「揺らぎ」と「変質」
げんすけ
2020/08/20 09:17
まず、引用させてください。
★
*「普遍性」の1つである「表象という仕組み=メカニズム」とは、ヒトをつなぐと同時に、犯す=侵す=冒すという怖ろしい側面をもっている。
とも言えそうです。では、ヒトは「表象という仕組み=メカニズム」という「普遍性」をまえにして、なす術(すべ)をもたないのでしょうか?
そんなことはないと思います。アホの結論として、聞いてください。
*待てばいい。時間をかせげばいい。「表象という仕組み=メカニズム」は、実は時間にすごく弱い。「何か」の代わりに「その「何か」ではないもの」を用いる。これが、「表象という仕組み=メカニズム」であるなら、「何か」と「その「何か」ではないもの」に「揺さぶり」をかければいい。その「揺さぶり」をかけてくれるものとは、おそらく、「表象という仕組み=メカニズム」よりも強力な「時間」ではないか。時間の経過とともに、「表象という仕組み=メカニズム」は揺らぐ=変化する。言い換えると、「何か」と「その「何か」ではないもの」の両方が、時とともに変質する。
そんなふうに思っています。
*のらりくらり。じわりじわり。そうしながら、「表象という仕組み=メカニズム」を徐々に追いつめ、隔たり=間=際を埋めていく。あるいは、間=際をずらしていく。そのうち、メカニズムそのものが変質していく。
そんなふうに簡単に言えるとも思います。
【中略】
*わあい=和愛=輪愛=和気あいあい
*セサミ・ストリートで、「わあい、わあい」=「和気あいあい」
*「間(ま・あいだ・あわい)=際(さい・きわ)」
*あわいわあい=淡い間=時間(とき+あわい)
とはいうものの、
*いかに淡くても、「あわいわあい」=時間(とき+あわい)は強力だ
と信じています。ふと、
*時の神クロノスが、武器として鎌(かま)をもっていた
ことを思い出しました。
*もっとも時を恐れるのはヒト
です。ということは、
*時は、ヒトがつくりあげた「表象という仕組み=メカニズム」をも駆逐してくれる
のではないでしょうか。ただ、心配なのは、
*「表象という仕組み=メカニズム」とともに、ヒトも駆逐される
ということです。つまり、
*時をじわりじわりと追いつめることで、ヒト自身がじわりじわり追いつめられる。
こともあると言えます。でも、
*結論や結果を急いて、一気になくなる=無くなる=亡くなる=滅亡するよりは、まし
ではないでしょうか。
★
以上です。「時の神=あわいわあい(2)」からの自己輸血=自己引用です。長くて恐縮しておりますが、きのうから、
*物理的な「時間」という現象と、ヒトが知覚し意識する「とき」
について考えている契機となった文章ですので、ご勘弁を願います。上の文章を書いてから、いろいろ考えてきたことを、きょうはまとめてみたいと思います。
まず、当たり前だと思われることから考えてみます。
*今、この記事を書いている自分と、上にコピペした文章を書いていた時の自分とは、「時間」および「とき」を隔てているという意味では、異なっている=ズレている
と言えそうです。
*森羅万象は常に変化の過程にある
という思いが自分には強くあります。したがって、今、PCに向かって文章を書いている自分も刻々と
*「変化しつつある」
わけです。もちろん、PCも、そして、PCがつながっているネット空間も、PCの置いてある部屋も、部屋のある家も、家をとりまく環境すべてが、です。
その場合の「変化」というのは、物理的な「時間」という現象上の「変化」と、ヒトが知覚し意識する「とき」における「変化」の2種類みたいなのですが、この両者が
*「異なっている=ズレている」
と考えられます。というか、ヒトにとっては、そのように
*知覚され、意識される
という意味です。
*客観的にどうであるか
は、このブログでは扱うことができません。問題にしていません。最初から、白旗を掲げているようなものです。でも、あえて、気になるので、こだわって、このブログを書いています。まず、そうしたスタンスで書いていることを確認しておきます。
で、上の引用文を書いた数日前であれ、この記事を書き始めたついさっきであれ、過去に起きたこと、および、過去の自分というものを思考の対象にしようとする時、
*ヒトという種(しゅ)は、時間の処理が知覚のレベルにおいても、意識のレベルにおいても、きわめて不得意なのではないか
と思えてなりません。では、何と比べて「きわめて不得意なのか」と申しますと、
*空間の処理
です。このブログでは、さきほど述べましたように物理的現象や客観的事実を扱う余裕も能力もありません。正確に言えば、
*物理的現象や客観的事実は、おそらく「物理的」「客観的」ではなく「虚構的」なものだ
と考えています。きのうの記事で触れた
*いわゆる「自然言語」と「人工言語」
の話になってしまいますが、ヒトが日常的に使用している言語の不都合な部分を回避する、あるいは、除去するために、ヒトが生み出した人工言語というものも、しょせん、
*ヒトにとっての不都合を解消しようとする、というきわめて人為的な目的のみを達成するだけのものであり、それは、ヒトがイメージする「物理的」「客観的」とは、おそらく異なるレベルにあるのではないか
と考えています。その意味では、
*いわゆる「自然言語」と「人工言語」の差異は、機械、または機械に制御されるシステムというヒトが生み出した「絶対的な他者」、および、たとえば、月、土星、遺伝子、原子、素粒子を含む森羅万象という名で呼ぶことも可能な「絶対的な他者」に、いくらか働きかけることができる限定的な有効性を備えている、という程度の隔たりしかない。
と言えるように思います。だからこそ、
*ヒトは仲間を月面に立たせたこともあり、土星探索機カッシーニが土星の衛星の画像を送り続けているのであり、遺伝子研究は遺伝子操作にまで手を広げつつあり、数知れない原子爆弾がこの惑星に存在しているのであり、また、禅問答や不条理劇にも通じる摩訶不思議な素粒子に関する理論=説=フィクションで、ノーベル文学賞ではなく物理学賞を受賞するヒトがいる
わけです。すごいと言えばすごい(=進歩)、そんだけーと言えばそんだけー(=停滞)、という状況です。
簡単に言えば、
*「人工言語」は「自然言語」の一種or変種であり、ヒトの、ヒトによる、ヒトのための言語であり、たとえば、機械(or遺伝子or素粒子)の、機械(or遺伝子or素粒子)による、機械(or遺伝子or素粒子)のための言語ではない。
ということです。もちろん、以上は、私見であり、妄想であり、数学や理系の科目が苦手なアホの嫉妬から来る悪態=罵倒=皮肉であり、駄目押しに言うならアホのでまかせ以外の何ものでもありません。
で、以上のことを前提に話を進めます。
*ヒトは、空間と時間というものを、主に知覚器官を使用して知覚し、そこで知覚された信号を、ニューロンを通して、脳に伝え、脳細胞においてその信号を情報としてデータ処理し、意識というスクリーンに映し出す。ただし、意識というスクリーンは、きわめて気まぐれ=信頼性に欠けていて、知覚されデータ化された情報を反映するとは限らず、知覚されていない、あるいは、データ化されてもいない情報をも、映し出すらしい。
と考えています。これを図式化=チャート化すると、以下のようになります。
(知覚器官で森羅万象の一部を信号として)「知覚する」
↓
(知覚器官で知覚した信号を)「データ化する=情報として受け取る」
↓
(データ化された情報を脳細胞が)「処理する」
↓
(脳細胞が処理した情報を「脳?」が)「意識というスクリーンに映し出す=意識する&イメージをいだく」(※「脳?」は「自我」や「こころ」や「意識」と呼ばれているものに近いと言えるかもしれない)
以上の過程をへて、空間と時間が最終的に、「意識する&イメージをいだく」という段階にいたると仮定してみます。ここでの、
*「イメージ」とは、個人が勝手にいだく、個人差のある、きわめて不安定なものだ
と考えてください。さきほどの文章にある「知覚されていない、あるいは、データ化されてもいない情報をも、映し出すらしい」にあたります。
*「意識+イメージ」の不安定さ=テキトーさ=でたらめさは、ヒトの身体という「ある種の機械=精密なシステム・仕組み」と、ヒトの身体の外部という「偶然性に満ちた時空=環境」とが出合う「境目=境界=縁」で起こる、一種の混乱の結果である
という見方も可能かと思われます。
話を少しずらします。
以前、NHKテレビの講座で、2年ほど手話を勉強したことがあります。その経験と、その経験を通して初めて知ったことについては、「平安時代のテープレコーダー」と「言葉を奪われる」に書きました。お読みいただければ、幸いです。で、その講座で学んだことのうち、きょうのテーマと深い関係がありそうな話をしてみます。
「時間」および「とき」を大雑把に3つに分けて、
*「まえ・前・未来・将来」/「あと・のち・後・過去」/「いま・今・現在」
を考えてみましょう。これを手話の動作=仕草=身ぶりで表してみると、
*「まえ・前・未来・将来」は、右手の手のひらを前方に向ける形で、前へ差し出すような仕草となり、(※受講中、ある年度の講師を務められた方は、左利きだったので、「右手」は「利き手」とするのが正確かもしれません)
*「あと・のち・後・過去」は、右手の手のひらを後方に向ける形で、肩のほうに、あるいは、肩越しに後ろへと差し出すような仕草になり、
*「いま・今・現在」は、両手のひらでお腹の前の空間をぐいぐいと下へ押さえつけるような仕草になります。
「少しまえorあと・さき」「1週間まえorあと・さき」「かなりまえorあと・さき」は、以上の仕草を基本として、指の数や、仕草の大きさ・微妙な変化=バリエーションで表していたという記憶があります。詳しいことは忘れました。
以上のことから、そういえば、日本語でも、英語でも、基本的に=概ね
*時間と空間に共通して「前」「後」に相当する言葉をつかう
ことができることに気づきました。
*言葉=言語という仕組みが、比喩を基盤にしていることを示す好例だ
と思います。で、
*比喩=たとえる=こじつけるという、個々の言葉=単語を用いた操作は、「AをBにたとえる」という具合に、BとAのあいだに主と従の関係を想定しているのでないか
という疑問がわきました。確認しておきますが、
*Aが従、Bが主
です。その逆ではありません。
たとえば、「歴史(時間)を川の流れ(空間)にたとえる」「人類の進化(時間)を生物の成長(時間および空間)にたとえる」「子どもから大人への成長(時間)を、階段を上る行為(空間)にたとえる」という言い方があります。「AをBにたとえる」というさいには、Bが主で、Aが従だという感じがしませんか。
また、「歴史(時間)を長い紙の年表(空間)として表す」「スケジュール(時間)を手帳(空間)に記す」「時間の経過をカレンダーという形で示す」「時間の経過を時刻(=ときを刻む行為)として、時計という計器で見える化する」という行為でも、同様な感じがしませんか。
*Aという現象をAそのものを用いて説明できない=限界があるために、その代わりに、Bという現象に頼る=助けを求める
とも言えます。つまり、AはBに依存しています。でも、言いたいことはあくまでも、Aなので、主従という関係を持ち出すのは、本当は意味がない=適切ではないかな、とも思っていますが、ここでは、とりあえず、この図式=フィクションを採用しておきます。この点は、いずれ、じっくりと考えてみたいです。
で、これまた勘=でまかせ=話のでっちあげ、なのですが、上述の限界が理由で、
*やむをえず=仕方ないので=残念無念ながら
*ヒトは空間を主に、そして時間を従にして、たとえている
のではないでしょうか。
*ヒトは、空間的(=視覚的)イメージを時間的(=聴覚的?)イメージに優先させる = ヒトは、時間的(=聴覚的?)イメージよりも、空間的(=視覚的)イメージをいだくほうが得意である = ヒトは、時間的(=聴覚的?)な情報処理よりも、空間的(=視覚的)な情報処理のほうが得意である
と単純化してみましたが、どうでしょうか。全部、「やむをえず=仕方ないので=残念無念ながら」なのですが、話がややこしくなるので、それにはあまりこだわらないでおきましょう。なお、
*「時間的(=聴覚的?)」
については、まだ考えが煮詰まっていません。
*音声が時間的に知覚および認識される
ような気がするので、そうした表記もできるかな、と思っているのですが、
*記憶という時間的でもあり空間的でもあるものを考えてみると、当てはまらない
という気持ちも強いです。今は、よく分かりません。つまり、話をでっちあげることができません。今後、もっとよく考えてみます。
さて、ここで話を飛躍させます。申し訳ありませんが、いささか強引=乱暴=やりすぎな方法で、考えを進めます。正直申しまして、月曜日は、洗濯、買い物など、こなさなければならない家事が多いのです。で、冒頭の引用部分で、いちばん、気になる個所を再度、引用させてください。
*待てばいい。時間をかせげばいい。「表象という仕組み=メカニズム」は、実は時間にすごく弱い。「何か」の代わりに「その「何か」ではないもの」を用いる。これが、「表象という仕組み=メカニズム」であるなら、「何か」と「その「何か」ではないもの」に「揺さぶり」をかければいい。その「揺さぶり」をかけてくれるものとは、おそらく、「表象という仕組み=メカニズム」よりも強力な「時間」ではないか。時間の経過とともに、「表象という仕組み=メカニズム」は揺らぐ=変化する。言い換えると、「何か」と「その「何か」ではないもの」の両方が、時とともに変質する。
以上です。この舌足らずな文章で言いたいことを、補足説明したいと思います。
大雑把な言い方を箇条書きにしてみます。時間的な余裕がないので、この記事のために、きのう用意した走り書きメモを、そのまま写すことになりそうです。横着をして、すみません。
*ヒトにおける「表象という仕組み=メカニズム」(=「「何か」の代わりに、その「「何か」以外のもの」を用いる操作)は、視覚的なイメージ=映像=アイコンを基本とする。(※この場合の、イメージはヒトが個人レベルで勝手にいだく、きままでテキトーなものではなく、複数あるいは多くのヒトたちによって、同様なイメージを喚起するものとして共有されている、映像=形=図像=アイコンを指す。たとえば、文字、数字、記号、ロゴ、静止画像、動画など。)
*さまざまな表象のなかで、とりわけ重要な意味を持ち、使用頻度も高い、言葉=言語、および、貨幣=マネーは、文字=文章=テクスト、および、数字・数式という、視覚的なイメージ=映像=アイコンとして、多数の個人によって共有され、多数の個人のあいだで流通する。
*言葉=言語、および、貨幣=マネーは、時の経過とともに、それにまとわりついている意味・イメージ・ニュアンス、および、価値が変化・変動・変質する。
*言葉=言語、および、貨幣=マネーは、刻々とその意味・イメージ・ニュアンス、および、価値が変化・変動・変質しつつある。
*言葉=言語、および、貨幣=マネーには、時間の経過に起因する、不安定さ=不規則性=予測不可能性がそなわっている。 = ヒトは、自らの知覚・意識の限界の下に、言葉=言語、および、貨幣=マネーには、時間の経過に起因する、不安定さ=不規則性=予測不可能性がそなわっていると、思い込んでいる=錯覚しているor錯覚しているを忘れている、あるいは、故意に意識しないでいる。
*ある時点での「ある特定の言葉=言語A-0」、および、「貨幣=マネーA-0」は、その後の別の複数の時点においては、「ある特定の言葉=言語A-1,2,3,4,5…」、および、「貨幣=マネーA-1,2,3,4,5…」という具合に移り変わっていく。
*表象の代表としての=ヒトがもっとも大きな影響下にある、言葉=言語、および、貨幣=マネーは、時間の経過とともに「揺らぎ」「変質」する。
*表象、および、「表象という仕組み=メカニズム」は、時間の経過に従属する。
*表象、および、「表象という仕組み=メカニズム」を生み出したヒトもまた、時間の経過とともに「揺らぎ」「変質」する。
*時間の経過とともに「揺らぎ」「変質」するのは、あくまでもヒトであり、ヒトが生み出した表象、および、「表象という仕組み=メカニズム」の、時間の経過にともなう「揺らぎ」「変質」は、ヒトが知覚し認識するものである。
*ヒトは、空間的広がりを、ある程度、表現行動=イメージ=表象を用いて捏造・再現・再演できても、時間的経過を、わずかでも、表現行動=イメージ=表象を用いて捏造・再現・再演することには、きわめて大きな障害=困難を感じる。
*ヒトは、時間的経過を、空間的広がりに、たとえる=こじつける=置き換える=代用する、作業=操作に、慣れている。
*ヒトが、時間的経過に比較して、空間的広がりを、信号として知覚し、結果的に脳で意識することを容易に感じるのは、ヒトの脳内にある意識というスクリーンが、いわば、たった1枚のテレビ画面として存在するからである。言い換えるなら、ヒトは、各自がたった1台のテレビ受像機を持ち、たった1枚のテレビ画面しか鑑賞できない=眺められないという、比喩的な表現も可能である。(※この点については、「1人に2台のテレビ」と「人面管から人面壁へ」で詳しく論じています。)
以上です。非常に、粗雑=杜撰(ずさん)=胡散(うさん)臭い=いかがわしい考え方でしょうが、本気で、そう思っております。
きょうの記事は、大雑把なうえに、ややこしいので、これから家事の合間に、読み直し、細部を検討してみます。
超マイペースで、第三者の目を意識する余裕もない、ややこしい文章に、お付き合いくださった方に、感謝いたします。どうもありがとうございました。では、また。
後ろ前 どっちが後ろか わからない
前後ろ どちらが前か わからない
今ここに 在るものだけを ただ見つめ
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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