かえるはかえる

星野廉

2020/09/18 09:37 フォローする

 ヒトが「懐かしい」という言葉の意味を実感するようになり始めたとき、そのヒトは、ある悔しさも覚えるようになるのではないでしょうか。「あのころに戻れない」とか「あの日に帰れない」という「悔しさ」です。こればっかりは、どうにもなりません。残念ながら、タイムマシンは発明されていません。発明される気配も感じられません。


「戻れない」「帰れない」という思いは、ヒトにとって「悔しさ」と同時に「恐怖」でもあります。自分が死に着実に近づいている。「生きつつある」ということが「死につつある」と同義であると体感している。でも、そのことについては考えない。「なくなる」は「ない」ことにしておく。そんな心理です。さもなきゃ、落ち着いて生きていけやしません。


 自分より若いヒトを見るとうらやましい。特に、何の苦労もなさそうな、生き生きとしたヒトたちが、「若さを楽しんでいる」のを見ると口惜しい。でも、そんな自分の気持ちを認めたくはない。「悔しさ」を自覚すれば、「みじめ」なだけだ。どうにもならないことは、よく分かっている。だから、「うらやましい」や「くやしい」や「はらだたしい」を、「けしかん」や「よくない」や「まちがっている」に転化する。


 年の功を武器にする。経験を楯(たて)に取る。地位や名誉や財力で、若さに対する優越感を保とうとする。これは致し方ないことでしょう。それしか「悔しさ」を「紛らす=誤魔化す」方法は見当たらないようです。もっとも、「若くつくる=化ける」という手もありますが、これも「誤魔化し」に他なりません。


     *


 発想の転換、つまり取り戻せない若さへの不条理な渇望(かつぼう)や嫉妬を「捨てる=忘れたふりをする=誤魔化す」。「年を取る」や「老いる」ではなく、「年を重ねる」や「加齢」といった華麗な美辞麗句に言い換える。「老い」という言葉について考えるのをやめて、別の言葉を探す=誤魔化す。そうすれば、元気が出るかもしない。


 若いヒトたちを批判したり、いじめたり、難癖をつけたり、罵倒することが、精神的な安定を得るのには効果的かもしれない。同病相憐れむとか、傷口を舐め合うというのではなく、年の近い者同士で付き合う。あるいは、自分よりもっと年上の者に目を向ける。そんなやり方も、憂さ晴らしにはいいかもしれない。


 年を取る=老いるということは、すばらしいことだ。そう自分に言い聞かせて、ネガティブをポジティブに転じる。そうするのもいいだろう。または、「あのころは良かった」と話し合える=分かり合えるヒトたちだけと付き合えば、みじめさも薄れるかもしれない。


 でも、以上の行為はすべて、誤魔化しでしかない。「戻れない」「帰れない」ほど、ヒトにとって「悔しい」ことはないのではないでしょうか。悲惨な過去を経験し、「昔になど絶対に戻りたくない」と思っているヒトもいるにちがいありません。とはいえ、そうした嫌な過去の出来事さえなければ、「若さ」や「自分が最も輝いていた時」を取り戻したいという気持ちは、多くのヒトが共有しているのではないでしょうか。


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 以上は個人レベルの話でした。集団や共同体や国家や民族のレベルで考えてみましょう。


 原点に「戻る・回帰する」。自分たちの本来の姿に「立ち返る・立ち帰る」。本当の自分たちの「心・精神・生き方」を「取り戻す」。こうした言い回しは口当たりがいいですが、「本来の」や「本当の」という言葉に、曖昧さが伴います。早い話が、空疎なのです。説得力に欠けるのです。スローガンとして唱えるくらいにとどめておけば、精神的な安定を与えてくれる方便になり得るでしょう。それだけです。本気になって深く追求すると、きな臭い事態を招きかねません。


 かえるはかえるではなく、かえるではないでしょうか。また、ひとたびかえったら、ふたたびかえることはできないかもしれません。


 上のフレーズでは、やまとことばを多用してみました。わけがわかりませんね。多義的だからです。でも、じんときます。個人的には、やまとことばにそなわっている意味の重層性が好きです。言い換えてみましょう。


「返る・帰る・還る」は「返る・帰る・還る」ではなく、「変える・換える・代える・替える」ではないでしょうか。また、ひとたび「孵ったら」、ふたたび「孵る」ことはできないかもしれません。


「返る・帰る・還る」は不可能ではないかと思われます。「変える・換える・代える・替える」は可能でしょう。再度「孵る」=「生まれ変わる」が可能かどうかについては、個人的には懐疑的です。輪廻というお話は信じていません。生物も無生物も含む「もの」が解体したり腐敗して別の「もの」に、原子や分子レベルで受け継がれるという考え方は別です。よくできたお話だと思います。


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 ヒトはさまざまな「かえる」とかかわり合いながら、生きざるを得ないのですが、「かえる」が幸せや喜びだけでなく、憎しみや苦しみや争いや殺めることの種(たね)でもあることを忘れてはならないと思います。


「返る・帰る・還る」については、たとえばパレスチナを思い浮かべてください。現在も続いている悲惨で不幸な事態が、「返る・帰る・還る」と同時に、「変える・換える・代える・替える」の問題でもあることは容易に想像できるのではないでしょうか。パレスチナは一例です。世界には、同様の危機をかかえたりはらんだ地域が数多く存在します。


 国家や地域といったレベルだけにとどまりません。「返る・帰る・還る」を「返す・帰す・還す」とずらしてみましょう。対象となるのは、お金、土地、財産、物、人、権益、権利、恩、仇……。あなたの身のまわりでも、こうしたものをめぐっての問題が起きていませんか。無数に起こっているはずです。


 返る・帰る・還る。


 ノスタルジー=郷愁や復古や回帰といった言葉やイメージとはかけ離れた、きな臭くて、血生臭い出来事が現実に起こりつつあるのです。かつてもそうでした。これまでもそうでした。これからもそうでしょう。


「戻れない」「帰れない」が「戻りたい」「帰りたい」へと「変わり」、「地」に「血」が流れる。


「しる・知る」は「領る(=領土とする)」とも表記された、と辞書にあります。最初に「地・土地」があった。その「地」を、ヒトが「知り・領り= silly =名付け=汁(しる)つまりおしっこをかけてマーキング行動をし=つばをかけ=自分のものだと宣言し」、「地」が「知」となった。次に、「知」である「地」をめぐって、他の生き物たちを相手にするだけでなく、種(しゅ)を同じくする仲間同士で「血」を流し合う。「痴」かつ「恥」な話ではないでしょうか。ちっ、ちっ、ちっ。


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 ヒトは、「変える・換える・代える・替える」はできても、「返る・帰る・還る」はできません。時間的にも空間的にもできません(※この点については、「「揺らぎ」と「変質」」で詳細に論じてあります)。土台無理なのです。言葉が代理である限り、不可能なのです。


「何かの代わりに何かではないものを用いる」、つまり「代理という仕組み」以外に頼れば、別ですけど。ほかに何か名案があるという話は、聞いたことがありません。迷案はたくさんあるみたいです。科学や宗教や哲学や心理学やハウツー本などに紛れ込んでいるらしいのですが、本を読まない性質なので、その種のテーマについては詳しくありません。


「何かの代わりに何かではないものを用いる」を言い換えると、ヒトは「再現する」ことはできないと言えそうです。「想像・創造・創作・作文・捏造」、要するに「つくる」ならできると思われます。


「返る・帰る・還る」はできないけど、「変える・換える・代える・替える」はならできるみたいという、さきほどの「お話」に似ていませんか。激似じゃないですかー。「お話」で思い出した「お話」があります。


 フランス語に histoire(※「イストワール」みたいに発音しますね)という語があって、「物語・話」と「歴史」の両方の意味がある。そんな話をお聞きになったことはありませんか。英語の history に相当する単語ですが、英語でも「歴史」のほかに、「(ある人物の)物語・経歴・伝記」という意味でつかわれることが多いみたいです。この語のきょうだいには story がありますね。この2語を英和辞典で引くと、えーっと思うような語義もあると思います。ぜひ、お試しください。


 また、思い出したことがあります。history がらみの駄洒落なのですが、history は、His story だというのです。His が大文字になっていることに注目してください。英語で He が文頭を問わず大文字扱いにされるのは、「神様」の場合だけだそうです。 世界の歴史は神の物語ということですか。八百万(やおよろず)の神々とは違いますよ。唯一の神です。うーん、と唸ってしまいます。こんなん、駄洒落では、済まされまへんでー。ほんまもんでっせー。マジこわでっせー。


 He は唯一無二なんですよ。His story の一字一句が真実だと信じているヒトたちがたくさんいるのです。この意味=重大性を、マジで考えて感知しましょう。残念ながら、この国ではなかなか感知できません。ピンとこないのです。


 何だか、きな臭い。上述のパレスチナを思い出しますね。思い出して当然。気が付かなければならないのです。「アルマゲドン」なんて、聖なる書に出てくる言葉も頭の中でちらつきます。怖いです。とっても怖いです。アルマゲドンとなれば、対岸の火事では決して済まされません。この星レベルの大惨事です。原子爆弾が使用されるのは確実です。1個や2個で済むわけがありません。復讐の連鎖に火がつくのですから。今述べていることは、21世紀最大の問題だと感じていることなので、余計、恐ろしさが増します。


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「話」を「戻し」ます。


 ヒトは「再現する」ことはできないと言えそうです。「想像・創造・創作・作文・捏造」ならできると思われます。


 神話、説話、伝説、語り物、民謡、民話、口承、口伝、昔話、史書、史伝、教義、聖典、記録、報告書、レポート、公文書、古文書、古記録、調書、ドキュメンタリー、ルポルタージュ、ノンフィクション、新聞記事、テレビやラジオやネット上のニュース原稿。


 これらは、みな広義の histoire であると言えそうです。このブログでは、もう一歩踏み込んで、fiction と呼んでいます。与太話=ガセ=でたらめ=でませ、なんて悪態や罵倒ともいえる言葉で呼ぶこともあります。いずれにせよ、上で羅列したものたちは、すべてが「言葉という代理」で「語られている=騙られている」点で共通しています。


 何度も何度も語られる。繰り返し、また繰り返し、復唱する。同じことを何度も聞かされる。同じことを何度も言わされる。すると、「本当」に思えてくる。そんな「話」を聞きました。本当かどうか、よく知らないのですが。知らないと思い込んでいるだけで、このアホもどっぷり「かたり・語り・騙り・カタリ」の世界にはまりこんでいるにちがいありません。そうでなければ、ヒトではありません。ひとでなしです。


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 では、絵、写真、動画はどうでしょう。ヒトは聴覚的イメージと視覚的イメージの2つに大きく依存しながら生きています。ビデオによる再生、つまり動画の場合には、映像と音声を「再現できる」とされています。この依存状態に異存のある方は数少ないという気がします。マイノリティーです。


「再現ができる」に異を唱えることは、タブーに近い。大げさではなく、そう感じています。それを言ってはおしまいになるからです。たとえば、警察・検察・裁判所での記録はすべて「嘘」である、という帰結になりかねないからです。繰り返します。


>何度も何度も語られる。繰り返し、また繰り返し、復唱する。同じことを何度も聞かされる。同じことを何度も言わされる。すると、「本当」に思えてくる。


 非常に微妙な問題ですから、このブログを書いているアホは、この点についてはみなさん自身のご判断に任せるのがよろしいかと存じます。老婆心ながら、付け加えます。自分の頭で考えてください。特に、「つくる」側の当事者の意見は、身びいきと保身に満ちていますから、くれぐれも「騙(だま)されない=騙(かた)られない」ように注意しましょう。


 なにしろ、相手は言葉遣いと辻褄合わせとペーパーワークのオーソリティーであり、エキスパートなのです。半端じゃありません。いわゆる知能指数も、いわゆる偏差値もかなり高い方々ばかりです。たぶん、ですけど。いずれにせよ、言葉というぺらぺらで無節操な「ラベル=代理=表象」をつかえば、何とでも言えます。


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 ですので、以上の問題は、きわめて手強い難問だと言えます。あえて、そんなややこしいものには触れないでおく。そうしたスタンスでいるほうが、いわゆる精神衛生上=メンタルヘルスの点において、賢明だと言えそうです。


 極楽トンボ=「気楽にいこうゼ!」でいくのが、楽だし、健康的かもしれません。いや、絶対にそうです。


 かえるはかえる。こんな怪しげな「おまじない・お呪い・まじない・呪い・マジない・のろい・呪い・鈍い・ノロい」は忘れましょうか。失礼しました。


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 でも、気になるヒトは大いに考えてみませんか。



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77




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