日本語にないものは日本にない?(4)
星野廉
2020/09/23 08:10
この連載をお読みいただいている方には、「日本語にないものは日本にないか」という問いがきわめて抽象的であり、また「検証不可能」に近いものである戯言であるという「こと=イメージ」が体感されるようになってきたものと存じます。ただし、「検証不可能」というのは、この駄文を書いているアホの意見=戯言であり、「検証可能」と信じ、実際に「検証」なさっている、その道の専門家の方々がいらっしゃっても、一向に不思議ではありません。
たとえば、「人権」なり「権利」という言葉が、いつごろから「日本」において造語され、あるいは借用されたか、そして晴れて「日本語」と呼ぶにふさわしい条件を整えたか、といった「問い=戯言」に対し、「答え=戯言」を提出する。これは、学者と称されるヒトたちのお仕事でしょう。論文1本くらいは書けそうなテーマではないか、と素人ながら想像しております。
言葉と、それに対応すると「されている=そういう約束事になっている=そういうふうにヒトが勝手に決めた」「概念=観念=意味」と呼ばれているものを扱う「限り(=限界・行き止まり・土俵際)」、ヒトは抽象的であるという中傷を覚悟しなければなりません。それが、この駄文で「検証不可能」と呼んでいる事態です。「研究=論文」の「結論=結果」として、言葉で言葉を検証するというお遊びを「お遊び=戯事」と意識するか、それともほんまもんの「結論=結果=事実=真実」と錯覚するか、ここが分かれ目です。今こそ、わか~れめ~~~、いざ、さら~アバ。あばよ。バイバイ。東京ららバイ。そんな感じです。
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学問や研究とおさらばしたところで、今回は、その「日本語にないものは日本にないか」をまたまた少し「ずらして」、ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ、うろうろよたよたいたします。
*「言語にないものは世界(or 宇宙)にないか」・「言語に存在しないものは世界(or 宇宙)に存在しないか」・「言葉=語として存在しないものは世界(or 宇宙)に存在しないか」・「言葉=『語+フレーズ』として存在しないもの・こと・さま・ありようは世界(or 宇宙)に存在しないか」
以上のように「ずらして」みましたが、ややこしいですね。もっと単純化=抽象化=戯言化できないものでしょうか。
*「言葉とその対応物は一致するか」・「言葉はものか」
これくらい短くすると、当然のことながら、単純化した分だけ、いろいろなものを「捨ててしまった=切り落としてしまった=無視している=考えないことにしている」という事態に成り果ててしまいます。これは当然のことです。
たとえば、上のフレーズにある「対応物」の「物」や、「ものか」の「もの」と言い切ってしまった「もの」の中には、「もの・こと・さま・ありよう・物・者・モノ・事・言・コト・状態・状況・現象・様態・概念・観念・イメージ・想像・空想・幻想・幻覚・ノイズ」といった「ものたち」が含まれていることを承知のうえで、お話=戯言=戯事を進めなければなりません。
こうなると、ややこしいことに変わりはありません。
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となると、やっぱり出まかせ主義でテキトーにやっていかざるを得ない、ということになります。そうですよね。上で述べた、あんなにややこしいことをする「気力=キ力」も「能力=脳力」も、このアホにはありっこないです。
話をいわゆる「具体的」にしてみましょう。なぜ、「いわゆる」であり、括弧つきの「具体的」なのかは、実際にはそんなことはあり得ず、戯言だという目印だとお考えください。これからお話しすることは、本当はぜんぜん「具体的」なんかじゃありませんよ、という目印です。落語か漫談、それも素人が忘年会などでやるへたくそな余興だと思ってください。でも、アホがそれなりに本気でやっているのだということだけでも、心の隅に置いてやっていただければ幸いです。
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セクハラという言葉がありますね。セクシャルハラスメント=sexual harassment というちゃんとした英語があるところからすると、和製英語なんかじゃなくて、ある程度欧米で認知された「概念」でもあるようです。実際、日本でセクハラという言葉が使われ始めた以前から、英語の文章で目にしていた覚えがあります。「性的いやがらせ」などと訳す場合もあるようですが、そんな生やさしい語感のものじゃありません。すごく嫌な、それこそ女性であれ、男性であれ、心の傷になるような暴力の一種と見なしていいものと思っています。
暴力と言えば、DV=ドメスティックバイオレンス= domestic violence =家庭内暴力という言葉を思い出しました。ドクハラ、パワハラなどいった言葉も、あたまに浮かびました。暴力や強制や押し付けのたぐいは、大嫌いです。特に、それが当たり前のように思っているヒトたちからの暴力は、迫力があります。なにしろ、自分のやっていることが相手を傷つけているという意識がきわめて希薄ですから、めちゃくちゃすごいです。場合によっては、相手は重傷を負うか、死亡します。
上記の言葉に共通するのは、その言葉がこの国で認知されるようになるにしたがい、この国のヒトたちを動かすようになった。言い換えると、この国の「社会」が変化してきたということです。その意味では、歓迎すべき状況であり、言葉には力があるというフレーズをポジティブに受け入れたい気持ちにさせる現象でもあります。
一方で、反動もあります。おそらく明治維新前には、この国にはなかったと考えられる「人権」という言葉ですが、この言葉を目の敵にしているヒトたちがたくさんいます。何とか「人権」という言葉を「去勢=無力化=形骸化」しようと画策する暴徒や、打破しようとする過激派もいます。個人的にも、会ったことがあります。実に不愉快な思いをしました。
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セクハラで、考えてみましょう。
「日本語にないものは日本にないか?」
例の問いを、文字通りの意味で蒸し返しましょう。セクハラという「言葉」ですが、そうですねえ、30年前に日本にありましたか。なかったような気がします。で、セクハラって「行為」ですが、30年前に日本にありましたか。あったと確信できます。30年どころか、それよりずっと前からあったと確信しています。
ドクハラ、パワハラ、DVも、同様にずっと前から、日本にあったと信じています。でも、それらの言葉は、日本語にはありませんでした。それらの言葉がこの国で使われ始め、広く認知されるになるにつれて、この国のヒトたちの意識と行動は変化していきました。その変化は発展の途上にあるとも言えます。
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話を変えます。
たとえば、ゲイ、ホモ、ホモセクシュアル、ホモセクシャル、レズビアン、おかま、同性愛、へんたい、変態、変態性欲(者)、男色(家)――。これらの言葉の意味合いや語義や使われ方は、互いに重なる部分もあり、重ならない部分もありそうです。いずれにせよ、これらの言葉に対応する生き方、生きざま、ヒト、意識、概念、観念、イメージが、この時点の日本にあるかどうか、お考えになってください。念のために申し添えますが、この問いに答えを出すことが目的ではありません。考えるという行為とプロセスこそが目的であり大切なのです。
上の問いをめぐって考えるとき、「日本」とか「日本語」という言葉の「抽象度」の高さを、感じます。「抽象度」については、前回の記事で触れました。
>以上のような状況のもとで、「日本語」という言葉に「対応するもの」が「在った or 無かった」と言えるのでしょうか。言いにくいのではないでしょうか。その「対応するもの」が「在った or 無かった」と言いにくい状況を、「抽象度が高い」というふうに言ってみます。そもそも「日本」という言葉も、そうした状況下ではきわめて「抽象度が高い」と言わざるを得ません。
以上は、前回の記事から、必要な部分だけを引用したものです。
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言葉は、その言葉を使う最大限の共同体(※たとえば国家です)に属するヒトたちが、漠然といだいているイメージや意味や使い方だけで定義される性格のものではありません。つまり、辞書に載っている説明や用法で事足りるものではないという意味です。
言葉は、個人のレベルや、ある集団や、ある地域や、ある関係性で結ばれているヒトたちの間で、異なったイメージや意味や使い方を帯びている。そんなふうに考えられます。話をできるだけ、やさしくするやめに、比喩を用いてみます。
言葉を「レッテル=ラベル=名札」だと考えてみましょう。あるヒトが、「ニート」という「レッテル=ラベル=名札」を他人から貼られても別に大した思いをいだかないのに対し、別のヒトはとても嫌な感じをいだくということは、大いにあり得ると思われます。その「ニート」の代わりに、いろいろな言葉を入れてみてください。感情移入しやすい、よく見聞きする言葉がいいでしょう。みなさん、試してみてください。
どうですか。次に、その言葉、つまり「レッテル=ラベル=名札」を貼られてもおかしくないとあなたが感じるヒトを思い浮かべ、そのヒトに対し、「あなたはいわゆる○○だよね」と言ったとします。その言われたヒトはどう感じるでしょうか。
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今、ここで問題にしているのは、「思いやり」および「思いやる」という言葉とイメージと行為なのです。抽象度の高い言葉に対し、このブログでは、前々回と前回に悪態をつきまくりました。今回は、「レッテル=ラベル=名札」というふうに、言葉というものをちょっとずらし、それを貼られたヒトがどういう感情をいだくか、どう考えるかということに「思いをはせる」という視点で話を展開しています。
「思いやる」「思いをはせる」ためには、想像力が必要です。「想像力」という言葉は、多種多様な意味とイメージを持ち、さまざまな使われ方をされていますが、ここでは、「他者の気持ちをおしはかる」くらいの意味に絞って考えてみましょう。
「他者」という言葉を見聞きすると、ヒトだけという感じがするだろうと思いますが、広い意味で取ってください。「ヒト・ヒト以外の生き物・もの」は、もちろん「こと・さま・ありさま・状況・事態・現象」まで広げて受け止めてほしいのです。
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前回、「パラレル」という言葉を持ち出しました。このところ、この言葉が気に入り、同時に気になって、いろいろ考えています。個人的には、価値や量や質に関係なく、「ただ並んでいる」というイメージをいだいています。並んでいるものに、序列はありません。強弱もありません。「ただたまたま並んでいる」だけです。つながっている、ということもありません。たとえ「つながり」があったとしても、問題にしていません。
触れ合ってもいません。からみ合ってもいません。「触れ合い」や「からみ合い」があったとしても、「つながり」と同様に、ヒトがそう「決めている=思い込んでいる=そういうことにしている」だけのことで、「パラレル」というのは、「ただ並んでいるだけ」なのです。強いて言えば「並んでいる位置関係」のみが問題になっているという感じでしょうか。
あらゆる「言葉=語」はパラレルな状態にある、とイメージしています。その「パラレルな状態」を「パラレルではない状態」にするのが、ヒトの「想像力=創造力=能力=脳力」です。「想像力=創造力=能力=脳力」を「ずらす」と、「思い込み=錯覚=幻想=空想=夢想=判断=見分け=身分け=理解=誤解=納得=さとり=認識=知覚」となります。
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その「想像力=思いやる力」を「他者」つまり、身内・仲間とよそのヒトを含むほかのヒトたちだけではなく、ほかの生き物たち、非生物とされる物たち、ひいてはこの星=惑星の「思い・こころ・たましい・気持ち」にまで差し伸べてみる。考えてみる。思い描いてみる。
別に難しいことではありませんよね。今、挙げたような「ものたち」がヒトのように、つまり「人格=キャラクターを備えたもの」として動き、場合によっては言葉を発するマンガ、アニメ、物語には事欠きません。というか、ヒトはそういう「キャラクター=もの」たちに取り囲まれて生きているではありませんか。
いわゆる子どもも大人も、その中間にあるヒトたちも、とりつかれたように、そうした「キャラクター=もの」に感情移入しています。ペットだってそうですよ。ケータイのストラップについている小型のフィギュアだってそうですよ。テレビ自体がそうです。そして、テレビの画面に映し出される映像は、「キャラクター=もの」に満ちています。
極端な例を挙げれば、あなたが「思い浮かべる=思い描く」ありとあらゆるイメージ、もっと分かりやすく言えば、あなたが眠っているときに見る夢に出てくるさまざまなイメージ、それらは全部「キャラクター=もの」だと言えます。
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ヒトは「パラレルなもの」を「キャラクター=パラレルでないもの」に転換するという能力=習性を備えています。さきほど「アニメ」という言葉を出しました。アニメーションとは、静止した「画像=絵」を1秒に○○コマという具合に連続させて「写す=移す=映す」ことによって、「動いている」と認識=錯覚する仕組みですね。
英語の animation という名詞を、『ジーニアス英和大辞典』で調べてみると、animate という動詞がもとになっていることが分かり、その動詞の語源は「息を吹き込まれた」だと書いてあります。ちなみに、この言葉のきょうだいとして「animal =動物」があり、animalとは、「(呼吸している、生きている)→「生きている物」」という説明が載っています。『広辞苑』を読むと書いてありますが、日本語の「生きる」は「息」と語源が同じで、「いきる・息る・生きる・活きる」というつながりがあることが分かります。
今のお話、こじつけに思えましたか。確かに、こじつけですよね。本来「パラレルな状態」の「もの」を「パラレルではない状態」の「もの」にするというヒトの行為ですが、これはこじつけ以外の何ものでもありません。ヒトって、かなり強引というか、めちゃくちゃなこじつけをする生き物なのです。そのこじつけの集大成を「文化・知・情報・学問・文明」などと、ヒトは呼んでいます。
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それにしても、アニメのもとのイメージが「息を吹き込まれた」というお話には、癒やされるというか、すさんだこころをやさしくしてくれる力を感じます。大切にしている道具とか、人形とか、車とか、写真とかに、声をかけたり、話しかけるということがありますね。あれって「息を吹きかけている」のです。山や海に向かって叫ぶ。道端や川辺で見つけた石ころや、海辺で見つけた貝殻を見たり、手にとって何かをつぶやいたり、ひとりごとを言ったり、ささやいたりする。
生きていないはずのもの、言葉が通じないはずのものに、言葉をかける。息を吹きかける。それが「他者」を「思いやる」ことだと思います。
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今、パラレルに裏仕事として、過去に「潰した=削除した=あやめた」ブログ記事を、「うつせみのくら」というサイトに収めて再ブログ化する作業をしています(※現在は「うつせみのくら」は削除してありません)。あれも、一種の罪滅ぼしというかたちでの「思いやり」と言えるかもしれません。作業をしながら強く感じるのは、自分がずっと言葉にこだわり続けているということです。過去1年間を振り返ってみると、毎日毎日、言葉のことばかり考えているのです。
それまではあまり意識していませんでしたが、2008年12月19日に初めてブログというものを書き始めてから、自分が言葉にこだわっているアホ=ビョーキだということがよく分かりました。
で、きょうもこんなことを書きました。相変わらず、あっちへ行ったりこっちへ行ったりのとりとめのない文章になってしまいました。でまかせしゅぎ=出まかせビョーも、直り=治りそうもありません。うつと同様に気長に付き合っていこうと思います。
ここまで読んでいただいた方に感謝いたします。
うつせみの からに息かけ 耳すます
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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