ふーこー・どぅるーず・でりだ(その2)

げんすけ

2020/07/13 09:35


 さて、哲学です。


*哲学をしたーい。自分の頭で考えたーい。


 これが、当ブログの作成者の叫びです。philosophy や、philosophie や、Philosophie  (philosophieren)   はできなくても、哲学はしたい。消える前までに、できるだけたくさんしておきたい。その後は「無」だから、今のうちにしておきたい。「自分の頭で考えたい」というと、何やらポジティブに聞こえますが、言い換えると、英語、フランス語、ドイツ語で哲学の原書を読むこと、ひいてはその邦訳を読むことは放棄しよう、日本人の書いた哲学書も読まないでおこう、要するに、


*全面降伏し、撤退し、逃げよう、または「勘弁してください」と土下座しよう


という姿勢なのです。早い話が、「自分の頭で考えたい」とは、インプットをやめて、ひたすら戯言(たわごと)をアウトプットするという、きわめてものぐさで横着なスタンスをとることなのです。


 ですので、自分には、もう哲学書を読む理由も義理もありません。これまで、読み、あるいは耳にした言葉の断片と、そうした言葉と遭遇したさいに抱いたイメージを呼び覚ましながら、新たに言葉を紡いでいこう。そんなネガティブで無精で覇気(はき)のない態度で、自分なりに、ぼちぼち、しこしこと、哲学していこうと考えております。うつのせいには、したくない。絶対にしたくはありません。こうしただらしないスタンスは、自分の根っからの気性なのです。


 怠け者で、暗くて、おまけにへそ曲がり。


 それは自分が、一番よく知っています。でも、本気です。本気なんです。これだけは言っておきたいです。それにもかかわらず、生意気にも、あえてきょうは翻訳にこだわりたいと思います。


<私家版『存在と無』―その1―>を書くために、自分なりに「概念」「観念」「意味」に、けりをつけておく必要があるからです。というか、けりなどつけることは無理だと承知で、けりをつける身ぶりを言葉で演じておく必要があるというべきでしょう。くどいですが、あくまで、「言葉で」です。


     *


 とにかく、概念や観念や意味というやつは難物です。亡霊です。背後霊のように、後ろから重くのしかかってくる。だから、お祓(はら)いをしなければならない。やつらは(※失礼!)毒みたい、ダニ(※ダニさんたちに、「失礼!」)みたいなものだと言ってもいい。だから、解毒しなければならないし、駆除(※ダニさんたちに、「ごめんなさい」)しなければならない。悪魔なら、悪魔祓いという言い方が適切でしょう。映画「エクソシスト」を思い出してください。


 ギャッハー!


です。半端じゃ、お祓いできません。現に、


*概念と観念というやつ


ですが、これは、たとえばフランスの哲学者たちが、精神医学者まで引き連れて束になり、言葉遊びやオヤジギャグなんかをかましたぐらいでは、とてもじゃないが手に負えなかった、半端じゃなく厄介なものなのです。


 そんなわけで、まともに悪魔に立ち向かうのはやめ、ちょっと視点を変えて、ここで言語の違いについて考えてみましょう。


     *


 哲学= philosophy が、いくら頭の中で「考える」行為だとしても、結果としては、「言葉」として口にし、それを誰かが(※たいてい弟子ですが)「文字」として記録したり、あるいは哲学をした人自身が「文字」として残します。つまり、哲学は言葉=言語(※たいていは母語)に「拘束=呪縛」されるということです。


 考える。話す。書く。いずれも、体を張った具体的な行為です。


 聞く。読む。そして、翻訳(※あるいは通訳)する。それを聞く。読む。これらも、体を張って「行為する」ことです。つまり、


*具体的な行為


なのです。ややこしい話になってきたので、ちょっと逃げます。比喩に走ります。オヤジギャグを飛ばします。悪い癖とは分かっているのですが、根っから根性がないので、踏ん張りがききません。で、比喩に逃げます。


 まず、フランス語とドイツ語を比較します。自分にとっては、辞書と文法書を頼りに、ほんの少し読めるくらいの言語ですが、自分の抱いているイメージを書いてみます。


 フランス語は軽快で、小回りがきいて、おしゃれで(※「駄洒落」の「しゃれ」も含みます)、明快(※言い古されたイメージです)なところが、いいです。一方、ドイツ語は、重厚で、力強く、生真面目(※「ドン臭い」も含みます)で、魂にぐっぐっとくるところが、いいです。フランス語は滑ります。ドイツ語は停滞します。


 フランス語が「下痢」(※失礼!)なら、ドイツ語は「便秘」か「胃もたれ」です。フランス語が「軽いめまい」なら、ドイツ語は「昏倒(こんとう)」か「失神」です(※フランス語、そしてドイツ語を母語とする方々、ごめんなさい)。


 で、存在と無ですが、『存在と無』を書いた、あの小柄なフランス人は、確か血筋的にも、また思考のプロセスを踏むうえでも、ドイツ人に近いDNA(※比喩です)の持ち主でした。だから、あの人の著作はフランス語で書いてあるのですが、胃にもたれます。


 欧米で仕事をしてきた、ある文芸批評家が、第二次大戦後のフランス哲学の状況を、


*「フランスはドイツによって再占領されている」


と、かつて言ったそうです。いや、嘆いたそうです。これを初めて聞いたとき、大学に入ったばかりの自分はびっくりしました。


 話が違うじゃないか。


 何しろ、「明晰ならざるものは、フランス語にあらず」という、あるフランス人がプロパガンダしたフレーズを信じきっていたのですから。迷ったあげく、ドイツ語よりフランス語に比重をかけて勉強しようと張り切っていたのですから。内なる自分に巣くっているモヤモヤから救ってくれるものを求めていたのですから。


 その「再占領」について、教えてくれた人――。


 懐かしい! 涙が出そうになります。今は一部の学生たちから「学魔」とあだ名を付けられています。自分が出会った当時は、少壮気鋭の(※なんと手垢の付いた言葉でしょう)英文学者でした。この記事をお読みの方、ぜひ「学魔」をグーグルなどで検索願います。


「学魔」様、くれぐれも目を大切になさってください。それだけが、心配でなりません。『存在と無』の著者もそうでした。『伝奇集』を書いた、アルゼンチン出身の作家もそうでした。もっともっと本を読んで、うんとうんと書いてほしい人が重篤な目の疾患に襲われます。残念でなりません。


 で、その「学魔」様が言うには、そのコスモポリタンな(※懐かしい響きの言葉です)文芸批評家は、仏・独・英語はもちろん、複数のヨーロッパの言語および古典語を、自由自在に扱うことができるという、古き良き時代の欧州の伝統的教養を身につけた、これぞ「生けるヨーロッパ文化」みたいな人だ、とのことでした。だから、大学に入りたての自分は、「再占領」うんぬんの話はヨタ(※「でたらめ」)ではないらしいと思ったのでした。


 そうか、せっかく米国に助けられて戦争に勝ったというのに、フランスはドイツによって、また侵され(=犯され)てしまったのか。いや、侵され(=犯され)続けているのか。


 本当でした。大学生となり、お勉強をしていくについて、その当時の若いフランスの哲学者たちがこぞって、もう世を去ったドイツの哲学者たちの著作の注釈みたいなことに熱中している実態が判明してきました。


 にもかかわらず、


若いということは馬鹿いということで、愚かでナイーブ(※国語辞典ではなく、英和辞典でnaiveを引いてください)だった自分は、ころりとそのフランスの哲学者たちの言うことや書くことに心酔してしまったのです。振り返ると、危うかった。あのフランス人たちの冗談半分を真に受けていた。というのも、あの当時のフランスの哲学者たちは、


*一種の知的アクロバット


にふけっていたのですから、本気で読んではいけない部分もあったのです。全部ではありませんけど。


     *


*だから、翻訳は信用できない。


と、自分は短絡するのです。


 一方、敗戦国であった日本の哲学は、いろいろ媚態(びたい)をつくってはみたものの、ドイツ哲学にも、フランス哲学にも、見向きもされなかった。侵され(※犯され)もしなかった(※これは、セクハラ発言です、お詫び申し上げます)。


 こうした状況は、現在もこの先も同じではないか、というわけで、ここで話はまたもや短絡(=飛躍)するのです。


 ビジネス上の通信文、メディアの報道記事、多国間でのさまざまレベルでの条約・コミュニケ・契約書、特許明細書、各種機械を始めハードやソフトのマニュアル、いわゆる実用書、自然科学の論文・書籍などの翻訳は、ここでは問題にしていません。人文科学・一部の社会科学の論文・書籍や、「純文学」(※「死語」ですか? いずれにせよ、とりあえず使います)の翻訳を問題にしています。もちろん、ここで特に疑問視しているのは、哲学書の翻訳です。


 上で最初に触れたほうの「翻訳の鬼」様は、こうした点についても敏感で、とあるドイツの哲学者の著した書物の新訳と旧訳を比較しながら卓見を展開していらっしゃいます。その議論を読むと勇気づけられる部分もあるのですが、正直言って、


*概念=観念なんか翻訳はできない、できっこない


と言いたいです。


 重すぎて、他の言語に置き換えることなど不可能。同じ言語内でもパラフレーズ(※言い換え)は至難の業(※それなのに人は楽々と「至難の業」をやっているつもりでいる)。まして、他の言語に変換などできるのでしょうか? 


 そもそも、概念=観念とは、まぼろし=空蝉(うつせみ)=現人(うつせみ)(※一昨日の記事をお読みいただければ幸いです)=空(うつお)ではないでしょうか? うんとやさしく言えば、概念=観念なんて「からっぽ」ではないでしょうか? それを言葉=言の葉で、掬い取ろうなどというのは、いかさまではないでしょうか?


*空しい、虚しい、むなしい、


です。概念退治、悪魔祓いなどは無理。実体がないのだから、そもそも無理。知覚も観察もできないのだから、絶対に無理。


 概念はヒトを縛るにもかかわらず(※比喩です)、ヒトは概念を手で触れることも、まして、拳骨(げんこつ)で打ちすえることも不可能。銃で撃っても駄目。原子爆弾でも無理。いや、この星に散らばって存在する原子爆弾を全部使ってヒトが絶滅すれば、可能かもしれない。言語を持った他の生物が、ヒトに代わってしゃしゃり出て来ない限りは。(「翻訳の可能性=不可能性」より ※直接書かなかった固有名詞は、山岡洋一、ジャン=ポール・サルトル、ジョージ・スタイナー、高山宏、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ、ジャック・デリダ、ジャック・ラカン、そして……フリードリヒ・ニーチェとマルティン・ハイデッガーとゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルなど、です。)



     〇


 

 ある言葉(※単語・語句・フレーズ・センテンス)の、物質性=音声 or 文字(※漢字・ひらなが・カタカナ・ローマ字)の響きや形に注目すると同時に、その言葉の抽象性=意味(※語義)=イメージにも注目して、「たとえる」=「こじつける」を行うのは、できそうで、なかなかできない技です。


 知的なアクロバットみたいなものです。たとえば、クロード・レヴィ=ストロースというフランスの文化人類学者が La pensée sauvage というタイトルの本を書きました。フランス語です。


 pensée を仏和辞書で引くと分かりますが、別項扱いで2つの意味があります。名詞で、「思考、考え方」と「三色スミレ、パンジー」です。「パンセ」みたいに発音します。パスカルの『パンセ』という本がありますが、レヴィ=ストロースは、その『パンセ』の愛読者だったようです。


 一方、sauvage には、形容詞として「野生の、未開の、自然のままの」の意味があり、名詞だと「未開人、原始人」という意味になります。「ソヴァージュ」みたいに発音します。「ソバージュ」というヘアスタイルは、ここから来ています。確かに「野性味」がある髪型ですね。


 すると、この本のタイトルは、2通りに訳せることになります。1つは、邦訳で採用されている「野生の思考」、もう1つは「野生の三色スミレ」です。だじゃれ=オヤジギャグといえば、それまでなのですが、言葉の音声=発音や、文字=スペリングの類似だけでなく、その言葉の意味・語義やイメージの類似にまでかかわっているのが、特徴的です。


     *


 古い例で恐縮ですが、「僕さあ……、ボクサー」なんていう、ガッツ石松氏のギャグとは一線を画します。いわゆる「深読み」ができそうです。たとえば、


*「野生の思考とは、ヨーロッパ的2元論=2項対立にしばられた思考法ではなく、3つ目の思考も含む豊かで柔軟な世界観である」(※「野生」と「思考」と「3」が出てきていますね)


という感じの深読みです。「感じ」と書いたのは、この本を読んだことがないので、勝手に想像しているという意味です。したがって、この想像は当たっていないかもしれません。厳密にはそうでなくても、そんな「感じ」だとして話を進めると、要するに、


*「○か△か」という選択と排除の論理


ではなく、


*「○でもあり△でもある」、あるいは「○でなく△でもある」、あるいは「○でもあり△でもあると言えるし、○でもなく△でもないとも言える」みたいなぐちゃぐちゃした考え方


になりそうです。


 どういうわけか、太古に言語を獲得してしまったヒトは、必死で「○か△か」という「分ける」作業を繰り返し、「分かる」という、いわば「知の快感」を覚え、「1か0」という究極的に「分かりやすい」仕組みを基本とするコンピューターを作り、今日に至っているわけです。つまり、


*「ぐちゃぐちゃ」から、「○か△か」=「1か0」へ


というイメージです。白黒を決めて、「すっきり」させちゃったということですね。便利と言えば便利、単純明快と言えば単純明快。杜撰(ずさん)と言えば、杜撰、大雑把と言えば、大雑把。


 このブログでは、


*テキトーと言えば、テキトー


と考えています。「テキトー=適当」は「いい加減」と同じで、ポジティブとネガティブの両方のニュアンスがあるからです。


 たとえば、「1か0」という「単純明快」な作業を、「疲れることを知らない」機械(※お察しの通り、コンピューターのことです)に無限大に近く何度も何度もさせると、「きわめて複雑」なことができます。実際、そういう作業を機械に任せながら、ヒトはこの惑星で「君臨した気持ち」を味わっているのです。大したものです。


     *


 話を、La pensée sauvage までに、戻します。言葉の音声面だけでなく、その意味=イメージまでに踏みこんだ「たとえる」=「こじつける」の名手を、自分の知っている範囲で挙げます。


 ステファヌ・マラルメ、ジャック・デリダ、ジャック・ラカン、高山宏なんか、すごく上手です。ほかにもいるはずですが、知りません。カタカナの3人はフランス人ですが、その作品や講義録や論文の多くは翻訳不可能です。


 したがって、翻訳書の出版は、無理を承知の「悪徳商法」に近いものになります。解説書の出版がもっとも読者にとって誠実な態度であり、また実際に読者にとって分かりやすいものとなります。


 ジャック・デリダについての解説では、豊崎光一という人が、大変いい仕事をしていました。残念ながら、故人です。本も、今では入手しにくいと思います。豊崎氏は、ミシェル・フーコーの解説書でも、優れた業績を残しています。(「たとえる(9)」より)



     〇



 親は無事退院し、介護が必要ですが家で生活できるようになりました。寝たきりではないので、まだ助かります。そういう暮らしに慣れてきたとき、今度は、自分が体調を崩しました。ちょうど昨年のゴールデンウィーク明けのころです。疲れがどっときた感じでした。入院こそしませんでしたが、数日間通院し、いろいろな検査を受けました。


 親が入院していたのと同じ病院だったので、ある程度、勝手が分かっていたので、心強かったです。でも、お医者さん、看護師さん、スタッフのみなさんに、いちいち耳の障害について説明しなければならないのも、体調の悪い身には、かなりのストレスになりました。で、その時期に、また考えていたのが、


*「信号」


なのです。


*病院で働く人たちとのコミュニケーション=「信号」のやりとり


 それだけのレベルではありません。検査の結果=情報は、すべてがデジタル化されたデータとして記録・保管され、必要なものだけが、患者である自分に伝えられます。数字、つまり数値やグラフである場合もあれば、医師や看護師の言葉による説明という形で、伝えられます。


「信号」についていろいろ考えていた過程で、かつて大学生時代によく翻訳で読んでいたミシェル・フーコーというフランスの人の書いた文章を、頻繁に思い出しました。フーコーは、決して長かったとは言えない生涯を通じて、


*「視線」


に注目しつつ思考を重ねた人でした。


 医学・医療・病院や、刑務所・刑罰・法といった、「隔離」および、「排除と選別」を前提とする、ヒトのいとなみや施設の構造を論じた文章に、それが顕著に表れていたと記憶しています。詳細はきれいさっぱりと忘れましたが、「視線」を重視した人だったことは確かだと思います。


 ジャック・デリダという、やはりフランスの人が聴覚的な比喩を多用した思索家であったとすれば、フーコーは視覚的な比喩を用いた思想家でした。デリダの文章では、声や鼓膜を始め、ティンパニだの太鼓だの鐘だのが出てきた記憶があります。それに知的アクロバットのような駄洒落の連発が特徴でした。


 一方、フーコーは、襞(ひだ)を視るとか刑務所の監視塔とか砂浜の光景とか絵画・美術作品などをめぐって長文の論文を書きました。駄洒落はあまり得意ではなかった気がします。


 なんて、見てきたような=自分で原著を読んだような口調で話しましたが、デリダとフーコーについての以上のお話は、豊崎光一の著作からの受け売りです。なお、豊崎光一と宮川淳ほど、私にとってその早すぎる死を悔やんだ人物はいません。(「あう(4)」より)



     〇



 トンデモ本というものに興味があります。トンデモ本に関する本を本屋さんで立ち読みしたくらいで、その詳しい定義は知りませんが、トンデモ本たちの紹介を読んでいて、わくわくぞくそくするような、久しぶりに覚える複雑な皮膚感覚とでもいうべき「何か」を経験したのです。


 この「何だか」分からない、わくわくぞくぞく感には、多分に性的なニュアンスも含まれています。妙に甘く懐かしいのです。性という「何だか」わけの分からないものに、本格的に興味を持ち始めた頃の、皮膚的+器官的むずがゆさに似ています。


 そういえば、最近、いつだったか、


*このブログも一種のトンデモブログではないか


みたいなことを書きました。「えっつ? わたしって○○だったの?」という感じです。実際、そのようでございます。


 で、トンデモブログという言葉がつかわれているのかを、グーグルで "トンデモブログ" という形で、ちゃんと "○○" 式に括弧でくくって検索してみましたところ、約472件のヒット数が表示され、驚きました。もっとも、トンデモとブログがくっついていないケースもあるみたいなのですが、ヒトは同じようなことを考えるのだなあ、とあらためて実感しました。ただ、その検索結果に、何となくきな臭い=物騒な気配を感じたので、個々のサイトを覗くのはやめました。


 振り返ると、小学校高学年から中学・高校という時期には、さきほど申しました、


*わくわくぞくぞく感=皮膚的+器官的むずがゆさ=下半身に生温かいお湯をかけられたような気分


を頻繁に感じました。ちょっと間違えると犯罪に走りそうな、


*衝動=欲求=「どうやって、自分を制したらいいのかわからない」気分


なのですが、これが男女に共通する感覚なのかどうかは分かりません。というか、恥ずかしくて他人様に尋ねたことはありません。


 高校生の時、生まれて初めて「詩」を1編だけ書きました。短歌や俳句といった定型詩ではないのですから、自由詩とでもいうのでしょうか。その詩は破り捨てましたが、一部だけはっきりと記憶しています。


<コンクリートを貼り付けた灼熱の地面に蜃気楼の立つこの都市は昼間からもう欲情している。>


 東京をテーマにした詩だったのですが、「欲情」していたのは、10代の後半に入って間もない頃の自分自身だったにちがいありません。誤解のないように、申し添えておきますが、トンデモ本にはいわゆるエロ本や猟奇的な内容の本ばかりが含まれているわけではありません。


 あるにはありますが、それだけではありません。もっと多種多様=豊かみたいです。「トンデモ本」とは、レッテルです。単なる、あだ名です。それ以上でも、それ以下でもありません。念のため、このことは強調しておきます。


     *


 きょうは、なぜ、トンデモ本の話をしているのかと申しますと、


*「と」


について、考えているうちに、おっとっとという感じで、とんでもない方向にすべって行きまして、ふと気づいたところ、トンデモ本のほうにまで飛んでしまったのです。とんだお笑い話です、しゃれにもなりません。


と、いうわけです。


 ジル・ドゥルーズという、もう、お亡くなりになったフランスの哲学者がいました。ピエール=フェリックス・ガタリという人とよく著作を書いていました。かつて、そのドゥルーズとよく並んで評された、ミシェル・フーコーやジャック・デリダに比べると、個人的にはあまり興味を引かれなかった人です。


 興味が引かれなかったというより、何を言っているのか、何を考えているのかが、さっぱりといっていいほど分からなかったのです。自分の貧困なフランス語力を棚にあげて、邦訳に問題があるのかと思い、原文にも当たってみたのですが、フーコーやデリダと比較すると、やっぱり、分からないのです。


「波長が合わない」という、あやしげな言い訳がありますが、そんなフレーズを持ち出したくなるほど、分からないのです。ただ、比較的良心的で、また良質だと思われるドゥルーズの解説書が何冊かありまして、それを読んでみました。


 解説書ですから、分かりやすく書かれています。でも、ピンと来ない部分が多かった記憶があります。今では、そうした解説書は手元にありません。ただ、1つだけ、すごく印象深い解説の一節を覚えているのです。


*ドゥルーズは「と」の人だ


みたいな意味のことが、書いてあったのです。で、この1週間くらい、


*「かく・かける(1)~(8)」シリーズ



*補遺=おまけ=付録=追加である3種類の記事


を、誰に頼まれたわけでもないのに、せっせと書いていたのですが、そのなかで


*「間(=ま・あいだ・あわい)」



*「際(=さい・きわ)」


ということについても、ずいぶん、いろいろと考えていました。


 話をもどしますが、トンデモ本と呼ばれている本たちの紹介文に目を通していたところ、


*トンデモ本とは、人が「ふつう」考えたり、観察したり、知覚する、いわゆるメジャーな部分ではなく、ちょっと、あるいは、とほうもなく、ずれた視点から、いわゆるマイナーな部分に光を当てている本たちである。


らしい、という感想を持ちました。


 だから、比較的ネガティブな目で見られているようですし、「正しい」「正しくない」という、ヒト特有の傲慢な2項対立から見れば、どちらかと言えば「正しくない」とみなされていたり、いわゆる世間=世の中=社会という「曖昧模糊とした」=「テキトーな定義しかできない」とした集団からは蔑視されたり、危険視されたり、無視されたり、規制されたりする存在であるみたいです。簡単に言うと、


*変


だと思われている本たちらしいのです。


 個人的には「変」が好きなので、トンデモ本に興味を引かれているのだと思っております。また、自分自身、「変」だと言われたことが数知れずあります。また「偏」屈だとも、よく言われます。変な話ですけど、「変」と「偏」って、変に=妙に似ていません? 


 トンデモ本というのは、隙間=ニッチ(※隙間市場=ニッチ・マーケットの、隙間=ニッチです)をついているとも言えそうだし、「存在の大いなる連鎖」=「森羅万象がつながる」=「何でもかんでもがむすびついている」とも通じる部分があるし、「たとえ」=「広義の比喩」=「こじつけ」という仕掛け=メカニズムを強引に追及=深化している本も見受けられるし、とにかく、紹介文を見ているだけで、わくわくぞくぞくしてくるのです。つまり、


*いったい、何が書いてあるんだろう?

*いったい、何に取り付かれているのだろう?

*いったい、何がそんなに快=「気持ちがいい」のだろう?

*いったい、何にそんな引きつける魅力があるのだろう?

*いったい、どこへ連れて行ってくれるのだろう?


と、いう感じです。あやういですね。


     *


 さきほど触れた「間(=ま・あいだ・あわい)」と「際(=さい・きわ)」という話ですが、これを「と」と言い換えることができるなあ、と思い、そういえば、ジル・ドゥルーズという人についての解説書に、「と」の話が書いてあったなあ、と思い出したのです。


 このブログは、あくまでも素人が誰に頼まれたわけでもなく、好きなようにやっている楽問=ゲイ・サイエンスの場であり、学問や学術や研究とは関係ありません。ですので、


*ジル・ドゥルーズにおける「と」


などと、肩に力を入れた文章を書くつもりはないです。


 で、「と」なんですが、ジル・ドゥルーズの場合には、正確にいうと、「 et 」なのです。フランス語では、「エ」にみたいに発音しますね。えっ? 「 t 」はどこに消えたの? と不思議に思われている方のために説明いたしますと、とても大雑把な言い方になりますが、フランス語では、「 c、f、l、r 」以外の子音が語尾に置かれた時には、発音しないのです。たとえば、Pas mal. (英語で言えば Not bad. =悪くないね=いいね)は「パ・マル」みたいに発音します。s は読まない。l は読む。ということです。


 で、et は英語の and と、とてもよく似たつかい方をします。すごく簡単に言うと、


*「単語A et 単語B」なら、「AとB」


*「語句Aor文A et 語句Bor文B」なら、「A、そして、B」


のように、つかわれます。


*「と」と「そして」の意味がある


と考えていただいて、かまいません。


 大切なことは、いわゆる接続詞であり、


*AとB、またはそれ以上の複数のものを「つなぐ」役割がある


ということです。このことだけは、つかんでおいていてくださいね。


 で、この


*「つなぐ」


ということですが、「つながる」、あるいは、「つなげる」からには、AとBのあいだには、何か


*「関係」


があるわけです。ここで、整理しましょう。


*「間(=ま・あいだ・あわい)」「際(=さい・きわ)」「と」「そして」「関係=関・係」


 以上の言葉たちに共通するのは、


*「つなぐ・つなげる・つながる・つながり」


という意味=仕組み=働き=メカニズム=運動=表情=仕草です。


 世の中、または、大きく言って、宇宙には、いろいろな、もの、こと、現象、がありますね。そうしたものを、言葉という道具をつかって、ヒトはつなぐことをしょっちゅうしています。想像力=創造力=騒々力ってやつです。知性=痴性=稚性ってやつです。


 だから、コンピューターをこしらえたり、月に仲間を送り込んだり、ベルリンの壁を破壊したり、2000年問題を乗り切ったり、ノストラダムスの大予言をぶっつぶしたりして、この21世紀を迎えているのです。


 もっとも、世界中でお金が足りなくなって、どんどんお札を刷ったり、まだ5月だというのに、真夏のような暑さのなかで、マスクをして外を歩いているという異様な風景も見られます。でも、人間様が「大したもの」=「退したもの」だということだけは、確かなようです。


 まちがっても、


*人類が「トンデモ本」化している。


なんて暴言=妄言=名言=迷言を吐いてはなりません。(「と、いうわけです(1)」より)



     〇



 ところで、ここまで書いてきた記事のなかで、「と」と「そして」に当たる意味の言葉をどれだけつかったでしょう。たくさんつかったはずです。このブログでよく出てくる、


で、


というのも、場合によっては、「そして」に近いつかい方をしていますね。


 これ、癖なんです。「それで」なんかに比べると、ちょっと失礼で軽薄な響きのある言葉ですけど、愛着があって、つい、つかってしまいます。ごめんなさい。


 で、「つなげる」のはいいのですけど、どういう具合につながっているのかは、きわめて「曖昧=テキトー=あんまり考えていない」場合が多いですよね。結論から申しますと、


*「AとB」に真ん中にある「と」は、「何でもありー」だ。


と言えそうなんです。


 ややこしい言葉をつかうと、順接(=「それで」「だから」)あり、逆接(=「しかし」「だが」)あり、並列(=「と」「そして」)、理由(=「というのは」「なぜなら」)あり、等値(=「つまり」「言い換えると」)あり、例示(=「たとえば」「例を挙げれば」)あり・・・という具合です。


 で、それを、さきほど述べたことと「つなげて」書くと、


*「AとB」に真ん中にある「と」は、「何でもありー」=「間(=ま・あいだ・あわい)」=「際(=さい・きわ)」=「関係=関・係」という、「つなぐ・つなげる・つながる・つながり」という運動=作用が、働いている=機能している「場=空間」である。


と、言えるように思います。


     *


 さらに、ややこしい言い方を紹介することになって恐縮ですが、一昨日まで、このブログで、シリーズでやっていて、「とりあえず」の「結論」とした部分から、ちょっとだけコピペをさせてください。


*偶然性とは、絆(きずな)で結ばれた森羅万象のかけら同士が「であう」場=可能性である。


*偶然性とは、森羅万象のかけらである割符の片割れ同士が符合する場=可能性である。


*必然性とは、ヒトが偶然性を装った=真似た結果として、作られた規則性=整合性である。この前提には、ヒトが偶然性に必然性を見ている=錯視しているという状況がある。この人為的な必然性の有効性は、ヒトが製作し操作している機械・器械類、およびそれらを利用しての諸システムにおいて、顕著に観察される。


以上の3ケの文は、過去の記事「書く・書ける(2)」から、引用したものです(このブログでは原則として自己引用しかしません。だから比喩的な意味での自家中毒症に陥っています)。こうした視点から見ると、


*トンデモ本という存在たちが、偶然性に満ちた宇宙において、「正しい」vs.「正しくない」とか、「まっとうな」vs.「いかがわしい」とかいう、人為的な=捏造(ねつぞう)された=「でっちあげられた」整合性である「必然性」の支配する、「言語界」=「想像界」=「(ヒトの)知覚という枠内」のなかで、「偶然性」と戯れながら、人為的な整合性に逆らい、あるいは、人為的な整合性にずれるという形で、森羅万象のかけら同士を「であわせ」「つなごう」としている。


ようにも思えてくるのです。


 その意味では、


*トンデモ本たちは、トンデモ本とは呼ばれていない本たちと、同じ資格と条件のもとに、「トリトメのない記号=まぼろし」として、消費され、あるいは保存され、最後には廃棄される運命をたどり、「ニュートラルな信号」として、めくばせを交し合っている。


と言えそうです。言い換えれば、


*トンデモ本たちは、かつて異端の書や偽書とも呼ばれ焼かれた書物に似て、神「と」悪魔、本物「と」偽物、真実「と」虚偽、正「と」偽、正「と」負……といった人為的な2項対立とは無縁であるかにみえる、現代物理学におけるある種の理論に似た、トリトメのない=不条理とも思える言葉の戯れと「似た」仕草や動作や表情を演じている。


とも考えられるのです。


 とはいえ、きょうのこの記事が、


*トンデモ本擁護


と、とられることは本意ではありません。かといって、別にトンデモ本が悪い、と言っているわけでもありません。ただ、このブログは楽問=ゲイ・サイエンスをやっているので、何かを擁護するといったスタンスは似合いません。


 あくまでも、楽しく、時にはくだらないギャグを飛ばしながら、ああでもないこうでもない、ああでもあるこうでもあるごっこ、をしているだけです。その点をご理解いただければ、幸いです。


     *


 ところで、トンデモ本を研究する人たちが「と学会」という集団をつくっているらしいですね。ということは、類似品の「ト学会」も含めて、「と」について、ああでもないこうでもないとか、ああでもありこうでもあると話し合う、


*「と学」 or 「ト学」


という言葉=お部屋=おトイレは、もうテナント締め切り=使用中= occupied =「入ってます」状態だということになります。残念。


 でも、「学問」があって「楽問=ゲイ・サイエンス」もあるくらいですから、「ト楽」とか「と楽」があってもいいかとも思いますが、そこまで「と」には思い入れが深くないので、とっとと引き下がります。とはいうものの、とってつけたような言い方になりますけど、


*と(=ト)って、とっても不思議


です。例を挙げますね。


*「と」をひっくり返すとカタカナの「ス」に似ていまっス。サッカーの試合の前なんかにコインを放り投げて先攻後攻を決めますね。あれって、英語では、toss =「トスをする」です。偶然性に任せる行為です。投げたコインが、ひっくり返ることもあるでしょう。そこに、トとスですよ。不思議じゃありませんか? 偶然だよ、でたらめの結果だよ、と言われそうですが、まさにその点を問題にしているのですけど……。


*上で書いたサッカーの儀式って、どこか「占い」=「卜」に似てません? コインの表が出るか、裏が出るかで、縁起をかつぐ人もいそうです。疑い深い人がいて、「このコイン、作り物の偽物じゃないか?」なんてケチをつけて、相手が「裏(=仕掛け)なんてないよ。うらない。そんな裏切りはしないぞ」なんて言ったりして……。失礼しました。


*ところで、今つかっているワープロソフトで「けいせん(=罫線)」って入力して、いろいろな形の罫線をみているうちに、「├」「┣」なんて出てきちゃいました。


*そうそう、上の文で書いた罫線の「罫」にも「卜」があります。それもそのはず、「罫」は、「け」とも読んで、易(えき)=易経、つまり、「当たるも八卦(はっけ)当たらぬも八卦」でおなじみの、中国から伝わった占いと関係があります。だから、「卦(け)」が出てきちゃうのです。算木(さんぎ)とかいうパーツに形として現れるものらしいです。詳しいことは知りません。ごめんなさい。


*ちなみに、ハングルにも、日本語のカタカナの「ト」に似た「├」みたいな形のパーツがあって、子音を表す一部のパーツと組み合わせて「あ」「か」「さ」みたいな音を表す母音の役割をしているようですね。でも、そのつかい方などは、知りません。残念ながら、ハングルでの「たちつてと」の「と」に当たる文字には、日本語のひらがなの「と」に似たパーツも、「├」みたいなパーツもないです。でも、しぶとく、めちゃくちゃこじつけようとすれば、ハングルの「と」に相当する文字には「と」と「ヒ」に、ちょっとだけ形が似たパーツが見えます。ちょっとだけ、嬉しいです。


*で、本屋さんでハングルの辞書や入門書を読んでいたところ、なんと「AとB」の「と」(=英語の and )に当たる語に「├」に似たパーツがありました。何だか、ほっ「ト」しました(※この辺の、こだわりには、自分でもやや尋常でないものを感じております)。


*それはそうと、ひらながの「と」は「止」の草体から、カタカナの「ト」は「止」の最初の2画からつくられたそうです。自分は長いあいだ「外」からとったのだと思っとりました(変なところで訛ってすみません)。


*訛るといえば、「訛」のなかに見える「イ」。これも、見方によっては、かなり無理がありますが、「ト」の鏡像に見えないこともないです。えっ? 見えませんか? 見えることにしてくださいよー。で、不思議ではありませんか、「ほぼ日刊イトイ新聞」を主宰なさっているイトイさん? そして、かつて「老人と子供のポルカ」(※老人「と」子供のポルカ)を、ひまわりキティーズ(※キテ「ィ」ー「ズ」)と一緒に歌っていらした、故・|左卜全(ひだりぼくぜん)(※左「卜」全)さん? えっ? もう、やめてケレ~! ですか?


 何だか、「と」と「ス」と「ト」と「├」と、それに「イ」までに、はまってしまい、ますますあやうくなってきましたので、このあたりで「と」めておきます。ご高齢の方から、やめてケレ~! なんて、叫ばれちゃったことですし……。


     *


「と」は「イ」え、


 今、考えて「イ」るのですが、上で、


「と」をひっくり返して「ス」にしたこ「ト」から始まり、その挙句には「イ」が「ト」の鏡像に見えるなどと書いて「イ」るうちに、ヤバそうだ、「スト」ップしなければ、自主的に「スト」ラ「イ」キしなければ、「ト」歯止めをかけよう「ト」したあたりから、逆に「ト」チクル「イ」がさらに悪化し、エ「ス」カレ「イ」「ト」し出したらし「イ」気配を感じるのです。


 で、今、あたまのなかをかけめぐっているのは、


*ノ「イ」「ズ」


「ト」「イ」う言葉なのです。


 ちょっと、ここで、コピペをさせてください。自分にトっては、トても大切なこトなのです。


*「賭け・賭ける」: 「かく・かける」シリーズ(1)~(8)の補遺としての記事、第2弾です。「賭け・賭ける」に必須の「確率・統計」が苦手で、扱えないことを恥じています。照れ隠しに、ケータイのダイヤルボタンを使ったオヤジギャグでお茶を濁しています。また、賭けやゲームが苦手であるという言い訳をしながら、旅行と音楽に縁遠いことも告白しています。ここでもまた、「人生は賭けだ」「人生はゲームだ」と居直っています。英語で「賭け・賭ける」を意味する語を挙げて、体裁をつくろおうとしています。急にシリアスになり、金融危機と大不況についての個人的な見解を述べています。そこから出発して、偶然性について、突っ込んだ考察をしています。その考察の下敷きは、去年、ノーベル物理学賞を受賞した人たちの発見した、摩訶不思議な理論および現象です。その理論・現象についての解説を、新聞や雑誌で読んだ時に、理解はできないながらも、かなり大きな衝撃と影響を受けました。シリアスな話になったので、最後は軽めの調子で記事を終えています。キーワードは、「gamble」「game」「bet」「venture」「chance」「金融工学」「証券化」「信用危機」「陰謀」「2進法」「2項対立」「機械・器械」「対称性の破れ」「クオーク世代の予言」「自発的対称性の破れ」「小林誠」「益川敏英」「南部陽一郎」「吉田戦車」「ビジネス書」「処世術」です。


 以上は、きのう書いたばかりの記事「こんなことを書きました(その8)」から引用しました。


 注目していただきたいのは、「摩訶不思議な理論および現象」というフレーズの前後です。キーワードに挙げられている、そのフレーズと関係しているらしき言葉にも、目を通してください。素人である、あるアホ=自分が、物理学の最先端の話を解説文で読んで、不思議な気持ちになった。それだけのことなのですが、個人的には只事ではなかったのです。


「かく・かける」シリーズ(1)~(8)というものを連日書いていて、「ノイズ」だけが、自分のなかでしっくり来なくて悩んでいました。シリーズは、一段落させて、「ノイズ」だけは「保留」しておこうと決めたのですが、今になって、その「ノイズ」が再びあたまのなかで蠢(うごめ)きはじめたのです。


     *


 結論から申します。


*ノイズとは、出合う=出会う=出遭う=出逢うべきペアの片割れを欠いた、「不幸で不遇な符号」である。


と、いう気がし始めたのです。


 上で引用した文章の最後に並べてあるキーワードの1つ、


*「対称性の破れ」


という考え方とは、まったく関係がないのですが、その言葉の表面=表情=めくばせに触発されて、「ノイズ」という言葉が、自分のあたまのなかで、蠢き出したとでも言いましょうか。そんな感じなのです。なぜかは分かりません。ただ、さきほどの、


*と・ス・ト・イ・「├」


と遊び始めたあたりから、妙な予感はありました。


*出合う=出会う=出遭う=出逢うべきペアの片割れを欠いた、「不幸で不遇な符号」たちは、破れて=敗れて=藪の中に紛れてしまっている。それが、不意にノイズとして立ち現れる。


というような気もします。やはり、これが、例=霊=零=隷=レ「イ」の、言霊になりきれないでいる=成仏(じょうぶつ)できそこなったままでいる、野異徒=埜畏頭=ノ「イズ」=


*ノイズ


なのではないでしょうか。


*「ニュートラルな信号」にもなりきれないという意味では、憐れ=哀れでありながらも、同時に、おどろおどろしく奇怪だとも感じられる「何か」たちを、「不幸で不遇な符号」=ノイズとでも、名づけようか? 「いや、名を与えてはならない」という声が空耳のように、それでいてはっきりと響く。その声は、たぶん、言霊の発したものではないか。


「かく・かける」シリーズ(1)~(8)で、片がつかなかったノ「イ」「ズ」が、気にかかりま「ス」。こぬか雨のように、木にかかりま「ス」。「イ」つか来て、その姿をあらわしてくださ「イ」。待って「イ」ま「ス」。「ト」願うしか、な「イ」ようで「ス」。


     *


 さて、きょうの結論です。


 このブログは、やっぱり、「ト」ちくるっ「ト」るこ「ト」ばのフェテ「ィ」シ「ス」「ト」のはしくれがやっ「ト」る、「ト」ンデモブログで「ス」。確信犯的=意図(※イト)的=本気=ヤバ「イト」感じておりま「ス」。もう「イ」「イ」加減、くど「イ」「ト」も感じておりま「ス」。「ト」は「イ」え、


 もし、よろしければ、また、このサ「イト」に遊びに来ませんか? お待ちしております。次回は、この種のマジやべえオヤジギャグは自粛=自重いたしますので、よろしくお願い申し上げます。


と、いうわけです。なお、


>そういえば、ジル・ドゥルーズという人についての解説書に、「と」の話が書いてあったなあ、


と、上ですっとぼけていましたが、その解説書とは蓮實重彦の『批評 あるいは仮死の祭典』です。


と、いうわけす。(「と、いうわけです(2)」より)



     ◆



【※以上引用した抜粋の出所になるブログ記事は、パブーの電子書籍置き場にあります。パブーのリニューアルにともない、全電子書籍のレイアウトが崩れてしまったので、リンクが張れません。というか、各ページ(記事)へのリンクが張れないのです。意地悪をしているわけではありません。ご面倒をおかけしますが、興味のある方は、電子書籍にて閲覧ください。申し訳ありません。】


※この作文は「引用の織物・余白に・連歌」というマガジンに収めます。






#エッセイ

#作文


@@@@@@@@@@@@




うつせみのとれーらー(固有名詞・人名編)その1

8


げんすけ

2020/07/14 11:53


 ところで、固有名詞は、名詞の中でも、それが指し示す対象を限定する作用が強い言葉です。たとえば、


「血液型B型、身長180センチ、1973年10月22日生まれで、かの9.11事件の前日である2001年9月10日に、対アナハイム・エンジェルス戦で5打席ノーヒットの成績だった外野手」


と書かれた一節の代わりに、


「血液型B型、身長180センチ、1973年10月22日生まれで、かの9.11事件の前日である2001年9月10日に、対アナハイム・エンジェルス戦で5打席ノーヒットの成績だったイチロー」


と書かれた一節を読んだとたんに、「イチロー」の前に並べられた言葉たちが、すーっと消えて、自分の抱いている「イチロー」に関するイメージの数々の断片が脳裏にぱっと立ち現れませんか?


 固有名詞は、それと一緒に並べられた言葉たちの運動を「見えなくする」、つまり「読めなくする」ほど強い光を放つ名詞なのです。固有名詞の「仕掛け=仕組み」というのは、そういう意味です。(「遠い所、遠い国」より)



     〇



 あえて、その名を挙げなかった「あの人」が蓮實重彦という名の人だと、ここで白状します。「蓮實重彦」または「蓮実重彦」をキーワードにしてグーグルで検索するなり、ウィキペディアなりで調べ、その経歴や評価といった周辺的な情報・知識を得たうえで、きのうの記事を再びお読みになれば、その固有名詞の放つ光のために、きのうは読めていた言葉たちの運動がすっかり影をひそめてしまうことでしょう。


 逆に、そうした知識を得て読むことで書かれていたことの意味がよく分かったと、お感じになる方もいらっしゃるかと思います。でも、あえて言わせていただくなら、それは意味にたどり着いたのではなく、書かれていた言葉たちを読みそこない、別のもの(※イメージと言ってもいいでしょう)を夢想なさったのではないでしょうか。確かに、それを「読解」、「理解」、「解釈」という誇らしげな言葉に置き換えることもできますが――。


 ただ、きのう書いた文章は、「言葉(=表象)」を読むことによって「文学作品」(※実際には「実用文」にも当てはまります)の「意味(=意味されるもの)」にはたどり着けないことを、「言葉」の「身ぶり」によって感じ取っていただければ、と願いつつ書きつづったものでした。ですから、ひたすらその言葉たちの身ぶりに身をまかせていただくだけでよかったのです。(「遠い所、遠い国」より)



     〇



 宮部みゆきという作家の本も、好きで処分せずに持っています。今、このブログの記事をお読みになっている方のパソコンの近くに、宮部さんの小説があっても不思議ではない、売れっ子の作家ですね。


 宮部みゆきの小説の中では、実によく雨が降ります。水浸し、川の氾濫、暴風雨、台風――といった形で、頻繁に雨や水が出てきます。火や炎も、よく登場しますね。


 どうでしょう? 宮部さんの作品をもう一度読み返して、その雨にびっしょり濡れてみませんか? いつもよりゆっくりと読みながら、ストーリーだけでなく書かれている言葉に身をゆだねながら読みましょう。結末を知りたいと急ぐことなく、かといって「文章を味わう」などという、国語の授業で教師が指示する欺瞞(ぎまん)を思い出すことなく。


 そうですねえ、雨、水、液体(※もちろん血液も含みます)、火、炎、そして少年と闇(※あるいは薄暗い所)が出てきたら、うんと読む速度を落としてください。


 スティーヴン・キングの作品でも、いいです。やはり、雨、水、液体、火、炎、そして少年と闇がキーワードです。そう、そう、キングの作品でも、「横たわる」または「眠る」という言葉の身ぶりが、ストーリー・テリングを始動し、促す重要な触媒になっているものがあります。


 さらに言うなら、キングの場合には、子ども、それも特に男の子に性的な虐待をする人間が重要な役割を果たしています。作家スティーヴン・キングの、興味深い「書く時の癖」です。


 ところで、ネコはいいなあ。のんびり寝てばかりいる。漱石の小説によく出てくる猫たちを思い出します。「眠る」と「猫」――両者には深い関係がありますね。しょっちゅう横たわっている。いや、これは傲慢(ごうまん)な人間の無知と偏見でしょう。反省します。


 ちなみに、うちの猫の名前は「ネコ」です。猫にしては水を怖がらないので、気をつけています。(「横たわる漱石」より)



     〇



 頭、重いです。肩凝りが、半端じゃありません。やるせないです。


 元気をあげる、と言う人。お金と引き換えに、元気の出し方を教える、と言う人。自分には、要りません。まだ、お薬のほうが、いいです。


 スピリチュアル。前世。来世。罪。罰(※ばつ or ばち)。占い。宿命。苦手です。少なくても、自分には、要りません。


 輪廻とかいう回し車は、ノー・サンキュー。ケージの中の、ハムスターみたい。もしも車輪に乗って回っているのなら、どうか、おろしてください。回る、回される、どちらも嫌です。


 体が、冷たくなる。次は、どこかへの、お引越し。来世。天国。地獄。これも、ノー・サンキュー。上へも、下へも、行きたくはありません。階段、エスカレーター、エレベーター、要りません。たぶん、そういうものも、そういうことって、ないです。たぶん。


 自分の頭で考えてみたいです。哲学、したいです。批評、したいです。どうして、したいのか。なぜか、せつないのと同じで、理由は分かりません。ただ、哲学、したいです。消える寸前まで、批評、していたいです。批判でも、評論でもなく、考える対象を持ち続けたい。それが、自分にとっての、批評という行為、哲学という行為。自分にとっては、大切な営み。


 徒党を組む。仲間をつくる。師に仕える。苦手です。批評の対象と野合する。政治家みたいに野合する。嫌いです。


 その点、ナンシー関は偉かった。


 そう、思います。心から、思います。


 一人のテレビ視聴者として、テレビを見て批評する姿勢を貫いた。テレビに出て、仲間をつくって、ヨイショしあう。そんなこと、しなかった。あの人の潔いスタンスが、好きだった。聡明な人だ、とも思った。あの人は、自分の頭で考えていた。


 テレビに、出なかった。出られなかった。ヘビー・ウエイト。過食。過労。その意味では、ネガティブ。でも、自分が批評する対象との距離をわきまえている人だった。


 ああいう人、今はあまり、いません。いるのかもしれないけど、知りません。最近、本とか、雑誌、読んでいません。買うお金、ありません。


 あの人は、破裂した。そう、思います。燃え尽きた、のではない。枯れた、のでもない。破滅した、のでもない。破裂した。バーン・アウトでなくて、バースト。そして、無に帰した。


     *


 唐突ですが、


 飯島愛。


 もともとは苦手な人だった。本を出して、大当たり。それから、あの人は、変わった。


 テレビに出なくてもいいほどお金持ちになっても、悲しそうなところに、惹かれた。お金持ちになったら、よけいに悲しくなったみたいで、好きでした。その意味では、ネガティブ。


 あの人は、消えた。たぶん、静かに。ひっそりと。フェイド・アウト。そして、無に帰した。


 孤独死。


 孤立死。


 惨めだとは思わない。ぜんぜん、思わない。うらやましいって、ここでは、本当は書いてはいけない。逝くときくらい、ひとりにしてくれ、も本当は書いてはいけない。この記事を読んで、気を悪くした人、ごめんなさい。落ちこんだ人、ごめんなさい。今は、このブログに書くことが、消える歯止めになっているのです。本当に、ごめんなさい。(「その点、ナンシー関は偉かった」より)



     〇



 空蝉と現人を、例にとりましょう。「うつせみ」と、ちょっと大きめの国語辞典で引いてみれば、この両方の言葉が出てきます。その意味も、ちゃんと調べてください。意味深ですね。身につまされます。せつないです。うつに近づいてきましたね。辻褄は合いますよね。さきほど、本気だと書いたことに、嘘はありませんでしたよね。


 中には、空蝉と現人の関係について歴史的な説明が書かれている辞書もあるでしょう。「訛って」「転じて」「字を当てて」とか、書いてあります。面倒くさい、とお思いなら、そうした辞書の記述はパスしてください。


 気になる方は、「空蝉」+「現人」をキーワードにグーグルなどで検索してみるのもいいです。そのキーワードではヒットはしないかもしれませんが、「坂部恵」『仮面の解釈学』という固有名詞(※固有名詞は嫌いだと言いながら、つい使っちゃっていますが)で検索するのをお勧めします。特に後者の書名の本を入手しお読みなれば、かなり哲学できます。すごい本だった、という記憶があります。何しろちゃんと日本語で哲学しているのですから。


 で、ふたつの「うつせみ」、つまり「空蝉」と「現人」ですが、要するに、


間違えてしまった


ずれてしまった


のです。


 言い間違い、聞き間違い、取り違い、大いに結構、大歓迎。というのが、このブログでの言葉に対する基本的な態度です。


 国語の乱れ? いいじゃないですか。美しい日本語? そんなもの、ありません。ら抜き? 自分は使いませんがチャーミングですね。正しい言葉遣い? 無理です。文化審議会国語分科会(※国語審議会の後釜です)? そんな会に使うお金があったら、現在、職と住まいを失った人たちのために使いましょう。こじつけ・だじゃれ? ひとりギャグで毎日やってます。オヤジギャグ? 万歳って感じです。


 良きにつけ悪しきにつけ、間違いや、錯覚や、方言や、新しい言い方や、いわゆる「若者ことば」や、言葉遊びや、帰化人・移住者の影響、外国語の流入などが、言語を「豊か」(※本当は、好きじゃないです、この言葉)にしてきたことは、世界あちこちに散らばって棲息(せいそく)する「狂ったサル」(=ヒト)どもが共有する「歴史的現実」というべきでしょう。自分がちょっと苦手な人のキャッチフレーズであるイヤーな言葉を引用すれば、「起きていることはすべて正しい」のです。(「うつとあ・そ・ぼ、あるいは意味の構造について」より)



     〇



 さらに言わせていただくなら、ジャック・デリダも、ジャック・ラカンも、それぞれ哲学者、精神病理学者として一部の人たちから崇め奉られながらも、ひたすら言葉と戯れていたじゃありませんか。あの人たちの本をちゃんと読んだわけでは全然ありませんが、あれって確かオヤジギャグ以外の何ものでもなかったですよ。


 しかもフランス語で言葉の遊びをしているため、邦訳は、「概念」なり「意味」なりをくみとって日本語にするという、2人のジャックさんご両人が最も望まない倒錯に陥ってしまわざるを得ない。なのに、その邦訳を手に深刻さを装い、しかめっ面をして、デリダ様を、ラカン様をありがたく読むなんて、「デリダする」ことにも、「ラカンする」ことにも、ならないのではないでしょうか。概念? 害念、ですよ。意味? 忌(いみ)(※この「忌(=斎)」の意味は広辞苑あたりで調べてください)、ですよ。


 デリダ、ラカン――。またもや、必要に迫られて、固有名詞を出してしまいましたが、権威など嫌いです(※この点については、当ブログの「その点、ナンシー関は偉かった」の記事で書きました)。固有名詞の放つ、まばゆい光を利用しようという魂胆(※「虎の威を借りる」とも言います)など、毛ほどもありません。(「うつとあ・そ・ぼ、あるいは意味の構造について」より)



     〇



 さて、


醜い。化け物。きもちわるい。不気味。


 何度か映画化もされ、さまざまなマンガのキャラクターとしても登場し、テレビでもドラマやバレエティー番組やCMなどで、その姿が数知れず映し出されたに違いない、ある「モンスター」が登場する小説です。ここでは、イメージ=表象が問題なので、「やむを得ず」固有名詞を出します。なぜ、「やむを得ず」なのかは、このブログで以前書いた、「あえて、その名は挙げない」 と「遠い所、遠い国」という記事を読んでいただければ幸いですが、別にその記事を参照することなく、このまま読み続けていただいても一向に構いません。


 フランケンシュタインです。


 これほど視覚的イメージが、広く共有されているモンスターも珍しい。そう言っていいくらい、その容貌と身体的特徴は、それこそグローバルな規模で多くの人たちによって知られているに違いありません。


 各人によるイメージの差はあるでしょうが、おおまかに言えば、全身の各所に巻きつけられた包帯と傷口とぎこちない動きが人目を引く、人造人間です。ある医学生が複数の死体から取った部位をつなぎ合わせて作ったのですから、そうした視覚的イメージとして描かれるのは当然でしょう。


 醜さの代名詞


という言い方もできるでしょう。その小説のストーリーについては、ウィキペディアに記載されている要約が、正確で簡潔だと思います。また、ウィキペディアで「フランケンシュタイン」の項を読めば、広く共有されている、ある誤解も解くことができるでしょう(※「フランケンシュタイン」とは、モンスターの名ではない!)。とにかく、ウィキペディアで「フランケンシュタイン」を、ぜひ検索してみてください。深読みできそうな面白いことが、いろいろ書いてあります。(「名のないモンスター、あるいは外部の思考」より)



     〇



 ここで小説から離れます。「一般論」という横着をしましょう。


 要するに、


太古にヒトが獲得してしまったものに、ヒトが振りまわされている。その「ひとり歩き」に手を焼いている。


 その「ひとり歩き」するものは、葉っぱ、あるいは皮膚の厚さほどしかない、表象(※「表面的」の「表」が使われていることに注目しましょう)です。言葉、つまり言の葉だけでなく、貨幣(※紙幣・硬貨)も、薄っぺら。そのぺらぺら(※「あの人、英語ぺらぺらだよ」のぺらぺら。「ぺらぺら紙をめくる」の「ぺらぺら」)なものに、ヒトが翻弄(ほんろう)されている。


 ひらひらと、葉っぱか紙のように翻(ひるがえ)される。ヒト、つまり人間様が、ですよ。


 これは、いったい全体、どういうことか?


 誰にも分からない。


 でも、


たぶん、その「ヒトが作ったもの」の「ひとり歩き」の責任はヒトにはないが、せめて、その「ヒトが作ったもの」に名前くらいは付けてあげてほしい。単なる責任逃れの道具(※この「道具」には、名はありません)だけにはしないでほしい。


 そのためには、その「『名前がないという』名前=言葉」の身ぶりや動きや働きについて考えましょう。哲学しましょうとは申しませんが、自分の頭と体で、その「ヒトが作ったもの」の「ひとり歩き」について考えましょう。


 答えは、おそらく出ないと思います。何しろ、「名前」の動きですから。答えがひとつであるわけがありません。だからといって、あきらめてはなりません。答えは出なくても、考える――その「プロセス」が大切だと思います。


     *


「名付け得ないもの」に付けた「名前」は何か、そして「『名前がないという』名前=言葉」の動きと働きはどういうものなのか。


 事態は深刻なのです。


「名のないもの=ヒトが作ったもの=名無しという名」が、ヒトの思惑を超えてひとり歩きしているのです。「表象」、「代理」、「言葉」、「名前」、「○○」と呼んだところで、ひとり歩きがやむわけではありません。でも、名付けないわけにはいかないのが、ヒトの宿命です。その名付けずにはいかない、名付け得ないもののひとり歩きを、その名付け得ないものに、ヒトは責任を転嫁してはなりません。


「『名前がないという』名前=言葉」は、次々と変わります。変わるという動きが、使命であるかのように、変わります。本名なんて、単なる言葉です。あだ名、仮の名、別名、異名、ニックネーム、戒名、源氏名、ハンドルネーム、芸名……という言の葉が列をなして控えています。


 ということは、「名前=言葉」とは、空(うつお)です。せみの抜け殻と同じです。内容は無い様でございます。乾ききった殻という形で、死んだ後にも残る可能性がわずかでもあるのが、せめてもの救いでしょうか。(「名のないモンスター、あるいは外部の思考」より)



     〇



 唐突ですが、カジノ資本主義って、


発想自体が間違っているって、本当ですよね? ああいう発想は、危険思想ですよね? ああいうことを言う人は、過激派ですよね? CIAやFBI (※機構改革して、もう存在しないのでしたっけ?)に狙われますよね? そもそも、投資と投機は、違いますよね? ケインズの株狂いと、ケインズの経済学ほどの大違いですよね? だから(※何で「だから」なのか? 自分でも分からなくて言いました)、資本主義って、勝利したんですよね? 現に、ベルリンの壁が崩れたのですから。第一、ソ連が崩壊したのが動かせない証拠ですよね? 米国が崩壊するなんて、ありっこないですよね? 中国も、インドも、ジャパンも、EUも、大丈夫ですよね? 万が一、米国が風邪を引いても、デカップリングが働くから大丈夫ですよね? それとも、今回の危機は、高病原性鳥インフルエンザ並みですか? だとすると、困るんですけど。


 で、ケインズなんですが、


昔、暴走する市場経済への処方せんを書いてくれたんですよね? 頼もしいです。今度の大不況も、その弟子たちが何とかしてくれますよね? 庶民は安心して、ただ時が経つのを待っているだけで、いいんですよね? なんたって、ケインズは偉い人だったんですよね? 自分的には、好感を持っています。神の見えざる手と闘ったんですもの。神は死んだ、と叫んだニーチェと同じくらい、偉い人だと思っております。オー・マイ・ゴッド(※クリスチャンの方、不快感を持たれたとすれば、ごめんなさい。自分は、よそ様の信仰に、立ち入る気は毛頭ありませんので、はい)。ただ、自分は、自分なりにロゴスと闘っているつもりなんです(※哲学がしたーい、だけです)。


 ケインズつながりで、お尋ねしますが、


オバマはFDRになって米国を救ってくれるんですよね、JFKじゃないですよね? というのも、去年の11月に米国のTIME誌の表紙を見て、イヤーな気持ちがしたもんですから。グレーのハットに、グレーのジャケット、楕円形のレンズの眼鏡、くわえ煙草、そこまではいいんです。オープンカーが気になって仕方なかったんです。沿道の人たちといい――。ダラスを思い浮かべて……。杞憂ですよね? 深読みしちゃ、駄目ですよね? ひょっとすると、メディアの 「わしらは分かっていたぞ」の「アリバイ作り」だったりして。メディアを対象にしたイコノロジー(図像解釈学)を実践するなら、最適の画像だと、その時に思ったんですけど、考えすぎですよね? 【※ただ今書いたところを読んでいて、理解に苦しんでいる方、ちょっとご面倒をおかけしますが、グーグルで "TIME" "NOVEMBER 24, 2008" "cover" をトリプルで同時に検索してみてください。ある雑誌の表紙の写真が載っているサイトに、たどり着けるはずですので。】


 ちょっとシリアスですけど、そもそも、数学とか数字とか統計学とか、


信じていいですよね? 言葉でしか知らないんで、恐縮ですけど、ゲーデルの不完全性定理とかいうのって、無視していいんですよね? 悲観することないんですよね? 夜、安心して眠っても構わないんですよね? これも、聞きかじりですけど、ポアンカレ予想ってのが、解決したらしいんで、霊長類・別名サル目・ヒト科・ヒト属・ヒト種、つまり、ホモサピエンス、いわゆる人間様は、やっぱし頭がいいんですよね? 何しろ、月にも行ったし、2000年問題もノストラダムスの予言も(※両方とも、本当に大問題でしたよね?)乗り切ったし、その英知は、この惑星で、いや少なくとも太陽系でダントツですよね?(「投資って何だろう? お金って何だろう?」より)



     〇



 誰なんだ!?


「貨幣=表象 」に備わった「匿名性の恐ろしさ」が怖いんです。硬貨は、しょせん金属、お鍋といっしょ。紙幣は、しょせんぺらぺらの紙。


 紙のみぞ知る=誰にも分からない、


ですか?(「投資って何だろう? お金って何だろう?」より)



     〇



「ん = n 」 と口にしてみてください。声らしきものが出ないかもしれませんが、口の中の状態は、感知できると思います。舌と前方の口蓋(こうがい)がぴったりくっつきますよね。両唇は、離したままで、「ん = n 」。唇を閉じると 「 m 」 になるので、注意してください。


 ナボコフの書いた 『ロリータ』 の冒頭を思い出します。何だか、すごくエロいことをしているような気分です(※実際、そうなのかもしれない)。「ん = n 」は、ご承知のように子音です。だから、五十音図では仲間外れ扱いにされているのですね。子音だけで、母音がないから、はみっ子。


 次に、


「む = m 」です。「 mu 」と母音を添えないでください。子音だけ。それが、音の素(もと)なんですから。意味の素(もと)なんですから。味の素(もと)なんですから。上で説明したように、口を閉じて、上と下の両唇がしっかりと、むすばれた状態になりますよね。次に、


「う = u 」。思いきり、口をとがらせましょう。では、ご一緒に、


ん・む・う


 このさい、この行為の意味、つまり、今、なぜ、自分がこんなことをしているのか、なんて考えるのは、やめましょう。(「「ん」の不思議」より)



     〇



 役人・官僚の横柄さと怠惰ぶりは、昔も今も変わりません。毎日、新聞を読んでいれば、よーく分かります。ウェーバー(あるいは、ヴェーバー)が、ちょっとだけ予言した通りです。悪しき官僚制、あるいは官僚制の弊害。


 虎の威=衣を借りる狐。国家の権威の威=衣を借りる、やくにん。


 だから、汚職が起こる。民間人は、やくにんからハンコを、ぺたんと押してもらいたい。民間人には、お金の威力くらいしか、借りる威=衣はない。あるいは国会議員やその秘書に対し、やはりお金の威=衣を借りて、頼みこみ、その威=衣を借りるほかしかない。


 衣。そうか、だから、法廷では、判事らがお坊さんの着る法衣(ほうえ)みたいな、おべべをまとっているのか。あれは、単なるコスプレじゃなかったんだ。謎が解けた。


 法律。そういえば、「法」も「律」も、仏教と関係ありそうだ。あとで、広辞苑で調べてみよう。「ばち」と「ばつ」の謎も、解けるかもしれない。(オリジナル(「やっぱり、ハンコは偉い」より)



     〇



 昔々、マルメロに似た名のフランスの詩人が、さいころを振るという身ぶりをめぐって、ものすごい実験的な詩を書きました。若き日の自分は、うちのめされました。言語を始めとする、表象にかかわることは、ある種のばくち、または偶然に挑むことである。こんなギャンブルを、マジにやろうとすれば、身の破滅に至ります。罰(ばち)があたります。罰(ばつ)を受けることもあります。


 万が一、この「ばくち」に興味のある方は、グーグルなどで、「マルメロ」じゃなくて「マラルメ」を検索してみてください。


 ただし、マラルメには深入りなさらないように、くれぐれもご注意ください。かなり「あやうい」ことになります。今、その名を出してしまったことを後悔しています。マルメロをペロペロするか、マシュマロをメロメロするか、パタリロをヨミヨミするくらいで、とどめておいてください。(オリジナル「やっぱり、ハンコは偉い」より)



     〇



 さて、


ここで童心に帰りましょう。「ドレミのうた」を歌いませんか? ただし、さびの部分だけを、拝借します。例の「○は△△の○~」というやつです。では、こちらからリードさせていただきます。最初は、シリアスにいきます。


「間(※ま~)」は、真面目の、ま~。「間(※ま~)」は、まことの、ま~。「間(※ま~)」は、まともの、ま~。「間(※ま~)」は、マネーの、ま~。「間(※ま~)」は、マックの、ま~。「間(※ま~)」は、真央ちゃんの、ま~。 


 何だか、面白くないですね。ちょっと、ネガティブにいきます。


「間(※ま~)」は、麻薬の、ま~。「間(※ま~)」は、間抜けの、ま~。「間(※ま~)」は、負け犬の、ま~。「間(※ま~)」は、負け組の、ま~。 


 自分のことのようで、悲しくなりかけました。気分を変えて、哲学的・文学的にいきましょうか。


「間(※ま~)」は、間違いの、ま~。「間(※ま~)」は、曼荼羅(まんだら)の、ま~。「間(※ま~)」は、マンガの、ま~。「間(※ま~)」は、マイナスの、ま~。「間(※ま~)」は、マラルメの、ま~。「間(※ま~)」は、マルクスの、ま~。「間(※ま~)」は、万葉集の、ま~。 


 こんなん出ましたけど、どうどすか(※イズミさん、あなたは今、どうしていらっしゃるのでしょうか?)


 要するに、


ま~は、魔法の、ま~。


と、お感じになりませんか? 少なくとも、自分にとっては、「間=差異」は魔法のように不思議です。以上の駄洒落がぜんぶ、「当たっている =言えてる」ような気がするのは、やはり間抜けだからでしょうか? ふ抜けなのは、知っていましたけど、間まで抜けているとは? 魔が差したのに、違いない。とうとう、悪魔に目をつけられたらしい。


 やはり、罰(ばち)があったのか? そうかもしれない。それにしても(※いや、「だからこそ」か?)、摩(ま)訶不思議です。自分の誕生日が命日になる人がいるくらい、不可思議です。ねえ、小津安二郎(おづやすじろう)さん(※あなたは今、どうしていらっしゃるのでしょうか、千の風ですか)? なぜ、ここで Ozu が出る? やっぱし、魔が差しているのではないか? きっと、魔法だ。やっぱし、オズの魔法使い?(「ま~は、魔法の、ま~」より)



     ◆



【※以上引用した抜粋の出所になるブログ記事は、パブーの電子書籍置き場にあります。パブーのリニューアルにともない、全電子書籍のレイアウトが崩れてしまったので、リンクが張れません。というか、各ページ(記事)へのリンクが張れないのです。意地悪をしているわけではありません。ご面倒をおかけしますが、興味のある方は、電子書籍にて閲覧ください。申し訳ありません。】


※この作文は「引用の織物・余白に・連歌」というマガジンに収めます。


#エッセイ

#作文

 

このブログの人気の投稿

あう(1)

かわる(8)

かわる(3)