言葉とうんちと人間(言葉編)

げんすけ

2020/08/16 11:26


「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」について書いてみようと思います。「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」という音あるいは文字の連なりで、みなさんは何を連想なさいますか? 


 個人的には、言葉とうんちと人間を連想します。


 この「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」三者は、密接に結びつきからみ合ってまさに、「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」状態にあるように感じられるのですが、今回は、その中のうち、特に言葉について思うところを書いてみます。


     *


 言葉というと、阿吽(あうん)という言葉が頭に浮かびます。あ、うん。あっ、うーん。ああ、ううん。


     *


 この阿吽という言葉は、含蓄に富む言葉のようです。中には、阿吽という言葉をテーマに蘊蓄(うんちく)を傾けた文章をものする方もいらっしゃるにちがいありません。


 こじつけや駄洒落や出まかせやでたらめが好きな者としては、今、わざと、あるいは、ひょっこりと出て来た「あうん」という言葉について、いろいろいい加減なことを書きたくてうずうずしているところです。


 きっと頭の中が「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」しているからでしょう。その「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」を、ちょっと出してよろしいでしょうか。すっきりさせてください。けっこう、マジなお話ですので、どうかお許し願います。


     *


「あうん・あーむ・おおん・おーむ・おうむ・aum・om」という、言葉とも音とも言えるような言えないような声の出し方があるそうです。インド哲学や仏教と関係がある「聖なる音」らしいのですが、詳しいことは知りません。


「阿吽・あうん」という言葉を見聞きするたびに、あいうえお表を連想します。「あ」から始まって「ん」で終わるという、単純な理由なのですが、その単純さゆえに、かえって深いものを感じてしまうのです。


 ここで、みなさん、「あーん」と口にしてみてください。さあ、恥ずかしがらずに、ご一緒に、「あーん」。


「あ・a」は、大きく口を開けて息を吐き出す音ですね。「ん・n」は、口をかすかに開いたまま、上の歯の裏から奥にかけて(※硬口蓋というそうです)、舌をぴったりとくっつけて、鼻から息を出しながら出す音です。


 でも、個人的には、「m」、つまり、両唇を合わせて閉じて、鼻から息を出す「む・mu」の「u」なしの構えで出す音で読んでいます。そうすると、「あーむ」という感じになります。さきほど触れた、aumとかomとかいう、仏教かサンスクリットか知りませんが、そんな大そうな話とは関係なく、何となく、このほうがしっくりするので、そう読む癖がついています。


     *


 あいうえお表のうちの、「あ・a」と「ん・m」だけを、よく口にします。実は、二回に一回は、ただあくびをしているだけなのですけど、マジに「あーむ」と声に出すことがあります。


 伸ばしぎみにゆっくりと発音しながら、何度も繰り返します。すると、「あ・a」と「ん・m」の二つはつながり、連続した音になります。目をつむって声に集中すると、口と鼻という名の穴を通る空気の流れと、鼻の奥の震えだけが感じられてきます。そのうち、眠くなります。


 人間は口を開けて「a」と言ってうまれて、「m」または「n」の口をして息を吐いてなくなる。そんな思いにとらわれます。本当のところは知りません。他人様が生まれる場にも、死ぬ場にも立ち会った経験がないからです。


 人間一般どころか、自分自身に関しても、どうなのかは知り得ません。なにしろ、生まれた時の記憶はありません。これから先、いつかは死ぬのでしょうが、その時に自分がどんな口をして死ぬのかは知るよしもありません。


 それでいいのでしょう。誰もがそうなのでしょう。


 あーむ。


 今のはあくびなのですが、あくびは「生きて死ぬ」という行為のレビュー(復習)であり、リハーサル(予行)だという気がします。ワンちゃんも、にゃんこも、ネズミさんも、クマさんも、あくびをしますね。興味深いです。


     *



 冒頭で述べましたように、「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」について書いてみたいのです。そして、タイトルにあるように「うんち」について書いてみたいのです。


 お断りしておきますが、マジです。スパイスとして多少の駄洒落やおふざけはあると思いますが、本気で書きます。自分にとって、大切なテーマなのです。


     *


「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」という言葉は、文字通り「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」しています。そこで的を絞ります。


*言葉という「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」。


*言葉になる前の「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」。


 まずは、以上の二つについて考えてみましょう。


 よく考えると、今挙げた二つの文を組み合わせれば、次のようになるはずです。


*言葉になる前の「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」から、言葉という「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」が生じる。=「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」から「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」が生じる。


 まさにそういうことなのです。もっと簡単に言うと次のようになります。


*言葉は何とでも言える。


 これをややこしく言うと、以下のようになります。


*言葉には「Aを、BともCともYともZとも言える」という「パワー=でたらめさ=いい加減さ」がある。


 これを正確に言うと、次のようになります。


*Aというものを、人間が知覚したり意識したり思考したりするさいには、大きな限界がある。


 ぶっちゃけた話、以下のような事態となります。


*人間は、Aというものを知覚も意識も思考も「できない」。「できる」と考えるのは、人間が勝手に判断している=思い込んでいるだけである。


 もっと簡略化しましょう。


*○=△。○は△である。人間は○も△も分からないままに、そう言う。


     *


 具体的な話をします。


 たとえば、あなたの目の前には、おそらくパソコンのモニターがあるでしょう。そうです。あなたが、この駄文を読んでいるパソコンのモニターのことです。そのモニターを、じっと見つめてください。


「モニター」なり「ディスプレー」なり「画面」なり「液晶」なり「画素」なり「映像」なり「文字」なり「活字」なり「ツールバー」なり「画面に付いたほこり」なり「画面に付いた指紋」なりを見つめてください。


 たぶん、同時多発的に次のような状態になると思います。


*モニターという器械のいろいろな「部分=パーツ=もの」が断片的に目に入る。


*モニターに映っているいろいろな「目についた語や文字や活字や映像や記号」が断片的に目に入る。


*モニターに映っているこの駄文を読んでいる。


*モニターに映っているものと関係のある、または関係のない、いろいろな「イメージ=目の前にはなく頭の中に浮かぶもの・こと」が視覚的に意識される。


 どうでしょう? そんな「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」した状態になりませんか? 


 そうした状態になったという前提で、話を進めさせてください。そうした状況を、とりあえず、次のように言葉にしてみます。


*「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」が「立ちあらわれる=出てくる=意識される」。


 その時、あなたが「つまんない」とか「ややこしい」とか「ばかみたい」とつぶやいたとします(この駄文を読んでいる方には、おおいにあり得ることでしょう)。


 それを次のように言うことができると思います。


*音(おん)が口から「発せられた=漏れた=出た」。


 今の文で、「発せられた=漏れた=出た」が、「過去形=完了形」であることに注目してください。その行為は、「もう終わった=完了した」ということですね。


「つまんない」とか「ややこしい」とか「ばかみたい」とつぶやいたと人は、モニターに映し出されたこの駄文を読んだ結果として、そのような言葉を口にしたのでしょう。


 さきほど、『そのモニターを、じっと見つめてください』と、こちらが指示をした結果として、この駄文を「読んだ」のはなく、文字通りモニターを「見た」場合には「モニター」とつぶやいた人もいるでしょう。


 または、「そろそろ画面をクリーナーで拭かなきゃ」とか「ああ、お腹が空いた」とか「明日の天気はいいだろうか?」とつぶやいた人がいても不思議はありません。


 どのような言葉が口から出てきたにせよ、その言葉が口から出る「直前=寸前」があったはずです。


 その「直前=寸前」に、その人の頭の中で、「何かが」「起きていた=意識されていた=意識というスクリーンに映っていた」だろうと推測されます。


 で、その言葉が口から出る「直前=寸前」に、その人の頭の中で、「何か」が「起きていた=意識されていた=意識というスクリーンに映っていた」と推測される場合の、その「何か」が、「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」なのです。


     *


*「何か」と、その直後に「口から出た音(おん)=言葉」との間に、何らかの「関係性=関連性=つながり」があるかどうかは、その音を発した人間にも、その人間以外の第三者にも、「分からない=知り得ない」。


 また、心変わりがして、「何か」と、その直後に「口から出た音(おん)=言葉」との間が完全に「途切れている=途絶えている=プッツン切れている」場合もおおいに有り得ます。むしろ、そのほうがひょっとするとヒトの状態=常態に近いのかもしれません。いつか考えてみたいテーマです。


 さて、ただ今述べた二点が、決定的に重要だと思うのです。ややこしいですね。


 二点のうち、前者について(つまり、心変わりではない場合について)、うんと単純化して説明させてください。


*「口から出てきた音(=おん)=言葉」は、肛門から出てきたうんちと同様に、それを出したとされる人間から、離れて存在するものとなってしまっている。


 そう言えそうです。したがいまして、口から出た言葉は「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」としたものとしてしか存在できないというか、あり得ないのです。言葉は「すっきり」「はっきり」してもいなければ「明快」で「論理的」なものでもありません。


 たとえば、単語レベルで「うみ(海)」「はな(花)」という言葉を口にしたとします。その瞬間「うみ・海・膿・生み・産み……」「はな・花・鼻・洟……」という「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」の連鎖が生じます。仮に、その言葉を耳にした別の人が「うみ(海)」「はな(花)」と受け取ったとしても、口にした人の頭の中にあるイメージと同一であるわけがありません。


 センテンスのレベルで、「わたし、海が好きなの」とか「この部屋にふさわしい花を買ってきてほしいんだけど」などと誰かが口にしたとします。聞き手が百人いれば百通りのイメージや解釈が可能でしょう。また、時間が経つにつれて、その百人の百通りのイメージも刻々と変化することでしょう。


「口から出てきた音(おん)=言葉」は、それを出した人から離れて存在するというのは、そういう「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」した状態を指しています。


 でも、人間は言葉を何とか使いこなしたつもりでいます。使い損ねた部分を無意識に、または故意に忘れているからです。自分に都合の悪いことはすぐに忘れる。そういうふうに人間はできているらしいのです。


「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」した言葉を用いているために、人間がどれだけ苦労しているか。大きな本屋さんの自己啓発コーナーに並んでいる数々の本を眺めれば、納得できると思います。テレビのニュースで報道される「右往左往ぶり=出来事=事件=事故」を見ていれば、納得できると思います。人間は、「病み=止み=闇」、「悩み=名病み」、「混乱=昏倒=昏睡=全麻(全身麻酔)」に陥っているのが「状態=常態=普通=当たり前=自然」なのです。


     *


 ちょっと長いですが、以下の文章をお読み願います。


*もし、「自分」と「他者=世界」という別個のものが存在するならば、比喩的に言えば、それは固体のように存在するのではなく、液体か気体のように、時によって混じり合ったり、分離し合ったりする形で存在するのでしょう。たとえば、ぼけーっとしている時、うとうとしている時、眠っている時、あるいは、動転している時、精神的にかなり動揺している時、ショックを受けた時、酔っ払っている時、あるいは、何かに夢中になっている時の人間は、「自分」と「他者=世界」が混じり合った状態にあるはずです。


 今の文章で「自分」と「他者=世界」が括弧でくくられていることに注目してください。「 」が付いているさいには、その文章を書いた人が、その「 」の中身に疑問をいだいている場合があります。


「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」をテーマにしている時に、「自分」と「他者=世界」というものが確固(かっこ)としたものとして存在するわけがありません。話を進めるうえで仕方がないから、とりあえず格好(かっこう)を付けるために、括弧(かっこ)を付けておくのです。


 本音を申しますと、「自分」と「他者=世界」なんてものは、本当はないのだけど、「ま、いっか」という感じです。


     *


 さらに、この駄文では、「○○=××=□□」みたいに、やたら「=」で言葉をつなぎます。これもまた、「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」をテーマにしているからなのです。


「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」とした「自分」や「他者=世界」を「論じる=言葉にする」さいには、「自分自身」を含む「森羅万象=世界=宇宙」が一言でぴしゃりと言い表せるなどという考え方や書き方で臨めるわけがありません。「わからない=わけない=分からない=分けない=判らない=訳ない=解らない=別けない」というスタンスで、書き進めるしかないのです。


     *


 再度、お断りしておきますが、マジです。景気付けに多少の駄洒落やおふざけはあると思いますが、本気で書きます。自分にとって、タイトルにある「言葉」も「うんち」も、とても大切なテーマなのです。



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77


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