日本語にないものは日本にない?(3)

星野廉

2020/09/22 15:45


 当ブログの左にある「メッセージを送る」機能を通じて、ある方から今朝お便りをいただきました(※かつてのブログサイトの話です。文章の勢いを生かすために加筆は最小限にとどめています)。正確に申しますと「苦情」でした。前回の「日本語にないものは日本にない?(2)」を読んだが、何を言いたいのか分からない。要約いたしますと、そうした内容のクレームでした。この場を借りて、お詫び申し上げます。ごめんなさい。


 少しだけ、言い訳をさせてください。分からなくて当然なのです。「何だって? このバカタレ!」と再度お叱りをいただくのを覚悟で申し上げております。あの記事に書いてあることは、分からなくて当然なのです。3つの意味で、「分からなくて」当然なのです。説明いたします。


 1)突き詰めれば言葉は欠陥品であり、言葉を使う「限り(=限界=枠=檻(おり)=牢獄)」、ヒトは「分からない・理解できない・見えない・触れない・聞こえない・味が分からない・嗅ぎ分けられない・手に入れられない・身に付かない」。なぜなら、言葉は「対応物」を「欠いた」「代理」でしか「ない」からである。


 2)前回の記事においては、「言葉=語」がいかに「言葉=語、および言葉=言語、および言葉=言語活動というもの」を「表現する=演じる=装う=再現する=あわわす=あらわにする」ことが「できない=不可能である」かを、記事につづった言葉=語自体に「演じてもらっている」。(ちなみに、「言葉=語」がいかに「もの・こと・さま・ありさま・状態・状況・現象」、および「概念・観念・イメージ・空想・想像・空想・幻想・幻覚・夢想」を「表現する=演じる=装う=再現する=あわわす=あらわにする」ことが「できない=不可能である」かについても、事態は同様だと考えられる。)


 3)このブログの記事は、言葉遣いのうえでも、論の進め方や話の展開の仕方に関しても駄文(=下手な文章=悪文)である。


 ややこしくて恐縮ですが、正確に書こうとするなら、以上の3つの意味で、「ヒトは、言葉を使って何かが分かる」というのは「嘘=作り話」であり、実際には、「ヒトは、言葉を使って何かが分かるのだと『決めている=思い込んでいる=ヒトびとの間でそういう暗黙の了解が成立している』」のだと、前回の記事では言いたかったのです。


     *


「分からなくて当然だ」ということを「分かって」いただけたでしょうか。お断りしておきますが、ふざけてなんかいません。おちょくってなんかいません。本気です。正気だとは言う勇気も根拠もございませんが、本気です。


「分からなくて当然だ」ということを「分かる」というと、何やら矛盾しているような、道理にかなっていないような、筋が通っていないような、論理的でないような気がするかもしれません。でも、それは言葉の綾です。言葉にもてあそばれているだけです。気にしないのが賢明な選択だと思います。


 ヒトは論理的でなければならないとか、筋道立てて物事を論じなければならない義理なんかありません。そんな戯言を「実践している」ヒトなどいません。戯言を「信じて」いたり、「言って」いたり、「書いて」いるヒトなら、たくさんいますけど。


 難しくお考えにならないでください。めちゃくちゃ、単純に申しますと、前回の記事は「ああ、わけがわかんない」、「これを書いたやつは、とちくるっている」、「ビョーキと、ちゃうか」と、思っていただくために、「わざと」「本気で」書いたものです。


 ですので、「日本語にないものは日本にない?(2)」を読んだが、何を言いたいのか分からない」というご感想=お叱りのメッセージをくださった方は、この駄文を書いているアホの言いたかったこと、書きたかったことを「体感して」くださったのです。どうもありがとうございました。思いが通じたことを、うれしく思っております。できれば、これからも、このブログにお立ち寄りくだされば幸いです。再度お断りします。皮肉では断じてありませんので、誤解なさらないようにお願い申し上げます。


 メッセージにはメールアドレスが添えてありませんでしたので、この場を借りて、お礼を申し上げた次第です。


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 もうひとつ、みなさまにお詫び申し上げたいことがあります。以前に、やはりメッセージを通してご指摘とお叱りをいただいたことなのですが、記事の内容=文面=文言が投稿後に変わる、という点について、弁解をさせてください。


 自分は記事を投稿したあとに、パソコンのディスプレーで文章を読み直しながら推敲するという、悪い癖があります。いちおう、下書きを作ってブログの投稿欄に記事を流し込むのですが、ディスプレーで読んでみるのと、下書きの段階でワード文書として読むのとでは、「えーっ!?」というほど、印象が違って見えるのです。


 で、慌てて文章をいじくりまわすことがよくあります。きのうの記事もそうでした。誠に申し訳ございません。ひょっとすると、きのうの投稿時刻の直後に記事をお読みくださり、本日、きのうの記事を再びご覧になって、「何だ、変更されているじゃないか」とご立腹なさっている方もいらっしゃるのではないかと思います。ごめんなさい。


 特に、きのうは夕食後にPCの電源を落とそうとし、読まなければいいのに、ついつい1時間半ほど前に投稿した記事に目を通してしまい、「あれーっ!? こんなことを書いている!!」と叫び、少々手直しをしました。申し訳ございません。自らの過ちをビョーキのせいにするなどという行為は、卑劣きわまりないと承知のうえで、言い訳をさせていただきますと、うつというのは気分障害とも言うそうで、自分で自分のそのときの気分がコントロールできないところがあるというのが実感です。


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 たとえば、朝に目覚めたときなど、「きょうの『気分様』のご機嫌はどうかな」という感じで、恐る恐る自分の気分の状態をうかがうのです。そういう「ご機嫌うかがい」を日に何度か繰り返します。自分の場合には、「ブログ廃人」なんて、Hさん(※初めのブログ以来、記事を読んでくださっていて、メールをやりとりする仲になっている方です)から呼ばれているほどブログにのめり込んでいるので、薬でぼーっとしたあたまでブログ記事を書きたくありません。


 そのため、悪いことは知りながら、処方されている薬を定期的にではなく、頓服に飲んでいます。つまり、記事を書く前には飲まないようにしています。だいたい寝る前に飲みます。話が逸れてしまったようにお思いでしょうが、何を言いたいのかと申しますと、そのときの気分によって、「書くこと」や「書き方」ががらりと変わる可能性が高いということなのです。さらに言うなら、そうした性癖を、自分でコントロールするのがとても難しいのです。


「気分」障害だけならまだしも、「思い」障害という「重い」障害に陥っているような気がするのです。実に付き合いにくい「自分」をかかえて生きている。そんな感じなのですが、少しはイメージしていただけるでしょうか? 大げさに言えば、自分が他人のように感じられるのです。このように言葉にすると、自己暗示にかかる恐れがあるので、これ以上、この点について書くのはやめておきます。


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 さて、前回は「社会」や「美」や「権利」というような抽象語についての悪態をつきました。抽象語においては、ある「言葉=語」とそれと「対応する」とされている「もの・こと・さま・イメージ」との「関係性」がきわめてテキトーで、「ほぼ嘘、ときどき嘘、ところにより真っ赤な嘘」という感じだという意味です。


 どんな具合に「嘘」なのかは、その道の研究者が文献を漁ったり、現在でしたら、膨大な言語のデータを検索して、その「対応のでたらめぶり」をある程度の精度で検証できるだろうと考えられます。したがって、素人の駄文では、具体的な「議論=お話=ガセ」は扱えません。


 大雑把で杜撰(ずさん)で出まかせ主義的な「お話=与太話=ガセ」なら、何とか扱えそうです。でも、自分は抽象語は苦手なので、前回のように、お茶を濁すような結果となりました。


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 今回は、具体語・具象語を罵倒しようと思います。具体語・具象語は、ある「言葉=語」とそれと「対応する」とされている「もの・こと・さま・イメージ」との「関係性」が、ややテキトーで、「ほぼ嘘、ときどき嘘、ところにより真っ赤な嘘」という感じです。抽象語について、上で書いたフレーズと見比べてみましょう。


>ある「言葉=語」とそれと「対応する」とされている「もの・こと・さま・イメージ」との「関係性」がきわめてテキトーで、「ほぼ嘘、ときどき嘘、ところにより真っ赤な嘘」という感じ


 違いは、「ややテキトー」と「きわめてテキトー」だけです。そうです。両者に大きな相違点はありません。抽象語であろうと具体語・具象語であろうと、ヒトが言葉という代理を使っている、という点を考慮すれば、大差はないのです。せいぜい、具体語・具象語に対応するとされている(=決められている=そういうふうにヒトびとの間でコンセンサスが成立している)「もの・こと・さま・イメージ」を五感で体感できるかどうかが、「差・差異・際・さい・きわ・隔たり・あいだ・あわい・ずれ」だと言えます。


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「五感・感覚(かんかく)」というのは、「間隔(かんかく)」を必然的に伴います。つまり、「知覚器官」を通してデータ化された情報がシナプスとかいう糸を通って、脳に伝わり、そこで情報が処理されて、ようやく意識されるという「間隔・へだたり・隔靴掻痒(かつかそうよう)・もどかしさ」の結果にほかなりません。「知覚(ちかく)」というのは、「遠く」にあるものを「近く(ちかく)」にあると「錯覚する=自分に言い聞かせる=無意識にあるいは意識的に思い込む」ことです。


 その意味では、同じ言葉=語である抽象語と具体語・具象語は、きわめて「近い」と言えます。でも、それではお話としておもしろくないので、ちょっとズルをして、ズレを持ち込みます。「度合い=程度=グラデーション=濃淡=階調」というイメージを利用するのです。さきほど書いたフレーズの一部を引用します。


>具体語・具象語に対応するとされている(=決められている=そういうふうにヒトびとの間でコンセンサスが成立している)「もの・こと・さま・イメージ」を五感で体感できるかどうかが「差・差異・際・さい・きわ・隔たり・あいだ・あわい・ずれ」だ


 上記のフレーズのうちの「差・差異・際・さい・きわ・隔たり・あいだ・あわい・ずれ」という考え方=お話は、便利で使い勝手のいい「道具」になり得ます。これを使わない手はありません。「差・差異・際・さい・きわ・隔たり・あいだ・あわい・ずれ」を「度合い=程度=グラデーション=濃淡=階調」と少しだけ「ずらす」のです。そうすると、「順番・順序・序列・数字化・数値化・見える化」みたいな「トリック=だまし=かたり=騙り=語り」が可能になります。


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 具体的な話に移りましょう。「日本語にないものは日本にないか」という、このシリーズでの比喩的なフレーズを思い出してください。文字通りに取りましょう。日本になくて、昔の日本語にもなかったと考えられるものはありませんか。たとえば、オーロラ、氷河、砂漠、ラクダ、ピラニア、熱帯雨林なんて、あたまに浮かびましたが、21世紀に入り約10年経った現在では、これらが日本にかつてなかった、あるいは今もない、と言ってもぴんと来ませんよね。


 テレビで何度も見たり、あるいは動物園や水族館で見たり、場合によっては触ったものもあるでしょう。砂丘や樹林なんていう「似たもの」もあります。ここで想像力を働かせましょう。


 昔々、日本列島でさまざまな方言の日本語が話されていました。ヒトびとは、定住するのが一般的で、移動するヒトたちはごく一部だったと思われます。ある山奥の集落で生まれ生き亡くなったヒトたち、海辺の集落で生活し、魚介類を採取しながらその周辺で一生を過ごしたヒトたち。やがて、歩く、あるいは、牛や馬や船に乗るというかたちで、遠距離を移動する機会を経験するヒトが増えていった。


 とはいえ、基本的に同じところにずっと住んでいるヒトたちが、圧倒的に多かったのではないでしょうか。また、「日本語」という言葉はきわめて抽象度の高い(※ここで「度合い=程度=グラデーション=濃淡=階調」というトリックを使ったことに注目してください)語です。昔々、この列島の各地に散在していたヒトたちは、どのような言葉=言語を使っていたのでしょう。統一された言語=標準語はなかっただろうと想像されます。また、読み書きができるヒトたちは、ごく少数であったと考えられます。


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 以上のような状況のもとで、「日本語」という言葉に「対応するもの」が「在った or 無かった」と言えるのでしょうか。言いにくいのではないでしょうか。その「対応するもの」が「在った or 無かった」と言いにくい状況を、「抽象度が高い」というふうに言ってみます。そもそも「日本」という言葉も、そうした状況下ではきわめて「抽象度が高い」と言わざるを得ません。


 ここで、さきほどのオーロラ、氷河、砂漠、ラクダ、ピラニア、熱帯雨林という言葉を再び並べてみます。どうでしょうか。とりあえず「日本」と呼ばれる島々に、今並べた「もの」が「在る or 在ったor 無い or 無かった」と言えるでしょうか。さらに、まったく同じではないものの、オーロラ、氷河、砂漠、ラクダ、ピラニア、熱帯雨林とほぼ同義の「言葉」が「在る or 在った or 無い or 無かった」と言えるでしょうか。


 こうやって考えるというか、想像するというか、妄想するというか、とにかくあたまの中でごちゃごちゃぐちゃぐちゃをしてみると、「日本語にないものは日本にないか」という問いに対し、「ないよ」と言いたくなります。ついでに、「日本にないものも、日本語にはないよ」と付け加えて言いたくなります。


「日本語にないものは日本にないか」という問いを成立させている前提が、めちゃくちゃ「抽象度の高い=粗雑な=ずさんな=大雑把な」ほぼ、いや、かなりの嘘と言えそうな気するからです。どこか大雑把なの? どうして嘘なの? そんなふうに疑問に思われる方もいらっしゃるにちがいありません。


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 どこが大雑把なのか、どうして嘘なのかと申しますと、「在る」「無い」の部分ではなく、「日本語」と「日本」という部分なのです。現在を基準にして考えると、あまりそんな感じはしません。日本語の研究が進み、国語辞典が多数販売され流通し、日本語というものはかなり具体的なものであるように思えます。また、日本国の領土と領海およびその境目が隣国との間でほぼ(※あくまでも「ほぼ」です)決められていて、辞書や事典で「日本」を引けば、その面積や人口が数値として記載されています。


 でも、それはデータ=情報(数字・言葉・記号・図・映像など)です。ヒトはデータとしてしか、日本語と日本を知覚する=体感することができません。その意味で、抽象度が高いと申し上げているのです。もちろん、これはあらゆる国について言えることであり、あらゆる国家の下部単位(地方、地域、県、州、市町村、集落など)についても状況は同様です。


 屁理屈をこねるのは、この辺でやめておきます(※なお、屁理屈については前回の記事で、しつこくからみましたので、ご興味のある方は、ご参照ください)。ちなみに、屁理屈をこねるのは、いわばあたまの体操です。そのプロセスが大切なのです。結果や結論なんか出ても出なくでもかまいません。「こねる」という動作を体感することが目的なのです。


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 発想の転換をしましょう。日本と日本語からほかの地域と言語に目を向けましょう。たとえば、赤道直下にある地域では、雪や四季に当たる言葉=語があるでしょうか。もっと正確に言うと、その地域で昔から使われてきた言語についてのお話です。他国、特に欧米や戦前の日本の植民地となったという事情で用いられていた、あるいは今も用いられている、あるいは今も部分的に用いられている言語は除外します。


 もしも、その地域に雪が降らず、季節の移り変わりがなければ、たぶん、雪と四季に当たる現地の語は「無い」、あるいは「無かった」と考えられます。現在では、借用語や造語というかたちで「在る」だろうと想像されます。そうした地域でも、書籍(※絵本や写真集を含みます)や写真や新聞や映画やラジオやテレビやインターネットを利用しているヒトたちは、たくさんいるにちがいありません。


 実際に、雪を見たり触ったりしたことのないヒトたちが、テレビの画像を見ながら雪を話題にすることは大いにあり得るでしょう。きわめて単純なお話になってしまいました。なにしろ、さきほどの屁理屈でさんざん罵倒した「在る or 在った or 無い or 無かった」を堂々と使った抽象的な議論をしているのです。きわめて人間的=ヒト的な行為です。


     *


 単純さや抽象は愚鈍さときわめて近いです。思考停止とも近いです。「分かった」「理解している」「知っている」つもりになっているという意味です。砂漠で暮らしたことのないヒトが、「砂漠、知ってるよ。サハラ砂漠なんて、テレビで何度か見たことある。ラクダがいるんだってね。オアシスがあるんだってね。そこに住んでいる人たちがいるんだよね。移動してるんだっけ。で、何か?」という調子です。


 こういうのを「分かった」「理解している」「知っている」とふつう言っています。それはそれで、けっこうなことです。そう言っている、あるいは思っているヒトを誰も責めることはできません。この駄文を書いているアホも、そんな感じで毎日をのほほんと暮らしています。


 でも、このアホ、ときどき屁理屈をこねるんです。いわゆる偏屈者、変人、奇人、はみ出し者ってやつです。馬鹿に馬鹿と言われると腹が立つと言うヒトがいるくらいですから、アホにアホと言われれば、やっぱりむかっとくるヒトがいると思われます。馬鹿とアホと、さきほど書いた「愚鈍」というのは、「うどん」と「胡乱(うろん)」と「ウーロン茶」くらい似ています。


 なぜなら、全部「言葉=代理=そのもの自体じゃないもの」だからです。最近、パラレルという言葉が気に入っています。「パラレル」という記事から必要なところだけを、以下に自己輸血=自己引用してみます。


>生きていると、いろいろなものが「重なる」「並ぶ」「並んで進む」「ダブる」「ぶれる」「ぼける」わけですから、その意味では、生きていることは一種のパラレル状態と言えそうです。言葉は何とでも言えます。そのでたらめぶりには圧倒されます。だから、言葉や語や語義やイメージは、全部パラレルな関係にあると思っています。話がややこしくなりますが、「価値」や「量」や「質」が「同じ」という意味ではありません。「同列に在る」という位置関係を問題にしています。


>パラレルに話を戻しますが、parallel という英単語を「ジーニアス大英和辞典」で引いてみると、語源に「(わきに)+(お互いの)=お互いのわきにいる」という意味の説明が載っています。とにかく、並んでいる、連なっている、列を成している、というイメージですね。その「並んでいるものたち」がどういう関係にあるかには、とても興味があります。


     *


 ヒトは、言葉=語をパラレルに受け止め、パラレルに用いることに慣れきっているのではないか。そんなふうに、このところ、よく考えています。どういう状態を指すのかと申しますと、言葉=語が対応すると考えられている=決められている=そういうふうにみんなが言っているものを、よく見ない、耳を澄まして聞こうとしない、舐めてもじっくり味わわない、においを嗅いみようとしない、あたまを含むからだ全体で「出合おう」としない。そんな感じです。


 言葉や画像や映像や音声として、「すれ違う」「かする」ことはあっても、「出合おう」「ぶつかろう」「ぶつかってこちらが揺らごう」としない。そんな感じです。


     *


 話を変えます。


1)海に近いところに住んでいない幼い子どもが、海に初めて「出合った」状況を想像してみてください。


2)コンクリートの道ばかりが周りにある比較的平坦な環境=平野で育っている幼い子どもが、中部地方あたりの山岳地帯に車で連れていってもらって、車外に降り立ったとします。できれば、最低3日間のキャンプをすると想定してみてください。


 1)と2)のケースでの幼い子どもにとって、「umi ・うみ・海」とか「yama ・やま・山」という言葉がどんな意味を持つというのでしょう。


 出合った「とほうもない何か」、いろんな「わけのわかんない」「もの・こと・さま」があり、それに触れたり、場合によっては触れて怪我をしたり、「わけのわかんない」音や「空気の流れや揺れ」を肌と鼓膜で感じたり、「これまで嗅いだことのない」いい「におい」がしたり、吐き気をもよおすような強烈な「におい」がしたり、「名前もしらないもの」が動いているのを目撃したり、「何か」が身に飛びついてきたり……。そんな体験のさなかに、言葉はあまりにも無力でしょう。


     *


 今述べたような体験が、「パラレルではない」状況です。「具体的な」ものとか、「具体的な」体験と言うこともできるでしょう。単純さや抽象や愚鈍さや思考停止とは、ほど遠い体験であり状況であるとも言えそうです。



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77



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