もう1つ気になることが

げんすけ

2020/08/06 09:08


 もう1つ気になることが、あります。


*数学


に関することなのです。算数と数学は、大の苦手であまりかかわりたくないし、実際、高校生時代以降はかかわる機会はほとんどなく過ごしてきましたが、気になる存在なのは確かです。


*すごくおもしろそうなのだけど、分からない。


という感じです。だから、数字を使っての操作とか、数学的思考に対する劣等感は強いです。ああ、何てあたまが悪いんだろう。そう嘆いた、悲しいやら情けない思い出がたくさんあります。


 それはそれでいいとして、今、あたまのなかにあるのは、


*微分


です。微分といっても、今となっては言葉として知っているだけで、その中身については、まったく分からない分野なので、ある1つのことに話を絞ります。


     *


 微分で、方程式をグラフに描くと曲線になって、その


*曲線の微小な部分を拡大すると直線に見える。


というような理屈があったように記憶しています。勘違いか誤解かもしれません。だから、自信はないのですが、とにかく、そんなふうな断片的な記憶がありまして、それが気になって仕方がないのです。


 なぜ気になるのかと申しますと、


*すごくテキトーに思える。


からなのです。数学に対して、勝手に自分がいだいているイメージを裏切るほどのテキトーぶりなのです。数学って、こんなに感覚的なものでしたっけ。


*もっと冷徹かつ緻密で、感覚などという曖昧なものを排除したガチガチの論理で金縛り=がんじがらめ状態にある。


ようなイメージを、数学に対してもっているのですが、それは数学が理解できない者の偏見でしょうか。ないものねだりというものなのでしょうか。東京ららばい、ふれあうあいがない、ないものねだりの小森ウタ、東京バイバイ、東京駅の10番ホームで別れた小森ウタさん、あなたは今どこに? ふれあうあいは見つかりましたか? 偏見、片言、変幻、変現、変言、3人のゲンちゃん……。そうなのかもしれません。いや、きっとそうです。偏見でしょう。数学って、案外感覚的なものなのにちがいない。そんな気がしてきました。だって、そもそも


*ヒトが考えたもの


なのですから。


     *


 今、PCに向かって文章を書きながら、あたりを見回すと、あちこちに


*曲線


が見えます。たとえば、PCのモニターに映し出されている活字も、直線と曲線から成り立っています。また、PCの脇に家のカギが置いてあるのですが、それには細い紐と鈴がついています。


 紐は細い糸を編んだもののようです。その紐が曲線を描いています。虫眼鏡でその紐の曲線部分を拡大してみると、確かに直線に見えます。ここで、大切なのは、


*「見える」


ということです。微分では、方程式をグラフにした場合の曲線を拡大すると、


*「直線になる」


とは言っていなかった気がします。あくまでも、


*「直線に見える」


だったと記憶しています。それ以外のことは、覚えていません。微分というと、そのことだけが、思い出されるのです。「見える」なんて、


*すごくテキトー


じゃ、ありませんか。それとも、そんなことはないのでしょうか。質問できる相手がいないので、どうなのかは分かりません。


*数学の専門家


はどう考えているのでしょう。学会というかギョーカイに、何か


*定説


みたいなものがあって、テキトー=いい加減=でたらめ=感覚的なんかじゃないよ、と諭してくれるのでしょうか。また、数学の専門家以外のヒトは、どう感じているのでしょう。意見や感想は、千差万別なのでしょうか。


     *


 連想が働いたらしく、今、思い出しましたが、


*「限りなく0に近づける」


というフレーズも、あたまに残っています。前後関係は忘れました。数学の授業でよく耳にしたり、目にしたフレーズです。微分だけではなく、数学の違った分野でも見聞きした気がします。物理の授業でのことだったという気もします。


 数学も物理も、両方とも苦しくて退屈な授業だったので、混同しているのかもしれません。ですから、記憶違いである可能性は高いです。いずれにせよ、もしも数学にそういう言い回しがあるとするなら、これまた、


*テキトー=いい加減=でたらめ=感覚的


な気がします。


*限りなく


ですよ。詩や宗教や哲学みたいじゃありませんか。限りなく透明に近いイエローでホワイトでちょいとブルースみたい。言い換えると、


*無限


です。かぎりなく(大和言葉)をむげん(から言葉)に置き換えても、やっぱり詩みたい……。


     *


 また、思い出しました。


*無限大


って言葉がありました。


*∞


なんて立派な記号まであったのも思い出しました。ということは、


*無限小


ってのもあるのかしらん。これはどう考えても、やっぱり、


*テキトー=いい加減=でたらめ=感覚的


なようです。漠然と考えていたことを、こうやって文章にしてみると、ますます、そうした思いが強くなりました。


     *


 で、


*でまかせ


なんですが、以上のような数学のテキトーぶりは、ひょっとして、


*ヒトは、「何か」の代わりに「その「何か」ではないもの」を用いている。


ということと、


*かかわっている=からみあっている=つながっている=かぶっている


のではないでしょうか。それも、深くかかわっているような気がします。根拠はありません。


*でまかせ


です。つまり、


*テキトー=いい加減=でたらめ=感覚的=勘


です。でも、考えてみたいです。おもしろそうです。気になります。


 数学は詩であるなんて何かで読んだ気もします。それとも数学は宗教である、数学は哲学である、だったかしら。いずれにせよ、そうであれば、テキトー=感覚的であってもいっこうに不思議はないわけですけど。そうでないものを数学に期待していた、このアホがアホであったと分かっただけでも収穫と考えましょうか。


     *


 ところで、


*ヒトは、「何か」の代わりに「その「何か」ではないもの」を用いている。


の、「何か」とは「餅」で、「その「何か」ではないもの」とは「絵に描いた餅」と考えると分かりやすいかもしれません。


 比較的モチがいいと言われる餅ですが、カビは生えるし、いつか腐敗するし、だいいちモチあるきにくいので、ヒトは絵に描いてモチ運ぶのです。でも、ヒトはそれが絵だということをすぐに忘れます。


 この餅はクジラであっても宝石であってもヒトであってもミミズであってもオケラであってもアメンボであっても山であっても首相の座であっても宇宙であっても、それが絵に描けるなら「何か」なのです。餅を、気取って事物や現象、あるいはおおげさに森羅万象なんて呼んでも、それでヒトの気が済むのならよろしいかと思います。また、絵に描いた餅を、表象・象徴・記号と呼んでも事態はいっこうに変わりません。


 大切なことは、餅の絵が餅だと錯覚したり、餅の絵が餅ではないことを忘れたり考えないようにするのが、ヒトの常だということです。取り違えとか取り替えのギャグみたいで、お茶目ですね。モチろん、故意に、あるいはすっとぼけて、この錯覚や忘却を利用する、身モチが悪いじゃなくて、鼻モチならないやからがいるので、気をつけなければなりません。


     *


 で、また、でまかせなんですけど、上で書きましたように、今、


*PCのモニターに映っている活字は、直線と曲線から成り立っている。


みたいなのですが、ディスプレイ上の画像というのは、確か、


*ドットとかいう点、あるいは、画素とかいうものが集まって形をなしている。


とか、いないとかいう話を何かで読んだ覚えがあります。詳しいことは知りません。ですので、間違っているかもしれませんが、とにかく、そうした前提で話を進めますと、さきほど述べました、微分でのグラフ化された


*曲線の微小な部分を拡大すると直線に見える。


と何やら似ている感じがします。こういう、「似ている」などという根拠薄弱な、


*こじつけ=類推=思いつき=比喩=たとえ=いわゆる1つのでまかせしゅぎ=妄想


には、十分気をつけなければなりません。繰り返しになりますが、早い話が、


*似ているからというだけの横着


だからです。でも、こういうでまかせって好きです。ついやっちゃいます。やめられません。


     *


 で、でまかせを続けますが、今問題にしている現象は、いわゆる


*錯覚=錯視に基づいている


のではないでしょうか。詳しいことは知りませんが、PCのモニターと同じく画素の集まりであったり、あるいは走査線とかいうものの集まりであったりするテレビの画像は、本来はというか、一時的にはというか、


*「ヒトが感じ取れない時間=瞬間」においては静止画像である


らしいのです。そうした静止した=


*「動いていない」


画像を、フィルムをつかった映画と同様の原理で、「1秒間に○コマ」という形で早送りすることによって、


*「動いている」


つまり、動画と


*「感じさせる」


仕組み=仕掛けが働いているという話です。不正確な記述になっている可能性は高いですが、そういうふうに理解しています。


 要するに、


*まぼろし=だまし=いつわり=ペテン


だと言えそうです。


 で、新聞・本・雑誌に掲載された写真(=点の集まり)、あるいは、PCのモニターやテレビ画面に映し出された、活字(=点の集まり)、静止画像(=点の集まり)、動画(=コマ送りされた静止画像)が、以上のような錯覚を利用したものであるとするなら、


*ヒトは、日々、物理的レベルで幻(まぼろし)を知覚しながら、いわゆる知的な活動を行っている。


という飛躍した言い方もできそうです。広い意味で、


*ヒトは、「何か」の代わりに「その「何か」ではないもの」を用いている。


の好例とも言えるような気がします。言い換えると、


*ヒトは、自らの欠陥=テキトーさ=盲点=弱点=限界性を逆手にとって、森羅万象を相手にしている。


ということです。


*綱渡り


という比喩があたまに浮かびます。


*おっとっと


という感じです。いずれにしても、


*すごいし、したたか


です。いや、したたかなのかどうかは疑問です。


*何となく、そうなっちゃった。


のではないでしょうか。ホモ・サピエンスがこの状態になるまでには、そうとうな年月を経たはずです。試行錯誤の結果=成果=「ごくろうさま」というところでしょうか。


     *


 ところで、さきほどから、何度かつかっている言葉である


*「まぼろし・幻」


とは、いったい何なのでしょう。ヒトとは切っても切れないつながりがあるようなので、気になって仕方がありません。個人的な定義=意見=感想=でまかせを述べさせていただくなら、


*「まぼろし・幻・幻想」とは、ヒトにとってのいわゆる「現実・うつつ」にほかならず、ヒトは広義の「言葉・言語・言の葉」(※<ヒトは、「何か」の代わりに「その「何か」ではないもの」を用いている。>というフレーズの「その「何か」ではないもの」くらいの意味)を用いて互いに伝え合おうと努めている。


ということになりそうです。よく見聞きする「お話=フィクション=説=神話=紙芝居の台本」です。大切なのは、


*「努めている」


です。ヒトが個人レベルでいだいている幻を、他のヒトとのあいだで、


*「伝え合う」


のは、至難の技=ほぼ不可能であると思われます。何しろ、


*綱渡り=おっとっと


というトホホな状態=事態=境遇にあるのです。ですので、以上述べてきた幻をめぐっての言葉が、これをお読みなっている方に伝わっているかどうかに関しては、


*ほぼ絶望的


である、と言えそうです。でも、これは言葉の発信者からの見方でありまして、


*言葉の受信者は、それなりに自分の納得のいくように、あるいは、自分の都合に合わせて言葉を受け取る。


のがふつうです。このように、


*言葉を使えば何とでも言える。


という現実というか幻想というか言葉の有り様(=ありよう)があり、でまかせしゅぎじっこうちゅうの身には、誠にありがたい状況=状態=常態=事態=有様(=ありさま)なのであります。


     *


 で、微分において、方程式をグラフ化した


*曲線の微小な部分を拡大すると直線に見える。


という気になる問題は、依然として気になりますが、これから先、何とか


*でまかせで考えていく


方法しか持ち合わせておりません。とはいえ、どうやら、言葉を使えば何とでも言えるようなので、


*「まぼろし・幻・幻想」=「現実・うつつ」=「言葉・言語・言の葉」(※この3者が、なぜ「=」で結ばれるのかは、おいおい説明していきます)


という、きわめてテキトーな図式=チャート=見取り図=でまかせ図をにらみ、念頭に置きながら、引き続き、ぼちぼち考えていくつもりです。



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77


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