ゲイ・サイエンス(その1)

げんすけ

2020/07/10 13:26


 唐突ですが、このブログで書いてきた2つのフレーズを、合体させてみます。


*「まぼろしとは、ヒトが知覚している森羅万象=世界=宇宙である」 +  or   × 「言葉を話すということは、ヒトが一時的に、あるいは部分的に自分以外のものに「なる・なりきる」ことである」 = 「ヒトは言葉を使用することによって、自らが知覚している森羅万象=世界=宇宙=まぼろしに、一時的に、あるいは部分的に「なる・なりきる」


 こんなん出ましたけど――。どうお思いになりますか? 「ゲイ・サイエンス(= Gay Science )」という言葉をご存知ですか? 初めてこの言葉を目にした時には、ぎょっとしました。さまざまな思いが頭の中を巡りました。何だろう? その言葉が書いてある文章をよく読んでみると、あるドイツの哲学者の著作の英訳タイトルだったのです。


 この国では『悦(よろこ)ばしき知識』という書名で売られています。ほかのタイトルでも訳されているらしいのですが、知りません。ややこしそうな本だったので中身は読んでいませんが、「学問や知性というのは楽しくていいのだ」と書いてあると勝手に理解しています。ですから、


*ヒトは言葉を使用することによって、自らが知覚している森羅万象=世界=宇宙=まぼろしに、一時的に、あるいは部分的に「なる・なりきる」。


というフレーズも、へそ曲がりの素人が楽しく考えた結果だ、くらいに理解してください。(「なる(7)」より)



     〇



 たった今、上の4つの*で始まる文章を読み返しましたが、何て官僚的=事務的な言葉を連ねているのでしょう。恥ずかしくて、消したくなりました。でも、言霊が怖いので削除はしません。心残りなので、「信号」について別の説明を、最後に書かせてください。


*「信号」とは、ナンパを目的とした「めくばせ」である。ナンパされる対象は、いつかナンパされることを意識しながら待機している。ナンパする側も、される側も、双方がどきどきして機会=合図を待っている。


 いかがわしいですね。でも、これでいいのだと思います。当ブログは「ゲイ・サイエンス」=「愉快なお勉強ごっこ」を目的としている、いわばネット上の小さなテーマパーク、あるいはゲーセン or 寄席です。よろしければ、また、お遊びに来てください。お待ちしております。(「あう(7)」より)



     〇



 以上挙げた「学問=楽問」や「○○論」の根底には、


*「いろんなものをつなげたーい」という欲望


があります。実は、上述の楽問の存在を教えてくれたのは、学魔こと高山宏氏でした。自分が大学生になりたての頃の話です。高山氏は、つなげる名人です。「つなげる・つなぐ」という作業において象徴的な名称である


*「存在の大いなる連鎖」=The Great Chain of Being(アーサー・O・ラヴジョイの著書の邦題)


を、地で行くような著作をものしていらっしゃる方です。


 この人の文章はすごいです。読みながら文章に埋められた= 象嵌(ぞうがん)された「連鎖」を感知するには、かなりの知識と想像力を要します。自分のようなお勉強嫌いには、歯が立たないです。でも、「歯抜け」なりに楽しめますので、向学心のある方は「高山宏」と上記の書名をキーワードに検索し、ぜひ挑戦なさることをお勧めします。


 ところで、


*「いろんなものをつなげたーい」という欲望


は、比喩の多用や、エスカレートしたダジャレ=ダジャレの頻発の根底にもあると思います。その意味では、ジャック・デリダやジャック・ラカンの戦略にも通じると言えそうです。


 話を、さきほど羅列した「学問=楽問」にもどしますが、かつて高山氏から直接紹介していただいた方で、富山太佳夫という方がいらっしゃいます。この方も、さきほど挙げた類の楽問にとても詳しく、また、ご自身が「読む」という行為を行う過程で、そうした楽問や理論を実践してみてくれるという、とても誠実な態度でお仕事をなさっています。文学を学んでいる方には、水先案内人となってくれる頼もしくて優しい先生だと思います。「富山太佳夫」で、ググってみることをお勧めします。


 私見では、この種の


*「楽問=ゲイ・サイエンス」


は、真剣にやると馬鹿っぽくなります。ときには、きな臭くもなります。そうなったら、もう楽しくない。つまり「ゲイ」ではない。馬鹿っぽいを通りこして馬鹿らしくなる。だから、あくまでも遊び心が大切だ。そう考えています。


 一昨日の記事で出てきた、あのいかがわしい本を書いたフランス人、ロラン・バルト氏はその「遊び心」をもった粋な「おじさん」でした。享年65歳でしたら、「おじいさん」と呼ばれるギリギリのところでしょうか?(「スポーツの信号学(1)」より)



     〇



 ところで、みなさん、スポーツの楽しみ方の1つに、試合や演技だけでなく、お気に入りの選手の日ごろの練習・トレーニング、商品価値のある選手であればスポンサーやエージェントとの契約、プロであればギャラ、コーチやトレーナーなどのスタッフとの連携、団体スポーツであれば他の選手とのプライベートな面での関係、恋愛・結婚・友人関係を含む私生活などに、興味をもつことがありませんか? 


 現実問題として、こうした面が選手の試合や演技に及ぼす影響力はきわめて大きいし、また、そうした面に目を向けることは、スポーツ観戦をよりおもしろいものにしてくれる。個人的には、そう考えています。というわけで、


*スポーツの信号学


では、そうした面にも、


*「視線を送りたい」


と考えています。


 日本で、おそらくもっともファン層が厚いスポーツである野球なんて、そうした話題にはこと欠かないのではないでしょうか。また、実際に、ほとんどゴシップだと言える話題が、野球の観戦と「同時に=並行して=シンクロして」、巷(ちまた)=世間で語られている。そうお感じになりませんか? 


「信号学的」に申しますと、さまざまなデータ=情報が、「信号」として発せられ流通している、と言えます。スポーツ紙や、スポーツ紙の記者と、野球選手との関係をメディアを通して観察していると、世間からの視線を浴びているのは、スポーツ選手と言うより、


*「タレント=現在における「信号」の典型・権化」


ではないか。そんな気がしてなりません。


 野球だけではありません。石川遼、朝青龍、浅田真央、高橋尚子、福原愛、中田英寿、亀田兄弟、錦織圭、北島康介、石井慧、上村愛子……なんて、観戦レベルだけでなく、その背景にあるレベルに人々の視線が注がれている(or注がれていた)のではないでしょうか。だからこそ、スポーツは見ていて面白いし楽しい。わくわく、どきどきする。そんなふうに言えないでしょうか。


*「信号」とは、ナンパを目的とした「めくばせ」である。ナンパされる対象は、いつかナンパされることを意識しながら待機している。ナンパする側も、される側も、双方がどきどきして機会=合図を待っている。


 上のフレーズは、一昨日の記事からの引用です。このフレーズだけでも、さまざまな意味にとれませんか? 


*「ナンパする」


という動作=運動=行動を、いろいろな意味に重ねて取るのです。


*「めくばせ」


という動作=身ぶり=表情をいろいろな意味に取るのです。


*「待機」/「どきどき」/「機会」/「合図」


も同様です。


 こんな「いかがわしい」とも言えることを考えていると、「わくわく」してきます。その


*「わくわく感」が「信号」の特性の1つ


です。きわめて重要な特徴です。「信号学 or 信号論」を、その「わくわく感」を大切にする=重視する


*「ゲイ・サイエンス=楽問=悦ばしき知識=愉快な学問=楽しいお勉強ごっこ」


にしようじゃありませんか。よろしければ、みなさんも、ブログなり、親しい人との会話のなかで、上記の視点からスポーツを多面的に眺めて楽しむことを実践してみませんか? というか、おそらく、既にみなさんが実行なさっていることではありませんか? そうであれば、意識的に確信犯的に楽しみましょうよ。(「スポーツの信号学(1)」より)



     〇



 ドラマって、そこらじゅうに転がっていませんか? どこにでも転がっているということは、曖昧模糊(あいまいもこ)としたものだと考えることもできそうです。要するに、「何でもあり」であり、同時に「何だかわからない」ものという意味です。


 家庭内にもドラマあり、会社にもドラマあり、政界にも、動物園の各檻(おり)のなかにも、お母さんたちと幼児たちが集まる小さな公園にも、ホワイトハウス内にも、芸能界にも、○○中学3年B組にも、テレビに映っているバラエティ番組の裏方さんたちの人間関係にも、ネット上の掲示板にも、そして、もちろんクレヨンしんちゃんの各回のエピソードのなかにも、東野圭吾の小説のなかにもドラマはあります。


 で、きょうやろうとしている、


*ドラマ信号論


というのは、


*視線やめくばせや物色や色目やガンつけや、期待や様子見やどきどきわくわくや、やらせや出来レースやシナリオや筋書きといったものに注目する、楽問=ゲイ・サイエンス=「楽しくなきゃ勉強じゃない」


となる予定ですので、十分に気をつけなければなりません。話が大きくなる。大風呂敷を広げてしまう。自己満足が高じて誇大妄想(※これって現在は差別語ですか? だったら撤回します)化する。手におえなくなる。そんな恐れがあるのです。


「論理的に」「筋道を立てて」「事実と意見を分けて」「理詰めで」「説く」などという、芸当はとてもできない「きわめてテキトーで」「直感か直観か知りませんが」「勘やら感に頼り」「理屈より屁理屈が好きで」「その癖、ものを知らない」「でまかせ実行中」の自分にとっては、きのう遊んだ「○○学」とか、きょう遊ぼうとしている「○○論」というのは、計画倒れ=行き倒れ=破綻(はたん)=バタンキュー=シャ乱Q になるのが目に見えています。


 ですので(※この接続詞、ぜんぜん機能していません、機能不全ですわ)、まず、ドラマの定義からしてみようと思います(※どういう意味だか、自分でも不明ですわ)。このブログは、いつもこんな感じなのです。トリトメがなくて、ごめんなさい。いずれにせよ、話を進めます。簡単にいきましょう。


     *


*ドラマとは、はらはらどきどきである。


 これなら、簡潔で何とかうまく行きそうですね。でも、この「簡潔」というのが曲者なのです。簡潔に定義すると、上で述べた「何でもあり」状態におちいってしまうという罠(わな)=落とし穴=ネズミ捕りがあるのです。かといって、長文でややこしい言葉をつかって定義すると、扱う対象を絞ることができますが、それ以前に、定義の段階で「わけがわからない」状態になってしまうという、潜在的危険性=リスク=「戸締り用心火の用心の対象」となる事態を覚悟しなければなりません。


 ですので(※また出てきました、意味の不明な接続詞です、でも気に入っているので使っちゃいます)、その両極端のあいだで中庸とかいうものを心がけながら、話を進めたいと思います。


 具体的にいきます。まず、身近なところで、テレビ番組について考えてみましょう。テレビには、ドラマがありますね。あまり広い意味ではなく、「○曜サスペンス劇場」とか、恋愛ドラマとか、若者向けドラマ、というくらいの意味のドラマです。ところで、


*「まるでテレビドラマみたい」


と人が言うとき、褒めていることはあまりないと思います。


*「ぼくたちの関係って、まるでテレビドラマみたいだね」


と言われたら、相手はどう感じるでしょう? どんな反応を示すでしょう? 下手をすれば、


*「バイバイ。あなたとは合わないみたい」


になりそうじゃありませんか? 


*「ばーか」


と言われて、すっと目の前から消えられるよりは、ましでしょうが、悲しい結末であることは変わりません。


*「まるでテレビドラマみたい」


のどの部分に問題があるのでしょう? 分析してみましょう。


1)「まるで・・・みたい」


2)「テレビ」


3)「ドラマ」


 以上の3つのうち、どの要素かが犯人のはずです。うーむ。考えているのですけど、こうやって「バラバラにしてみる=分析してみる」と、どれも悪くない=犯人じゃないという気がします。「テレビ」のどこが悪いの?って感じです。こういう場合には、やり方が間違っていると疑うべきです。バラバラにしてはいけないのではないか? きっと、そうにちがいありません。でまかせで言うのですけど、もしかしたら、


*組み合わせが悪い


のではないでしょうか? 食い合わせが悪いと、オゲーっとなったり、トイレに駆けこんだり、最悪の場合には救急車の出動を要請しなければならなくなります。中毒というやつです。こわいですね。それと同じように、上で挙げた、1)2)3)についていえば、


*1)+2)+3)= 駄目 = NG = ノー・グッド


ということになりませんか? でまかせですけど。そんな気がしませんか? そういうことにして、話を進めます。


 どうやら、「まるでテレビドラマみたい」という表現は、蔑称(べっしょう)=悪態=罵倒=「あほちゃうか」的効果をそなえたフレーズのようです。さて、みなさん、


*あなたは、テレビドラマがお好きですか? 


「大好きです」とお答えになった方に、お尋ねします。相当、退屈していらっしゃいませんか? 人生や生活に、ですけど。不快感を覚えになったのでしたら、お詫び申し上げます。ごめんなさい。


「そこそこ、好きです」とお答えになった方に、お尋ねします。いや、申し上げます。朝、この記事をお読みでしたら、きょうも一日、頑張ってください。夜、この記事をお読みでしたら、きょうも一日、ご苦労さまでした。


 で、「大嫌い」とお答えになった方にですけど、うらやましいです。テレビドラマ以上のものに興味がおありである、と仮定しての話ですけど。


 何を言いたいのかと申しますと、


*テレビドラマは、日本のスタンダード=標準=平均値=可もなく不可もない=「たいてい誰もが楽しめるもの」である。


ということなのです。ジス・イズ・ジャパン。そんな感じです。


     *


 ちょっと話題を変えます。本屋さんでは、いろいろな雑誌が売られていますね。ちょっと大きめの書店を想像してみてください。雑誌のコーナーへ行くと、週刊誌、月刊誌、ムック、不定期に刊行されているらしき雑誌などが、置かれています。内容的には、ある特定の年齢や年代をターゲットにしたもの、興味・関心事=テーマに特化したもの(※専門誌や特定の業界誌も含めましょう)、マンガ本、文芸誌(※ライトノベルやBL小説も含めましょう)などといったところでしょうか? 


 さて、日本に住んでいて、日本語の日常会話がそこそこできて、どこかの企業に勤めているのなら、仕事や自分の専門分野の日本語で書かれた書類や文書をほぼ辞書なしで読めて、学者や研究者であれば、専門書を辞書なしでほとんど完璧に理解できる、そんな外国人を想像してください。


 それだけ日本語ができれば、大したものですよね。そうした日本語のレベルにある外国人とあなたが、友達関係にあったとします。で、いっしょにちょっと大きめの書店に行ったとします。そこの雑誌のコーナーに立ち寄りました。その外国人のお友達がおそらく手に取る可能性が低くて、あなたが手に取る可能性が高い雑誌って、どんな種類の雑誌でしょう? 


 あくまでも、可能性の話です。絶対にそうなるという話ではありませんので、お間違えにならないようにお願いします。言い換えると、一般論みたいなものです。


 ヒントは、さきほどの、


*テレビドラマは、日本のスタンダード=標準=平均値=可もなく不可もない=「たいてい誰もが楽しめるもの」である。


です。


「TVガイド」? と思われた方、いい線行っています。たぶん、それも正解にしていいでしょう。でも、こちらが用意している正解とは、ちょっと違います。ほんのちょっとだけですけど。その線で、もう少し考えてみてください。こちらが用意している正解というのは、ある人から聞いた話です。外国人と接する機会の多い方でしたので、いい加減な話ではないと信じています。また、答えをお聞きになれば、納得していただけるとも思います。では、ヒントを出します。


 デーブ・スペクター氏は、ご存知ですよね。あの不自然なくらい美しい金髪の米国籍の人です。あの人の売りって何ですか? 毒舌ですか? うーん、最近は毒舌路線じゃなくなりましたよね。民放だけでなく、公共放送にも活動範囲を広げ、アカシロの審査員あたりを目指していらっしゃるのかもしれませんね。で、あの人は、欧米、といっても、主に米国の芸能界やセレブに詳しいのが、売りの1つですよね。ほかにも、魅力があるから、テレビによく出ているのでしょうけど・・・。


 さて、たった今、書いたことが、さきほどの質問のヒントです。もう、じらすのはやめますね。正解は、週刊誌です。と言っても、いろいろありますから、固有名詞を出さずにぼかして例を挙げます。「週刊○潮」「週刊文○」「週刊○日」「女性○身」「週刊女○」「女性○ブン」などです。○がありますが、お分かりになりますよね? コンビニの雑誌コーナーでも、駅の売店でも並んでいます。


 あれって、かなり日本語が得意な外国人でも、「読めない」、「読みにくい」、「何が書いてあるのか、さっぱりわからない」みたいに口をそろえて言うそうです。


 なぜでしょう? 今、このブログをお読みなっている方で、上の○の入ったような週刊誌を「難解」だと感じる方、いらっしゃいますか? 「難解」だなんて、感じるなんて「なんかい」のう?=「どういうこっちゃ?」とお思いになりませんか? なぜ、外国人にとって「難解」なのかというと、あれは、


*テレビドラマは、日本のスタンダード=標準=平均値=可もなく不可もない=「たいてい誰もが楽しめるもの」である。


からなのです。


 デーブ・スペクター氏に限らず、一般的な米国人(※粗雑な言い方ですけど我慢してください)なら、たいていスラスラと読める、洋物の芸能関係の雑誌やTVガイドの類を、洋書の置いてある書店で、立ち読みなさってください。表紙の写真で、だいたい、「ああ、これがそうだな」と分かります。


 ところが、です。読むとなると、難しいですよ。まさに、「難解」です。よほど、向こうの芸能界に詳しいというか、向こうのTV番組、映画、テレビのトークショー、バラエティ番組を定期的に見ている日本人でなければ、「読めない」、「読みにくい」、「何が書いてあるのか、さっぱりわからない」という感想を漏らすにちがいありません。


 TIME、Newsweek といった雑誌や、英字新聞を定期購読なさっている方もいらっしゃると思います。雑誌や新聞にも、いろいろな記事が掲載されていますね。一般論として、日本人の読者にとって、いちばん理解しやすいのは、政治や経済といったふつうは「硬い」と言われている分野の記事ではないでしょうか。


 なぜなら、そうした内容はグローバルな流れのなかにありますから、日本のメディアで見聞きした情報が多いですし、理屈=論理で読めるからです。ある程度内容がわかっているから、英語で書いてあっても読めるという部分があります。アメリカ国内の政治や社会についての記事でも、ある程度想像力を発揮すれば、まるっきりわからないということはないでしょう。もちろん、語学的な問題は別にしてですけど。


 一方で、概して日本人にとって読みにくいし難しいのは、向こうの有名人やセレブや芸能関係の記事です。これには、訃報も含まれます。TIME、Newsweek であれば、米国人ならたいていの人が知っている有名人の話題や、有名人同士の込み入った話の記事となると、もうお手上げです。米国に住んでいたり、米国のテレビ番組の録画などを毎日見ている日本人でないと、ピンと来ないどころか、さっぱりわかりません。


 このように考えると、さきほどの外国人にとって苦手な雑誌についての話を理解していただけるのではないでしょうか。(「ドラマ信号論(1)」より)



     〇



 話をもどします。ゴールデンタイムやプライムタイム(※両者を区別する人もいますが、ここではどうでもいいです)で放映されているテレビドラマは、誰もが「気楽に=そんなにあたまをつかうことなく」楽しめるものでなければなりません。だから、


*「ぼくたちの関係って、まるでテレビドラマみたいだね」


なんて言えば、相手に振られてしまうのです。


*「まるでテレビドラマみたい」


がネガティブな響きをもっているのは、以上のように「わけあり」だからなのです。ちょっと、屈折したと言うか、複雑な心理が働いているとも言えそうです。マンガは面白いし楽しい。でも、「あなた、マンガみたいな人ね」とか、「あなたの生活or人生って、マンガみたい」なんて言われたら、下手をすると喧嘩になりますよ。


 これまで述べてきたことは、それと似ています。要するに、「陳腐」=ほぼ「馬鹿みたい」なのです。でも、「なくてはならない」感じ。だから、「わけあり」なのです。


 今、説明した「わけあり」を歴史的視点から見ることも可能です。1950年代後半には、白黒テレビ・冷蔵庫・洗濯機が「三種の神器」と呼ばれていました。約一億の民が一生懸命で働いて、「三種の神器」をそろえようと、向こう三軒両隣と競っていた時期です。当時に生まれた自分も、幼い頃に目にした、この国の勤勉な人たちの「エネルギーの爆発」をぼんやりと覚えています。


 ものすごい時代だったと思います。今とは正反対。仕事があふれていました。銀行や郵便局の預貯金の利率も高かった。夜になると、みんなが通帳を開き、増える残高に、にこにこしながら見入っていたものです。その当時のテレビは、「いやし」と「明日も頑張ろう」の源でした。プロレス中継、ホームドラマ、歌番組に熱狂できた時代でした。


 そして長い年月が過ぎ、いつかトレンディドラマなるものが流行った時期がありました。今になって思えば、あれはテレビドラマのピークと言うよりも、残照みたいなものだったという気がします。暖炉や焚き火の炎が、最後のほうになって急に勢いよく燃え盛ることがありますね。あんな感じです。その時期に、誰かが、


*「ぼくたちの関係って、まるでトレンディドラマみたいだね」


と仮に言ったとしても、


*「ばーか」


という反応をされることは、おそらくなかったのではないでしょうか? もちろん、今の感覚から判断すると、「ばーか」って感じはしますよ。でも、それは、現在の視点に立っているからではないかと思います。当時は、たいていの人がトレンディドラマに、「ある程度」憧れていたという気がします。この「ある程度」が大切です。テレビドラマへの憧れが揺らいでいたのですから。


 そして、60分なり、90分なりで事件が解決する「サスペンス劇場orミステリー劇場」に類した名のテレビドラマ・ブームが、お笑いや漫才や時代劇などのさまざまなブームor小ブームとほぼ並行して平穏に続き、「トレンディドラマ」という言葉が、いつしか「死語=嘲笑の対象」になっていきました。


 このころになると、いつでもそこそこの視聴率を保っている、サスペンスorミステリー・ドラマを「すごく真剣に」見る人は、ほとんどいなくなります。「何となく」or「暇だから」見る。そんな状況になります。テレビドラマの「コモディティ化=陳腐化」の始まりと進行です。という経過をたどり、


*「ぼくたちの関係って、まるでテレビドラマみたいだね」


は、「陳腐な発言」になってしまったのです。言い換えれば、


*「テレビドラマ」は「陳腐」の代名詞となっている。


です。歴史的に考察すれば、こんな感じでしょうか。


     *


 で、きょう実験的にやろうとしている、


*ドラマ信号論


ですが、


*テレビドラマは、日本のスタンダード=標準=平均値=可もなく不可もない=「たいてい誰もが楽しめるもの」である。


と、


*ゴールデンタイムやプライムタイムで放映されているテレビドラマは、誰もが「気楽に=そんなにあたまをつかうことなく」楽しめるものでなければならない。


に当てはまる「ドラマ」を対象としようと考えています。これなら、みなさんにもお馴染みのものでしょうし、話が広くなりすぎないと予想しています。


 したがって、芸術祭参加作品のドラマとか、コドモたちが起きているような時間帯に放映するのにはふさわしくないような、いわゆる「いかがわしい」(※あくまでも、いわゆる、ですよ)とか、スポンサーが付きそうにもないような、いわゆる「けしからん」とか、ご奇特な人以外は誰も見ないような、いわゆる「なんだこれ」みたいなテレビドラマは、扱いません。


     *


 きのうの記事にも書きましたが、このブログでやろうとしている


*「信号論 or 信号学」みたいなもの


は、学問ではなく


*楽問=ゲイ・サイエンス=「お遊び」


です。ですから、テキトーに気ままに書いていきますので、あまり真剣にお取りにならないでください。ときには、すごくでたらめなことや無神経なことも、うっかり書いてしまうと思います。そこのところは大目に見てくださいね。


 テレビドラマの特徴=資格としては、まずわかりやすいことが挙げられます。難解であったり、複雑すぎてはならない。また、


*「信号論」的に言うと、ドラマを「見せる側=見られる側=制作者」と「見る側=見せられる側=視聴者」とのあいだに、「めくばせ」が機能して=働いていなければならない。


のです。つまり、前者が仕掛け、後者が仕掛けにはまる、というわけです。両者のあいだに「共犯関係」=「やらせ」=「出来レース」が機能して=働いている、と言い換えることもできるでしょう。ちょっと学問ぽく説明すると、


*ドラマを「見る」という行動は、比喩的に言うなら、ドラマのストーリーやメッセージを「読む」ことである。


 制作者は、「読めるもの」を「(視聴者が)読めないものに偽装する=本当は楽に読める」、


あるいは、


「(視聴者が)読みたくはない気持ちを承知している=本当はどうでもいい」かたちで提供し、視聴者は「読めるもの」を「読めない振りを装う=本当は楽に読める」、


あるいは、


「読みたくない気持ちを誤魔化す=本当はどうでもいい」かたちで「読む」。


と言えそうです。


 テレビの画面のなかで、ある人がカメラ目線で「わかるかな?」と問いかける。その画面の前にいる人たちは、くつろいだ表情で、あるいは、疲れた顔をして、「さあ?」とつぶやきながら、画面に映る人のカメラ目線に、自らの視線をちらりと投げかける。そんな感じです。


 きわめて、緊張感に欠ける=リラックスした=どーでもいー状況。それが、テレビドラマをめぐる「見せる側=見られる側=制作者」と「見る側=見せられる側=視聴者」とのあいだの状況なのです。


 だから、「それなりに」面白いし楽しいし、日本の「スタンダード=標準=平均値=可もなく不可もない」として、毎日、ドラマが全国で「消費」=「視聴」されているのです。誰も、文句は言いません。誰も、目くじらは立てません。それほど、自然で当然のいとなみになっているのです。なぜなら、大きな錯覚が働いているからなのです。その錯覚とは、


*テレビは、ほぼ現実であり、見る者の視線を受けてとめてくれている。


という「約束事めいた安心感」です。(「ドラマ信号論(1)」より)



     〇



 それはさておき、上述のバーナンキ議長の発言のニュースを見ていて、石川遼選手の試合後の会見を思い出しました。何でも、プラスにとる。前向き。ポジティブ思考。自分に言い聞かせる。同時に、発言を聞いてくれる人たちを巻き込む=ナンパする(※石川君、並びに石川君のお父さん、ごめんなさい、比喩ですので許してください)。石川選手については、「スポーツの信号学(1)」でも、「たとえる(10)」でも書きましたが、1つの現象として非常に興味深いです。


「信号学or信号論」遊びをかなり本気でやっている者としては、「信号」と「トリトメのない記号=まぼろし」の違いについて、あれこれ思いをめぐらしているのです。なお、「記号」とは何かについては、このブログのバックナンバーである「マトリックス」、「こんなマヨじゃ、いやだ!」、「そっくり」、「「東京」×  無限大」という具合に、「記号」関連の記事が長めのものが複数あるので、今回はなるべく短めに説明します。


 で、「信号」と「記号」についての目下の関心事は、


*ポジティブなメッセージと取られるであろう発言を、1)「トリトメのない記号=まぼろし」として扱った場合と、2)「信号」として扱った場合の違いは何か?


です。さて、ここで「記号」を簡単に説明します。


*「トリトメのない記号=まぼろし」とは、あらゆるもの=森羅万象がなり得る。その特徴は、そっくりなものがずらりと並んでいるか、あるものとそっくりなものが他の場所にもたくさんある可能性が高いという点である。たとえば、スーパーに並ぶ大量生産された商品が「記号」である。「記号」は購入or入手され、消費され、機能=役割が終わると、保管されるか、廃棄処分され、他の「記号」がそれに取って代わる。取り換え可能なのである。たとえば、議員、大臣、お笑いタレントも「記号」とみなすことができる。トリトメなく次々と登場し、まぼろしのように消えていくのも、「記号」の重要な身振り=運動=特性である。


 以上の定義を踏まえ、「記号」と「信号」の違いについて、現時点では、次のように妄想しています。


*「トリトメのない記号=まぼろし」においては、「記号」の発信者と受信者のあいだの心理合戦は、意味をもたない。


*「信号」においては、「信号」の発信者と受信者のあいだの心理合戦が、きわめて重要な意味をもつ。


 以上が提起しているのは、「記号」および「信号」のやりとりでの「メッセージ」の扱い方の違いが、両者を隔てる=区別する大切なポイントではないか、という問題です。


*「記号」においては「メッセージ」がほとんど意味をなさないのに対し、「信号論or信号学」においては、発信側と受信側のあいだで「信号」=「メッセージ」=「意味orめくばせ」がキャッチボールのようにやり取りされ、双方が相手に対し、何らかの効果=運動=動作=行動を、働きかける=促す=誘導する点が重視される。


という違いがあるように思えます。


 念のために、断っておきますが、ここでの「記号」はこのブログでつかっている「トリトメのない記号=まぼろし」であり、既存の「記号論」や「記号学」(※多種多様な流派があります)とそこでもちいられている「記号」(※多種多様な定義があります)と関係がないことは、言うまでもありません。


 当ブログは、学問ではなく、楽問=ゲイ・サイエンス=「楽しくお勉強ごっこをしよう」の場です。みなさんにしてみれば、「好きなように勝手にやればー」の場です。


 そんなわけで、気ままにやらせてもらいますので、今後もごひいきにしていただけば、そんな嬉しいことはありません。(「信号論から見た経済(2)」より)



     ◆



【※以上引用した抜粋の出所になるブログ記事は、パブーの電子書籍置き場にあります。パブーのリニューアルにともない、全電子書籍のレイアウトが崩れてしまったので、リンクが張れません。というか、各ページ(記事)へのリンクが張れないのです。意地悪をしているわけではありません。ご面倒をおかけしますが、興味のある方は、電子書籍にて閲覧ください。申し訳ありません。】


※この作文は「引用の織物・余白に・連歌」というマガジンに収めます。




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