何もないところから
げんすけ
2020/08/09 07:50
何もないところから、何かが生まれるなんてあり得ない。そんな意味のことを、これまで何度か見聞きしたことがあります。nihilo が何とか……。検索する気はありませんけど。
さて、漢語系の言葉をつかうと、
*無から有は生じない。
みたいに言うことができて、大和言葉系の言葉をつかえば、
*何もないところから何かが出てくることはない。
と言えそうです。いずれにせよ、
*ヒトにとって、言うことはできても、確かめたり、知ることはできないたぐいのことである。
と考えられます。なにしろ、
*ヒトは、「何か」の代わりに「その「何か」ではないもの」を用いている。
【※このブログに初めておいでの方のために説明させてください。ああ、またかと、ご存じの方は、スルーしてくださいね。
「何か」とは「餅」で、「その「何か」ではないもの」とは「絵に描いた餅」と考えると分かりやすいかもしれません。比較的モチがいいと言われる餅ですが、カビは生えるし、いつか腐敗するし、だいいちモチあるきにくいので、ヒトは絵に描いてモチ運ぶのです。でも、ヒトはそれが絵だということをすぐに忘れます。
この餅はクジラであっても宝石であってもヒトであってもミミズであってもオケラであってもアメンボであっても山であっても総理の椅子であっても宇宙であっても、それが絵に描けるなら「何か」なのです。餅を、気取って事物や現象、あるいはおおげさに森羅万象なんて呼んでも、それでヒトの気が済むのならよろしいかと思います。また、絵に描いた餅を、表象・象徴・記号と呼んでも事態はいっこうに変わりません。
大切なことは、餅の絵が餅だと錯覚したり、餅の絵が餅ではないことを忘れたり考えないようにするのが、ヒトの常だということです。取り違えとか取り替えのギャグみたいで、お茶目ですね。モチろん、故意に、あるいはすっとぼけて、この錯覚や忘却を利用する、身モチが悪いじゃなくて、鼻モチならないやからがいるので、気をつけなければなりません。
また、「何か」とは「あそこ(ヒトぞれぞれですので、お好きな「あそこ」を想像なさってください)」、そして「その「何か」ではないもの」とは「あそこの映った写真とか、テレビの映像とか、ネット上に出回っている写真や動画」と考えると、すごく切実=リアル=ガッテン=あら、いやだ、に感じられるかもしれません。ああいうものを見ていて、そこにはない=それ自体ではないにもかかわらず、燃えて=萌えて=催してきません? この場合には、燃えないほうが、きわめて危うい=ヤバいかと存じます。燃えてこそ、ヒトなんでしょうね。あれを見て燃えないなんてヒトでなしかもしれません。】
のです。真偽を知ろうとするは諦めたほうが、潔いと思います。でも、古今東西を問わず、知ろうとする人たちが必ずいるみたいです。
*
ただ、おもろしろいのは、
*何もないところから何かが出てくることはない。
と、このブログの金太郎飴的ワンパターンフレーズである
*ヒトは、「何か」の代わりに「その「何か」ではないもの」を用いている。
とが、深くかかわっているようだということです。
*何もないところから何かが出てくることはない。
というフレーズは言葉ですから、ヒトはそのフレーズに
*「意味」を見いだす
のが、ふつうです。その「意味」というものが曲者でして、実に胡散(うさん)くさくて、いかがわしく感じられます。
*「意味」
とは「何・なん」なのでしょう?
*「なん= none =ない」
のではないでしょうか。
もしも、
*「意味」とういうものが「ある・有る・在る」とするならば、
*「ヒトのあたまのなか=想像=妄想=空想=フィクション=話=言葉=言・げん=げん・幻=げん・現=げん・限=げん・原=げん・Gen」に、
*「ある・有る・在る」
ような気がします。
*
いやー、実に胡散(うさん)くさくて、いかがわしい記述ですね。補足説明として、ここで、今回の、
*きわめてテキトーな図式=チャート=見取り図=でまかせ図
をご紹介します。
*「げん・幻・幻想・まぼろし・魔を滅ぼす・間を滅ぼす・(隔たったものを)近くする・知覚する」
=「げん・現・現実・うつつ・打つを打つ・うつをうつ・うつ(全・空・虚)をうつ・うつうつ」
=「げん・言・言語・ことば・言葉・言の葉・事の端」
=「げん・限・限界・限度・境い目・ふち・へり・端っこ・かぎり・かぎる・限る・かげる・翳る」
=「げん・原・源・元・みなもと・もと・本・基・原子・元素・根っこ・泉・湧く・わく・わくわく・出る・でるでる」
=「げん・Gen・遺伝子・gene・gen-・因子・ジン・仁・gene-・うまれる・生じる・うむ・産む・発生・子宮・卵・可能性・生殖・生命・いのち・あらわれる・でる・でちゃった・できる・できちゃった・わく・わくわく」
(※以上の「 」にくくられた6グループが、なぜ「=」で結ばれるのかは、おいおい説明していきます)
前回のバージョンに、1グループ追加しました。でまかせ図なので、でまかせで書いているのですが、ぶっちゃけた話、本気で書いてもいるのです。かなりマジです。あやういですか?
*
話をもどします。
*何もないところから何かが出てくることはない。
と、
*ヒトは、「何か」の代わりに「その「何か」ではないもの」を用いている。
とが、深くかかわっているようだという話でしたね。
*なにもないところからなにかがでてくるということはない。
という大和言葉系バージョンを、
*無(Mu)から有(Yu)は生(Sho)じない。
という漢語系バージョンにして考えてみましょう。もちろん、でまかせで、やってみるのですけど、何かできそうな気がしますので、どうかお付き合いください。
さきほど、
*意味なんてものはなくて、あるとすれば、ヒトのあたまのなかにしかない。
という意味のことを書きました。ヒトのあたまのなかだけの話だとするなら、やっぱり、
*ない=無=む=Mu= M+U = むっ+う = 無+有 = 0+有 =有=ある
ゆえに、
*ない=ある
つまり、
*「無=有」 or 「無→有」 or 「有→無」
すなわち、
*すべてでたらめ=ぜんぶでまかせ=何とでも言える=色即是空=空即是色
と考えるほうが、妥当に思えます。
*
ここで、お断り=申しわけ=弁解=言いわけをさせてください。
今回の記事では、さきほどからさかんに、胡散(うさん)くさい=いかがわしい=怪しげな=尋常ではない、書き方をしていますが、もちろん、わざとやっております。ですので、どうか説明させてください。
1)言葉を用いれば、何とでも言えるし、何とでも書けてしまう。
2)言葉が書けてしまうということは、いわば賭けをしているのであり、何かが欠けているからにほかならない。
という状況を、言葉たちに演じて「もらっている」=演じて「いただいている」のです。
*言葉が道具=手段である
ことは、前回の記事で書きました。また、記事の最後のほうで、
*<ヒトは、「何か」の代わりに「その「何か」ではないもの」を用いる>というとき、ヒトと、<「何か」の代わりに「その「何か」ではないもの」を用いる>という、匿名的な=非人称的な=ニュートラルな、仕掛け=システムとの間に、主従の関係を決定することはできない。
とも書きました。もっと正確に言うと、
*<ヒトは、「何か」の代わりに「その「何か」ではないもの」を用いる>
というとき、
1)ヒトと、ヒトが「何か」の代わりに用いる、「その「何か」ではないもの」という匿名的な=非人称的な=ニュートラルなもの
との間にも、
2)ヒトと、<「何か」の代わりに「その「何か」ではないもの」を用いる>という、匿名的な=非人称的な=ニュートラルな、仕掛け=システム
との間にも、
*主従の関係を決定することはできない。
となります。
言葉を例にとって、具体的に説明します。
*<ヒトは、「何か」の代わりに「言葉」を用いる>
というとき、
1)ヒトと、「言葉」という、匿名的な=非人称的な=ニュートラルなもの
との間にも、
2)ヒトと、<「何か」の代わりに「言葉」を用いる>という、匿名的な=非人称的な=ニュートラルな、仕掛け=システム
との間にも、
*主従の関係を決定することはできない。
となります。なお、
*「匿名的な=非人称的な=ニュートラルな」とは、ヒトが生み出した=つくり出したものが、ヒトが生み出していない=つくり出してないものと同様に、ヒトの思わく=意図とは無関係な状態にあるという意味である。
ということです。
以上のことを言い換えると、
*ヒトがつくりだした、「何か」の代用品=道具=手段である「言葉」は、ヒトの思わく=意図を超えたものとして存在し機能する。また、ヒトが、「何か」の代用品=道具=手段をつかうという行動=現象=仕組みも、ヒトの思わく=意図を超えたものとして存在し機能する。
となります。
*言葉たちに演じて「もらっている」=「いただいている」
とは、そうした事情から書いたフレーズなのです。お分かりいただけたでしょうか。
*言葉たちに演じてもらっているとか、演じていただいていると言っても、言葉を書いているのは、あなたではないですか。
と反論したい方がいらっしゃるにちがいありません。
確かにそうです。でも、さきほどの、とちくるった怪しげな文章は、いわば、
*サイコロを振る(※「骰子一擲(とうしいってき)」なんて言い方もあります)
ようにして、
*出てきた「目」(※サイコロの「目」)
である
*言葉の「表情=表層、動き=方向性、めくばせ=合図」
を見ながら、それに合わせて、つづった=紡いだ=書いた結果なのです。
もちろん、言葉が自然に出てきたわけではありませんから、言葉との
*合作=共演=競演=饗宴=共同作業=コラボレーション
という感じです。言葉の「表情=表層、動き=方向性、めくばせ=合図」などを無視して、こちらが主導して強引に書けば、あのような怪しげで=いかがわしい文章には、ならなかっただろうと思います。
今述べたような言葉のつづり方を、このブログでは、
*でまかせしゅぎ
と、とりあえず呼んでおります。
*「論理的に書く」「筋道を立てる」「系統立てる」「読むヒトにとって分かりやすく書く」
といった、「論文の書き方」とか「作文技術」とか「文章読本」のたぐいに出てきそうな、一連の
*美辞麗句=きれいごと=嘘っぱち=絵に描いた餅=砂上の楼閣
とはかなり隔たった書き方です。むしろ、
*賭博=賭け=ギャンブル=ばくち=一か八か=よーござんすか~?=骰子一擲(とうしいってき)=コロリんこ……。出たぁ~!
にかなり近い書き方です。
*
話をもどします。
*何もないところから何かが出てくることはない。
あるいは、
*無から有は生じない。
と、
*ヒトは、「何か」の代わりに「その「何か」ではないもの」を用いている。
とが、深くかかわっているようだという話でしたね。
で、話をややこしくしないために、大和言葉系バージョンを採用して説明を続けます。
*何もないところから何かが「出てくることはない」
というフレーズの意味こそが、まさに
*何もないところから何かが「出てくる」にほかならない。
と言えます。どういうことかと申しますと、上述のフレーズの
*意味は、ヒトにとってのみ「意味がある」
ということなのです。蛇足ですが、
*「意味とは何か」なんて考えても答えは出ないというか、意味はない。
のであり、
*ヒトだけにしか意味のない「意味」とは、ヒト以外にとっては「無意味」であり、その意味では、ヒトはいわば「何もないところから何かを「出している」」=「無から有を「生じさせている」」。
と言えそうです。
*「何もないところから何かを「出している」」=「無から有を「生じさせている」」
なんて、
*テキトーな=ふざけた=荒唐無稽な=いかがわしい=胡散くさいこと
が可能なのは、
*ヒトがつくった、あるいは、太古に脳に起こったとてつもないズレの結果としてヒトが獲得してしまった、言葉という道具=手段
と、
*ヒトの想像力=創造力=妄想力=「何もないところから何かを「出すことができる」」という確信・妄信=「無から有を絶対に「生じさせてやる」」という執念・妄執
とが、
*相乗作用を起している=共犯関係にある=ぐるになっている=グル(guru)になっている
からではないでしょうか。
*
以上を単純化すると、
*<「ない・無」⇒「ある・有」> = <「何か」⇒その「何かではないもの」>
となり、やっぱり、
*ヒトは、「何か」の代わりに「その「何か」ではないもの」を用いている。
と言えそうです。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
#エッセイ
#言葉