システムと有効性と比喩

げんすけ

2020/08/04 09:04


 きのうの記事の続きです。図式化しますと、言ちゃん、幻ちゃん、現ちゃんという3人のゲンちゃんの位置関係を、


    言

   /  \

   現 ―― 幻


から、


 言――幻――現 


あるいは、


 言→幻→現


として考えてみる=見てみる、という話でした。なぜ、このような図になるのかに、ご興味をお持ちの方は、きのうの記事をご一読願います(※安心してください。過去の記事を読まなくても分かるように書きますので)。


 きょうは、


 言→幻→現←幻 = げん→げん→げん←げん


みたいな話になると思います。


 で、今、あたまのなかにある3人のゲンちゃんをめぐっての「ごちゃごちゃぐちゃぐちゃ」した、


*言葉になる前の「何か」=「分けられないもの・分からないもの」=「イメージ+言葉の断片」=「熱」=「実体を欠いた運動」を、「見ようとしている」=「耳を傾けている」=「感じ取ろうとしている」=「分けようとしている・分かろうとしている」


ところです。


*今、ここにあるもの・こと・現象を見つめ、手持の知識と記憶を呼びさます


というのが、このブログのスタンスです。


*横着=安上がり=テキトーな方法


だとは思いますが、一方


*崖(がけ)っぷち的でしんどい作業


でもあります。


 でも、好きでやっていることなので、疲れても苦にはなりません。で、頼るもの=支えてくれるものとしては、記事を書くために書き溜めた走り書きメモがありますが、そのほかには、自分のからだとあたましかありません。


 いったんは踏んばるわけですが、力が出ないために、頑張るのはやめて、


*偶然性と、勘・感・観・間と、身をまかせる


つまり、


*まける


のです。その結果が


*でまかせ=出任せ=「出る」に「任せる」


です。これって、自分の人生そのものです。振り返ってみれば、ずっとこんな具合に生きてきました。


 と、自分のスタンス=やり方を、確認し言い、自分に聞かせたところで、本題に入ります。


     *


 きのうの記事で、


*言=言語=ことばも、幻=幻想=まぼろしも、現=現実=うつつも、同じだ


という意味のことを書きました。言い換えると、この3者=3人のゲンちゃんたちが、どうからみ合っているかについて、書いていたのです。もっとも大切なのは、


*言と幻と現が切り離せない。


という点です。なぜ、この3者が切り離せないかというと、


*ヒト「が」、しがみついて「放さない=離さない」  =  ヒト「に」、しがみついて「放さない=離さない」


からです。ヒトという種(しゅ)が存在しなければ、言と幻と現なんて、意味がないし、だいいち、存在しないはずです。


 このように、


*ヒトにおいて切り離せない=ヒトが不可分なものとして認識している「もの・こと・現象」たちを、とりあえず「システム」と呼ぶ。


ことにします。言と幻と現に関して、比喩を用いるとすれば、


*水分を含んでぴったり重なり合った3枚の枯葉


です。腐敗が進行し始めた枯葉がいいですね。くっついてなかなか剥がせません。ただし、これは比喩です。このように、


*「何か」を説明しようとする場合には、「何か」自体を、しつこく丹念に「描写」=「写生」する


方法と


*「何か」の代わりに「その「何か」以外のもの」を、安易に「描写」=「写生」する


方法があります。前者は、実に大変な作業で


*しつこく丹念に苦労して、記述する


ことになります。不可能に近い、切りのない作業です。一方、後者においては、前者の記述=描写=写生にともなう、気の遠くなるような作業を簡便化するという目的があるために、


*あまり深く考えることなく安易に、記述する


傾向がみられます。それりゃ、そうですよね。わざわざ、どこかからややこしいものを持ってきて、それを用いて説明するなんて馬鹿なことはしません。比喩として使えそうなものを持ってくるのです。だから、やらせであり、出来レースを企んでいると言えます。


*比喩は記述の手間を省くために使うツールである。


と言えそうです。これまでに、何度か書いてきたことですが、


*比喩を用いる場合には、Aの代わりにBを用いていることを忘れ、AではなくBの話になってしまっているという愚に陥らないように警戒すべきである。


点を忘れてはなりません。そのことに注意しながら、


*水分を含んでぴったり重なり合った3枚の枯葉(葉っぱです、言の葉の葉っぱ、しかも枯れている。クロード・レヴィ=ストロースの、三色スミレ=野生の思考のように洒落て小綺麗なイメージではありませんが、個人的には好きです。これって自分みたいじゃないかなんて思うのです。あ、これも比喩ですね。)


の話を続けます。


     *


 状況を確認しますと、言と幻と現がぴったり重なっているわけです。枯葉の腐敗が進行していますから、剥がそうとすると、3枚の枯葉は破れて=損傷してしまいます。


*3枚の枯葉は一体化しはじめている


ということです。


*腐敗の進行によって、3枚の枯葉のあいだに「つながり」=「むすびつき」=「細胞壁の破壊・劣化・崩壊にともなう細胞同士の合体」が促進されつつある


ということでしょうか。でも、まだ完全に一体化されたわけではありません。ここで気をつけなければならないことは、「3枚の枯葉」という比喩をつかった場合には、


*最終的にその3枚がどろどろに溶け、一体化してしまう


というイメージが「働く=ともなう」、という点です。


 さて、比喩である「3枚の枯葉」のご本尊(※これも比喩です)である「言と幻と現」は、どろどろに溶けて一体化するのでしょうか? しませんよね。だから、この比喩をつかって、これ以上、深入りしないほうがいいということになります。でも、つい、調子に乗って深入りしちゃうんですよね。そうした例は、ざらにあります。


     *


 次に、冒頭で挙げた図を再び取り上げます。


    言

   /  \

   現 ―― 幻


 言――幻――現 


 言→幻→現


 以上の3つの図も、「言と幻と現」を記述したものです。微妙に異なっています。なぜでしょう? 視点=支点が異なっているからです。つまり、3つがそれぞれ、ある視点に立って、言い換えれば、ある支点を基準にして記述しているから、異なった図になっているという意味です。


 さらに言うなら、これらの図=記述が異なっているのも、図という記述法が「比喩」だからです。さらにいうなら、そもそも、「言と幻と現」という言葉=イメージが「比喩」だからです。


 ただ今書いたことは、すごく当たり前の状況を示しています。そもそも、とりあえず「言と幻と現」を記述したヒトの行動のある側面を、二次元の図=平面の図として、記述できるわけがないのです。


*比喩を比喩して比喩にする。=たとえをたとえてたとえる。


のですから、


*ひゅーひゅーひゅー状態


という「比喩」を用いることも可能でしょう。何を言いたいのかと申しますと、


*ヒトが、血道をあげて=必死になって=なりふりかまわず日々行っている記述という作業=習性は、比喩=たとえ=こじつけ=代理任せ=ほぼでたらめである。


ということです。


*そうしたでたらめぶりを覚悟して=認識して=肝に銘じて、記述を行いましょうよ


と申し上げたいのです。というのも、


*ヒトが、「何となく、「何となくでない」をしている」=「何となく「とんでもない」をしている」


という、きのうの記事でも書きましたことを、いけしゃあしゃあとやり続けているさまを見ていて、悲しくなるというか、情けなく思えてならないからなのです。これは、この記事を書いている自分というアホを含めての話です。自分を棚に上げたり、脇に置いたりはいたしません。


*ど真ん中に、このアホを据えて土下座させての話


なのです。現に、「言と幻と現」を「3枚の枯葉」にたとえたり、上に挙げたようなでたらめな図式化をして、


*行き詰まっている状況=放っておけばそのまま無意識のうちにあるいは故意にでたらめを続行しかねない状況=気に留めなければ「何となく・とんでもない」状態にある


ではないですか。ああ、みっともない。ああ、恥ずかしい(※道化や恥ずかしいのって大好き=太宰治生誕100年記念キャンペーン(※記事の鮮度が悪くて申し訳ありません)=「生まれてきてすみません」運動の一環です。ちなみに、たった今書きましたことには、深い意味はありません。暑気払いみたいなものです)。でも、致し方ない。ヒトである以上、どうしようもない。


     *


 さて、以上述べましたような


*神経症的心境が、「言=言語=ことば」にこだわっている視点・支点


なのです。


*こういう心理状態に陥ると、日常生活を送るうえで、かなりの支障をきたす。


と経験上申せます。ここで、お気づきになられたことと存じますが、以上のようなややこしい記述をしているこのアホこそが、「言=言語=ことば」にこだわる傾向が強い見本=好例です。


 一方、


*「幻=幻想=まぼろし」にこだわっているヒトたちは、「言=言語=ことば」のレベルで悩むなんてことはまれである。


と言えそうです。何しろ


*「狂え! 狂え! みんな、本能が壊れているんだ。狂え!」的心境


にありますから、


*あたま=脳=意識というスクリーン(※比喩です。このヒトたちは比喩を比喩だなんて意識しません)に映し出される映像を、現実だと言い聞かせて、あるいは、現実だと正々堂々と錯覚して、食い入るように見つめている。


のが、ほぼ常態です。その状態=常態を楽しんでいます。というか、


*楽しんでいると感じる余裕もないほど楽しんでいる。


と言えます。この心理的状況がエスカレートすると、日常生活に支障をきたす場合がありますが、それは少数のヒトにみられる現象=症状で、


*かなりノリノリでも=かなり熱くても=かなり面の皮が厚くて鈍感でも、それなりに何とか日常生活をおくることができる。


と言えます。というのも、


*「幻=幻想=まぼろし」にこだわっているヒトたちは、「現=現実=うつつ」にこだわっている=うつつにうつつを抜かしているヒトたちとかなりダブっているというか、両者は分かれて存在しているのではなく、2つの傾向のあいだを同じヒトたちが行ったり来たりを繰り返している。両者の違いは、程度の差にすぎず、両者は圧倒的多数派であり、ヒトはこうであるのが、ふつうである。


からです。


*「幻=幻想=まぼろし」にこだわっている状態が、沈静化すると、「現=現実=うつつ」にこだわっている=うつつにうつつを抜かしている状態になる。


というのが正確な記述の仕方かもしれません。あくまでも、「かも」です。ということは、さきほど触れた、神経症的心境にある「言=言語=ことば」にこだわっている視点・支点に立っているヒトたちに関しても、同様のことが言えそうですが、少し異なる側面があるため、


*「言=言語=ことば」にこだわっているヒトたちは、「現=現実=うつつ」にこだわっている=うつつにうつつを抜かしているヒトたちとダブっているというか、両者は分かれて存在しているのではなく、2つの傾向のあいだを同じヒトたちが行ったり来たりを繰り返している。ただし、「言=言語=ことば」にこだわる傾向と親和性のあるヒトが、「現=現実=うつつ」にこだわる状況に近づく勢いは弱い。両者の隔たりは大きい。


と言えそうです。その点だけに注目して図式化すると、


 言←――――→現←→幻


というイメージ=像として記述することができそうです。この図からも、お分かりになると思いますし、きのうの記事でも触れましたが、


*「現=現実=うつつ」にこだわる状態が、ヒトの常態であり、この状態にあるかぎり、「言に過度にこだわる」神経症的心境に陥ることも、「狂え! 狂え! みんな、本能が壊れているんだ。狂え!」的心境に陥ることもない。


と一般化できます。あくまでも「一般化」=「一般論」=「マイノリティはぜんぶ切り捨て」です。


     *


 さて、自分が「言=言語=ことば」にこだわる神経症的心境に陥っていると信じているアホとしましては、「現=現実=うつつ」にこだわるのも「幻=幻想=まぼろし」にこだわるのも、苦手だと思い込んでいるために、冒頭で取り上げた、


 言→幻→現←幻  =  げん→げん→げん←げん


という図という記述を、「言=言語=ことば」的視点・支点から、言葉を用いて記述したいと思います。


1)ヒトは、他者=周り=世界=宇宙=森羅万象を、刺激として、知覚器官によって知覚し、情報化=データ化=信号化する。なお、ここでの刺激とは、のちに意識において、言=広義の言語=表象(映像・音声・物・現象・状態など)として認識されるものである。言として認識されないものは、刺激として知覚されない。


2)ヒトは、1)で受け取った情報=データ=信号を、ニューロンを通して脳に伝達する。


3)ヒトは、脳において、1)で受け取った情報=データ=信号を、幻想=まぼろし(=イメージ)として脳内における意識というスクリーン(※もちろん、比喩です)に映し出す。スクリーンに映し出された映像(※もちろん、比喩です)は、記憶として脳内に保存される。なお、1)と2)がきわめて高速で、しかも精度が高いのに比べると、脳内での意識というスクリーンに投影する作業は、低速で、精度はきわめて劣る。


4)ヒトは、脳において、1)で受け取っていない情報=データ=信号も、幻想=まぼろし(=イメージ)として脳内における意識というスクリーンに映し出す。この時にスクリーンに映し出されたその映像もまた、脳内に記憶として保存される。


5)ヒトは、3)および4)で記憶として保存された映像を、再び、あるいは、繰り返し、スクリーンに映し出す。そこで映し出された映像は、記憶されているままに再現されるとは限らない。つまり、改変される。改変された映像もまた、脳内に記憶として保存される。


6)ヒトが脳において、3)4)5)という形で、意識というスクリーンに映し出された映像=幻を認識する状態=行為が、ヒトにおける、知覚する、および、思考するという状態=行為であり、その状態=行為をとらえることこそが、ヒトにおける現=現実=うつつにほかならない。


7)以上の1)~6)に分けて記述した状態・行為を、ヒトは「分けてとらえる=分かる」ことができない。ヒトにとって、言と幻と現は不可分のものであり、区別することも、分けて認識することもできない。したがって、言と幻と現は、漢字で記述するよりも、げんとげんとげんという形で、ひらがなで記述するのほうが、ヒトにとっての認識を体感しやすいと言える(※きのうの記事で表記された言葉たちが具体的に演じてくれたように、ひらがなの意味の層は「あつい」のです)。


8)言と幻と現に関しては、各要素に着目すれば「言=幻=現 = げん=げん=げん」と記述することができ、その各要素のメカニズムの方向性に着目すれば、「言→幻→現←幻 = げん→げん→げん←げん」(※矢印の方向に注意してください)と記述することができる。


【※1)~8)の記述で用いた文体は、断定調ですが、すべてのセンテンスに、「と言えそうです」 or 「と考えられます」 or 「ようです」 or 「みたいです」を、あたまのなかで適宜補って読んでいただくよう、お願いいたします。書かれていることは、ぜんぶ、このアホのでまかせ・妄想です。】


     *


 以上が、冒頭近くで書いた、


*ヒトにおいて切り離せない=ヒトが不可分なものとして認識している「もの・こと・現象」たちを、とりあえず「システム」と呼ぶ。


というフレーズの説明=ごたくです。というわけで、ここまでのくだくだした説明=ごたくから、


*「システム」とは、複数の要素間の「関係=仕組み=メカニズム=働き=経路=方向性」を、記述するうえで、ある程度の「有効性」=「記述の可能性」を備えた、「記述の結果」である。


また、


*「システム」の「記述」を支えるものは「比喩」という仕組み=働きであり、「システム」に「有効性」が備わっていると判断or想定する場合には、徹底した「比喩」の仕組み=働きの検証を行う必要がある。


と言えそうです。もちろん、これも、でまかせ=妄想ですので、この


*「システム」の「有効性」における「比喩」の仕組み=働きの検証の有効性は、検証できない。


と言えます。「言=言語=ことば」にこだわると、こうした神経症的状況=「出口なし」状況=「行きどまり」状況=「だめだこりゃ」状況に陥ります。


 英語では、こういう状態を


*dead end


 と言いますね。The end.


     *


 この行までお付き合いいただいた方に感謝いたします。どうもありがとうございました。



【※「システムと有効性と比喩」 のあとは、当時のアホめはブログを閉鎖し、寝込んでいました。夏バテと、親の介護と、難聴に伴う生活上のストレスが重なって、抑うつ状態が悪化しました。ドクターの指示で、お薬の飲み方を変えたり、書くことをやめて、休養に専念した結果、何とか乗り切ることができました。体質上、強めの薬が飲めないため、毎日ただぼけーっとすることを心がけて休んでいました。今年の夏も気をつけなければなりませんね。】



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77



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