もどるにもどれない

星野廉

2020/09/18 09:48 フォローする

 みなさんが今お住みになっている場所から出て行けと命令されたり、お持ちになっているものを手放せと言われたら、嫌ですよね。このアホも、とっても嫌ですし、だいいち困ります。でも、そういう事態って、これまでも世界各地で数えきれないほど起きていたし、現在でも起こりつつあるようです。


「平和ボケ」という不愉快な言葉がありますが、百歩いや千歩譲って一理はあるかなと思います。確かに安全と平和が当たり前だという心持ちでいることは、危険です。毎日のテレビニュースや新聞記事を、よく見たり聞いたり読んでいれば、ヒトの世界がきわめて物騒であるのが分かります。


「当たり前」「当然」「ふつう」「そうであってしかるべき」といった言葉やイメージは、「惰性」「不注意」「だらしない」「能天気」「鈍感」「愚鈍」「思考停止」とかなり近いような気がします。


     *


 朝起きる。朝ご飯を食べる、あるいは食べない。学校や仕事に出かける、あるいは家事をする、あるいは家にいる。夕方や夜に住まいに帰る。夕飯を食べる、あるいは食べない。お風呂に入る、あるいは入らない。寝る。


 お金がある。そのお金で何かを買う。今、自分の着ている服を見る。少なくとも、それは自分のものだ。水道の蛇口をひねる。そのまま、その水を飲める場合もある。お湯の出る蛇口がある場合もある。110番に電話をすれば、おそらく10分以内で警察官がかけつけてくれる。銀行に行けば、自分の口座から残高内のお金を自由に引き出せる。テレビのスイッチを入れる。電源が入り、電波が届いて、番組を見ることができる。大きな道路に出れば、車は左側を通っている。もし、自分が死ねば、誰か、あるいは役所が埋葬の手続きをしてくれる。


 以上のことは、「当たり前」「当然」「ふつう」「そうであってしかるべき」ことだと考えられている。「映るかな?」「お願いだ、映ってくれ」とつぶやき、恐る恐るテレビのスイッチを入れるヒトは、この国にはまずいそうもない。


     *


 既得権、既得権益、権利、所有権、基本的人権、財産権、広義の権利、広義の義務、既存の制度、法、掟、伝統、従来からの風習・慣習・ならわし・ルール・政策・施策・約束事・利害関係・人間関係・枠組み・型・様式・方法・手続き・恩恵・特典、「これは私のもの」、「私にはこれをつかう権利がある」、「これは死んでも放さない」、「あれに触っちゃ駄目」、「絶対に嫌」、「駄目駄目」、「嫌だ嫌だ」、「そのように法で定められている」、「そういう掟がある」、「国家が保護してくれている」、「国家の保証(保障)がある」、「そのように社会で決められている」、「とにかくそうなっている」、「なぜかそうなっている」、「これでいいのだ」、「これしかない」、「これのどこが悪いんだ」、「ですけど、何か?」


 ヒトは、以上のような「もの・こと・状況」に取り囲まれて生きています。こうした「もの・こと・状況」をずらしてみましょう。言い換えてみましょう。置き換えてみましょう。かえてみましょう。


「もどれない」「もどらない」「かえせない」「かえらない」「かえれない」「かわれない」「かわらない」「はなせない」「はなさない」「しがみついている」「なしではいられない」


 そんな感じですが、どうして、こうなっちゃったんでしょう。わかりません。


     *


 ヒトは「もの・こと・状況」を名付ける。言葉というラベルを貼る。ワンちゃんやニャンコがあちこちでおしっこやうんちをするように、ヒトはいろんなものに唾をつけて、自分のものだという「しるし・記し・印し・標し・知るし・汁し」にする(※こうしたことについては、「な、いいだろう?」、「テラ取り物語(続・「な、いいだろう?」)」で、書きました。ご興味のある方だけ、よろしければ、お読みください)。もちろん、ほかにも同じようなことをするヒトたちがいる。すると、争いが起こる。それによって、強弱、上下、主従が決まる。そうやってヒトは暮らすわけ。クラス分け。


「上下」という言葉で思い出したことがあります。一昨日、昨日に、「かえるはかえる」、「かえるにかえる」という駄文で書いていたことの続きになりますが、「空間」と「時間」について、ずっと考えているのです。気になって仕方がないだけなのですけど。


     *


 その話をさせてください。


 昨日の記事では、「まえ・前」(空間)、「まえ・前・さき・先・未来」(時間)、「うしろ・後ろ」(空間)、「まえ・前・過去」(時間)みたいなことを、英語と対照しながら考えていて、わけが分からなくなりました。それだけならいいのですが、自分がわけが分からなくなったのを、ヒト一般の知覚能力や、言葉(「語・言語・言語活動)のせいにして、お茶を濁すなどという卑怯な行為に走ってしまいました。アホにもアホなりの仁義がありまして、記事を投稿してから、罪悪感を覚えて、うじうじめそめそしていた次第です。


 で、「まえ」「うしろ」「まえ」「うしろ」……などと、ひとり言を言いながら、狭い自室の中をうろうろしていると、ネコ(※うちにいる猫の名前です)がうざったく感じたのか、部屋から出て行きました。ネコにまで見放されてがっくりきて、ごろりと寝転び、軽いめまいを覚えたところ、現在、宇宙空間でお仕事をなさっている、宇宙飛行士の野口聡一さんのお顔と頭が頭に不意に浮かびまして、「あっ!」と叫んでしまったのです。


 めまいと同時に「無重力状態」「無重力空間」という言葉とイメージがどっと押し寄せてきました。「まえ・うしろ」だけじゃないじゃんか。


「まえ・うしろ・うえ・した・みぎ・ひだり・ななめ……」


 この星のある島のある地域のある家のある部屋で、いま、ここで、手持のものを大切にする。そうしたスタンスで考え、ぼけーっとし、言葉をつぶやき、その言葉をつづる。これが、このブログを書いているアホの「手仕事=ブリコラージュ=無賃の内職=暇つぶし=ひつまぶし=しこしこ=だらだら=ふらふら=「無為徒食」の無為=出まかせごっこ」ではなかったか。


     *


 そんなふうに思ったのです。で、これまでずっと不思議に思っていたことが思い出されて、頭の中がごちゃごちゃぐちゃぐちゃ状態になりました。


 そもそも位置って何? 視点・視座って何? 主語って何? 主体って何? ついでに、客体って何? 語・語句・文・文の連なり・文章・作品・文献における視点・主語ってあるの? 夢や夢想にも視点・主語ってあるの? 絵・写真・漫画・映像のコマ、そしてそのコマが連続した動画における視点ってどうなってるの? ヒトは時間を円環や線状に「たとえる=こじつける」なんてやってるけど、それって有効性はどれくらいあるの? 


 前後なんて、空間と時間のこじつけごっこやってるけど、どこまで正気なの? ついでに、上下左右斜めまで頭に浮かんだけど、それって重力があってこその言葉とイメージちゃうか? 宇宙空間では、位置とか視点とか主体って意味があるの? 宇宙船でいろいろやっているけど、しょせん、地上のイミテーションじゃないの? 宇宙ステーションでイミテーションってイミあるの? 「発想=枠組み」の転換が必要だなんて、やっぱし素人であり、しかもアホの浅知恵?


 ついでに、ヒトが生まれてから死ぬまでの「間・あわい・過程・プロセス」を、植物なんかの成長にこじつける、また、その逆方向でこじつけるなんてやっているみたいだけど、有意=意味あり? 生から死を流れにこじつけるのも、意味ありなの? それともヒトに通じるだけの仲間内ギャグ? 進化・発達・発展・退化・衰退・段階なんて言葉とイメージで、生物や無生物の移り変わりを語っているけど、騙っていることにならない? そもそも「移り変わり」って何? それって有り? それとも、ヒトの思い込み? 知覚・意識という枠組み内での話だけのこと? 


 以上挙げたのは、ごちゃごちゃぐちゃぐちゃ状態のほんの一部なのです。


     *


 話を戻します。というか、話を限定します。


 前後、上下、左右、空間と時間――これらの関係性に関して言えば、ヒトは「観測できない」のではないかという気がします。おそらく、知覚・意識・言葉・イメージの各レベルにおいて、相反する要素、あるいは「圧倒的な偶然性」に支配されている、でたらめきわまりない要素が「代理の仕組み」によって、さまざまな「そこそこ必然的に」見えなくもない「形態」に「化け」ているために、ヒトは混乱を来たしているのではないかと思われます。


 さらに言うなら、視点=視座=「観測者の位置および能力」が問題となっている場合には、本来相対的な現象であるものを、絶対化志向を属性とするヒトという生体が、知覚し、認識し、記憶し、想起し、意識するのは、ほぼ不可能だと言っていいのではないでしょうか。でも、圧倒的多数のヒトたちは「可能」だと思っているし、「現にできているじゃないか」と言います。「不自由さ」が「当たり前」になると「自由」になります。ただし、それはヒトという「枠内での「お話=フィクション」でしかありません。


 お断りしておきますが、今述べていることも、ヒトという、いや、ヒトの中でもアホという者の「枠内」での「お話=フィクション=たわごと=でまかせ=ガセ」であることは言うまでもありません。


 きわめて「いかがわしく頼りない観測者であるヒト」は、自分たちが捏造・創作した広義の「代理=表象」(※話し言葉、書き言葉、表情や仕草や身ぶり手ぶりを含む身体言語=ボディランゲージ、手話、指点字、点字、音声(発声)、音楽、合図、映像、図像、さまざまな標識や記号や信号など)という枠組みを、「それなりに使いこなしている」=「(見方によっては)使いそこねている」というのが、正確な言い方だという気がします。気がするだけで、実際のところはわかりません。このアホに分かるわけがありません。


     *


 ところで、上で述べましたように、四畳半の部屋で転倒してめまいを覚え、いきなり「無重力状態」「無重力空間」という言葉とイメージがどっと押し寄せてきて、しばし頭の中がごちゃごちゃぐちゃぐちゃ状態になったのは、過去1カ月ほど、過去に「つぶしちゃった=あやめちゃった=削除・閉鎖しちゃった」ブログとその記事たちを、「うつせみのうつお」という「倉庫=お墓」から1日に約10本、多いときには20本ほど、せっせと「移して=写して」、ブログサイトに投稿し、再ブログ化するなどという、とちくるった作業に取り組んでいたせいかもしれません。【注:「うつせみのうつお」は削除し、現在はありません。】


 1年分のいろいろな記事を再投稿しているさいには、その内容をちらりと読まないわけにはいきません。ありゃ、こんなとちくるったことを書いている。こんなこと書いたっけ? ふーん、そんな考え方もあるんだ。という具合に、他人事のように、つい読みふけった記事もありました。その意味では、頭の整理ができたというか、何を書いたのかの確認ができたというか、いい経験になりました。


 初めて書いたブログのころからメッセージやメールを送ってくださっている「Hさん」(※「ブログ廃人と呼ばれて」 、「ブログと心中?」、「とりとめもなく」 、「パラレル」、「日本語にないものは日本にない?(3)」に出てくる、口はとても悪いのですが心やさしい方です)からは、「あんた、やっとで殺したブログに罪滅ぼしをしたね。今後殺したら承知しないからね」との励ましのお言葉を頂戴いたしました。Hさん、ありがとうございました。


     *


 話を戻します。


 いつものように出まかせを言わせてください。さきほどの、「既得権、既得権益、権利、所有権、基本的人権、財産権……」というリストにあることどもも、「そもそも位置って何? 視点・視座って何? 主語って何? 主体って何? ……」というフレーズの羅列も、次の言葉に集約できるのではないかと思うのです。


 もどるにもどれない。


 いったん、「手にしたもの=奪ったもの」は放さない。いったん、「決めてしまった=決まってしまった」ルールは直せない。いったん、「そうなってしまった」ことは、「そうでない」にもどせない。言い換えると、そういうことです。


 ヒトは「かえる・変える・帰る・代える・換える・替える・返る・還る」ことができない。


 とも言えそうです。「ヒト=人間様」は、革新・イノベーション・革命・レボリューション・進化・エボリューション・発展・発達・進歩を成し遂げてきたではないか。そんな反論も予想されます。今、並べた口当たりのいい言葉たちは、「かえる・変える・帰る・代える・換える・替える・返る・還る」を「上向きに」「プラスに」「より良く」「より便利に」という意味合いにずらしたものに他なりません。でも、それらの美辞麗句は、残念ながら、ヒトが「でっちあげた言葉」であり、ヒトが勝手に「いだいているイメージ」でしかありません。


 言葉は、「何かの代わりに何かではないものを用いる」という「代理の仕組み」の「枠=限界」内にあります。イメージは、基本的にヒトが個人レベルでいだくきわめて「テキトーな」もので、「とてもじゃいないが信用できるに値しない=有効性がかなりあやしい」属性を帯びているようなのです。なお、イメージの「いかがわしさ」については「あらわれる・あらわす(7)」、「あらわれる・あらわす(8)」、「げん・幻 -10-」 で、いかがわしく、しかも詳しく論じていますので、関心のおありになる方だけ、ご参照ください。


     *


 何を言いたいのかと申しますと、言葉とイメージの限界性を意識しませんか、という提案をしているのです。言葉と、言葉やヒトが知覚しているところの「こと・もの・状態」が喚起するイメージは、比喩的に言えば「欠陥品」である。ですので、どういうふうに「欠陥=不具合=有効性の欠如」があるのかを、みんなで考えてみませんか。そう申し上げたいのです。


 たとえば、ヒトにはさまざまな領域=テリトリーを専門になさっている方々がいらっしゃいます。数あるうちで、たとえば、広義の物理学・生物学・心理学・哲学・医学・数学・清掃業・文芸批評・歴史・情報理論・主婦業・工学・土木・農業・林業・漁業・福祉関連業務・宗教などに携わっている方々は、それぞれの分野で、言葉とイメージの「欠陥=不具合=有効性の欠如」を日々、つくづく意識していらっしゃるにちがいありません。意識する、気がつく、何となく感じる。そうした状態から、もう一歩踏み出してみませんか。


 いったい、どうなっているのだろう?


     *


 ひとつ例を挙げるなら、ヒトは「上下」という知覚・意識・言葉・イメージをめぐって多種多様な「こじつけ=たとえ=代理ごっこ=表象とのたわむれ」を日常的に体験しています。「進む」という動作のイメージが「上下」という位置関係とからんだ場合には、「進化・進歩・発展・発達」といった「言葉とイメージ」と、それに類似する「言葉とイメージ」の連鎖が生じる。そこから、「進む」ことは「階段を上がる」ように「より良い状態になる」というイメージが生まれます。


 でも、果たして、「進化・進歩・発展・発達」は、本当に「より良い状態になる」と言えるでしょうか。21世紀を10年過ぎようとしている現在、人類は「進化・進歩・発展・発達」し、「より高いレベルへと上がり」、「より良い状態になり」つつある、と言えるでしょうか。


 また、「上下」という知覚・意識・言葉・イメージは、「物理的な上下」から「ヒトや生物という枠内での上下」へと「こじつけて考える=つながっているとみなす」こともできます。「上下」に「値・価値・力・優劣」という要素をミックスするのです。すると、階級・等級・位(くらい)・クラス・カースト・序列・身分・「貧富の差」の差・ランク・数値化・定量化という一連の言葉とイメージが生じます。基盤というか共通項は「上下」という位置関係です。これらの「もどるにもどれない」性は根強いです。てこでも動かない感じです。


     *


 もどるにもどれない。いったん、手にしたものはなかなか手放せない。「これは私のもの」。とにかくそうなっている。これしかない。これなしではいられない。


 確かに、「もどる」のは至難の業です。でも、「振り返る」ことくらいはできそうです。ちょっと、ひと休みして、振り返ってみませんか。


 単純で短絡した与太話になってしまいましたが、申し上げたいのは、そうしたたぐいのことなのです。もっと整理してお話しする必要がありそうです。いつか機会をあらためて、お話=与太話をしたいと思っております。


     *


 ここまでの駄文を読み返していて、思ったことがあります。


*昨日の「かえるにかえることはできない  =  『孵る』に『返る・帰る・還る』ことはできない  =  『返る・帰る・還る』に『返る・帰る・還る』ことはできない」


というフレーズと、今日の


「もどるにもどれない」


は似ていませんか。その意味合いはかぶるところもあれば、かぶらないところもあります。


 言葉の綾という言葉があります。上の両者の「差異=際=違い=隔たり=間・あわい」については、あまり深く考えなくてもよい気がします。似ていると感じられるのは、言葉の綾のせいです。両者は別の問題だ、と考えるほうが妥当かと思われます。


 むしろ、「もどるにもどれない」は、さきほど上のほうで書いた「ヒトは『かえる・変える・帰る・代える・換える・替える・返る・還る』ことができない」のほうに近いです。混乱なさるといけないので、ここでお断りしておきます。ごめんなさい。


「ことわり・事割り・言割り・断り・理・ことばによるこじつけ」って、ややこしいですね。


     *


 もどります。


 もどるにもどれない。いったん、手にしたものはなかなか手放せない。「これは私のもの」。とにかくそうなっている。これしかない。これなしではいられない。


 以上のような状況を打開しようとする動きや兆しが見られないことはありません。この数日間の新聞で見かけたフレーズを拾って加筆してみます。


 資本主義を見直す。市場経済への懐疑。生物物多様性・里山という言葉の認知と普及。性同一障害の夫婦にも嫡出子を認める方向へ。脱官僚依存。永住外国人への地方参政権法制化への動き。検事による取り調べ録画、証拠採用。


「もどるにもどれない」が、「ことわり・事割り・言割り・断り・理・ことばによるこじつけ」によって、少しずつながら「もどれるかもしれない」という意識に「かわり」つつある部分がありそうです。そういう意味の「かえる」であれば、歓迎すべき動きではないかと思います。


 とりとめのない駄文に、ここまでお付き合いいただいた方に、心より感謝いたします。



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77




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