHがIするって意味だったの」。
5)見出しの言葉の、語源や成り立ちを説明する。 = 「Aは、もともとHがIするって意味だったの。でもね、どこかのアホがAとJが似ているものだから、Kという意味にもなっちゃったのよ=「転じた」=「訛った」=「~の意か」。
そう思うと、
*辞書をつくる
のって大変ですね。でも、
*お手本がある
と、「こんなふうにすればいいのか」「こんなふうに逃げれば=ごまかせばいいのか」「こんなふうにテキトーにしておけばいいのか」という具合に、
*真似る
ことができます。要するに、
*辞書にも、以前からあるやり方=「経路」=パターンがあり、それを真似る=なぞる
ことで、何とかなる部分がほとんどを占めている気がします。ということは、
*辞書をつくるさいには、各見出しの言葉の意味を考える必要はない
とも言えそうです。
*意味は、既に決まっている
のです。あとは、
*どう料理するか=どう差別化するか
ですが、その
*料理法=差別化の余地は、かなり限られている
と思います。
*意味を、新しくつくるわけにはいかない
からです。早い話が、
*辞書が似たり寄ったりになるのは仕方がない。=辞書がまちまち・多種多様であったら困る。
ということです。でも、ときどき、1冊の辞書のなかで、
*困った=変わった語義の説明が見られる
場合があります。「困った=変わった」というのは主観的なレベルの話です。部分的な話ですけど、
*ちょっと「困った=変わった」みたいなニュアンスで、よく議論される国語辞典
がありますよね。あえて名指しませんが、
*○○さん
なんて、「さん」づけされている辞書です。ここにもありますが、
*「かぞえ方」
という便利なデータが載っているので、よく利用します。個人的には、その語義が、特に「困った=変わった=個性的な」ものだという印象はあまりしません。語の説明が、分かりやすくて、例文も適切でいい辞書だと思います。
*「困った=変わった」が「高じる=エスカレート=とちくるう」
と
*アンブローズ・ビアス(Ambrose Gwinnett Bierce:1842-1914?)のものした、『悪魔の辞典』(The Devil's Dictionary)
みたいになります。いい辞書だと思います。この辞典を手本に自分版の『悪魔の辞典』を目指している人たちがたくさんいました。現在もたくさんいるようです。へそ曲がりとしては、こういう良書が、さまざまな分野でたくさん出てくることを願っています。
*
『悪魔の辞典』とは趣が違いますが、
*フランスの作家、ギュスターヴ・フローベール(Gustave Flaubert:1821-1880)が『紋切型事典』(Dictionnaire des idées reçues)
という、考えようによっては、ヒトの言語活動を根底から揺さぶるような衝撃的な事典=辞典を著しました。しかし、書かれた当時のフランスの諸風俗に通じていないと分からないところが多くて、現在の日本では受け入れられにくい「作品」です。だからこそ、
*何も考えないで=感じないで、パブロフのワンちゃん状態で行動しているヒトという種(しゅ)に鉄槌(てっつい)を下す
ために、誰か、
*新しい『紋切型事典』(Dictionnaire des idées reçues)
を書いてくれないかなあ、と切に願っています。かつて、自分で書いてみようと思って取り組みはじめたものの、力不足を感じて挫折したことを思い出しました。この辞典が、現在、つくりにくいのは、
*紋切型=「ヒトびとの思考停止を常態化させている、ある特定の言葉やフレーズやイメージ」が移り変わる速度が速すぎる時代をむかえている
ことと
*紋切型は、グローバルなレベルよりも、圧倒的にローカルな現象として立ちあらわれる
からです。
*「ウィキペディア」のように日々の更新が可能なネット上の辞典として、多言語バージョンをリンクさせた形でヒトびとに運営させる
という手=手法=方法も考えられますが、掲示板みたいに混乱をきたすのがオチでしょう。
*
話が、だいぶずれてしまいました。
このところ、ずっと考えている
*意味
というのは、以上述べてきた辞書的な
*意味ではない
のです。ただし、『紋切型事典』は大いに関係ありますが、そのことについては、機会をあらためて書くつもりです。
なにしろ、ちょっと
*説明しにくい意味
なのです。さきほど書きました、辞書に書かれているパターンで言うなら、
3)見出しの言葉をつかった例文を挙げて、ほのめかそうとする。=「Aは、『PがAしたらQが起きた』みたいにつかうのだけど、分かるかしら」。
で説明してみます。冒頭で引用した、
*意味が分からないけど、やっている。
とか
*人生 or 世界 or 宇宙 or 森羅万象に意味なんてあるの?
とか
*この消しゴムの意味
とか
*そんなの無意味だよ。
とか
*意味って何?
とか
*意味の意味
と言う時の「意味」なのです。で、その
*意味が分からないけど、やっている。
という文=センテンス=フレーズにある
*「やっている」
が、何をやっているのかと申しますと、冒頭で引用した、
*お経、保育園・幼稚園でのお歌の時間、学校の授業での音読、カラオケボックスでの覚えたての歌の練習、お習字、今流行の写経、文字を習いたてのコドモたち、言葉を習いたてのヒトたち、新聞の音読、プレゼン、役人の書いた答弁書を国会で読みあげる大臣、国会の議場での速記、裁判での答弁書の朗読、自分の書いたブログ記事を読み返しているこのアホ……
といったことに加えて、
*道を歩いている、おしっこをしている、PCのキーボードで文字を書いている、テレビを見ている、庭の草木に水をやっている、ご飯を食べている、お風呂に入っている、財布を覗いて小銭をかぞえている……
といったことも含む、ごくふつうの動作をするさいに、それを
*意味が分からないけど、やっている。
と言う時の
*「意味」
なのです。
*意味が分からないけど、やっている。 = 何となく、やっている。
と、単純に=形式的に考えた場合、
*意味とは、分からないものである
と言えるような気がするのです。言い換えると、
*分かるものは、意味ではない。
となります。
*分かったとたんに、意味でなくなる
ものとも言えそうです。
*「それって、「無意味」ってことじゃないの?」
と問われれば、
*「そう、みたいです」
と答えると思います。
*「そうです」とは、答えない
と思いますけど。どうしてかと申しますと、
*「無意味」には、意味がある
ために、躊躇(ちゅうちょ)してしまうのです。というのも、広辞苑にも、新明解国語辞典(あっ、言っちゃった!)にも、
*「無意味」が見出しになっていて、その語義=意味が書いてある
のです。
*「無意味」には「意味」がある
のです。
で、その語義=意味を読んでみると、このところずっと考えている
*意味とは意味が違う
という気がします。たとえば、さっき例に挙げた、
*道を歩いている or おしっこをしている意味
と言った場合には、その「意味」は
*理由・事情・わけ
という意味にもとれますよね。そういう意味ではありません。
*意義・価値・重要性
とも違います。いちばん近いのは、
*「経路」
だと思います。この「経路」という言葉は、先週あたりから、さかんにこのブログでつかうようになったのですが、
*一定した意味がない
のです。でも、すごく気に入っています。
*けいろ・経路・径路・毛色
と、分光=書き分けることができます。最後の毛色なんて、前の2つの書き方とは関係がないはずなのに、つながって=つなげてしまうのが、
*このブログの「経路」
なのです。
*
*「経路」のコア・イメージ(=中心的なイメージ)は、「すじ」=「方向」=「進行」
です。
*「スタイル・くせ・流儀・方法・パターン・旋律・ルール・型・順序・いきさつ・経緯・規則性・必然性の影・持続性」
という意味にもなり得ます。で、
*「道を歩いている or おしっこをしている意味」というフレーズでの、「意味」は「いきさつ」に近い
と思います。その場合の「いきさつ」は「事情」や「わけ」とも言い換えることができそうです。
*どういう、「いきさつ=事情=わけ」で、道を歩いている or おしっこをしているのか?
という文=センテンスがつくれますが、「経路」を尋ねている場合には、歩く場合には、「どこへ行くのか?」=「行き先」、「何のために行くのか?」=「目的・理由」を質問しているわけではありません。
これは、「歩く」という行為に「方向」が伴うために、そういう質問になり得るというだけのことです。もっと漠然とした質問なのです。漠然というのは、トリトメがないということです。
*「歩いている」という動作をしている「意味=いきさつ=事情=わけ」を尋ねている
のです。答えようがなくなりますね。それなんです。
*歩いている行為に、「意味=いきさつ=事情=わけ」なんてない
のです。
*「歩く」という「経路」=「線路」が敷かれている=引かれているから、歩いているだけ
なのです。「おしっこをする」の場合のほうが、「歩く」のように「方向」なんていう要素がないため、分かりやすいと思います。
*出そうだから、出している=出ているだけ
です。
*「生理的=医学的」な「理由=事情」があるからだ
とも言えます。その意味では、
*「生理的=医学的」な「理由=事情」は「経路」=「線路」である
と言っていいと思います。でも、それが、おしっこをするヒトに、あくまでも、
*意識されない限りにおいて
です。
*「経路」=「線路」は、敷かれている=引かれているが、意識されない。
という点が、きわめて重要です。
*「経路」=「線路」は意識されないから、「無意味」とは異なる
のです。さきほど、
*意味とは、分からないものである
*分かるものは、意味ではない。
*分かったとたんに、意味でなくなる
と書いたのは、そういう意味です。
*
そろそろ、家事をする時間が近づいてきました。
ここまでお読みいただいた方に、お礼申し上げます。どうも、ありがとうございました。では、また。
なぞるとき 立ちあらわれる 意味の影
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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