言葉とうんちと人間(人間編)
げんすけ
2020/08/18 11:27
言葉とうんちが似ているように、言葉とうんちと人間は似ている。今回は、そういう話をしたいと思います。
前回と今回のテーマをつなげるために、前回の最後のほうで書いた部分に少し加筆して、以下に引用します。
「(うんちを自分が息んで)出した(=やっぱり!)」を、あえて「(うんちがどこからか)出た(=あれっ!?)」へと「引き戻す=逆戻りする」意識の働きもあります。
つまり、自分のした行為を「周りの世界=他者=世界」に責任を転嫁することにより、まるでそれが自然発生的な現象であるかのように装う、あるいは、故意にそうだと思い込むことにより、その現象との距離感を演出しようとする場合があるのです。
簡単に言うと、「これ、わたし(ぼく)のうんちじゃない」です。
なぜ、そのような距離感の演出をするのかというと、うんちが自分から「離れる=分離される」、あるいは「分離する=周りの世界の一部になる」さまを「見る=知覚する」からです。大切なのは、これは演出であって断定ではないという点です。簡単に言うと、「これ、わたし(ぼく)のうんちじゃないということにしておこう」です。
以上が引用部分です。
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キーワードは「演出」です。
そういう「振りをする=装う=演じる」という行為は、「フィクション=お話=嘘=説=神話=物語」を「作る=でっちあげる=捏造(ねつぞう)する=想像する=創造する=妄想する」ことに他なりません。
言い換えると、言葉にしろ、うんちにしろ、自分の口、あるいは肛門という穴(内部と外部の「境い目=接点=辺境」)から出た、音(おん)、および固形物あるいは半液状の物を、自分から出たものではない振りを装う行為です。
なぜ、こんな込み入った行動を人間はするのでしょう。たぶん、怖いからだと妄想しています。恐怖心をやわらげたいからにちがいありません。では、何が怖いのでしょう。
それを解く鍵は「あらわれる」という言葉とイメージにあるような気がします。
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順に説明していきます。まず、前提として確認しておきたいことがあります。
*「あらわれる」と「出る」に先立って、「出あう・あう」という「出来事=事件=偶然性の生起」があります。その次に、あるいは並行して、「あらわれる・出る」という「知覚」が生じます。この「出来事=事件=偶然性の生起」と「知覚」は、通常、「きわめて短期間=ほぼ瞬時」に起きます。
では、「あらわれる」の補足説明からします。「あらわれる」とは、「見る・見える=知覚する」という能動的な自分の行為を、「周りの世界=他者」に責任を転嫁することにより、「受動的な行為に転換する=下手に出る=恐怖感・不安感をやわらげる」、という身体的な知恵が働いた結果としての言語的な操作であると思われます。
簡単に言いますと、こっちの責任で「見ちゃった」のではなくて、「わたしの責任じゃないよ=あんたが悪いのよ」という感じで、向こうが勝手に姿を「あらわした」ことにしてしまう、という意味です。ずるいと言えばずるいし、精神衛生上、自分を守るためなのだから賢いと言えば賢いです。やっぱり、人間はしたたかだという感じでしょうか。
一方、「出る」とは、「見る・見える=知覚する」という能動的な自分の行為を、「周りの世界=他者」に責任を転嫁することにより、「受動的な行為に転換する=下手に出る=恐怖感・不安感をやわらげる」、という身体的な知恵が働いた結果としての言語的な操作である、という点では「あらわれる」と同じです。
ただし、自分が作った、あるいは、「生じさせた=起した」現象を、「周りの世界=他者」に責任を転嫁することにより、まるで自然発生的な現象であるかのように装う、あるいは、故意に思い込むことにより、その現象との距離感を演出しようとする言語的な操作であるように思えます。
端的に言うなら、「あんたなんて、知らないよ=はじめまして」と、とぼけるのです。「とぼける=よそよそしくする=距離感を演出する」ことで、精神的な安定を装い、安定を装うことで安全を得たと自分に言い聞かせるのです。一種の自己催眠です。「知恵」と呼ぶ人も、いそうです。
*
どうして、「あらわれる」と「出る」という言葉やイメージを使って、「見る・見える=知覚する」という能動的な自分の行為を「周りの世界=他者」に責任を転嫁するのでしょう? 次のような説明が可能かと思われます。
「出あう・あう」⇒「あらわれる」⇒「出る」
今図式化した順に、恐ろしいからなのです。実は、この三つの体験は別個のものではなく、本来は「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」しています。人間は、「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」に「出あう・あう」体験を「見る・見える=知覚する」という行為を通して整理します。
「整理する」とは「分かる・分ける」「知る」「名付ける」といった行為によって、恐ろしく得体の知れないものを「手懐ける・てなずける」ことです。
なぜ、「出あう・あう」が得体の知れない恐ろしい体験なのかというと、「いないいないばあ」だからです。「いないいないばあ」とは、「いない=無=暗黒=絶対的孤独=絶望的トホホ感」と「ばあ=いる=存在=明かり=自分が独りではないという幸福感=わくわくどきどき感」を同時に疑似体験する遊びだと言えそうです。
赤ちゃんや幼児にとっては、「いない」という状況ほど恐ろしいものはありません。本能という点から考えると「お乳やまんまがもらえない=飢え・餓死」につながる生物としての危機的状況およびその前兆です。一方、「ばあ」は「お乳やまんまにありつける」可能性につながります。
でも、「ばあ」とは、「お乳やまんま」と「出あう・あう」可能性であると同時に、自分が何かの「まんま」にされてしまうとか傷つけられる可能性でもあります。自然界では、日常的に起こり得る当たり前の出来事です。
「何か」に「出あう・あう」という体験は、その「何か」に左右される体験だと言えます。赤ちゃん、幼児、子ども、大人にとって、「何か」が自分に「快または生」をもたらすものか「不快または死」をもたらすものかは、「決定できないもの=ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」なのです。
大人くらいになると多様な経験を積んで、高をくくっていますから、「決定できる」と思い込んでいます。でも、それは結果なのです。自分に「快または生」をもたらすものを出あうことが多かったから、その結果として、たまたま大人になっただけです。
裏を返せば、「不快または死」に出あったために、「なくなった=無くなった=亡くなった」人たちがたくさんいたのです。さもなければ、人間は全員が「不死身=不死」だということになります。
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前置きはそこまでにして、核心に入ります。
「言葉とうんちが似ているように、言葉とうんちと人間は似ている」において重要な意味を持つのは、言うまでもなく、「出る」です。人間は何から「出る」のでしょう。さまざまな解釈ができますが、生物学的に考えましょう。
膣(陰門)から出ます。いや、出るそうです。母親の視点からだと「出産」、子どもの視点からだと「誕生」と言いますね。いずれにせよ、膣(陰門)から出るわけですが、あくまでも物心がついてある期間が過ぎた人間でなければ、「自分が膣(陰門)から出た」という認識には到達できないように思います。
無理を承知で、あくまでもいわゆる一つのお話=フィクション=嘘として、生まれる当事者の赤ちゃんの視点を、想像=妄想=空想してみましょう。
*生まれつつある赤ちゃんにとって、「自分は膣(陰門)から出る」という感じはないような気がします。むしろ、あえて出まかせで言うとすれば「世界があらわれる」のではないでしょうか。
「あら、割れる」という感じです。桃太郎にも相通じるイメージですね。「あら、(桃の皮が)割れちゃった」=「あらわれちゃった」。そして産湯に浸かり、お湯で「あらわれる=洗われる」。
*
おふざけはそれくらいにして、マジで考えましょう。
生まれつつある赤ちゃんにとって、「世界はあらわれる」。
そうした前提で、お話を進めさせてください。
*「あらわれる」の中心的なイメージ(コア・イメージ)は、生まれたばかりのヒトが赤ちゃんとしてこの世界と「出あう」ことです。
以上のようにも言い換えられそうです。「出会い=出合い=出愛」です。
*「見る・見える=知覚する」という能動的な自分の行為を、「周りの世界=他者」に責任を転嫁することにより、「受動的な行為に転換する=下手に出る=恐怖感・不安感をやわらげる」という最初の体験は、「誕生=出産=世界との出あい」なのです
天井の染みやトイレの壁の模様に、何かが「あらわれている」。テレビ画面の走査線か画素の集まりに、番組の映像が「あわられている」。化学繊維のかたまりである、くまのプーさんのお人形に、くまのプーさんが「あらわれている」。ケータイの液晶にお友達や好きな人の姿が「あらわれている」。
蛇足ながら、「あらわれている」の基盤となるのも、また例の「あるものの代わりに『あるもの以外のもの』を用いる」という代理の仕組みに他なりません。
こうした「あらわれ」の原体験が、「おぎゃーっ!」なのです。まことに「おめでたい=祝福すべき=感動的な=驚嘆すべき」話ではありませんか。
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話が前後して恐縮ですが、うんちに戻ります。
*「あらわれる」の中心的なイメージ(コア・イメージ)は、生まれたばかりの人間が赤ちゃんとしてこの世界と「出あう」ことである。
これは人間の原点と言えそうです。もう一、人間にとって原点と言えそうな体験が、前回お話しした、「初めてのうんち」です。今回は、ちょっと視点をずらします。
*「出る」の中心的なイメージ(コア・イメージ)は、うんちをすることではないでしょうか。
たった今書いた文に、赤ちゃんという言葉がないことに注目してください。ここでのうんちは、赤ちゃんも、いわゆる子どもも、いわゆる大人も、みんな含めての排便という、人間にとってきわめて基本的で重要な行為として、受け取っていただきたいのです。
赤ちゃんが初めて、自ら息んで外に「出して」おきながら、他人事みたいに「出た」と体感する、象徴的な意味については前回に述べました。今回していますのは、この駄文を書いている者はもちろん、この駄文をお読みくださっているみなさまを含めてのお話なのです。
人間である限り、誰もが、何かの形で、外から食物を体内に摂取し、その一部を自分の身体の一部と化し、残りのものを「外へと返す=出す」という「いとなみ」をほぼ毎日行っています(便秘でお悩みの方には、深く同情申し上げます)。
呼吸という形で、酸素を体内に取り入れることも、基本的には同じです。なにしろ、人間は酸素と交換して、二酸化炭素を排出しているのです。
ということは、人は「自と他」などと偉そうに抽象論を言う以前に、「生物=生体」としてのレベルにおいて、「周りの世界=他者」と同化、あるいは、混じり合って存在しているわけです。ゾウリムシさん、ギンバエさん、アサガオさん、コビトカバさんたちと同じです。
*
前回の「言葉とうんちと人間(うんち編)」と前々回の「言葉とうんちと人間(言葉編)」において、「心理=精神=心」のレベルで、「自分」と「他者=世界」は、はっきり分けられるものではないという意味のことを書きました。さらに、次のようにも言えるのではないでしょうか。
*物理的、あるいは生物的レベルでも、「自と他」は、はっきり分けられるものではない。つまり、人間も「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」した存在である。
ところで、うんちって、自分でしょうか? それとも、自分の一部でしょうか? もう外に出たのだから「他者=自分とは関係のないもの」でしょうか?
個人的な話をしますと、排便のたびに、自分はうんちをよく観察します。そのほうがいいと、かかりつけのお医者さんに言われて、納得したからです。
お医者さんの話では、「出る」うんちには、いろいろなものが「あらわれる」そうです。よく考えてみると、そうですよね。自分の中から出たものですから、自分の中のことを「知っている」わけです。
たとえば、黒いとか、血が混じるは危険であることを知らせる「信号」だと、教わりました。もちろん、固い軟らかいも大切な「信号」です。沈むより浮くほうがベターだとも教えてもらいました。理由は聞き損ねましたけど、本当らしいです。このことは雑誌か新聞にも書いてありました。どうやら、以下のように要約できそうです。
*「出る」ものに「あらわれる」ものを、「見る=知覚する」ことが大切である。
これって、自分でもできる、いや、家でなら自分でしかできない、医療の基本の一つではないでしょうか。
世界の衛生状態が悪い地域では、現在でも、「出る」ものに「あらわれる」ものだけでなく、「いる」ものを「見る=知覚する」ことが大切だと耳にします。回虫(カイチュウ)とかギョウチュウのことです。この国でも、そうした線虫たちを撲滅できたわけではないので、油断はできません。そのたぐいの虫や菌は(きわめてテキトーな表現でごめんなさい)、ヒトには適度に必要らしいと聞いた覚えがありますが、詳しいことは忘れました。
そう思うと、いろいろなことを教えてくれる、うんちって、愛(いと)おしく、健気(けなげ)な存在ではないでしょうか。
「生きる」という言葉が「息・息をする」と語源的につながっているらしいということを思い出しましょう。息(いき)んで(=気張って)出しただけのことはあります。ごくろうさま。ありがとう。さようなら。また会う日まで。そんなふうに声を掛けてやりたくなります。
実際、その日の気分で、そんな言葉を口にして、水で流してお別れする時もあります。ほぼ毎日(※人によっては、不定期に)出あって、別れる、自分の一部。それが、うんちです。
というわけで、うんちに対して、鼻をつまむのではなく、花を持たせてやりたいのです。繰り返します。
*「出る」の中心的なイメージ(コア・イメージ)は、うんちをすることである。
ご理解をいただければ、嬉しいです。
*
あっ、忘れるところでした。もう一つ、うんちに花を持たせてやりたい大切な理由があるんです。決定打みたいなものです。どうやら、赤ちゃんや幼児は、うんちにとても愛着を感じているみたいなんです。
フロイトが、赤ちゃんがお乳と乳房や哺乳瓶の乳首に依存し愛着する時期を口唇期、その次を肛門期と名付けたのを、うさん臭く思っていたのですが、あながち出まかせとも言えないなあ、と感じています。
クレヨンしんちゃんの、うんちやお尻に対する愛着と執着なんて、幼児の気持ちをよく観察した結果みたいで、あなどれないです。大人が、ばばっちい(※広辞苑によりますと「ばば」にはうんちの意味があるとのことです)とか、ばっちいと怒鳴りつけて、「しつけ=押し付け=教育」をしなければ、きっと赤ちゃんは、ずっとうんちと戯れていますよ。それほど、うんちが好きらしいのです。
ところで、フロイトには、シリアス(= serious ≒ silly ass)なのか、おふざけなのか、決断(けつだん)(≒穴断)に苦しむほどのお尻への執着がありますね。
ユダヤ教およびキリスト教の影響や、狩猟民族・騎馬民族の血を引く中央ヨーロッパの風土が関係しているのでしょうか? それとも、ユニバーサルなものなのでしょうか? それだけでなく、何かフロイト自身の幼児期のトラウマみたいなものも感じませんか? 「ジーク(=Sigmund)ちゃん、そんなところ触っちゃいけません。ママがお仕置きしてあげます」。「わーん」。なんて具合に。
ちなみに、当ブログでのフロイトとユングについての取り扱い方について、「交信欲=口唇欲」という過去の記事から以下に引用します。
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蛇足ですが、「ユング」は、当ブログでは、出てこない予定です。これから先、ぜんぜん、出てこないとは、言いきれませんけど――。ユングファンの方、すみません。「あんたに、ユングを出してほしいなんて、誰も頼んじゃいねーよ 」。ああ、またもや、幻聴! ジャック・デリダ氏とマラルメ師を、きょうお招きしなかった、罰(ばち)が当ったのでしょうか?
フロイトとラカンは、エロくないと理解できません。エラくなる(=偉くなる)必要はありませんが、エロくならないと絶対に理解できません。一方、ユングは、エラくないと(=偉くないと)理解できません(※このあたりのオヤジギャグは、デリダ氏にちょっと助けていただきました)。
「ユング」するためには、宗教、神話、哲学などといった古今東西のいろんな知識も必要です。何しろ、集団的無意識=普遍的無意識=集合的無意識と呼ばれる、壮大な大風呂敷、いや、失礼、壮大な理論を繰り広げますから、自分のような怠け者にはついていけません。
また、占い、霊、スピリチュアルなどとも親和性がある、つまり、仲がお良ろしいので、お金がかかってしかたありません。自分の場合、いろいろ訳ありの身なので、先立つものがございません。ですので、お布施も、お月謝も、鑑定料も払うことができないのです。要するに、「偉く」なければユングに近づくな、という意味だと勝手に理解しております。
引用はここまです。
*
では、まとめに入ります。
言葉とうんちと人間は似ています。まず、三者とも「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」しています。また、三者とも、穴から出て、世界と出あい、いつか消えていく運命にあります。切ないです。
とはいうものの、うんちと人間は、土や水に戻り、新たな生命へとつながっていくこともあるでしょう。そう思うと救われます。
では、言葉はどうでしょう?
話し言葉のほとんどは、消える。一部は、録音されたり文字化され、書き言葉になる。記憶に残るという「ロマンチック=気休め的=与太話的」な言い方もできるでしょう。
書き言葉のほとんどは、破棄される(実際には、破棄されるのは文字ではなく、紙やディスクなどの文字を記録する「媒体=メディア」ですけど)。一部は、保管される。これもまた、記憶に残るという「ロマンチック=気休め的=与太話的」な言い方もできるでしょう。いずれにせよ、何らかの物になりそうです。たとえば、新聞・古雑誌・フロッピーディスク・フラッシュメモリーなどになり、「リサイクル=リユース=輪廻」される。あるいは、焼却されるか、腐敗する。パンタ・レイ。
宇宙のどこかに言葉の墓場があって、そこに人間がワープロで打ち損ねた言葉がぷかぷか浮かんでいる。
確か、そのような意味のことを、かつて村上春樹氏が書いていらっしゃったような記憶があります。うろ覚えですので、勘違いかもしれません。でも、美しく哀しいイメージなので、よく思い起こします。
*
でも、そんな切ないイメージで話は終わらないようです。言葉は、人間に働きかけます。うんと息ませます。行動を起こさせます。そのせいで、人間はこの惑星のありとあらゆるところで、わがもの顔でうんちとおしっこをしまくっています。マーキングというやつです。その結果として、この惑星をめちゃくちゃにし、めちゃくちゃにしつつあり、これからもめちゃくちゃにしていくだろう、とも言えそうです。永遠に、というわけにはいかないようですけど。
つまるところ、言葉もうんちも人間もつながっているようです。ここまでくると、その大いなる連鎖においては、言葉もうんちも人間も、「わけ=分け=訳」が分からない、「めちゃくちゃ」=「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」状態になっています。
なぜでしょう? 脳内異変が起こったらしい人間がしゃしゃり出てきて、うんちを出しまくり(息み=頑張り&マーキングをし)、言葉を出しまくっているからです。
すべては「出た~」の結果とも言えそうです。
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以下は、前回の駄文から一節を引用し加筆したものです。
言葉もうんち人間も、穴から出て、きわめて不安定な状態をさ迷っているのです。念のためにお断りしますが、いい悪いとか、正しい正しくないの問題ではありません。そうなっているという「話=フィクション=与太話」として受け取ってください。
ちなみに、すべての言説は、「話=フィクション=与太話」としてしか存在し得ないのです。言葉という代理を使っている代償です。言葉を用いる以上、人間は言葉と「戯れる=もてあそぶ=もてあそばれる」しかないのです。言葉を「コントロールする=支配する=整合性を持たせる=論理的に操作する=使いこなす」のは無理なのです。
それくらい、「あるものの代わりに『あるもの以外のもの』を用いる」という代理の仕組みは、あなどれないし、誤魔化しがきかなくて、しつこい。そう考えたほうが、人間にとっては「潔い=誠実な=身の程をわきまえた」態度であると言えそうです。
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今回をもちまして、「言葉とうんちと人間」というタイトルの駄文=与太話はおしまいにいたします。お読みいただき、ありがとうございました。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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