ずらす
星野廉
2020/09/22 09:23
ヒトに等しく備わっているらしい言葉の「すじ」のようなものについて、知りたい、考えてみたい。言葉の「すじ」とは、この星に住むヒトと呼ばれている生き物の群れごとにある言葉の違いを超えた「何か」のことだ。「何か」と記すのは、それが「何だかわからない」からなのだが、その「何か」はわたしにもあなたにも備わっている「もの」のはずだ。
その「何か」があるから、わたしとあなたはとりあえず「わかりあう」ことができる。あくまでも、「とりあえず」である。まして、生まれ育ったところや国や、生まれてから見聞きし、あるいは読み書きしてきた言葉の異なるヒトたちとの間でも、あくまでも「とりあえず」「わかりあえる」と言えるだろう。
「とりあえず」や「ところどころ」や「ときどき」はあり得ても、「たしかに」や「すべて」や「いつも」はないだろう。「わかりあう」ことがどんなにむずかしいかは、誰もが日々に感じているにちがいない。さきほど述べた言葉の「すじ」は、ヒトびとが「わかりあう」ことまでを引き受けはしない。
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ヒトは自らが小さな生き物であることを心に留めておくべきだ。「小さな」とは、からだの大きさを指すのではなく、ヒトが己のちからについて心得るべきいましめの言葉である。ヒトはおごりたかぶっている。よく見聞きする言い方だ。あまりにもたびたび見聞きしているために、ヒトはその意味がわからなくなっている。かなしい。ヒトにとって、もはや意味がわからなくなってしまった言葉や言い方は、ほかにもたくさんある。
意味がわからない言葉や言い方を、口にし文字として記す。そのときに、わからなくても気にならないのは、ヒトが「わく」にとらわれているからである。「わく」はヒトを縛る。やすらぎを与えもする。ヒトは「わく」を免れることはできない。「わく」のなかで生きているのに気づくのはまれだ。
「わく」はひとつの「すじ」だと言える。考えたり気づいたりしないのが「すじ」である。さきほど述べた「すじ」、つまり、ヒトに等しく備わっているらしい言葉の「すじ」ほど、とらえにくく、わからないものはない。なぜなら、とらえ、わかろうとするものこそが、「すじ」だからである。
言葉の綾なのかも、もっと深いところで起こっている「もの」や「こと」なのかも、わからない。この先に立ち入るのは、今はやめておこう。ややこしいことになりそうだ。
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「すじ」を「わく」と言い換えてみよう。「言い換える」を「ずらしてみる」と言い換えてもいいだろう。「すじ」と「わく」との「ずれ」とは、どんなものなのだろう。「すじ」は糸で「わく」は広がりだと、たとえるのもおもしろい。「たとえる」も「ずらす」ことだ。
このように、言葉をずらし、ほぐす。そうすると、違ったものに見えたり聞こえたり感じられたりする。あやしい。どうしてなのだろう。いつか、考えてみたい。
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話をもどそう。「すじ」を「わく」と言い換えてみる。「わく」は「広がり」だから、「ふち」がある。「すじ」と呼んでいるものに「ふち」があるようには感じられない。いきなり「ふち」が出た。この「出あい」が「ずれ」なのではないか。とはいうものの、置き換えてみたのだから、話が変わるのは当たり前だ。たとえるときには、おのれがすり替えをしていることに心をとめなければならない。
とはいうものの、何が何にすり替わったというのだろう。言葉が言葉にすり替わっただけ。あるいは、心に浮かんだ、ある「かたち」や「もよう」、あるいは「こころもち」が変わっただけ。ヒトができるのは、せいぜいそれくらいのことだ。こんなとき、ヒトは小さいとつくづく思う。
「わく」という言葉を口にし目にすると、縄で囲まれた土の広がりがあたまに浮かぶ。縄が「さかい」となり、「うち」と「そと」にわけられる。いわゆる「なわばり」である。
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思いつきだが、「わく」とは「なわ」ときわめて近いものではないだろうか。もちろん、張られた縄である。だが、縄は縛る。また、捕らえたものを捉えておくこともできる。
これも思いつきだが、「なわ」と「いと」とは近い。ともに、「すじ」でもある。縄も糸も筋も曲がる。どんな形を「なぞる」こともできる。「なぞる」とは「まねる」と近い。そうなると、「ならう」「まなぶ」「しる」「える」「みにつける」といった言葉が浮かぶ。
言葉が浮かぶとも言えるが、「ずらす」、「すりかえる」、「いいかえる」、「おきかえる」というふうに、「ずらしていく」とも言える。
そんなにたやすく、ヒトが言葉を操れるものだろうか。むしろ、言葉がヒトをもてあそび、「ずれる」、「すりかわる」、「いいかわる」、「おきかわる」というふうに、「ずれていく」のかもしれない。きっと、そうだ。ヒトは、「すじ」に身をまかせるしかない。ヒトは言葉のしもべなのだ。
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忘れてならないことは、今、わたしとあなたとの間にあるのは言葉だという点だ。言葉を介して、「わかりあおう」としている。この言葉というものは、縄であり糸であり筋に似ている。どんなふうにも、折ったり、曲げたり、捻ったりできそうな気がする。
それでいて、折られ、曲げられ、捻られているのは、ヒトのほうなのだ。ヒトは、もてあそばれている。だが、ヒトはそれを認めようとはしない。
小さなヒトが、この星で群れを成し、言葉を相手に戯れている。遊んでいる。あるいは、もてあそばれている。ここでの「戯れ」と「遊び」とは、「なぞる」「まねる」「ならう」「まなぶ」「しる」「える」「みにつける」ときわめて近い。
小さなヒトは、今述べた縄や糸や筋の絡み合いのなかを生きてきた。いうまでもなく、ほかの生き物たちにも、「わく」や「すじ」があり、「なぞる」「まねる」「ならう」「まなぶ」「しる」「える」「みにつける」はあるだろう。違いは、あるがままのさまに在るか否かだ。あるがままのさまにないのが、ヒトであることだと思う。
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それにしても、ヒトは、ずれている。なみはずれて、ずれている。かつて尻尾のないサルのあたまのなかで、何かがずれ、ヒトとなった。そうして、それまでのあるがままのさまから、はずれた。そんなものがたりを思い出さずにはいらない。あれは単なる語りかそれとも騙りか。確かめることができるたぐいの話ではなさそうなのだが。
ヒトは、いま、おのれのあたまのなかを、のぞこうとしている。皮をはぎ、骨をくだいて開き、なかにある「もの」を、みて、わけて、とらえようと、たくらんでいる。開いたところで、これも、とらえることができるたぐいの話ではなさそうなのだが。
そればかりではない。ヒトは、親から子へと受け継がれていく、いのちの「すじ」の仕組みを解きほぐすわざにも、血道をあげている。病を治し、豊かな実りを手にするためだというのだが。解きほぐしたところで、ほぐしきれるたぐいの話なのだろうか。
ヒトはわける。わけてわけまくる。幾度も皮をむいて、何やらまた皮が出てきたらしい。小さな小さなつぶが見えてきたという。そのあやしい動きを目にして喜び勇んでいるもようが、ヒトの小ささに重なる。ヒトはおのれが小さいから、わけるのだ。ヒトがわけるのは小さいからだ、といってもおなじ。小さなつぶをさらにわける。つぶつぶ。ぶつぶつ。いくらわけたところで、わかるたぐいの話とは思えないのだが。
ヒトは、さらに、この星のそとと、彼方にまで目を向けている。遠くに目を向けたところで、見えるたぐいの話とは思えないのだが。
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上に挙げたことどもは、ヒトには荷が重過ぎる問いではないだろうか。ただし、ヒトが大きいと思い込んでいる人たちには、そうは感じられないという気はする。そういう人たちにとって、「わく」と「なわばり」は、これから先も広がり続けるゆめであり、うつつなのだろう。彼らは現人であって空蝉ではないことは確かだと思う。わたしとは大違いだ。
いま、わたしは、うつせみの彼方に居るような気がする。これをお読みのうつせみの貴方は、どちらに居られるのでしょうか。
※この記事は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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