ぐるぐるゆらゆら +「お知らせ」
げんすけ
2020/08/20 09:53
きのうの記事を書いてから、家事をしたり、親の介護をしたり、ぼけーっとしたりしながら、ずうっと=一貫して=一環して考えていたことは、【※この記事は、母がまだ生きていたずいぶん前に書いたものです。文章の勢いを生かすために、加筆は最小限にとどめます。】
*円=円環=円形=円状=回転=まわる=ぐるぐる=輪=くるくる
といったイメージというか、静止映像および連続映像でした。おかげで目が回りました。きょうの「記事用の走り書きメモ=一種の下書きをしたためた紙切れ」も、溜まりました。ぐるぐるは、
*夢
にも、出てきました。その夢のなかで、すごくおもしろい考えが浮かんで目が覚め、これはメモっておこうと考えたのですが、面倒くさくてやめたところ、朝、起きた時には忘れていました。残念ですが、仕方ありません。だいたいが、これまでの経験では、夜中に起きて
*「こりゃあ、つかえる!」
なんて喜んで書きつけたメモに、ろくなものはありませんでした。と、負け惜しみを言って、慰めています。そんなふうに、さっきまで、あの夢はどんなんだったのだろう、と考えているうちに、別の考えが浮かんできました。その時のメモを書き写します。
*夢の視点・主語・作者・登場人物は?
悪筆の走り書きを、キーボードを叩いて、こうやってモニター上の活字に置き換えてみると、また違った感じがします。
*夢って不思議
ですね。実際問題として、
*夢に視点はあるのでしょうか?
*夢に主語はあるのでしょうか?
*夢の作者って誰? そもそも作者っているの?
*登場人物なんて書いたけど、あれって、そもそも人物なの?
以上のような問題というか疑問について考えるさいには、
*夢を想起=再現しなければならない
のですよね。ということは、
*夢は映像として見るものなのでしょうか?
それとも
*今、こうして「現実」と呼ばれているもののなかに投げ込まれているように、見るものなのでしょうか?
そうではなく
*ケース・バイ・ケースなのでしょうか?
それを確かめるためには、
*夢のなかで覚醒していなければならないということなのでしょうか? そんなことが、できるのでしょうか?
そんなことを経験したことがあるような記憶もあります。よく覚えていませんけど。
*
で、このところ考え続けている、
*物理的「時間」と、ヒトの意識する「とき」
とも、おおいに関係があるような気もします。こんなふうに、このブログを書いているアホは、
*何でもこじつけて、くっつけてしまう
んです。常習犯というか、確信犯というか、迂闊犯(うかつはん)=間抜け犯というか、とにかく、そういうビョーキなんでしょう、たぶん。で、さきほどの、
*夢は映像として見るものなのでしょうか?
という疑問ですが、
*夢は持続した映像である
と考えると、
*「現実」と呼ばれている「現象」と似ている
ように思えてきます。
*「意識」というレベルに特権的な地位を与えるなら、「現実」も「想像」も「夢」もほぼ同列に扱うことができる
となり、
*「意識=存在」というフィクション=お話=考え方も成り立つ
でしょう。でも、うさんくさいですね。いかがわしすぎます。えっつ? 「おまえが、いつもやっているのと、変わらないじゃないか」ですか? そうですよね。納得しました。
では、いつものでまかせでいきます。夢については、別の機会に、でまかせをかますとして、きょうは、やはり、
*円=円環=円形=円状=回転=まわる=ぐるぐる=輪=くるくる
について考えてみます。
*長短2本の針で「とき」を「刻む」アナログ時計に備わっている、文字盤に配置された円状の数字を見て、ヒトが物理的時間を「円状」のもの=円環としてイメージするようになった。
という意味のフィクション=お話=考え方を、お聞きになったことがあると思います。
*もっともらしい説
です。つい、うなずいてしまいます。でも、本当かどうかは分かりません。この種の
*フィクションが「正しい」か「正しくない」は、説得力の強さの問題である
と思っています。つまり、口の上手いヒト=話術に長けたヒトや、文章力のある=レトリックに優れているヒトが、しゃべったり、書いたりすると、
*「正しく」思える
たぐいのレベルの問題という意味です。要するに、
*プレゼンのうまさ
次第ですね。
そのほか、腕力を用いたり、恐怖心をあおったりして、信じさせる方法もあります。また、洗脳という手段もありますね。さらに言えば、権力さえ握っていれば、どのように荒唐無稽な強弁でも通ってしまうのは、現在みなさんが目撃しつつある通りです。フィクションが「正しい」か「正しくない」は、
*検証不可能
だから、今述べたようなレベルで信じさせることしかできません。
*ヒトの世界で、流通する考え方や情報は、すべてがフィクションだ
という見方もできます。というか、個人的には、そうした思い=感想はかなり強いです。もちろん、この見方もフィクションであるということになります。いかなる考えも、メタな立場=「対象より上に立ち、見下ろす視座」には立てません。もちろん、たった今、書いた意見もです。以下同文……。
*
で、自分の場合には、上の「とき」についての説に初めて触れたのは、確か、
*澁澤龍彦(1928-1987)
のエッセイを通してでした。
*澁澤龍彦の文章は、分かりやすく大好きだった
ので、「なるほど」という具合に、
*時計の文字盤の形態が、ヒトが時間を円環としてとらえるもとになっているという説
を、ころりと信じました。あの人の『集成』(桃源社版・全7巻)のうち、4巻ほどを高校生の時に持っていた記憶があります。当時、そのほか何冊か、エッセイ集や翻訳を買い求めました。
*マルキ・ド・サド(1740-1814)の『悪徳の栄え』
の抄訳なんて、どきどきしながら読みました。
*『ソドム百二十日』
なんてのも、読んでいると、何だか悪いことをしているようで、よかったです。それが原作だという
*ピエル・パオロ・パゾリーニ(1922-1975)の監督した映画「ソドムの市」
も、エッチでよかったです。おっと、暴走しました。失礼。
*
話をもどします。
*時間や「とき」を円状のものとイメージし、その流れ=移り変わり=進行=運動を、循環=サイクル=ぐるぐる=ぐるり=回転=円運動としてとらえる
というヒトの習性は、アナログ時計という機械=器械=計器の発明前にもあったと考えられます。ヒトが「時間」および「とき」をどのように、認識するようになったかについては、「「時間」と「とき」」でも、触れましたので、ここでは、あの記事とは違った面から、考えてみます。
別にお勉強をしなくても、おそらく、21世紀に生きるヒトなら、ほぼ誰でも思いつくのは、
*太陽の動き
でしょう。東から上って、西に沈む。そして、翌日には、また東から上って、西に沈む。この繰り返しです。
*地球は丸い。そして、回転しながら、太陽の周りをまわっている。
という、
*フィクション=事実
は、いろいろな機会に何度か聞かされているはずですから、
*夜のうちに、地球の反対側をまわるような形で、太陽が地球の周りをまわっているように「見える」。でも、「本当は」、地球のほうが太陽の周りをまわっている。そうなのだ。うんうん。
などと、いうふうに、
*自分に言い聞かせる
わけです。このように、ふつう、
*ヒトは自分の体感を裏切る形で、「時間」および「とき」の動きを太陽の動きに重ねて、あたまで理解する。
という認識の方法を選択するのを余儀なくされています。
*天動説と地動説のあいだでからだが揺れつつも、あたまでその揺れを支えてやる=修正してやる
わけです。この種の
*体感を裏切る形で、あたまで理解する
操作は、ほかにもたくさんあるでしょう。そういう操作をしないと、アホとか、馬鹿とか、いろいろな言葉でののしられます。通知表の評価も悪くなります。ヒトである限り、仕方ありません。
いったい、何を言いたいのかと申しますと、
*ヒトのいだくイメージは、体感だけでなく、他のヒトから与えられた情報=フィクションによっても、形成されざるを得ない
という実情=実状=状態=常態がある、ということです。
*コドモの場合には、他のヒトからの与えられる情報=フィクションを蓄積する途上にある
ために、しばしば、
*体感を強く信じています。
ということは、
*ヒトは、コドモ時代に天動説を信奉し、やがて、天動説に改宗するが、密かに天動説を信奉し続ける。
とも言えそうです。これに類したことは、ほかにもたくさんあるでしょう。
*
ちょっと
*次元というかベクトルは違いますが(※次元もベクトルも、もちろん比喩です、念のため)、
*映画やテレビ
を考えてみましょう。たとえば、テレビを見ている時に、誰かが画面を指差して、あなたに「これは何?」と尋ねたとしましょう。
*「テレビ」
とか
*「テレビの画面」
とか
*「ブラウン管」(※うちのテレビは、まだ「ブラウン管」式です)(※文章の勢いを殺がないように、加筆は控えています)
とか
*「液晶」
なんて答えてはいけません。
*「走査線」
とか
*「画素」
なんて答えてもいけません。
以上のように答えたあなたは、ぜんぜん間違っていません。でも、駄目なんです。変人扱いされるか、イジメにあうのがオチです。
どうして、上のように答えてはいけないかについては、みなさん、それこそ、体感されていらっしゃるでしょう。あえて、説明はいたしません。以心伝心。阿吽の呼吸というやつです。ねっ? ねっ?
失礼しました。話を続けます。
では、何と答えればいいのかと申しますと、もちろん、画面に写っている映像を言葉に置き換えればいいのです。
*「キムタク」
とか
*「ためしてガッテン」
とか
*「○○のCM」
とか
*「誰だっけ、この人」 or 「何だっけ、この番組の名前」 or 「どこだっけ、この温泉のある町」
とか答えれば、問題はありません。
今挙げた例で、ヒトが、テレビ放送という、いわば「錯覚製造装置」を、
*体感の命じるままに=体感する通りに=自分のあたまとからだを信じて、さきほどの質問に答えている
点に注意をはらってください。錯覚を疑わない、ということがポイントです。さもないと、テレビ放送を見ることはできません。
*天動説を体感するのとは、逆
です。一見不思議に思えるかもしれませんが、当然のことです。深い意味なんて、ありません。なぜなら、
*テレビはヒトがつくったもの
だから、
*当然であり、不思議ではない
のです。
*ヒトは、ヒトの、ヒトによる、ヒトのためのものをつくる
のです。だから、何の不思議もないのです。でも、ちょっとだけ、不思議ですね。たぶん、ちょっと不思議なのは、
*ヒトがヒトをだますという仕組み=装置=メカニズムを用いている
からだと考えられます。
*映画もテレビも、分断された複数のコマを送る=静止画像を連続して流すことで、映像=まぼろしを生じさせて、ヒトに「何かがある or いる or 動いている」という錯覚をいだかせる仕組み=装置である
ことは、みなさんがご承知の通りです。昔、
*幻灯=幻燈(=プロジェクター)
という美しい語感の言葉があったそうですが、映画もテレビもPCのモニターも、その延長線上にあると言えそうです。ただし、機械関係のことは、苦手なので、以上の説明には、事実誤認がある可能性が高いです。間違いがありましたら、ごめんなさい。
◆
さて、ここまで話してきましたことをまとめますと、
*ヒトは物理的時間の処理に、そうとう苦労している
ということが分かります。逆に or 同時に、
*なかなか器用に健闘している
とも言えます。大切な点は、
*ヒトが自分たちの知覚上の「弱点=欠陥=障害=錯覚」を、ある程度知ることにより、その錯覚を逆手にとる形で、自分たちに「都合のいい=快い=楽な」方法を、考え出し=思いつき、その方法=アイデアを現実化している
ということです。偏屈者の自分も、これは素直に「すごい」と認め、拍手を送ってやりたいと思います。とはいうものの、拍手を送るにしても、
*同情=憐憫(れんびん)の念
と
*不安=懸念=憂慮
を、いだかないわけにはいきません。
きのうの記事から、重要な部分を引用させてください。
*
★で、なぜ、以上の
1)(時間的経過を空間的広がりへと転換した場合における)左右前後の決定=捏造(ねつぞう)の問題、
2)(静止画像における)これから先の繰り返しと逆方向の予感=錯視、
3)(動画における)逆戻りの不可能性の印象=錯覚
の3点にこだわっているのかと申しますと、
*時間的経過を空間的広がりに、置き換える=たとえる=こじつける場合には、時間的「前後」(=「方向」)と空間的「前後」(=「方向」)という、重なる=かぶる=ダブる言葉遣いが、混乱・混同・錯覚を招きやすいのではないか。
という疑問があるからです。上の文にある「混乱・混同・錯覚」とは、
*ヒトがかかえる「不自由さ」=「障害」=「バリアー」
にほかなりません。
今、あたまにあるのは、
*円というイメージ
です。気になって仕方がありません。
*「一回転=一周」という「動作=運動」、つまり、揺れるという運動を「記述する=描写する=写生する」場合には、「前後」というイメージおよび言葉が重要な意味をもつ。なぜなら、ヒトには、時間と空間を、「円形=円状=円環」という「イメージ=比喩=言葉」を基盤にしてとらえる習性が備わっている。
と考えられるからです。
*
以上が引用です。
ヒトという種(しゅ)の成し遂げた偉業に、拍手を送るさいに、ためらいを覚えるのは、この引用個所に書かれた
*ヒトがかかえる「不自由さ」=「障害」=「バリアー」が解消されていない。また、解消される可能性はないだろう。
という思いがあるからなのです。「仕方ないじゃん」という考え方もできるでしょう。でも、そのように、あっさりと諦めてしまってよいのでしょうか?
*そろそろ、ヒトは、以上のような「不自由さ」=「障害」=「バリアー」を含めて、さまざまな他の「不自由さ」=「障害」=「バリアー」に意識的にならなければならない、非常事態に直面しているのではないか。
今述べたことには、まったく根拠はないのですが、アホの「勘」というか、「かん=疳=癇」の虫がおこったというか、とちくるったというか、とにかく、このところ、やたら、
*気になって仕方がない
のです。また、引用させてください。「「揺らぎ」と「変質」」2009-06-29から、必要な部分だけを、以下にコピペします。
*
★*「表象の代表としての=ヒトがもっとも大きな影響下にある」、言葉=言語、および、貨幣=マネーは、時間の経過とともに「揺らぎ」「変質」する。
*表象、および、「表象という仕組み=メカニズム」は、時間の経過に従属する。
*表象、および、「表象という仕組み=メカニズム」を生み出したヒトもまた、時間の経過とともに「揺らぎ」「変質」する。
*時間の経過とともに「揺らぎ」「変質」するのは、あくまでもヒトであり、ヒトが生み出した表象、および、「表象という仕組み=メカニズム」の、時間の経過にともなう「揺らぎ」「変質」は、ヒトが知覚し認識するものである。
*ヒトは、空間的広がりを、ある程度、表現行動=イメージ=表象を用いて捏造・再現・再演できても、時間的経過を、わずかでも、表現行動=イメージ=表象を用いて捏造・再現・再演することには、きわめて大きな障害=困難を感じる。
*
以上引用した部分のうちで、もっとも重要だと思われるのは、
*「揺らぎ」という言葉およびイメージまたは運動
なのです。補足しますと、
*揺らぎ・揺れ・宙ぶらりん・ぐるぐる・くるくる・回転・円・円環・円形・円状・まわる・輪
という、一連の似通った運動が連想されるのです。そして、その運動こそが、
*ヒトにとって、根源的な言葉およびイメージまたは運動であり、ヒトの「行動の指針=支柱=動機」=「無意識の構造=メカニズム」になっている
ような気がするのです。言い換えると、
*ヒトにとって普遍的な、表象という仕組み=「何かの代わりに、「その何か以外のもの」を用いること」と、「ぐるぐる運動」が深くかかわっている
という感じがするのです。
あえて、さらに言うなら、
*言葉=言語、あるいは、貨幣=マネーといった個々の「表象」の運動が、ひとり歩きを超えて暴走している。ネズミ花火のように、くるくる回りつつ、あちこちへと移動している。予測がつかない動きを見せている。
とか
*ヒトが、おそらく無意識のうちにつくってしまった、他の生き物よりも複雑化した「表象の仕組み」が、暴走し、ドミノ倒しのようにヒトの行動やこの惑星のさまざまな体系を踏み倒し続けている。
とか
*ヒトだけでなく、ヒト以外の生物までがヒトに付き合わされるという形で、人為的な=人工的な「表象の仕組み」という回し車のなかで、ハムスターのように、無意識のうちに「回ること」だけが目的化された状況を生きるしかない現在に投げ込まれている。
とか
*宇宙を支配している圧倒的な偶然性が、人為的な必然性=「表象の仕組み」を装い、ヒトとこの惑星の他の生き物を揺るがしている。言い換えると、ヒトは、宇宙を支配している圧倒的な偶然性を、人為的な必然性=「表象の仕組み」と取り違えながらも、それをまったく認識=意識することなく、圧倒的な偶然性に揺るがされ=もてあそばれ、この惑星の他の生き物と半ば一家心中を図ることを余儀なくされている。
といった気がしてならないのです。
比喩を多用した=めちゃくちゃなこじつけに満ちた文章を並べましたが、簡単に言えば、
*ヒトは、自分がつくったものに、翻弄され、きりきり舞いしている。
という感じなのです。
で、
*きりきり舞い=ぐるぐる運動には、切りがないみたいなのですが、実は、「切り」があって、いつかは「ぜんまい」が切れそう
なのです。
で、
*そのぐるぐる運動の処理の仕方を、修正する=改変する=変質させる=揺らがせることが、21世紀に入り10年が過ぎようとしている現在、ヒトに求められているのではないか。
と思えてならないのです。
お気づきになったと思いますが、ただ今書いたことは、すごくテキトーだし、とちくるっているとしか思えないし、根拠も示されていない、単なるアホのお話=でまかせ=杞憂=妄想=虫の知らせです。
*ヒトという種は、変わらなければならない
などと書けば、お読みになっている方から、「そろそろオカルトじみてきたね」とか、「今度はスピリチュアルかい」というお言葉を頂戴しそうな気がします。これこそ、完璧に、
*被害妄想
ですね。
*
その妄想を前提に話を進めますが、個人的には、「オカルト」とか「スピリチュアル」と呼ばれているものは、苦手なんです。「よく言うよ」ですか? でも、これまで、一貫して、その種のものには、やんわりと批判的な意見を述べてきたつもりです。「そうかい? じゃあ、潜在的近親憎悪ってやつだね」ですか? そうかもしれません。「潜在的」となると、自分には分かりません。
*独り漫才で、ボケと突っ込みを演じる
のは、これくらいにして、さっきの話を続けます。なにしろ、今書いているテーマが、
*ぐるぐる運動
なので、またしても同じような話になりますが、お許しください。で、話を続ける前に、また引用させてください。
*
*屹立する偶然性=「宙ぶらりん」って、ひょっとしたら、「身をゆだねる」=「身をまかせる」性質のものではなく、「身をがんじがらめにしばる」=「身を侵す=犯す」ものかもしれない。「賭け」も「書く」も「占う」も「知る」も「分かる」も、何もかもが、圧倒的な偶然性のまえでは=もとでは、無力で空しい。
*
上の文章は、「かく・かける(8)」から、抜き出したものです。キーワードは、
*「宙ぶらりん」
です。
*ヒトが、糸か紐(ひも)で吊るされてぶらぶら揺れている、あるいは、ゆるく円を描きながら揺れている、というイメージ
です。
*宇宙を支配している圧倒的な偶然性に身をさらされている=身をまかせている状態=常態の比喩
とも言えます。それが、上述の
*表象という仕組み=「何かの代わりに、「その何か以外のもの」を用いること」
および
*「ぐるぐる運動」
と、
*なぜか
重なる=かぶる=共鳴する=共振する=連動する=交感する=シンクロするのです。「交感する」などと書くと、確かにオカルトぽく響きますね。自分では、
*「ま、いっか」主義」=「でまかせ主義」で書いている
のですけど。
あるいは、
*ぐるぐると、揺れと、宙ぶらりんについて書きながら、ぐるぐる回り=堂々巡りし、ふらふら千鳥足になり、ぶらぶらゆらゆら揺れているだけ
なのですけど。
とはいえ、上記の
*「交感する」というちょっと超常現象めいた感じ
も、かぶっていることは否定できません。「交感する」という言葉を書いたとき、あたまにあったのは、
*ボードレール(1821-1867)というフランスの詩人の詩集『悪の華』にある「Correspondances」(=「交感」)という詩
です。これまでにブログで取り上げた、デカルトの『方法序説』、リヴァロールの「フランス語の普遍性についての論考」、マラルメの詩などは、学生時代に、フランス人の先生による
*フランス語の授業で、原文で暗唱させられたもの
です。そうした、詩と、散文(哲学書・小説・科学論文など)
*さまざまなジャンルの文章の断片(=名文集=名文選)
を有無を言わせず、丸暗記させるというのは、フランス式フランス語教育の特徴のようです。今はどうか知りませんけど。
*暗唱させるという行為は、話し言葉=音声が主体として演じる、ある一定の時間的経過=持続を、「後に」再現=再演させるための、「事前の」リハーサル=訓練=ある種の洗脳だ。
と言えそうです。これもまた、
*ぐるぐる何度も繰り返して音読して覚え、レコードや、テープレコーダーや、CD(※これらも基本的に円形=ディスク状をしています)のように、後になってぐるぐると想起=再現=再演する行為
なのです。
こういう場合には、脳は時間的経過をどのように処理しているのでしょう。空間的広がりに置き換えているとは、感じられません。
*口承、ホメロスの叙事詩、アイヌのユーカラ、説話、昔話、口伝律法(くでんりっぽう)、ユダヤ教のトーラーやタルムード
などの言葉が思い浮かびます。そうした膨大な言葉の鎖=連続を思うと、気が遠くなりかけます。でも、いつか考えてみたいです。
*
それはさておき、とりあえず、
*表象・表象の仕組み/時間的経過・「とき」/宙ぶらりん・圧倒的な偶然性/揺らぎ・ぐるぐる運動・円/想起・再現・再演
といった言葉・イメージを相手に、ぐるぐるゆらゆら戯れながら、きょうも、暑い=熱い「とき」を過ごし、ぼけーっと考えてみます。まさに、宙ぶらりんの宙づり状態です。すべて「とき」におまかせです。
*
お腹が空きました。ごろごろいいます。難聴でも、こういう音だけは、耳鳴りとかぶって聞こえてくるのです。
ここまで、お付き合いくださいまして、どうもありがとうございました。あなたの存在だけが励みです。では、また。
朝六時 ごろごろ鳴るは 腹時計
朝七時 ごろごろ鳴るは ネコの喉
朝八時 ごろごろ鳴るは 黒い雲
今気づく ごろごろ鳴るは 耳の中
えんえんと ごろごろ鳴るは ときの音
【お知らせ】
再び体調を崩したので、しばらくお休みさせていただきます。
アホは学習しない――。つくづく自分にあきれています。
暑いときにぜひ投稿しようと思っていた記事が何本かあったのですが、それらをまさに最も暑いときに連投してしまいました。こういう頑張りすぎる(むしろ自暴自棄であり、破滅的行動に走るというべきかもしれません)ところが私の致命的な欠点なのです……。
涼しくなったらもどってくるつもりですので、またそのときには仲良くしてください。
みなさん、くれぐれもおからだを大切にしてくださいね。
では、また。