かえるのではなくてかえる
星野廉
2020/09/22 12:39
かえるのではなくてかえる、と書かれているのを見て、ほらほら、こいつ、やっぱり狂っているぞ、と思う人がいてもおかしくはない。とはいえ、とりあえず、狂っているかどうかは脇に置こう。
いま、わたしはある試みをしている。きのうから書きつづっている言葉を読んでいて気づいたむきもあろうが、できる限り、やまとことばを選んで書いている。
こうした戯れは、前にもやってみたことがある。からことばとやまとことばの違いに詳しくないわたしにとってはまことに骨が折れるが、これがやたら楽しい。そういうわけで、戯れにはちがいないのだが、わたしにとって愉しき企みでもあることを知ってほしい。きのうも書いたように、こうやって、わざと「ずらしている」のである。
もっとも、玄人からみれば、でたらめで穴だらけであろうが、かまわない。いや、致し方ないというべきか。素人のわたしに玄人のわざができるわけがない。あくまでも、お遊びであり戯れにはちがいないが、真っ向から体当たりしているのも確かだ。
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わたしは自らをとらえている「枠」を「ずらす」ことにより、言葉が放つさまざまな思いや形や様を「変えよう」としているのだ。そう、「変える」のであり、「替える」のであり、「代える」のであり、「換える」のであり、もしかすると「孵る」のである。
あえて、やまとことばを選び使うことによって、どこかに「帰ろう」としているわけではない。そう、「帰る」のでも、「返る」のでも、「還る」のでもない。思い違いをされているかもしれない。そんな思いが浮かび、このような「断り」、つまり「事割り」、つまり「理」をしている。
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「帰る」とか「戻る」と言う人たちがいるが、どこに帰り、戻ろうとするのだろう。そもそも、戻り帰れば、どこに行き着くというのか。かつて、やまとことばと似た言葉が、この島々のそばにもあったという。詳しいことは知らない。また聞きでしかない。
みなもとをたどっていったとき、その源とおぼしきところが、この国の島々のそとにあることも、大いにあり得ると心得るべきだという気がする。ただし、わたしは、そうした穴掘りにも、うちわの争いにも加わる気はない。きな臭い話になるのが落ちだろう。
きな臭い話は苦手だ。大の苦手だ。うつせみの身には毒だ。
だから、「かえるのではなくてかえる」のである。「帰るのではなくて変える」のだ。こうした遊びこそが、「変える・替える・代える・換える」であり、あるいは、ひょっとすると「孵る」なのである。こうやって戯れるのが楽しい。
「帰る・返る・還る」ごっこは、楽しくない。おもしろくもない。心を動かされることもない。「正しい」「正しくない」ごっこに似せた偽物だったり、根も葉もないかたりが多い。それだけでなく、縄張り争いに付き物の血のにおいがするし、群れとしてのヒトびとのいだく思わくが見え隠れするのも嫌だ。早い話が、潔くないのだ。
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「変える・替える・代える・換える」ごっこは、あやうく、あやしい。「帰る・返る・還る」ごっこも、あやうく、あやしい。ただし、「変える・替える・代える・換える」には、「あやめる」はそぐわない気がする。だが、「帰る・返る・還る」には、きな臭いだけでなく、血のにおいがする。弱くて、もろい、わたしには「帰る・返る・還る」は似合わない。
思えば、やまとことばやからことばのはらからとおぼしきことばたちが、この国の島々の近くにある。かつてのはらからが、いまとなっては、かたきだと言うのか。ああ、きな臭い。うつせみがなき出しそうだ。うちわもめほど悲しいものはない。これもヒトの「すじ」か。
きな臭く、生臭いことどもは、ひとさまにまかせよう。その道のひとたちにまかせよう。わたしは素人にすぎない。争いは争いの玄人に、ことわりはことわりの玄人にまかせればいい。「戻る」「帰る」といった言葉の穴掘りは穴掘りの玄人にまかせればいい。わたしは何にひいでているわけでもない。わたしはわたしのやり方で、言葉とたわむれる。というか、言葉にもてあそばれるだけ。
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きのうは、「ずらす」について書いた。きょう、裏仕事の「うつせみのくら」でしこしこやっていて、どういうわけか、「ずれる」に出あった。「かつらはずれる」とあり、わらってしまった。相変わらず同じことをやっている。それがおかしくもあり、なさけなくもあった。【注:「うつせみのくら」は、過去のブログ記事を再ブログ化(二番煎じ)しようとする試みでした。これも頓挫して、現在はありません。】
どうやら「わく」にはまっているらしい。「なわ」に縛られているらしい。「わな」にも、はまりこんでいるらしい。ただごとではない。ことの次第をさとり、わなわなとわななけというわけか。いや、そんなわけはない。わらえばいいのだ。
ところで、数々の生き物のなかでヒトだけが笑うというのはまことか。だとすれば、大いに笑えば「ヒトであり」ということか。笑わないのは「ヒトでなし」。ああ、「くだらない」。「百済ない」。「百済の話はなし」。おっと、話がきな臭いほうに流れそうになった。くわばら、桑原。
桑と言えば、おかいこさんの食べる葉のしげる桑の木には、もとからこの島々に生えていたものと、そとから入ってきたものがあるという。「そと」と「うち」と「ふち」。こうした話をするときに、きな臭い話と重なるところがでてくるのは致し方ない。
そうだ、「そと」と「うち」と「ふち」。わたしは、そうしたことについて考えてみたいのだ。枠や縄や筋は、そのためにある。
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「わく・枠」「なわ・縄」「すじ・筋」。きのうは、そうした「こと」や「もの」について書いた。「ことば・ことのは・言葉」を広くとらえるなら、音や声や、それらを記したものにとどまらず、ヒトがおのれの周りにある、あるいは遥か遠くにある、あるいはおのれの頭に浮かぶ、さまざま「もの」や「こと」を「あらわした」ものすべてを含むべきであろう。
そのとき、「わく・枠」「なわ・縄」「すじ・筋」は、大きな役割を果たしてくれるという気がする。考えを進めるにあたり、支えとなってくれるような気がする。音、声、まなざし、めくばせ、かおつき、みぶり、てぶり、すがた、かたち、うごき、はたらき、あらわれ、つくりもの、外に在るさまざまな物や事どもにヒトが見てしまうものやことども……。
そうした「もの」や「こと」が、つらなり、つながり、かたちとなって心に浮かぶ。なにひとつ、「ひとり」ではない。「ひとり」にみえるものも、どこかで何かに「つながっている」。その「つながり」を支えているのが、「わく・枠」「なわ・縄」「すじ・筋」ではないだろうか。
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わたしは、いま、あえて、ひとさまとはいささか異なった言葉づかいをし、異なった言葉の記し方をしている。わたしにとって、書くことと考えることは同じとは言えないまでも、深くかかわっている。からみ合っている。なぜかは、わからない。そういうふうに生きてきたとしか言えない。癖という言葉もあたまに浮かぶ。
ひとさまについては知らない。書くことと考えることが、ひとさまにとって、どんなふうになっているのか。わたしは知らない。そもそも、おのれにとって書くことと考えることが、どうからんでいるのかさえ、わたしにはわからない。わからないから、書く。書いて、手がかりをさがす。
わたしにとって書くことと考えることが深く結びついているとは、思いつきでしかないような気もする。ただ、書くことにより、言葉や思いが呼び寄せられ、思いがけない出あいが起こり、あれよあれよというふうに言葉がつづられていく感じは打ち消しがたい。それがここちよい。
つまるところは、出まかせだ。出るに任せる。でまかせ。わたしの大好きな言葉のひとつである。ヒトはそれしかできないと、それに喜びを見出し深い親しみを覚えるようになるらしい。
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書くことにみちびかれながら考える。「でまかせ」を「ずらす」と、そうも言える。ものは言いよう。とりあえず、そういうことにしておこう。さしあたってまず、そこから歩みだそう。そもそも、わたしは、正しい正しくないごっこをやっているわけではない。誰に頼まれたわけでもない。好きでやっているだけ。
ただ、ついやりすぎてしまう。度を過ごしてしまう。その癖が曲者だ。
そろそろ、しんどくなってきた。書きすぎたのだろう。うつせみがなき出しそうだ。みーん、みーんと、なき出すまえに、ネコを呼ぼう(※ちなみに、ネコはうちの猫の名)。なぐさめてもらおう。
※この記事は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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