名詞という名の動詞 (前半)

星野廉

2020/09/25 08:36


 まず、前回の「動詞という名の名詞」で書いたことを、まとめさせてください。動詞、名詞といった品詞と呼ばれているものは、詞がついていることから分かるように、「詞=言=語=名前」である。動詞は動きや状態を指し示す、と一般に信じられているが、それはうさん臭い。「詞=言=語=名前」が「動きや状態」と対応するという話も、きわめてうさん臭い。以上のように要約できると思います。


 でも、そう言ってしまうと、身も蓋もなくなってしまいます。「それを言っちゃあ、おしまいだ」状態になってしまいます。そこで、「救済策=お茶を濁すこと」として、品詞というペテン詞(※ペテン師の親戚です)をまとわされてしまった、あわれな言葉たちに備わっているはずの、表情・身ぶり・目くばせ・動き、つまり「揺らぎ」に目を注ぎ、その「揺らぎ」に同調し共振してみようではないか。そのように考えれば、すべての品詞が瀕死の状態を免れ、生き生きとした「揺らぎ」を発するものとも取れる。という意味のことも、前回の記事では付け加えておきました。


 言葉は、健気でいとおしいです。ヒトは、言葉を仲介役として、外界と接しています。外界を見てもいます。言葉を、かなり広い意味で取りましょう。話し言葉、書き言葉だけでなく、表情や仕草や身ぶり手ぶりを含む身体言語=ボディランゲージ、手話、指点字、点字、音声(発声)、音楽、合図、映像、図像、さまざまな標識や記号や信号などを、ひっくるめた「こと・もの・行為・状態」としてイメージしてみましょう。そう言えば、イメージもまた、言葉に含めていいのではないかと思います。いや、含めるべきです。


 広い意味での言葉はヒトと外界との「あいだ・あわい・へだたり」を近くしてくれる、と信じています。ヒトと外界をつないでくれる、と信じたい気持ちもあります。


     *


 先日、新聞を読んでいて、「暗黒物質」というものについての、やや長めの解説を目にしました。一通り目を通しましたが、読解力のないこのアホには、さっぱり分かりませんでした。「読む」ということが、とても苦手なのです。小学生になって、本格的に読み書きを学ぶようになってから、ずっとそうでした。今もそうです。話を「聞く」ことも、苦手です。身体障害者手帳を交付されている中途難聴者であり、「 hear が困難である=聞こえにくい」という現状以前に、「 listen が困難である=聞いた話を理解しにくい」という状態があったのです。今でも、その状態は続いています。


 で、「暗黒物質」ですが、「見えない物質」とも言うそうです。そんな意味のことが書いてあったようなので、とても驚きました。「見えない物質」をめぐって、科学と呼ばれる分野の一部で大騒ぎが起こっているらしい。そこまでは、何とか分かりました。でも、何か妙な気がしてならない。騙されたような気がする。そこで気になったところだけを再読してみました。すると、「見えている物質」というものがあって、それについては、もう解決済みみたいなニュアンスで、その記事が書かれているのです。


 誤読かもしれません。よくあることなのです。ですから、読解力が乏しいうえに、へそが曲がっているアホがいだいた感想だと、あらかじめ断っておきますが、「見えている物質」ってあるのでしょうか。もう、科学は「見えている物質」については、「卒業」してしまったのでしょうか。電子顕微鏡、観測装置、検出装置といった、間接的に「何か」を「見る」装置がいろいろあるようです。そうした装置をもちいて、「何か」を「見る」ということは、「何か」を「何かではないもの」に置き換えて「見る」作業のはずです。


 装置=ヒトがつくった道具を介してヒトが見ているものとは、ヒトという生き物の視覚器官とその親分である脳という器官の都合に合わせた「代わりのもの=仮のもの」ではないでしょうか。そこまで話を大きくしないで、日常生活をおくるうえで誰もが体験していることを考えてみましょう。


     *


 あなたは、今、何かを見ていますか。視覚に重い障害がない人であれば、「ちゃんと、見ているよ」とお答えになると思います。では、次の会話を読んでみてください。


 あなたの目はよく見えるほうですか。「何でも見えるよ」。今は何を見ていますか。「パソコン(orケータイ)の画面」。画面には何が見えますか。「活字とか、アイコンとか、模様とか、いろいろ」。今見えているものに名前はついていますか。「ついているもののあれば、ついているみたいだけど、何て呼ぶのか分からないものもある」名前のついているものと名前のついていないものとの間で、見え具合に差がありますか。「変な質問だなあ。考えたことがないよ」


 ところで、あなたが見えているものは、たとえば、犬や猫や猿やフクロウやトンボやカニと同じように見えている、と思いますか。「知らない。確か、トンボの目は複眼とかいうんだっけ。それくらいしか知らない」。ヒトの目は、地球上のすべての動物のうちで、いちばん正確にものを視覚的にとらえているでしょうか。「よくは知らないけど、そうなんじゃないかな。ヒトはいちばん頭がいい動物だし」


 ふだんからよく目にしている、あなたの持ち物で、今身のまわりにないものを思い浮かべてください。「いつも左手首にある腕時計が、今はない」。それを正確に思い出すことができますか。「えーっと。たぶん」。絵に描くことができますか。「写真みたいには正確ではないと思うけど、描けるんじゃないかな」。試してみましょうか。「……。いいよ。やってみよう」


 描けましたね。あなたの腕時計とそっくりですか。「これほど難しいとは思わなかったけど、だいたい、こんなもんじゃない」。唐突な質問ですけど、あるものを、あなたと私が頬と頬をくっつけてほぼ同じ方向から、見ているとします。あなたの見ているものと、私の見ているものは、同じだと思いますか。「そりゃ、そうでしょう」。あなたの目に映っている像と、私の目に映っている像は、同じだと思いますか。「きっと同じでしょう。あっ、そうだ。視力が同じなら同じでしょう」。あなたと私は同じですか。「ねえ、冗談はやめてくれない? ひょっとして、からかっているんじゃないの?」


     *


 言葉というものは、ヒトを錯覚させます。「見る・見える」という言葉があり、その「見る・見える」をつかうことによって、ヒトは「見た・見えた」気持ちになってしまう。「見る・見える」と「見た・見えた気持ちになる」とでは、大違いです。これは、いわゆる五感とか知覚という言葉のキーワードである、「見る」「聞く」「嗅ぐ」「味をみる」「触れる」だけでなく、いわゆる思考や意識という言葉のキーワードである、「思う」「考える」「分かる」「理解する」「意識する」「感じる」についても、言えるような気がします。気がするだけですけど。たった今、つかった「気がする」も、思考や意識について語るさいに出てくる言葉ですね。


 気がする。気がするという気持ちになる。要するに、この駄文もきわめていかがわしく、うさん臭いものである、ということになります。「そんなの百も承知だ」という、みなさんの声が聞こえてくる気がします。気がするどころか、実際、そうにちがいありません。この駄文をつづっているアホ自身が、いかがわしいなあ、うさん臭いなあ、と思っているのですから。


 言葉はあなどれません。ヒトは言葉を「つかっている」気持ちになっているようですが、ヒトは言葉に「もてあそばれている」としか思えません。ヒトが言葉をつくったのか。それとも、わけの分からないうちに、ヒトに言葉が備わってしまったのか。それさえ、分からないのではないようです。個人のレベルでの言語の学習という過程においても、ヒトという生物のレベルの言語の獲得という話=神話においても、そのわけは分からない、つまり、わけが分からないみたいです。


     *


「見える」はあなどれません。ヒトは「見えている」気持ちになっているようですが、ヒトは「見える」に「もてあそばれている」としか思えません。ヒトが「ものがちゃんと見える」ように自分を訓練したのか、それとも、わけの分からないうちに、「ものがちゃんと見える」なってしまったのか。それさえ、分からないのではないでしょうか。個人のレベルでの視覚においても、ヒトという生物のレベルの視覚においても、そのわけは分からない、つまり、わけが分からないみたいです。


 愚見を述べますと、ヒトはまだら状でしか身のまわりを見ていないと思います。視覚に死角や盲点があるという程度の意味ではありません。ほかの生き物の視覚との比較について語る資格はありませんが、視覚について騙る資格ならありそうなので、騙らせてください。「騙る」を「語る」と考えてくださってもかまいません。同じことです。ヒトは見たいものしか見ない。見えるものしか見ていない。そもそも、ヒトの知覚が集中できる範囲は、ヒトが感じているほど広くはない。また、集中を持続できる時間も、ヒトが感じているほど長くはない。個人的な感覚からして、そんな感じがします。


 ヒトはつねに、何かを「捨てている=知覚できるのにしないでいる」。同時に、ほかの何かを「拾っている=知覚できるものの中から選んで知覚している」。「捨てている=知覚できるのにしないでいる」と「拾っている=知覚できるものの中から選んで知覚している」とでは、前者のほうが圧倒的に多い。なお、ヒトには、「拾うことも捨てることもできない=知覚しようとしてもできない」ものやことやさまがある。それは、おそらく、「捨てている=知覚できるのにしないでいる」と「拾っている=知覚できるものの中から選んで知覚している」と比べれば、はるかに多い。そんな気もします。


     *


 ヒトには見えていながら、見ていないものがある。知覚していながら、自覚していない、つまり、意識にのぼっていないものがある。こうした現象は、広義の「名づける」とからんでいるように思えます。


 広義の「名づける」とは、「なづける・名を付ける・てなずける・なつかせる・なつく・なれる・なれしたしむ・ならう・なれ・ならい・なじむ・なじませる・しずめる・おさめる・けりをつける」/「きめる・きまり・しきたり・おきて・くせ・すじ・たち・みち・みちすじ・すじあい・しくみ・しかけ・ほねぐみ・かた・かたち・かたらき・はたらく・うごき・うごく・ゆらぎ・ゆらぐ」と大和言葉系の語で、ずらすことができます。


 漢語系の言葉でもずらしてみましょう。「なづける・命名する・称する・分類する・種類・特徴・性向・性癖・傾向・志向・指向・習性・習慣・慣習・様式・形式・雛形・スタイル・ルール・規則・法則・法律・法・摂理・道理・条理・理・秩序・メカニズム・システム・体系・系統・系・経路・装置・機械・作動・自動・自働・自動操縦・オートメーション・稼動・秩序・運動・動作・共振・同調・共鳴・シンクロ・当然・必然・自然」


 上とは、少し違ったずらし方をしてみましょう。「名づける・てなずける・おさめる・けりをつける・みていなくてもかまわないものにする・かんがえなくてもいいものにする・てぬきができるものにする・かまわなくてもいいものにする」


 ヒトは、名づけることにより、手抜きをする方法を習得したのではないでしょうか。言い換えると、視野に入るすべてのものを注視しなくてもいい仕組みを手にしたということです。自分の周辺を、まだら状に見ていても大丈夫になったのです。別の比喩をもちいると、ヒトは意識の大部分を自動操縦に任せている、と言えそうです。見ていない=積極的に知覚していない=ぼーっとしている、とも言えそうです。もちろん、ヒトにそうした自覚はありません。おごりたかぶっているからです。この星のどんな生物よりも、総合点でだんとつに優れていると信じているからです。


 以上は、「ことわり・事割り・言割り・断り・理」をもちいたこじつけです。出まかせです。実際問題として、ヒトが、知覚しているすべてのものを、取捨選択することなく自覚=意識=認識したとすれば、発狂してしまうでしょう。脳に備わっている、テータの処理能力を超えてしまうからです。そうした事態を防ぐ仕組みが、備わっている。どのようにして備わったのかは謎。わけが分からない。そんな話ではないかと思われます。


【※ 「見る」および「知覚する」ことの、不安定さ=いかがわしさに興味をお持ちの方は、「まぼろし」、「あつさのせい?」、「げん・現 -1-」、「まことはまことか (前半)」、「まことはまことか (後半)」をぜひ、ご参照ください。どれも愛着のある記事たちなのです。】



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77



#エッセイ

#表現

#動詞

#名詞

 

このブログの人気の投稿

あう(1)

かわる(8)

かわる(3)