本物の偽物(前半)
星野廉
2020/09/18 12:49 フォローする
きのうの「まことはまことか(前半)」と「まことはまことか(後半)」をまとめてみます。
「ま」とは「口癖」である。もう少し詳しく言うと、「まこと」という言葉の「ま」とは、ヒトという種の「口癖」である。さらに言うなら、まことはまことでなない。言い換えると、「まこと」や「真実・真理・真言・事実・現実」なんて嘘である。対応物を欠いたぺらぺらのラベルでしかない。
以上のようになります。「とちくるっている」、「魔が差したにちがいない」、「真に受けるに値しない」、「まともじゃない」「まちがっている」と言われるのは覚悟のうえです。
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以前は、
「ヒトはわかることしかわからないように出来ている(※興味のある方は、「もしかして、出来レース?」を参照ください)」
とか、
その延長線にある「ヒトには生得的にわかるための経路がそなわっている(※「あわいあわい・経路・表層(1)」と「あわいあわい・経路・表層(2)(前半)」と「あわいあわい・経路・表層(2)(後半)」に書きました)」
とか、
「ヒトの言うことはすべてが決まり文句だ(※「げん・言 -6- 」で論じています)」みたいに考えていたことがあります。
その「変奏=変装=変相=ずらし」という感じで、出まかせで出てきたのが、きのうの「口癖」という考え方でした。いずれにせよ、「言葉」と言葉が指し示していると信じられている「もの・こと・行為・状態」の間に、何らかの関係性があるという「神話=作り話=たわごと=でたらめ=でまかせ」に、我慢ができないという気持ちから出てきた、このアホの自己流の「でまかせ=与太話=たわごと」であることは言うまでもありません。
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きょうは、「まこと」とか「本当」とか「真実」とか呼ばれている「何か」の反対語と信じられている「にせもの」「まがいもの」「うそ」という言葉とイメージについて書いてみたいと思います。
ことろで、口癖として「うそーっ!」とか「本当に?」という言い回しがありますね。このペアって、安直に言えば「偽 vs. 真」なのですが、「機能=役割=働き」という点では、その2つの言い回しは「同じ」とか「激似」と言ってもよさそうです。ほかに、似たものでは「信じられない」「あり得ない」「アンビリーバボー」なんて言い方もありますね。
思うんですけど、こういうフレーズを口にする時って、何だかうれしくありません? 少なくとも自分の場合はそうです。他人様が口になさるさまを見ていても、わくわくしているというか、楽しそうという印象を受けます。
もちろん、悲しい知らせや悲惨な話を見聞きしたさいにも、以上の決まり文句を吐きますね。でも、たとえ良くない情報を得た場合であっても、「うそーっ!」「信じられない」「本当に?」と叫んでいる瞬間は、一種の「忘我状態=思考停止状態」にあるというか、頭と体が麻痺しているというか、何か鎮静作用のある脳内物質が働いているとしか思えないような「わくわく感=幸福感」に包まれている感じがしませんか。
強い精神的なショックを受けたさいには、文字通り絶句して言葉など出ないような気もします。まさに、言葉を発する余裕などなく、せいぜい叫ぶだけ。「ぎゃー」「きゃー」「おー」「あー」「むーん」「…………」と、記述できるような状態ではないでしょうか。ちゃんとした言葉が口から出るというのは、余裕のある「印=証し」とみることもできそうです。
というわけで、いつものように出まかせを言わせてもらいますと、「うそーっ!」「信じられない」「本当に?」といったたぐいの「口癖」は、「発作」とも言えるのではないかとも思います。もちろん、比喩です。この「口癖」をずらした「発作」の場合には、その「わくわく感」は、「本当は本当なんて信じちゃいないよ」「まことにまことなんてあるわけがないけど、いちおう、みんながいつも、そうだと言っているから信じているふりをしてるだけ」という「本音 or 体感で知っていること」が、「発作」というかたちでぽろりと「出た」。そんな感じではないでしょうか。
ヒトには、「本当なんてない」と「ほぼ無意識的に気づいている」部分がある。ヒトは、密かに「真実や本当なんてない」と体感している。このアホは、そう信じています。その「無意識」や「密かな体感」が、「発作」となって、不意に「出てくる」。
「うそーっ!」「本当に?」「信じられない」「あり得ない」「アンビリーバボー」「まさか」。
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いちおう、お断りしておきますが、今しているお話は、言うまでもなく、生物学や医学や生理学や心理学とは関係がありません。ただの素人、それもアホの与太話=出まかせです。ここで問題にしている「発作」とは、「比喩・レトリック・言葉の綾」です。でも、本気でやっている冗談なんです。まことに本気なんです。正気かどうかは知りません。知るよしもすべもありません。
比喩的な意味での「発作」というのは、「仮死状態」や「死に真似」や「病気の真似」に相通じるイメージがありませんか? 要するに、「まねる・にせる・えんじる・よそおう」という一連の動作とつながっているように思えます。癇癪やヒステリーと呼ばれている行為も、「発作」の一種なんでしょうか。あれも、「何か」を無我状態で「まねて・にせて・えんじて・よそおって」いるように、見えなくもありません。
「そんなことを言うと(=すると)、承知しないぞ。やめないと、一線を越えてやる」という感じでしょうか。その「一線を越えた状態」が「何か」です。すごく恐ろしいものでしょう。でも、それが「何か」は分かりません。一線を越えて初めて「あきらかになるもの」だという気がします。だから、「何か」なんです。
「うそーっ!」「本当に?」も、「何か」を「まねて・にせて・えんじて・よそおって」いる、不意の「発作」だという気がしてなりません。その「何か」は、「ヒトにはわからないようになっている仕組み=『何かの代わりに何かを用いる』という代理の仕組み」の支配下にあるように思えます。
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話を戻します。
「まこと」とか「本当」とか「真実」とか呼ばれている「何か」の反対語と信じられている、「にせもの」「まがいもの」「うそ」という言葉とイメージについての話です。で、整理するというか、散らかしてみますと、次のようにも言えそうです。
「ま」(=「まこと・真実・真理・真言・事実・現実」)とは、言語を獲得してしまったヒトという種の「口癖」であり、「景気づけ」であり、「発作」であり、「はったり」であり、「でまかせ」であり、「もがき」であり、「かけ・ばくち」であり、「願かけ」であり、「まこと」は実は「まがい」である。
出ました。「まがい」が出ました。「まがい」とは、「まこと」の反対語というか、「ペア=対を成すもの=並ぶもの=パラレルなもの」です。パラレルとは、「パラレル」、「日本語にないものは日本にない?(3)」で触れたことなのですが、簡単言うと、「勘違い平行棒」みたいなイメージです。「段違い平行棒」と読みかえていただいても、いっこうに差し支えありません。
ただ並んでいる、上下も左右も優劣も主従もない位置関係のことです。ただし、ヒトは勘違いして、上下や左右や優劣や主従を見てしまう。つまり、「平行線をたどるしかない=にっちもさっちもどーにもブルドッグ状態」に陥るしかないたぐいの「騙し絵」みたいなものだとイメージしてください。
このように「パラレル」な状態は、観測者=見るヒトの位置によって、いろいろな色づけがなされ、いろいろな意味合いを帯びます。たとえば、「まがい vs. まこと」や「にせもの vs. ほんもの」を対義語と見るヒトには、視座や立場や思惑や利害関係があります。そのどれもが、ヒトの「勝手=都合=たくらみ」です。
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で、ここで、わざと、ある「勝手=都合=たくらみ」を実行してみます。きわめて官僚的かつ事務的な作業をします。
「まこと」および「ま・真」のいわゆる反対語とみなされがちな言葉を並べてみます。主に、やまとことばを集めてみましょう。
「まがい」「まがいもの」「まがう」「まがえる」「まざる」「まちがえる」「まちがい」「ちがう」「たがえる」「たがう」「まねる」「ならう」「なぞる」「にせ」「にせもの」「にせる」「にる」「にている」
「つくる」「こしらえる」「いつわる」「うつわる」「いつわり」「だます」「うそをつく」「あざむく」「ゆがめる」「よそおう」「ふりをする」「ばける」「かえる」「かわる」「かわり」「はずれる」「はずす」「ずれる」「すらす」「すれる」「うつる」「うつす」「うつし」。
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今度は、からことばをまじえます。ちょっと趣向を変えて、いわゆる対義語も挙げてやってみます。からことばの場合には、そのほうがイメージしやすいと思うからです。ただし、対を成す語が思いつかない時には、省かせてください。
「病気・仮病・作病・詐病」「真名・仮名」「本物・偽物・フェイク」「実物・複製・コピー・レプリカ」「まこと・真・かたこと・片言」「死・仮死」「説・定説・仮説」「詐欺」「詐称」「本名・偽名・仮名」「真性・仮性」「実像・虚像・仮像」「主体・客体」「証言・偽証」「実話・ノンフィクション・ドキュメンタリー・ルポルタージュ・報告・作り話・フィクション」「真実・本当・嘘・偽り」
「語る・騙る・語り・騙り・作話」「真似る・学ぶ」「仮装」「仮想」「偽装」「擬装」「変装」「変装」「編曲・アレンジ」「正・副」「正常・異常」「健常者・障害者・障がい者・障碍者」「健康・病気」「生・死」「前進・発展・発達・後進・後退・退化」「清い・汚(けが)れてる」「正教・神聖・邪・邪宗・邪教」「聖・俗」「主人・従者」「神・悪魔・ゴッド・デーモン」「陽・陰」「ポジティブ・ネガティブ」「正・誤」「善・悪」「正統・異端」「本家・分家」
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いやー、いかがわしいですねー。からことばを対義語と呼ばれているものと並べてみると、そのうさん臭さがよく見えます。
というのは、漢語系の言葉やヨーロッパ系の言葉は、学問の場、つまりアカデミックな場=商売や、司法・立法・行政の場=商売や、宗教という場=商売などで使用されるために、もっともらしく、偉そうにしていなければなりません。さもないと、その「権威」を保つという「使命=ミッション=役割=役柄」を放棄することになってしまいます。
なお、対義語や反対語とよばれている「クラス分け=差別=選別と排除」のいかがわしさについては、「差別化」で詳しく論じていますので、ぜひ、ちらりとご覧ください。
さきほど書いたことを繰り返します。
「ま」(=「まこと・真実・真理・真言・事実・現実」)とは、「口癖」であり、「景気づけ」であり、「発作」であり、「はったり」であり、「でまかせ」であり、「もがき」であり、まことは=実は「まがい」である。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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