記述=奇術=既述
げんすけ
2020/08/01 08:58
*記述
という言葉が気になったので、
*広義の人工言語
について、この数日間、
*「お勉強」
をしていました。
何をしていたのかと申しますと、物理学、化学、生物学、数学、論理学、遺伝子工学、プログラム言語、機械語に関する本を図書館で借りてきて、拾い読みをしていました。
*拾い読み
は正しくない言い方かもしれません。実際にしていたのは、
*本の表紙を見て、本を開き目次を見て、ぱらぱらめくってみて、しんどそうだなあと思い、本を閉じる。
次に、
*本のなかに書いてあることを、でまかせで想像し、走り書きメモをつくる。
という作業です。1人分の図書カードで10冊借りることができるので、親のカードもつかって、計20冊の本を借りてきて、そんなことをしていました。
*
コドモの頃は、本をろくに読みもせず読書感想文を書いていました。学年あるいはクラス単位で、どこかへ見学に行ってレポートを書いて発表する場合にも、
*見たり聞いたことではなく、想像=空想=妄想したことを書く
という作業をしていました。そもそも、見学先で、説明を聞いたり、見ろと言われたものを見ていないのです。みんなから離れてどこかに隠れていて=さぼっていて、見学が終わるのを待っていたり、みんなと一緒にいても、自分の興味のあるものしか見ていない、という有り様でした。だから、先生が期待しているものは書けません。
でも、書かなければなりません。だから、でまかせに書きました。
*いわばウソを書く
わけですから、先生から注意されたり、書き直しを指示されたり、最低の評価をもらっていました。でも、
*自分が悪いことをしている
という意識はありませんでした。
*間違ったことをしている
とも思っていませんでした。
*人の話=説明を聞くのが苦手だった
のです。
*よくウソをつくコドモだった
が、正確な言い方かもしれません(※言うまでもなく、現在は、「よくウソをつくデタラメオヤジ(※いや、もうデタラメジイサンでしょう)だ」です)。今、思い返すと、授業中も注意が散漫でした。どうやら、コドモの頃から持続力と集中力に欠けているようです。そういえば、持久力も欠けていました。長距離走では、いつも「どべ」=最下位でした。
*
でも、中学、高校へと進むにつれ、
*教師が指示したことをし、教師が期待する内容の解答やレポートを書く
ようになりました。ものすごく苦しく、しんどかったです。
で、大学に入って、ようやく再度好きなことができるようになりました。在籍した文学部フランス文学科では、
*かなり厳密な方法と、かなりテキトーな方法
の両方が、実践されていました。厳密な方法とは、
1)日頃から文献を正確に読み、読んだものは記録としてデータを残しておく
2)研究発表の際には、1)で参照した文献について、データに基づき、注を付け出典を明記する
3)自分の研究領域の参考文献のデータ(=bibliography)を作成しておく
作業です。でも、これらは、卒論を書く時だけにやったくらいです。ふだんは、
*想像=妄想=捏造=ウソ=でまかせ=でたらめのやり放題
でした。フランス文学科の授業では、訳読が中心となります。学生は、テキストの
*逐語訳や、原文から逸脱しない解釈
を求められます。学部生だと、高度なことはやりませんから、テキトーに何とかやり過ごしていました。自分の場合、基本はでまかせでしたが、大学の教師も概してテキトーな人が多いですから、授業中に、こちらが相当でたらめな解釈や意見を口にしても、
*「なるほど」とか、「はい」とか、「ほーう」とか、
型どおりの曖昧な反応をするだけでした。
*「本当に、そう書かれていますか?」とか、「根拠は?」とか、「なぜ、そう言えるの?」とか、「もっと詳しく説明してください」とか、「それはあなたの意見ですか、それとも、何かに書かれていた見解ですか?」
なんて、言う人は少数でした。もちろん、明らかな誤訳は訂正されましたけど。
で、卒業後1年間ぶらぶらしたのちに、大学院に3カ月間だけ、在籍していました。今思うと、すごく興味津々だったし、高度な内容の授業を受けていたのですが、たった3カ月でやめたのですから、でまかせの発表をする機会もありませんでした。もったいないですね。
*
とにかく、
*読む
ということに関しては、他人がかかわった場合には、昔からそんな調子なのです。自分が好きで読んでいる本だと、さらに読み方が杜撰(ずさん)=大雑把になります。
*正確に=きちんと=厳密に読むより、想像=空想=妄想するほうが、ずっとおもしろい=気持ちがいい=楽だわ
からです。早い話が、根が無精で横着なんです。このブログの記事を何回かお読みになった方は、今、きっと大きく頷かれているでしょう。
常々、
*自分のあたま=脳は、池か沼だ
と思っています。
*池 or 沼の周りに茂っている草木の葉っぱや茎や根が、風に飛ばされたり、あるいは、朽ちて、水に流されて運ばれてくる。それが水面に浮かび、やがて底へと沈んでいく。水面にあるものには手を出さない。沈殿し、「腐敗しかけた=池 or 沼の生態系の一部になりかけた」ものを、使用し=引用し、想像=でまかせ=妄想しながら、ブリコラージュ=組み合わせ=作文する。
という感じです。
さらに言えば、
*オリジナリティはなし、というか、そんなものはウソ。作者もいない、というか、そんなものは言葉の綾、つまり、ウソ。組み立てた=つづったヒト(つまり、このアホ)ならいるみたい。でも、そのヒト(=アホ)の固有名詞なんてどうでもいい。人格や見解や視点や思想などは、幻想。つまり、ない。言葉を使用して、ある作業が行われ、作業の結果である言葉だけが残る。
というのが、自分にとって、
*書く
という作業の意味です。この意味においては、それ以上でも、それ以下でもありません。
*
話は変わりますが、
*翻訳
という作業でお金をいただいていたことがありますが、これは、苦しいです。上のブリコラージュ=作文のようにはまいりません。自分なりに、努力して、原文に忠実に沿って訳したつもりなのですが、
*意訳
なら、まだしも、いわゆる
*超訳
とか、
*○○節(※○○には自分の名字が入ります)
だと言われてしまうのです。こうなると、商品価値はゼロになります。そういう自分の癖は、よく分かっているつもりなので、かなり神経を使いました。具体的に言うと、いったん
*超訳した原稿を、直訳調に書き換える
という二重作業をしていました。お仕事ですから、致し方ありません。いつか、
*翻訳
という作業について、書いてみたいと思っています。
*
で、話をもどします。
図書館から借りてきた20冊の本を、ぱらぱらめくり、
*あたまのなかに残っている断片的な言葉
を頼りに、メモをつくっていました。このブログでは、自己輸血=自己引用をさかんにしていますが、自分の書いた、あるいは、自分で書き写したもの以外の文章やフレーズを、
*書き写す
という作業は好きではありません。上述の池 or 沼の比喩でいうと、「水面にあるものには手を出さない。沈殿して、「腐敗しかけた=池の生態系の一部になりかけた」ものをつかって」書きたいという気持ちが強いのです。この思いは、走り書きメモをつくる時も同じです。
*あたまのなかにないもの=思い出せないもの=自分のなかで「ごちゃごちゃぐちゃぐちゃ」になっていないものは、織りたくない=紡ぎたくない=つづりたくない=書きたくない
のです。繰り返しになりますが、
*オリジナリティや作者といった抽象的なこと=ウソ=神話=与太話
とは、関係ありません。むしろ、
*自分にとって、言葉とは、今、ここに書かれてある具体的な「文字=活字」であり、今、ここで想起される具体的な「音声」としての言葉であると同時に、おそらく死ぬ間際までついてくる、今あたまのなかに具体的にあると感じられる「ごちゃごちゃぐちゃぐちゃ」である。
と言ったほうがいいかと思います。言い換えると、
*たとえ、書かれた具体的な「文字=活字」、および、想起される具体的な「音声」としての言葉であったとしても、自分のなかで「ごちゃごちゃぐちゃぐちゃ」として存在していないものは、自分には関係がないものだ。
という意味です。伝わりにくい比喩ですよね。別の比喩をつかうと、こうなります。
*自分が空(そら)で言えない=暗唱していない科白(せりふ)は、人生という舞台で吐けない。
という感じでしょうか。お芝居に出た経験はないので、でまかせで言いますが、
*科白というのは、あたまのなかに書かれた文字を読むのではなく、自然に=何となく=まるで必然のように=その場面を待っていたように、出てくる
のではないでしょうか。
*「ごちゃごちゃぐちゃぐちゃ」というのは、それに似ている
のではないかと、想像して=思い込んでいます。
*
で、
*書く
という作業は、その「ごちゃごちゃぐちゃぐちゃ」から、掬い取るようにして、
*単語と語句をつなぎ、変奏=変装=変相=編曲してセンテンスにする
行為です。さきほどの、池 or 沼の比喩を再度つかうなら、
*「自分のあたま(=脳)という池 or 沼の底に沈殿している澱(おり)」=「ごちゃごちゃぐちゃぐちゃ」をかき混ぜて、笊(ざる)か篩(ふるい)で漉(こ)し、目に残った滓(かす)を指先でいじりながら、織物(おりもの)=文章を、塗りたくる=つづる
というイメージです。
*書く
行為=作業に関しては、その他のいろいろな比喩を用いて何とでも言えそうです。何しろ、もとが「ごちゃごちゃぐちゃぐちゃ」なんですから、当然でしょう。
*
で、話をもどしますが、ブログの記事用に走り書きメモをつくる際にも、今、書いているこの記事を作文するのと、基本的に同じことをしています。その結果、
*「ごちゃごちゃぐちゃぐちゃ」が「ごちゃごちゃぐちゃぐちゃ」のまま、記事になっているではないか。
と言われれば、返す言葉はありません。せいぜい、「ごもっともです」と言えるくらいでしょうか。
で、20冊の本を読んでいた、いや、「見ていた」ので、この数日間に、
*でまかせ走り書きメモ
が、たくさん溜まりました。ということは、自分なりに、「お勉強」をしたわけです。誰に頼まれたわけでもないのに、本を「見て」、メモをつくっていただけですが、さすが疲れました。
*自分の気になる=興味ある本
しか借りてこなかったので、嫌な作業をしていたわけではありません。それなりに、興味深かった=おもしろかった=刺激になったことは確かです。さもなきゃ、やりません。何しろ、このアホは、半端じゃなく根性がないのです。
で、今、思ったのですが、自分がこの記事で何度か書いてきた
*「お勉強」
と括弧でくくっている言葉の中身は、
*他人が書いた本の文章を「見て」、それをまとめる
という作業です。その中でいちばん大切な個所は、
*「他人が」
です。自分の思いでは、
*自と他というのは、連続している
のですが、
*他には、自の思いに賛成してくれない=自の思いどおりにならない、という特性が備わっている
のです。それは、おそらく当たり前のことなのでしょう。でも、ブログで自己輸血=自己引用ばかりしている、自家中毒症的(※比喩ですが、不快な気持になられた関係者の方に、お詫び申し上げます。ごめんなさい。)=引きこもり的状況にあるアホにとっては、
*「自の思いに賛成してくれない=自の思いどおりにならない」他者の言葉に触れる
ことが、貴重=希少な体験なのです。
とはいえ、「お勉強」と称して、やっていた作業とは、
*「見ただけ」で、読んでいないに等しい本について、でまかせでメモを書く
だけです。これは、
*他に触れたようで、実は自を地でいっているだけだ
と言えそうです。しょせん、
*ヒトは、他者とは出合えない
なんて一般論でズルをするのではなく、ここは潔く=厳密に
*アホは、他者とは出合えない
と言うべきでしょう。やっぱり、
*アホは、アホ
ですね。ちょっと、おまけに付け足して、
*アホの極致=きわみ
って、ところですか。
*
で、
*自分がやっぱりアホだという再認識
以外に、もう1つ収穫がありました。いろんな本を「見て」みて、
*ヒトの世界には、たくさんの記述の仕方がある
らしい、ということが、
*「何となく」分かった
感じがするのです。そういえば、もう1つ、おもしろい=くだらない収穫、いや、発見がありました。
*「記述」は、「奇術」であり「既述」である。
ということです。これを知って内心ほっとしました。以前から、そうじゃないかなあ、と薄々思って=想像して=妄想していたことだったからです。順を追って説明しますと、まず、
*「奇術」であるとは、手品とほぼ同義であり、種(たね)=仕掛け=からくり=ズルがある。
ということです。また、
*「既述」であるとは、文字通り、既に述べられていた=もう言葉で語られていた=とっくに言われていた o r書かれていた=「ひょっとしたら、そうじゃないかなあって思っていた通り」=「やっぱり」という状況をさす。
という意味です。これまで何度か、このブログで書いてきたことであり、いろんな人が、これとそっくりなことを書いたり言ったりするのを見聞きした覚えがあります。つまり、当たり前=常識=「common sense」=共通認識=共同幻想というやつです。
言うまでもなく、たった今述べたこと=記述したことも、まさに「既述」であり、
*すごく当たり前のことを確認しただけ
という理屈になってしまいます。くどいようですが、あえてまとめますと、
1)「記述=奇術=既述」自体が、言葉であり、「記述=奇術=既述」という行為には、言葉を用いる(※要するに、「記述」は「記述」である)。
2)「記述」で使用される言葉は、表象=「何かの代わりに「その何か以外のもの」を用いる」=フィクション=物語=ウソ=種がバレバレの手品である(※要するに、「記述」は「奇術」である)。
3)「記述」で使用される言葉は、ヒトが考えそうな、ほぼすべてのことを「経路」=「出来レース」として、既に語ってしまっている(要するに、「記述」は「既述」である)。
んです。だから、
*「記述」は、「奇術」であり「既述」である。
わけですが、これ以上、当たり前のことはないほど当たり前で、がっくりきてしまいました。以前から思っていたことが確認できたという安堵感が、一転して、「ガチョーン」=「夢もチボーもないよ」=「そりゃないぜ、セニョール」(※古いギャグばかりでごめんなさい)になってしまいました、ゲロゲロ。正直申しまして、
*もっと違った世界=未知の世界=「何だろう、これは?」=絶句=「…………」=「!?」=「魔法との出合い」を期待していた。
だけに、
*へこみました、
さすがに。
でも、
*既知に未知を期待していた、機知(きち)のかけらもない○チ○イ
である自分が甘かったのですから、自業自得=致し方ありません。文字にしろ、数字にしろ、記号にしろ、数字や記号の組み合わせである数式にしろ、化学式にしろ、コンピューター言語にしろ、そして、遺伝子の情報を記述するために用いられている「言語」にしろ、
*人工言語は、あくまでも or しょせん「言語」である。
そして、
*言語は、生得的に敷かれた「経路」=生得的に備わった既知である。
そして
*人工言語と自然言語の分類も、でたらめ=恣意的=人工的=人為的である
ことを忘れていたのですから、やっぱり、
*アホの極致=きわみ
です。これじゃ救いがありません。救いがないと、抑うつが悪化します。
*
で、自分はアホを自任し自称しているのですから、アホの極致=きわみは、
*「アホ道」を究めている
とも言えるわけで、
*自分への褒め言葉だ
と勝手に理解して、ただ今、抑うつ悪化に必死で対処しているところなのです。
きのうの午前、親の介護をいつも手伝ってくれている人に、親のことを頼んで、リュックサックを背負い、バスに乗って、図書館に本を返しに行ってきました。20冊は重いです。もう、とうぶん図書館へは行きたくありません。
*「記述」は、「奇術」であり「既述」である
ことを発見=再発見し、
*人工言語があくまでも、「言語」である
ことを思い出した。それだけのために、先週ときのうの2日、それぞれ往復分のバス代という痛い出費をしてしまいました。
親の年金で暮らしていますから、毎月使える金額が決まっています。臨時に出た分は、何かを削って補わなければなりません。いちばん簡単に削れるのは、食費です。自分の食べるおかずの分だけ、減らせばいいのです。
*
きのうの正午過ぎ、帰ってきて玄関に入ると、廊下の端っこで、ちょうどネコがご飯をもらっているところでした。とても、おいしそうでした。こっちは、もちろん、本を借りに行った日と同様に、昼食は抜きです。
ネコがご飯を食べているのを眺めながら、以前に一度だけ、ネコの残したキャットフードを少し食べた時のことを思い出しました。
きのうは、ぜんぶ、きれいに食べてくれました。それで、へこみが少し和らぎました。
ネコの皿 片付けながら 目に涙
お間抜けな話ですね。
*
で、今、気になってならないのは、
*「記述」は「既述」である
ということなのです。きのうも帰りのバスのなかで、お腹が空いたなあと思いながら、そんなことを考えていました。大した問題ではないみたいですけど、
*ヒトは、あらかじめ、自分の脳 or 意識に敷かれた=引かれた「経路」以外のものをなぞることはできない
と言い換えると、大きな問題である気もします。
*これからはバイオテクノロジーが、他の分野とからみ合い、ときには先導する形で、急速に重要性を増していく
といった意味のことが、きのう返してきた本のどれかに書いてありました。少なくとも、手元にあるメモには、そう書かれています。それはそれで結構な話なのですけど、バイオテクノロジーの分野でこれから何か分かったとしても、それは
*分かるべくして分かっている
ひっくり返せば
*分かることしか分からない
言い換えれば、
*そこにあるのに、ヒトには分からない=見えないことが常態化している
ということになりそうです。もったいないと言えば、もったいないし、仕方がないと言えば、仕方がない。そもそも、そのようなことは、将来のバイオテクノロジーの進歩の話以前に、
*もう既に今、起きている
みたいなんです。というか、
*これまでに、何度も繰り返されてきた
みたいなんです。ありゃあ! これって、まさに、「何となく」で書いた
*何となく、「何となくでない」をしている
じゃですかー。
自分の分のおかず代を犠牲にして、せっかく図書館へ行ったのに、話が前回の記事にもどっただけではないですか。
*
やっぱり、アホですね。
それにしても、この部屋、暑いです。PCが作動していると、その熱でよけい暑くなります。
「ごちゃごちゃぐちゃぐちゃ」した文章を、ここまで読んでくださった方に、お礼申し上げます。どうも、ありがとうございました。では、また。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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