あつさのせい?

げんすけ

2020/08/03 08:50


 まず、一句。


 おかしいな みんなあつさの せいにする


さて、昨日の記事「3人のゲンちゃん」の続きを書きます。具体的には、上に書きました、「俳句のなりそこない=川柳もどき・がんもどき=要するに単なるフレーズ」を、何通りかに解釈し、それにコメントを加えてみます。


*モニターにあらわれた画素のかたまりである活字=文字=言葉でしかないフレーズ


の、意味とメッセージとイメージとニュアンスなどをめぐる、


*多義性=多層性=豊かさ=厚み=あつさ=テキトーさ=あつくるしさ


を、まのあたりにすることにより、


*ああ、あつい


と、みなさんに体感していただきたいのです。


*ちょっと待ってください!


「こりゃあ、あつそうだ」と予感なさり、他のサイトへと、クリックして、ぴゅーっなんて、避難=非難なさらないでください。斜め読み or 飛ばし読みなされば、すぐに済みますので、すこしお付き合いいただければ、幸いです。


 では、まいります。


     ★


 おかしいな みんなあつさの せいにする


 解釈(1):「笑っちゃいそうだよ。皆が何でも暑さのせいにしている」


 そうですね。何だか、ヤケクソ気味になって、笑えてきませんか。こう暑いと、誰もが、何か不都合や不具合や失敗や事故や事件があるたびに、


*「暑いからだ」


なんて、


*条件反射的


に口にしてしまいます。でも、実際、言えていませんか? 暑さがリミットを超えると、仕事にしろ、勉強にしろ、遊ぶにしろ、ぼけーっとするにしろ、やる気が失せるし、体調に気を配らないと


*重篤な=篤(あつ)い熱中症


に見舞われる恐れがあります。


     ★


 おかしいな みんなあつさの せいにする


 解釈(2):「何だか変な気がするなあ。皆が何でも暑さのせいにしているけど……」


 暑いから、ろくなことがないのだ。ええい、面倒くさい。景気が悪いのも、政局がめちゃくちゃなのも、このところ便秘気味なのも、さっき階段でけつまずきそうになったのも、


*ぜんぶ暑さのせい


にしてしまえー。


 そう言いたくなる気持ちは、よく分かりますよね。とはいうものの、


*変じゃありません?


 特に、この数年間の異常な暑さ、自然現象だと済まして、「澄まして=すっとぼけて」いられるでしょうか。


*地球温暖化だって?


勘弁してよー、このくそ暑いのに。熱くなるのはやめようよ。でも、ちょっと心配だな。がんがんエアコンを効かせた(=二酸化炭素を多量に排出する)部屋でなら、考えられそう。そんな気持ち、正直申しまして、分からないでもないです。


     ★


 おかしいな みんなあつさの せいにする


 解釈(3):「絶対、変だよ。皆が何でも暑さのせいにしているけど、こうなったのは、ひょっとして人間の面の皮が厚いからじゃないのかなあ」


 なるほど。暑いのに、よくそこまで


*熱く篤く考える


ことができますね。ヒトの厚顔さ、つまり、ヒトの


*面の皮が厚い


ことにまで考えがおよぶなんて、宗教心が篤い方なのでしょうか。確かに、この惑星の地という地を我が物だと「心得ている=心得違いをしている」ヒトは、


*「厚かましい=鉄面皮な」生き物


だと思います。ヒトという種(しゅ)の


*「人」情の篤さ=厚さ


に期待することは無理なのでしょうか。


     ★


 おかしいな みんなあつさの せいにする


 解釈(4):「変だよ。皆が私のことを熱すぎるって、非難するんだもの」


 ほうー、そういう解釈もあるんですね。


*熱いヒト


は確かに、世の中にたくさんいます。ヒトという種は、いろいろなものに熱くなります。


*熱中症や熱射病ではなく、「熱中病」


とでも言うのでしょうか。


*他人様(ひとさま)のさまざまな事情を無視して、「GO! GO!」とか「イエーィ」なんて叫んで、ひとりだけ熱くなって突っ走ってしまう。


または、


*かっかとして、のぼせてしまい、唯○論的発想=「私が絶対に正しい」信仰=「すべて私にお任せあれ」状態に陥る。


 これが、「熱中病」というビョーキの特徴のようです(※「熱中病」は比喩としてつかっておりますが、もしも、「熱中病」が医学の専門用語あるいは診断名として存在しているようでしたら、関係者の方々に、予めお詫び申し上げます。ごめんなさい)。なお、この


*「熱い」


に関しては、「論理の鬼」という記事のなかで、


*哲学・論理・数学・自然科学・機械・コンピューター


などにからめて論じておりますので、ご興味のある方は、ぜひ、ご一読願います。「暑い時に熱いなんてご免だよ」とお思いになられている方は、もちろん、パスしちゃってください。


     ★


 おかしいな みんなあつさの せいにする


 解釈(5):「変だわ。私のお化粧ってそんなに濃いかしら。香水も強すぎるかしら。彼氏(or 彼女)ができないのは、そのせいだなんて絶対に変!」


 ありゃあ! そうですかー、


*厚化粧


と解釈なさったわけですね。実にユニークな状況ですね。いや、そうでもなさそうです。よくありがち、でも、ご本人だけが意識なさっていない。そんな状況が、周りに散見されることを思い出しました。


 ところで、この記事を書いているアホは、


*お酒と煙草の臭い or 匂いと、強い香料(男性用、女性用を問わず)の臭い or 匂い


に、めちゃ弱いのです。ですので、昔から、その種の臭い or 匂いがする場所を避けてきました。


*飲み会やコンパのたぐい、冠婚葬祭、会社などの組織


とほぼ無縁のまま、これまで生きてきたのは、こうした生理的傾向が大きな要因だったようだと思われます。ですので、現在も、男女を問わず、


*濃い=厚い


お化粧の方は苦手です。


 そういえば、ふと、


*かつてタモリが司会をしていた「ボキャブラ天国」


か、何かで見聞きした替え歌の一節を思い出しました。


*♪ こ~いわ~、わたしのこ~いわ~


と、ただ今、あたまのなかで誰かの声が、がんがん響いていると思うのですが、あれって、


*小岩(こいわ)という東京都にある駅


でロケをした、ローカル=「ご当地」ギャグだったような記憶もありますし、正確なことは忘れましたが、とにかく


*「こ~いわ~」は「濃いわ」


でありまして、何が「濃いわ」なのかに関しては、


*どこかにある体毛を指していた


ちょっとエッチな趣のあるネタだったような気もします。イメージが2つに分裂しているのは、難聴のせい? それとも、単にエッチなせい? あるいは、


*あつさのせい?


     ★


 おかしいな みんなあつさの せいにする


 解釈(6):「お菓子否(おかしいな)=お菓子いらない、みんな、わたしのお腹の皮の厚さのせいにするんだもん。だから「あんた or おまえ」はもてないんだよ、とか言って」


 いやー、参りました。


*いな=否


ですか。確かに、そうも読めますよね。参りました。降参です。伊奈かっぺいさんも、いなかっぺ大将も、とーとーじゃなくていーないーなの便器も、真っ青の読みですね。個人的には、こういう深い「読み」って大好きです。ゴーイングマイウェーですねー、強引ですねー。そこまで解釈をなさった方、1日で、ようござんすから、このブログで記事を書いてみませんか? えっつ? 「ったく、くだらない。暑苦しいのは、あんただけで、けっこう」ですか? 納得。


 いーないーなで思い出しましたが、芥川賞作家である絲山秋子さんの『逃亡くそたわけ』は切なく、はちゃめちゃで大好きな作品です。このク〇暑いときに再読してクラクラしたいなあ。書棚を見ると、絲山さん作の『イッツ・オンリー・トーク』、『沖で待つ』(ですます調で淡々と書かれた、どきっとする小説です)、『袋小路の男』、『海の仙人』があります。懐かしいなあ。ところで、絲山さん、あの方は今も沖で待っていらっしゃるのでしょうか。「あなた note でおきらくな記事書いているんですね。おーきなお世話です」なんて被害もーそー的げんちょーが聞こえてまいりました。これも、暑さ、熱さ、厚さ、篤さのせいかしら。「責任転嫁をするんじゃない!」あー、また「げん」ちょー。


 で、この解釈(「お菓子否(おかしいな)=お菓子いらない、みんな、わたしのお腹の皮の厚さのせいにするんだもん。だから「あんた or おまえ」はもてないんだよ、とか言って」)へのコメントですが、


*ダイエットをして、減量しましょう。


 これくらいしか、コメントできません。すみません。ちなみに、自分の場合、現在の体重は47キロほどしかありません(※今はむしろ太っています。 by  今のアホ)。身長は高くはありませんが、理想的な体重より相当少ないです。以前は60キロ近くあったのですけど、今では、がりがり状態です。減食ではなく、「別の=広義の」意味で、ダイエット=食餌療法をするべきだと思っております。


     ★


 解釈とコメントは、以上です。もちろん、もっといろいろな解釈が可能ですが、やっぱり、


*暑いので、


これくらいにしておきます。まさに、


 おかしいな みんなあつさの せいにする


です。


     *


 ああ、7つの解釈ができなかった……。


 なんて、このアホは今嘆いています。暑さで、もう頭が回らないのです。この記事を書き始めたときに、ある本のことが頭にあったのです。頭が回らないので、例によって過去の記事から以下に引用しますね。



     *



 ところで、みなさん、


*ヒトは本を読めない


という説を、お聞きになったことがありますか? どういうことかと申しますと、「文章=テクスト(=テキスト)= text = textile = 織物」を読むという行為は、実に不確実で不安定なものであり、誰一人として、「書かれたもの=意味するもの」には到達できないし、解釈は各ヒトによって異なる、という当たり前と言えば当たり前の「屁理屈=本当すぎること=論破できない説=当たり前すぎてうさん臭い話=正論」なのです。


 だからこそ、1冊の本についての読書感想文は、各ヒトによって異なるわけですし、学者の世界では、あるカリスマ的なギョーカイ人が何かを書くと、それをめぐっていろいろな意見を吐くヒトたちが現れ、「喧々諤々(けんけんがくがく)=キリのない口喧嘩」をするわけです。それだけ意見が分かれるのならば、


*ヒトは1冊の本さえちゃんと読めていないのだ


と断定しても、的外れな意見とは言えないでしょう。


 テクストで思い出しましたが、文学なんかでは、作品を批評するさいに、「アンビギュイティ= ambiguity =両義性=多義性=あいまいさ」という考え方で、分析をすることがあります。昔、エンプソンという英国の人の書いた Seven Types of Ambiguity という本の存在を教えてくれたのは、「学魔」こと高山宏氏でした。


 後に邦訳が出たそうですね。自分は怠け者なので、原書も邦訳も読んでいません。ただ、タイトルを思い出しながら、何が書いてあったのだろう? なんて、今ごろになって空想=妄想するだけです。Seven Types of Ambiguity =「あいまいさに、7タイプがある」とは、どういうこっちゃ? おもしろそうですね。いつか、自分勝手にじっくり考えてみたいです。


 で、


*読むという行為の不可能性


に過度にこだわったのが、たとえば、ステファヌ・マラルメ、ジャック・デリダ、モーリス・ブランショだったらしいのです。一方で、その


*不可能性に快楽を見出す


というおもしろい曲芸を見せてくれたのが、たとえば、ロラン・バルトという人でした。フランス語で書いた人ばかり挙げて、ごめんなさい。ほかの言語圏にも、この手の人は、たくさんいるはずです。


 さきほど触れたエンプソンさんも、その中に入りそうな気がしますけど、勘違いでしょうか?


*ニュー・クリティシズム


と呼ばれた、英米の文芸批評運動の草分けの草分けでしたもんね。そうそう、ノースロップ・フライなんて、カナダ生まれの人もいました。あの人は、なかなか器用な職人さんでしたよね。フランスの


*ヌーベル・クリティック


に負けないくらい、いい仕事をしていらっしゃったと聞きます。


 ただ今述べた英米のギョーカイ情報は、すべて、かつて少壮気鋭の英文学者だったころの高山宏氏からの受け売りです。一方、この国では、と言えば、情報の鮮度の古い自分には、蓮実重彦=蓮實重彦氏くらいしか、思い浮かびません。ただ、ギョーカイで、


*「表象」とか「表象文化論」とか「表象作用」


という言葉たちを頻繁にお使いになる中堅や若手の方でしたら、読むことの不可能性には、ある程度敏感なのではないでしょうか。学生さんが、この記事をお読みでしたら、先生選びの一つの目安にしてください。


     *


 以上は、「飽きっぽくて、忘れっぽい」という記事からの引用ですが、飽きっぽくて、忘れっぽいわりには、この記事の存在を覚えていたので、コピペしました。


 ひょっとして、上のようなお話に興味のある方がいらっしゃるかもしれないので、エンプソンが出てくる別の記事を以下に引用します。えーっ、このク〇暑いのに、マジうぜーなー、とお思いの方は、パスして次に飛んでくださいね。


     *


 かつて大学ではフランス文学を専攻しました。文学作品そのものよりも、批評や文学論や哲学的な著作に惹かれ、卒業論文では作家ではなく批評家を扱いましたが、それを許してくださった指導教授に感謝しています。


 個人的に興味のあった固有名詞を挙げてみます。


 ロラン・バルト、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ、ジャック・デリダ、ジャック・ラカン、ガストン・バシュラール、モーリス・ブランショ、ジョルジュ・バタイユ、ジョルジュ・プーレ、ジャン・リカルドゥー、マルト・ロベール……。


 フランス語圏以外では、エーリヒ・アウエルバッハ、グスタフ・ルネ・ホッケ、ウィリアム・エンプソン、ノースロップ・フライ、ジョージ・スタイナー、ミハイル・バフチン、ヴィクトル・シクロフスキー、マリオ・プラーツ……。


 こうした人たちの書いた本の訳書や論文の一部――主に日本の雑誌に掲載されたもの――を斜め読みしては、自己満足に浸っていたのです。自己満足とはいえ、スリリングな体験でした。


     *


 以上が引用です。お勉強が好きな方は、上記の固有名詞をネット検索なさってください。楽しいですよ。



     *



 さて、


 おかしいな みんなあつさの せいにする


についての、6つの解釈=あくまでも個人の感想ですけど、どうでしたでしょうか? 


*5・7・5という短いフレーズの、多義性=多層性=豊かさ=厚み=あつさ=テキトーさ=あつくるしさ=うっとうしさ=うざさ


を体感していただけましたでしょうか? 「それ以前の問題として、くだらなすぎるよ」ですか? ごもっともです。返す言葉もございません。


 で、冒頭に書きましたように、きょうの記事はきのうの続きなのです。きのうの記事から、必要部分を以下に、コピペさせてください。


     ★


*言から見れば=言に重点を置けば、すべては言=言語=言葉である。


*幻から見れば=幻に重点を置けば、すべては幻=幻想=まぼろしである。


*現から見れば=現に重点を置けば、すべては現=現実=「今、現に在る事実・状態」である。



    言

   /  \

   現 ―― 幻


     ★


 以上(★と★の間)が、引用です。


 で、大切なことは、引用部分の3つのフレーズは


*同じことを言っている。


という点です。すごく短絡的で簡略化した説明をしますと、


*ヒトの「意識=認識」には「出入口=スクリーン=フィルター」が1つしかないため、言も幻も現も「区別できない」。「区別できない」とは、「分けられない=分からない=同じ」ということ「である=でしかない」。


「みたい」になります。あくまでも


*「みたい」


です。


*「見たい」けど、「見えない=分からない」


とも言える「みたい」です。ですので、「みたい」としか言いようがありません。


 ヒトがしゃかりきになってやっている、


*「記述する」という行動の前提=基盤である「見る」という行為においては、「見方=考え方=視点=視座=見る位置」によって、「いろいろに見える」という仕組み=メカニズムが働いている。


とも、言えそうです=言える「みたい」です。これって、すごく当たり前のことなのですけど、どう考えても=どう見ても、


*ヒトは、その「当たり前」を意識していない


「みたい」なのです。


 たとえば、さきほどの、


*おかしいな みんなあつさの せいにする


というフレーズは、


*言=言葉


ですから、声に出して読めば、


*「言=言葉=音声=空気の振動・波」として、鼓膜を震動させ、聴覚という知覚機能によって、ヒトに知覚される


と言えます。そのフレーズがPCのモニター上に表示された場合には、


*「言=言葉=文字・活字=画素」として、目の網膜に映し出され、視覚という知覚機能によって、ヒトに知覚される


と言えます。


*「言=言葉」は、ヒトの知覚器官によって知覚される「具体的=物質的な」「物」です(※意味やイメージやメッセージは、「「言=言葉」そのもの」ではありません)。


 同時に、


*おかしいな みんなあつさの せいにする


というフレーズは、ヒトが「言=言葉」として知覚することによって、


*「幻=幻想」


として意識=認識(or 知覚?)されます。正確には、


*幻=幻想=意味=解釈(≒可能性としてのメッセージ・メッセージもどき・非メッセージ的メッセージ)=イメージ(=個人レベルで勝手にヒトがいだくもの)(※この辺がごちゃごちゃした記述になっているのは、要するに、これらが、文字通り「まぼろし」だからです。「狂え! 狂え!」的状況だからです。)


です。


*「幻=幻想」は、知覚されると主張するヒトがいるとはいえ、複数のヒトに共有される体験である事例がきわめて少ないため、そうした体験は錯覚である可能性がきわめて高い。


したがって、


*「幻=幻想」は、「意識=認識」の対象となる抽象的な「こと・現象」である。


と言えそうです。さきほどのフレーズの6通りの解釈は、直接、知覚することはできず、いったん、「言=言葉」として知覚されたうえで、みなさんの目に届いたはずです。


*以心伝心


あるいは


*テレパシー


は残念ながら、起こっていません。


 ただし、さきほどのフレーズを読んで、上記の6つの解釈とは別に、みなさんが、それぞれ個人的に、「解釈=意味=イメージ」、つまり「幻=幻想」を「持たれた=いだかれた」際に、どんなことが起こっているのかと申しますと、ヒトであるみなさんが、


*1)モニターの「言葉=文字=活字」を知覚し、2)「データ化=情報化」し、3)「あたま=脳=意識」が、2)の「データ=情報」を認識する


というプロセスを経過したのちに、


*「幻=幻想」は、「意識=認識」という過程に存在すると想定・仮定される「出入口=スクリーン=フィルター」で処理される。


つまり、


*「幻=幻想」が、「意識=認識」において立ち現れる。


と言えそうです。ややこしいので、たった今、書いた文を説明させてください。正確には、


*a)「幻=幻想」は、「意識=認識」という過程にあると想定・仮定される「出入口」を通る。  =b)「幻=幻想」は、「意識=認識」という過程にあると想定・仮定される「スクリーン」に映し出される。  =c)「幻=幻想」は、「意識=認識」という過程にあると想定・仮定されるフィルターで漉(こ)される。


です。もっとも、a)b)c)は、このブログを書いているアホが勝手に想像=妄想した比喩です。比喩=たとえ=仮定ですので、


*どれがいいかなあ


と、これまた勝手にうじうじと迷っているだけです。いわゆるひとつの単なるお話=フィクション=でまかせ=ガセ=与太話にすぎません。とはいうものの、アホがアホなりに本気で考えているところが、


*「ほんまもんやから、こわいわー」


ですけど……。


     *


 以上の、「言=言葉」と「幻=幻想」という、「レベル=フィクション=考え方」で起こっている現象を、


*「現=現実」という「立場=視点=視座」から「見る」と、すべては、「「現実 or 事実」という枠のなかで」起きている現象になる。


と言えます。


*「言=言葉」はあくまでも「言=言葉」として、「幻=幻想」はあくまでも「幻=幻想」として、「「現実 or 事実」という枠のなかで」とらえる。


のです。すごく実利的=すごく実用的=すごく現実的(※「現=現実」の話をしているのですからトートロジー=同語反復ですけど、単なるイメージとしてとらえてください)=「ちゃっかりしている」=「何が起きても、何を見ても動じない」スタンスです。


 それもそのはず、


*ヒトは、日常的生活においては、「現=現実」という「立場=視点=視座」から、「周り=他者=世界=宇宙=森羅万象」を、「見ている」


ので、こんなに


*強気=厚かましい=厚い=熱い=ついでに暑い・篤い=身の程知らず=「何となく、「何となくでない」をしている」=「何となく「とんでもない」をしている」


のです。なお、「何となく」については、「何となく」という記事を、「何となく」で結構ですので、お読みいただければ嬉しいです。とはいえ、暑いですよね、もちろん、スルーなさってかまいません。


     *


 さて、


*言ちゃん、幻ちゃん、現ちゃん、という3人の「ゲンちゃん」


をめぐっての、きのうのお話=紙芝居で、このアホは


*「こうへいくん=公平くん」


を演じ、3人を同列に扱っていました。きょうは、3人の役柄を説明したいと思います。


 さきほど述べましたように、


*通常、ヒトは、「現=現実」のレベルでかなり強気に生きている、あるいは、そのつもりでいる。


 しかし、


*「裏=内心=無意識」では、かなり「幻=幻想」にどっぷり浸かっているが、そのようには、考えないように努力しているヒトが多い。


 逆に、


*「幻=幻想」のなかで生きていることを売り物にして生計を立てているヒトも一部いる。


 一方、


*ヒトをとりまく「世界=宇宙=森羅万象」を、ヒトは広義の「言=言葉」として知覚するしか方法を持たない。


 おそらく、そのせいで、


*ヒトは、かなり必死になって、「世界=宇宙=森羅万象」を記述しようとしている。言い換えると、「世界=宇宙=森羅万象」を、「暗号」に見立てて=たとえて=こじつけて、「解読」しようとしている。


 これは、


*「世界=宇宙=森羅万象」の一部である or 一部でしかないヒトが、身の程=分際をわきまえず、「世界=宇宙=森羅万象」そのものになろうという「「意志=願望=志向性」を持っていること」=「病(やまい)の1つの「あらわれ」=兆候=症状」である。


とも言える。そうした、


*意志=願望=志向性=病は、とりわけ、宗教や科学と呼ばれている分野に顕著に観察される。


と言えそうです。


 以上が、3人のゲンちゃんの役割についてのお話=紙芝居=与太話でした。


 というわけで、


 おかしいな みんなあつさの せいにする


というより、


 やっぱりね みんなあつさの せいだわい


と言えるみたいな気がします。きょうの記事をお読みになり、


*「あつさ・暑さ・厚さ・熱さ・篤さ」という言葉の、多義性=多層性=豊かさ=厚み=あつさ=テキトーさ=あつくるしさ=うっとうしさ=うざさ


を体感していただけたとすれば、それに勝る喜びはありません。


*ああ、あつい(※ひらがなであることに注目してください。日本語の文字体系ではひらがなが、本来のことば=音声=音(おん)に一番近い「書き言葉=表記法」です。だから、これも「あつい」のです。)


と感じていただければ、それだけで嬉しいです。


     *


 ところで、一句。


 梅雨明けて 鳴き出したのは スピーカー 


【注: この記事が書かれていたころには、近いうちに総選挙があるらしいという憶測が飛び交っていたようです。だからスピーカーなのであり、以下に書かれているように、激しい選挙戦が行われる暑い夏になりそうな気運が高まっていたのだと思われます。】


 一歩外に出るまでもなく、家でテレビのニュースを見ていて感じますが、今年は、とりわけ熱くて、厚くて、篤くて、暑い夏になりそうな気配です。みなさん、どうか、くれぐれもご自愛ください。


 このあつくるしい文章を、ここまで我慢してお読みくださった方に、お礼申し上げます。どうも、ありがとうございました。では、また。



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77


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