からから

星野廉

2020/09/18 13:04 フォローする

 このところ、ずっと、やまとことばとからことばにこだわっています。このブログを最初から読み返してみると、「ずらす」では、やまとことばだけで言葉をつづろうという試みをしています。以前に、からことばやヨーロッパ系の言葉を用いて書いていたことを、やまとことばだけで書けないか、という「かけ・掛け・懸け・賭け」をしているようです。


 学生時代には古文が苦手でしたから、専門家からみると噴飯ものの文章であるにちがいありません。でも、致し方ありません。心意気というかこころざしだけで、踏ん張っている感じでしょうか。「かえるのではなくてかえる」では、そうした自分のこだわりに理屈をつけようとしています。「とりとめもなく」の冒頭でも、自己分析を試みています。


 そのへんの思いが「日本語にないものは日本にない?(1)」から「日本語にないものは日本にない?(5)」を書かせたのでしょう。たった今、書いたセンテンスを再読願います。いわゆる「無生物主語」を使っています。語や語句レベルだけではなく、文・文章としての体裁、あるいはつづり方にまで気を配るなら、できるかぎり大和言葉系の言葉を使って書こうというのは、そうとうしんどい作業になりそうです。


 そもそも、「無生物主語」という考え方が、たとえば平安時代以前のこの国のからことば系の文書以外の書き物にあったのか、説話や口承と呼ばれる話し言葉、およびその話を書き言葉にうつした文章の中で用いられていたのかどうか。このアホは知りません。調べれば分かるのでしょうが、お勉強が嫌いなのです。


     *


「からことば」を「唐語」とか「韓語」と表記するらしいことは、学校時代にでも習ったのでしょう、何となく知っていていました。かつてこの島々に中国や朝鮮半島から言葉がつたわったんだなと思っていました。で、最近、広辞苑をあらためて引いてみて、「から・唐・漢・韓」という語には、中国・朝鮮だけでなく「転じて、ひろく外国の称」という語義があるとの記述を目にし、へえーっと、うなってしまいました。


 嬉しかったのです。辞書の記述に時々見られる「転じて」とか「訛って」とか「当てて」というフレーズが、大好きなのです。「転じて」というのは、要するに「ずれて=間違えて=誤って」ということです。


 たとえば、「うつせみ」が「空蝉」と「現人」の2つの表記とそれぞれの表記下の語義があったり、「あなた」が「貴方・貴女・彼方」と表記され、異なる意味があるのも、「転じて」とか「訛って」とか「当てて」と同じ現象みたいです。言葉が「正しい」や「ルール」を超えて「生きている」証拠です。だから、「転じて・訛って・当てて」というフレーズや断り書きがあると嬉しいのです。


 自分が「はずれた・ずれた・すれた・すりきれた」アホであるから、そうした一種の「ずれ」に愛着を覚えるのかもしれません。


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 きょうは、からことば、つまり中国・朝鮮だけでなく「転じて、ひろく外国」から、つたわってきて=ながれこんできて=はいってきて、そしてからことばと混じり合った、という「お話=フィクション=神話=説=検証がほぼ不可能 or 困難な話」について考えてみます。


 こうしたテーマを論じるさいには、「枠」という「考え方=ツール」が役に立ちます。「わかるという枠」、「わかるはわからない」、「わかるはプロセス」、「3つの枠」、「ちょっとないんですけど」、「あなたとは違うんです」という一連の記事の中でもさかんにつかっています。


 さて、「外部・内部・辺境」、言い換えると「そと・うち・ふち」という「枠」をイメージすると、外部から辺境を通じて内部へと「何か」が「伝わる=流れ込む=入り込む」、という「図=絵=映像」が頭に浮かびます。


 外部・そと → 辺境・ふち → 内部・うち


 というイメージですね。その結果、何が起きるのでしょうか? 「変化・変質・変貌・改革・革命・同化・共存・並存・合体・混合・排除・排斥・追放」という言葉とイメージが頭に浮かびます。とにかく、何らかの「動き・運動・揺らぎ」が起こることは確かでしょう。程度の差はあるでしょうが、何かが「破れる・壊れる・崩れる」とも言えそうです。


 からから来たもので、からが破れる。


 そんなふうに要約できるかもしれません。身近な例を挙げましょう。あるヒトがあるヒトと付き合うようになる。友達として、仕事の同僚として、仲間として、あるいは単なる知り合いとして、さらには恋愛の対象として、という具合にいろいろなケースが考えられます。もっとも親密な関係として、恋愛とか同居とか同棲とか結婚という場合を想定してみましょう。


 大げさな言い方に聞こえるかもしれませんが、文化と文化の「衝突=がちんこ」が生じるのではないでしょうか。この場合の文化とは、個性・価値観・癖・偏愛・しきたり・家風・習慣・風習・伝統・地方差などの広い意味で受け取ってください。


「えっつ、そんな髪の洗い方をするの? 嫌だあ」「このお味噌汁の味付け、濃すぎるよ」「トイレのドアはちゃんと閉めてよー」「信じられない、この靴の並べ方」「テレビ、そんなに音を多くしなきゃ聞こえない?」「おれのいなかでは、蕎麦は食べない。やっぱりうどんだ」「悪いけど、それとこれを一緒に洗濯するのは、やめてくれる?」「お母さんのことを『おかん』呼ぶのって、何だか耳ざわりなのよね」


「マックじゃなくて、マクドだっちゅうの」「君の家の人たちって、みんな平気で音を立てておならするんだね。驚いちゃった」「ねえねえ、この子、あなたのお父さんと同じお箸の持ち方してる」「いいかい、左ききは個性であり一つの文化なんだよ。なおす必要なんかないと思う」「うちでは、キャベツにソースじゃなくてマヨをかけてたぞ」「悪いけど、寝る前に、少しだけでいいから、聖書を読む時間をちょうだい」「お願い、そこを舐めるのだけはやめて。あなた、抵抗ないの?」「恥ずかしいから、人前では『焼き飯』って言い方やめてくれる? 『チャーハン』って言ってよ」


「一緒に歩くときは、そんなに早足にしないでくれないかなあ」「ふつう、ベランダには裸足で出ないものよ」「靴は右足から履くものだって、うちでは躾けられたんだけど」「朝一番に窓を開けるのは、こういう都会では衛生上、良くないんじゃない?」「その、うちのお母さんはこうだったって言い方、やめてくれない?」「納豆なんて、人間の食うもんじゃない」


「言っておくけど、うちの親父の前では、宗教の話はしないほうがいいと思う」「ほら、ぶつかった。エスカレーターでは、左側に寄るものなの」「びっくりしないでよ。実家の離れに住んでいる人は、わたしのお兄ちゃんじゃなくて、お姉ちゃんなの」「あの子には、あなたのいなかの方言で話しかけないでちょうだい」「歯は、朝ご飯の後に磨くのが常識だと思うんだけど」「歯は、朝ご飯の前に磨くのが普通じゃん」


 この国以外の地域(=から)から来たヒトたちとの付き合いとなれば、以上のような異「文化」間の「がちんこ=軋轢(あつれき)」がもっとエスカレートするのではないでしょうか。


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 どちらかが殻を破らなければ折り合いがつかないこともあるでしょう。また、それぞれが相手の「個性=やり方=文化」を認め合うことで、何とかやっていけることもあるでしょう。同じ国の中でも、広義の文化の「差異・際・きわ・ちがい・へだたり・あわい」があります。地方、家、個人というレベルで、多種多様な違いがありそうです。みなさん、日々、実感されているのではないでしょうか。


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 からから物やヒトや言葉や考え方や行為(=方法・風習)が、この島々に入ってきた。太古から、絶え間なく流れ込んできた。鎖国という時代もありましたが、それ以前に伝わってきたものが、そうした時期のさなかにも綿々と受け継がれていたり、変化をもたらしていたとするなら、「鎖国」は無視できるような気もします。


 からから来たもので、からが破れる。さきほど、そんな駄洒落で、ちょっとおふざけをしましたが、駄洒落の虫が騒いで無視できない状態なので、蒸し返させてください。では、まいります。


 カラカラの大浴場(※世界史で知りました)じゃなくて、からからの大浴場(誰も入浴していないお風呂場という意味です)じゃなくて、からからの大欲情(※トホホな状態ですね)じゃなくて、からからの大抑情(※大欲情の逆ということになりませんか? ああ、すごい)じゃなくて、「から・唐・漢・韓」からの大「沃壌・沃饒」(※この2語は大きめの辞書を引くと載っています)、つまり「この島々ではない、よその地域」から言葉や物やヒトが流入し、「豊かになった」という歴史的経緯があったらしいのです。実に、興味深い話だと思います。


 失礼をいたしました。とちくるいの虫がおさまりました。ご協力に感謝いたします。


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 というわけで、この国の文化はこのようになっているわけです。誰もが、自分の生まれ育った土地や母語や文化、つまり広義の「テリトリー=枠」に愛着があるのは当然のことですから、上述の「豊かになった」は括弧付きにしておきます。言語も文化も相対的なものだと思うからです。


 天は、人or言語or文化の上に人or言語or文化を造らず。人or言語or文化の下に人or言語or文化を造らず。そんなふうになっているのではないでしょうか。身びいきはほどほどに、という感じです。世界は広い=狭いのです。みんな、仲よくしましょうよ。


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 テーマがテーマですので、きょうは、友達のいないこのモノブログ自体から(※「コラブログとモノブログ」、また親サイトや姉妹ブログから輸血=引用するといった、自己輸血=自己引用ばかりしている、自家中毒症気味(※比喩です)のこのブログでは、初めて他のサイトからの血液をいただこうと思います。早い話が、他人様のウェブサイトへのリンクを貼らせていただきます。


 実は、きのうの記事(※「本物の偽物 (前半)」と「本物の偽物 (後半)」)を読み直していて、以下のような部分が目にとまり、説得力ないなあと思ったと同時に、ある論考を思い出したのです。


>「ま」(=「まこと・真実・真理・真言・事実・現実」)とは、言語を獲得してしまったヒトという種の「口癖」であり、「景気づけ」であり、「発作」であり、「はったり」であり、「でまかせ」であり、「もがき」であり、「かけ・ばくち」であり、「願かけ」であり、「まこと」は実は「まがい」である。


 以上がきのう書いた文章なのですが、具体的な記述に欠けていて、それこそ「はったり」で「でまかせ」でしかないという気がして、恥ずかしく感じていたのです。


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 で、その論考とは、山岡洋一という翻訳家の方が運営されているウェブサイトである「翻訳通信 ネット版」(※リンクが貼ってあります)内に収められている、故・仁平和夫氏のお書きになった「翻訳のコツ」(PDF版)です。スリリングで実証的で説得力抜群の翻訳論なのですが、翻訳のみならず、広義の言葉・語・言語というものを考えるうえでも、とても啓発的な内容の論文集なのです。しかも、それが無料で読めるしダウンロードできるのです。


 その「翻訳のコツ」の「最上級」(p.8~)「こぶしだらけを嗤う」(p.15~)という部分が、上で引用した珍説の趣旨を補強してくれるような気がするのです。簡単に申しますと、英語でも、「とても」「すごく」「きわめて」「チョー」とか「まさに」「本当に」「実際」といった言葉に相当する飾りの語(句)が「口癖」「景気づけ」「はったり」として使用されているさまが、英日対訳で実証的に説明してあります。強力な援軍を得たり、という思いがします。ご参照なさることを、みなさんにお勧めいたします。


 さらにお奨めしたいツールが、上記サイトに含まれています。DictJuggler.net にある「翻訳訳語辞典」です。この辞典で、たとえば、「まさに」とか「 indeed 」を検索してみてください。びっくりしますよ。言語観や、異言語と母語の対応についての考え方が変わると言っても過言ではありません。


 また、山岡洋一氏の著作である『翻訳とは何か』(日外アソシエーツ刊)は、本日のテーマである「外部・そと → 辺境・ふち → 内部・うち」と深くかかわる内容となっています。良書です。推薦させていただきます。


 なお、山岡洋一氏については、「翻訳の可能性=不可能性」で、「Mr.「翻訳の鬼」という失礼な表記で触れたことがあります。山岡様、ごめんなさい。


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 慣れない輸血を受けまして疲れましたので(※ふつうは元気になるのでしょうが、精神的に疲れました)、本日はこれでお開きにさせていただきます。


 カラカラの大浴場≒「から・唐・漢・韓」からの大「沃壌・沃饒」、つまり「この島々ではない、よその地域」から言葉や物やヒトが流入して「豊かになった」というお話に熱が入り、喉がからからになってしまいました。血糖値が低下したのでしょうか、もともとからからの頭が、さらにからから状態となったもようです。ネコを連れて台所に行き、ジュースでも飲んで喉を潤してまいります。


 ここまでお読みくださった方に、心より感謝いたします。では、また。



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77




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