まことにまこと
星野廉
2020/09/18 10:22 フォローする
やまとことばが好きです。どうしてなのかは、よくわかりません。こころにというか、たましいにというか、からだにというか、こう、ぐぐっと来るのです。というわけで、よくつかいます。やまとことばにみちびかれて、考え、書くことがよくあります。ことばで考えるというのは嘘だという人がいます。そうかもしれません。
確かに、考えていると、ことばだけでなく、いろいろなもやもやしたものが頭に浮かびます。ことばともやもやとが混じりあう。それが考えることなのかとも思われます。いずれにせよ、きょうは、まことということばにみちびかれ、うながされて、ことばをつづっています。
まことということばをずらしてみましょう。ずらすことにより、そのうつろうさまを眺め、考えをすすめ、ことばをつらねていくのです。すると、からことばも出てきます。致し方ありません。いま、この国の名が、やまとではなく、からことばで読まれているように、この国のことばは、からことばやさらに遠くにあるところからつたわって来たことばたちが混じりあっているのです。
そうなってしまっている。だれのせいでもありません。よいわるいの話でもありません。どこのことばも、似たようなありさまにあります。ひととひとが出あう。くる。いく。うつりすむ。まじる。子をもうける。ふえる。国をなす。あらそう。血をながす。あらたに国をなす。また、あらそい、あやめあい、血が流れる。おさまる。おさめる。しずむ。しずまる。国がととのう。うつせみでは、あたりまえのことでしょう。
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さて、まことをずらしてみます。からことばもつかいます。
広辞苑を参考にします。「まこと・ま(真)こと(事・言)・真・実・誠・まことに」「まさし・正し・ただしい・正しい・まさしく・正しく・ただしく・正しく・ただす・正す・糺す・質す・まさに」「たしか・確か・慥か・たしかに・確かに・たしかめる・確かめる・慥かめる」「あきらか・明らか・あからむ・明らむ・はっきり」という具合です。
「ずらす」をずらし、「分光する」と言うこともできそうです。「分光する」とは、もちろん比喩です。ある色に見える光を分光器にかけて分けるという作業=操作=動作のイメージが、気に入って借用しているだけです。中上健次が小説ではなくエッセイ集でつかっていたのを読んだ記憶があります。紀州で生まれ育った中上が、確か「き・紀・木……」みたいな操作をしているのを読み、きれいな「さま=光景=様子=イメージ」だなと感心した覚えがあります。うろ覚えのことなので、間違っていましたら、ごめんなさい。
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分光する。
個人的には、主に大和言葉(やまとことば)を唐言葉・韓言葉(からことば)に置き換える作業の意味で用いています。上で、「まこと」を分光したさいに、「事・言・真・実・誠・正・糺・質・確・慥・明」という漢字が出てきました。漢字が「出た」というより、漢字に「出あった」という感じです。
「まこと・まことに・まさし・まさしく・まさに・ただしい・ただしく・ただす・たしか・たしかに・あきらか・あからむ・はっきり」という大和言葉系の語に見入り、すかさず「事・言・真・実・誠・正・糺・質・確・慥・明」という唐言葉・韓言葉系の語に目を移し、眺め入る。あるいは、両者を見比べる。自分にとって至福の時だ、と言っても言いすぎではありません。体が震えてくる。鳥肌が立つ。まことにまことです。本当に本当です。
なお、万が一、「分光する」という作業に興味をお持ちになった方がいらっしゃいましたら、「オバマさんとノッチさん」 、「あらわれる・あらわす(3)」 、「あらわれる・あらわす(5)」、「げん・幻 -1-」、「わかるという枠」、「3つの枠」を、ぜひご参照願います。そんなものに付き合っていられない、とお思いの方は、もちろんパスしちゃってください。
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分光して出あった漢字たちを、感字として感じとってみましょう。このブログは学問や研究などとは無縁です。なにしろ、アホが書いている駄文が投稿されているのです。「正しい対正しくない」ごっこをやっているわけではありません。言葉が好きなアホが言葉に遊んでもらっている。もてあそばれている。そんなブログです。
「素人がでたらめを書きやがって」とか、「いい加減なことばかり書いてある」という、まことにまことのことを言ってご立腹なさらないでください。特に、ないものねだりはしないでください。お怒りになっている方に申し上げます。まさに、仰っている通りです。まことにまことでございます。ここで、やっているのは「でたらめ・でまかせ」です。以前は、自分のやっている「でたらめ」や「でまかせ」を「楽問=ゲイ・サイエンス=楽しくやろうよ、お勉強ごっこ」などと、書いてもいました。その気持ちは、今も変わりません。
本をちゃんと読むのが苦手で、お勉強が大嫌いな、このアホに「でたらめ」や「でまかせ」以外の何ができるでしょうか。居直りではないつもりです。正直に言っているだけです。本気で申しております。まことにまことです。何も恥ずべきことはしていません。あえて言うなら、言葉がいとしい、そのいとしい言葉たちを「正しい」とか「美しい」とか「本来の」とかいう杜撰(ずさん)な「美辞麗句=嘘っぱち」で汚したくないのです。
言葉たちは、そうした「きれいごと」とは無縁に「生きている」のです。正確に言えば、ヒトがいて初めて「生きている」のです。言葉は匿名的で、非人称的で、ニュートラルだ、とも言えます。【※ この「ニュートラル」という考え方については、「こんなことを書きました(その8)」にある各記事を貫く大きなテーマになっています。自分ではかなり力を入れて書いた記事ばかりですので、お時間のあるときにお読みいただければ嬉しいです。】
息ている=生きているヒトが、森羅万象に「息」を吹きかけて初めて、言葉は生まれます。ヒトという種(しゅ)がいなくなれば、言葉は「なくなる」しかありません。「もの」として残るという言い方もできますが、そのことについて触れるのは別の機会にします。なお、「わける(2)」 と「げん・言 -9-」でも論じていますので、ご興味のある方がいらっしゃいましたら、お読みください。
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話を戻します。
「事・言・真・実・誠・正・糺・質・確・慥・明」
分光して出あった漢字たちを見ていると、さまざまな言葉が頭に浮かんできます。
真実・真理・真言・事実・現実・実際・正確・正当・正統・正式・正常・正規・純正・明確・明晰・明白・自明・真正・真性・実に・本当(に)・本物・本質・実質・本体・正体・本性・嘘偽りのない・論理(的)・実在・実体・実態・実情・確実・究極・至高・解脱・涅槃・リアル・リアリティ・ファクト・オセンティック
何て空疎なのでしょう。むなしいです。
黒を白と言いくるめる、という言い回しがあります。黒も白も、レッテル=ラベル=言葉です。どんなラベルで貼りかえることも可能です。上に並んでいる言葉たちが空疎でむなしいというのは、そうした意味での感想です。
どうして空しく感じるのでしょう。「から」ことばだからでしょうか。それもあるような気がします。否定はしません。
ぺらぺらの言葉=ラベル。どんなにきらびやかに描いてあっても、しょせん、絵でしかない。ラベルが「何に」貼ってあるのか。絵は「何を」描いたものなのか。ヒトには、その「何か」を知る由(よし)がありません。知る術(すべ)がありません。
それにもかかわらず、上に並べた言葉たちは、偉そうにしています。少なくとも自分にはそう見えます。自信たっぷりと言うか、傲慢と言うか、あぶらぎっていると言うか、謙虚さやつつましさの欠けらも感じられないのです。
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「まつりごと・政・祭事・奉事」という言葉を思い出しました。かつては、政治と宗教の「へだたり・隔たり・あいだ・間・あわい・差異・際・さい」がなかったと言われています。というか、深くからみ合っていた=かかわり合っていたという話です。
政治も宗教もヒトにとってはなくてはならないものです。でも、個人的には政治家も宗教家も好きではありません。逸脱しているからです。はずれて、ずれて、すれてしまっているヒトたちが、あまりにも多いからです。
まつりごとをおこなうヒトたちは、「代わりの者」であったはずです。「代理」であったはずです。それが「まこと」という名を「騙って」います。いつわりの「はなし」を「語って」います。「かたる」ことなら誰にでもできます。それなのに、特権化されているのです。はずれて、ずれて、すれてしまっているとは、そういう意味です。
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贅(ぜい)を極めた豪華絢爛たる「衣装をまとった」聖職者や教祖と呼ばれるヒトたち。民衆の血と汗と労力を結集して築いた、金銀・宝石・石を用いたきらびやかな社(やしろ)や寺や建物に「住まう」ヒトたち。庶民から集めた税でまかなって建造した、はでやかで堅牢たる庁舎で仕事をし、官舎に「住む」ヒトたち。一般人がめったに口にできない料理や酒を高級レストランやホテルや料亭で「飲み食いする」ヒトたち。
衣食住に、なぜ、これだけの「へだたり・隔たり・あいだ・間・あわい・差異・際・さい」ができてしまったのか。はずれ、ずれ、すれてしまったからに他なりません。
「代わり=代理」のヒトが「代わり=代理」をまとい、口にし、住まいとしている。だから、空疎でむなしいのです。ぺらぺらなのです。中身がないのです。「から」なのです。
うつせみのから。
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繰り返します。
「まこと・ま(真)こと(事・言)・真・実・誠・まことに」「まさし・正し・ただしい・正しい・まさしく・正しく・ただしく・正しく・ただす・正す・糺す・質す・まさに」「たしか・確か・慥か・たしかに・確かに・たしかめる・確かめる・慥かめる」「あきらか・明らか・あからむ・明らむ・はっきり」
なぜか空疎さを感じません。むなしさをおぼえません。そのわけは、わかりません。
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ここでお断りしなければならないことがあります。「かえるにかえる」で書きましたように、「返る・帰る・還る」に「返る・帰る・還る」ことはできない、と思っています。「原点」や「自分たちの本来の姿」や「本当の自分」や「過去の出来事」や「過去の状態」を「想起・再現・復元」することは、ヒトという種の「知覚・意識・能力」を超えている、と考えています。
たとえば、「美しい言葉」や「本来の言葉」や「本当の言葉」や「真(しん)の言葉」や「本物の言葉」や「正確な言葉」などという「言葉」は信じていません。平安時代の言葉、あるいは、それ以前の言葉にもどれと言うのでしょうか。常に、辞書を片手に話し書けというのでしょうか。まさか。この国には、たくさんの言葉=方言=書き方=表記法があり、それが「同時的に=共存しながら」綿々と続いてきた。そうではなかったでしょうか。その「多重性=多層性=豊かさ」を切り捨てるなんて、冗談は顔だけにしてほしいです。
上記のたわごとを言ったり信じているヒトたちも、はずれ、ずれ、すれてしまっているのです。
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「ずれ」と言えば、言葉は「はずれる」「ずれる」「すれる」を基本にしています。今、問題にしている「ずれ」は、上述の「ずれ」とは、ずれていますので、混乱なさらないでください。
その言葉の根底を成す「はずれ・ずれ・すれ」なのですが、何から「はずれ・ずれ・すれ」ているのか。それはヒトにはわかりません。わからないようにできているのがヒトなのです。どうして「わからないようにできているのか」については、ご面倒をおかけしますが、「かえるはかえる」 、「かえるにかえる」、「もどるにもどれない」をお読み願います。
話があちこちに飛んでしまいました。混乱させて、ごめんなさい。悪い癖だと分かっているのですが、頭に浮かんだことを、前後関係を考えず、つい書いてしまうのです。だから、とりとめのない駄文になってしまいます。申し訳ありません。
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またもや、繰り返させてください。
「まこと・ま(真)こと(事・言)・真・実・誠・まことに」「まさし・正し・ただしい・正しい・まさしく・正しく・ただしく・正しく・ただす・正す・糺す・質す・まさに」「たしか・確か・慥か・たしかに・確かに・たしかめる・確かめる・慥かめる」「あきらか・明らか・あからむ・明らむ・はっきり」
なぜか空疎さを感じません。むなしさをおぼえません。そのわけは、わかりません。
いつもの出まかせですが、かぎは「ま」にあるような気がします。「ま」と言っても、「まこと」の「ま」です。そんな気がしてならないのです。胸が騒ぎます。あやうくなりそうな気配もします。すでに、あやういのかもせん。そろそろ、少し頭を休めたほうがよさそうです。PCの電源を落として、しばらく「ま」について考えてみます。
いや、もうひと踏ん張りしてみます。
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繰り返します。
真実・真理・真言・事実・現実・実際・正確・正当・正統・正式・正常・正規・純正・明確・明晰・明白・自明・真正・真性・実に・本当(に)・本物・本質・実質・本体・正体・本性・嘘偽りのない・論理(的)・実在・実体・実態・実情・確実・究極・至高・解脱・涅槃・リアル・リアリティ・ファクト・オセンティック
以上について考えるためには、本や辞書や事典やウェブサイトが必要な予感がします。一方、「ま」については、そうしたものは不要=不用な気がします。やまとことばは、身にしみついているような気がします。
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ここでまた、お断りしなければならないことがあります。やまとことばとからことばに関してのことです。
天は言葉or言語の上に言葉or言語を造らず。言葉or言語の下に言葉or言語を造らず。
そんなふうになっているのではないでしょうか。これまで書いてきたことをお読みになって、やまとことばとからことばの優劣や美醜を語っているようにお思いになられた方がいらっしゃるのではないかと恐れています。もし、そのような感想を持たれた方がいらっしゃれば、それはこのアホの本意ではありません。誤解です。あえて言うなら、
言葉or言語は、他の言葉or言語と接したとき、両者とも最も美しく輝く。
というふうに考えています。ある言葉の優れた点や美しさは、相対化しないと分からないものです。かといって、優劣や美醜を比べ合うものではないと信じています。これだけは、ぜひとも、お伝えしておきたいのです。
こうした問題は、どこで生まれ育ったか、どの言葉を母語として生きてきたか、にかかわることのようです。「テリトリー=枠」の問題だと言ってもよろしいかと思います。ヒトは、誰もが「何か・どこか」に属し、依存し、支えられて生きています。その「何か・どこか」に愛着を覚えるのは、自然な心理だと言えるでしょう。その「何か・どこか」が「ことわり・事割り・言割り・理」を超えて、心や体や魂にしっくりとくる、またはぐっとくるのは当然でしょう。ただし、「他者」への思いやりや「よそもの」を敬う気持ちを忘れてはならないと考えております。
すべての「言葉=語=語句、および言語」はパラレルだと思っています。並んでいるだけです。上下も左右も斜めもありません。なお、「パラレル」という「考え方=たわごと」に興味のおありになる方は、「パラレル」、「日本語にないものは日本にない?(3)」をご参照ください。もちろん、パスなさっても一向にかまいません。
ただし、パラレル状態にある一方で、言葉は「ずれ」ます。「ずれる」のが、言葉です。この場合の「ずれ」をさきほど例に挙げた、「美しい」だの「本来の」だの「真(しん)の」だの「正確な」といったたわごとを言うヒトたちに見られる「上下」や「主従」や「真偽」や「正誤」といった貧しい図式に、どうか還元しないでください。言葉がかわいそうです。誤解は解けましたでしょうか。
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話を戻します。
「ま」です。「まこと」の「ま」です。これは、お勉強や研究や学問の対象「としている」、あるいは対象に「になる」たぐいのものではないという気がします。
ものぐさなアホは、身の程にあったやり方で、とりとめもなく、だらだらと、右往左往しながら考えてみるのが、よろしいかと思われます。
言葉は、このアホも含む庶民のものなのです。みなさまのものなのです。正確に言えば、ひとりひとりのものなのです。他人様の言葉や言葉遣いに、とやかく言う筋合いなどないのです。これだけは、まことにまことです。本当に本当です。そうではないと言うヒトたちは、「はずれ・ずれ・すれ」ているのです。
まことにまこと。
きょうも辛抱してここまで駄文をお読みいただいた方に、心より感謝いたします。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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