台風と卵巣
げんすけ
2020/09/05 08:56
普遍性について考えています。このブログでは、
*今、ここにある物・事・現象を「知覚=観察」し、手持の知識と記憶をたよりに考える。
という横着で無精なスタンスをとっています。でも、これなら、死ぬ、あるいは意識がなくなる直前まで続けられそうです。その意味では、自然体に近い方法とも言えそうです。早い話が、自分には、これしかないのですけど。
きのうあたりから(※「なわ=わな」という記事のことですが、お読みにならなくても分かるように書きますので、ご安心ください。)、
*「な」と「わ」に重なる=かぶさる=ダブる形で、「普遍性」という言葉
が気になり始めました。広辞苑に記載されている複数の「な」と「わ」という「言葉=文字」が短くて、大和言葉系の言葉が多くを占めるのに対し、「普遍性」というのは、明らかに漢語系です。「普遍性 or 普遍」という語がもともと古い中国語にあったのか、明治以降に、この国の人たちが欧米の思想や事物を取り入れるさいに、ヨーロッパ系の言葉に当てた「訳語」の1つなのかは知りません。
もっとも、「訳語」の場合には、(1)漢語としてあった言葉を借用して当てた、(2)造語した、の2つの場合が考えられます。このへんの事情に詳しい人として、柳父章氏、山岡洋一氏の名があたまに浮かびますが、お勉強と本を読むのが苦手で億劫なので、書棚や、本を詰めたボール箱を漁ったり、ネット検索はしません。自分で勝手に、ああでもあるこうでもある、ああでもないこうでもない、と考える方法をとります。
というわけで、「普遍性」が、上述の(1)なのか(2)なのかは保留し、勝手に空想します。で、さっそく、でまかせで書きますが、「普遍性」とは、英語で言えば、
*universality
か
*generality
の訳語であると考えるのが妥当でしょう。もし、そうであれば、各語のもとになりそうなのは、英語でいえば、
*universe
や
*general か genus か generate
ではないかと思い、それらの単語と、その語源を辞書で調べてみるうちに、思いがけない何かが出てきたり、それがきっかけで何かを思いついたり=妄想したりすることになるのではないか、と期待しています。ちなみに、
*辞書を引く
のは、
*「お勉強」
であると同時に、自分にとっては
*「お遊び」
でもあります。ですので、個人的には、
*「お勉強」+「お遊び」 = 楽問 = ゲイ・サイエンス =「楽しいお勉強ごっこ」 ≠ 学問・研究
みたいに考えております。
で、大きめの英和辞典を複数引いてみたところ、
*universe(宇宙)とは、台風のイメージだ
ということになりました。
イメージとは、個人的レベルにおいて、「いだかられる=抱かれる=だっこされる」ものですので、テキトーであり、顕著な個人差がみとめられます。
で、universe(宇宙)のイメージは、中心に目があって、まわりに「雲=気体状の水や他の物質の粒子」が渦を巻いている感じがします。レーダーがとらえた台風の映像を左右に引き延ばしたような、銀河系か何かの想像図にも似ています。
宇宙には、大きさが異なるだけで似た形のものが、あちこちにある。そんなことを聞いた覚えがあります。フラクタルとは、また違うみたいですけど、詳しいことは忘れました。そういえば、
*曼荼羅(まんだら)
なんていうのもありましたね。曼荼羅については、複数の異なる説明を読んだことがありますが、さっぱり分かりませんでした。ただ、
*分かったら、大変だ
という感じだけは、何となく分かるような気がする代物(しろもの)です。個人的には、曼荼羅は苦手です。曼荼羅自体は「??」なので、それはそれでいいのですが、曼荼羅についていろいろ言っている人たちが、とても
*うさんくさい
のです。いかがわしさに関していえば、このブログを書いているアホなど、足元にもおよびません。個人的には、むしろ、
*マクロコスモス÷無限大、
とか、
*ミクロコスモス×無限大 (※これらはあくまでも個人的な=でたらめな「式」です、念のため)
という西洋経由の「言葉=イメージ」のほうが、しっくりきます。言い換えると、貝殻のイメージでしょうか。海辺なんかに行くと、貝殻がたくさん目につく場所があります。つまり、
*大小さまざま、形もさまざま、生きているのか死んでいるのかも分からない。でも、どこか似ている。それが数えきれないほど、いる and / or ある。
というイメージです。
*
ところで、
*宇宙(universe)は、とてつもない1つの大きな台風である
と、
*宇宙(universe)は、大小さまざまな貝殻状をして、あちこちに散らばっている=遍在している
とが、実は同じことだったりしたら、おもしろいでしょうね。言葉、あるいは、その他の多種多様な表象(※「何かを「その「何か」以外のもの」で代用する」という仕組みにおける「その「何か」以外のもの」)を用いてしか、
*まわりを近くできない=知覚できない
ヒトという種(しゅ)にとって、
*知覚する、ひいては、意識する=思考する行為が、「枠のなかにある」=「限界がある」=「縄(or 線 )で囲われている」
とするなら、実は、
*宇宙という、多面的な、あるいは、とてつもなく大きなもの
の一側面 or 一部にしかすぎない、上述の2つのイメージ、つまり、「大きな台風」と「遍在する貝殻たち」というイメージが、矛盾したもの=異なったものとして、知覚 or 意識 or 思考されても、ぜんぜん矛盾はないわけです。
一方の、
*general / genus / generate とは、おびただしい数の卵細胞の詰まった卵巣である。
と比喩的に言えるような気がします。ちなみに、比喩もきわめて個人的なレベルで発生するイメージです。
したがって、みなさんは、きっとここで首をかしげていらっしゃるわけです。「このアホは、いったい何を考えているのだ?」という具合にです。で、このアホのイメージしている「卵巣」とは、産む=生む=有無までには、まだ至っていないという意味で、
*可能性のかたまり
とも言えそうです。
ここでの「卵巣」には、深い意味はありません。「あの人は、医者の卵だ」という具合に、可能性の比喩として用いられる「卵(たまご)」とも読める「卵(らん)=卵子・卵細胞・生殖細胞」が多数詰まっている、というイメージです。
*
さて、冒頭から以上の部分までの文章では、たくさんの比喩とイメージが用いられています。
*比喩もイメージも、「何かを「その「何か」以外のもの」で代用する」という仕組み
ですから、一種の表象だと言えないこともありません。いずれにせよ、
*それ自体が表象である言葉において、表象の仕組みが、比喩やイメージという形で採用されている。
わけです。いわば、
*表象の入れ子構造
です。
この点は、とても重要です。ヒトである限り、この事態を回避できる可能性はゼロである、と考えられます。ただ、ヒトはふつう、自分がこの事態に直面し、この事態を生きていることを意識したりはしません。一生のうちで、こうした事態を一度も意識しないで亡くなっていくヒトのほうが、圧倒的に多いにちがいありません。
こんなふうに、この事態を「当たり前=事実」みたいに考えながら、この記事を書いてはいるものの、果たして、この「表象」および「表象の入れ子構造」という事態=仕組み=メカニズムが、実際にヒトの知覚と意識において機能しているのかどうか、また、それが検証できるのかどうかについて、知る術(すべ)はありません。そう感じている=勘じている=観じているだけです。
ですので、ここに書かれていることはすべて、
*でまかせだ
と居直ることもできます。
ただし、居直るためには、それ相応の覚悟と度胸が要りますが、このブログの開設者=アホには、それだけの覚悟も度胸もありません。単に、きわめて鈍感=愚鈍なだけではなかろうか、と薄々感じてはおりますけど、残念ながら、愚鈍さを検証するためには愚鈍さ以外 or 以上の素質が必要みたいなのです。
ともかく、
*それ自体が表象である言葉において、表象の仕組みが、比喩やイメージという形で採用されている。
という前提で、言葉をつづっていきます。
*
以上のことを再確認し、断ったうえで、以上の前提で書き続けますが、比喩とイメージをつかって言葉をつづるさいに気をつけなければならないことは、
*バランス=舵(かじ)取り
です。
体系的、論理的、終始一貫、筋道を立てるという類(たぐい)のレトリックや操作が苦手なので、ややもすると、「勘=直感=直観=でまかせ」にたより、「比喩=たとえ=こじつけ」を多用し、イメージを優先し、テキトーで、勝手気ままに、言葉を並べていく傾向があることは、自分なりに意識しております。
とはいえ、まったく筋道を立てないで文章をつづったり、でまかせだけで言葉を連ねていくことなど、やってみたくても、できそうもありません。ちなみに、きのうは、
*偶然性=でまかせ=宙ぶらりんに、ほぼ全面的に身をまかせる形で、1編の記事を書いてみよう
という、「実験=ある意味では横着」を試みました。さぞかし読みにくかったのではないか、と思います。ごめんなさい。ああいう「実験」(※あれでも、それなりに本気なのです、念のため)が好きなのです。いつか、またやってみたいです。
なお、きのうの記事(※上述の「なわ=わな」という記事のことです)を書くにあたって意識した、
*「宙ぶらりん」という考え方
については、「かく・かける(2)」、「かく・かける(4)」、「かく・かける(5)」、「かく・かける(7)」、「かく・かける(8)」で、かなり本気になって論じています。万が一、ご興味をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひ、お読み願います。個人的には、非常に愛着のある=重要なテーマです。
*
そんな感じで、企み=戦略をもって、記事を書いていますが、わりと自分で気をつかっていることは、比喩とイメージを用いる場合には、
*Aの代わりにBを用いていると常に意識しよう
という、きわめてシンプルなルールなのです。バランス=舵取りとは、そういう意味です。
*Aの代わりにBを用いるということは、AとBが似ていると感じているからだ。
という前提があります。でも、あくまでも、重点はAにあるべきで、
*いつの間にか、話がBに変わってしまっている
という迂闊(うかつ)な=アホな事態だけは、アホながらも絶対に避けたいと思っています。でも、やってしまうんです。やはり、根っからアホなようです。過去のブログ記事を読み直していて、「あらまあアホな」と思うことが、いかに多いことか。
結局のところ、
*比喩やイメージを扱うさいにも、ある種の論理的操作が必要である。
とも言えそうです。よく考えれば、当たり前ですね。さもなきゃ、
*現代詩
みたいな文章になります。
今、不意に「現代詩」という言葉が出ちゃいましたが、これって死語ですか? 最近、あまり見聞きした記憶がありません。学生時代には、現代詩研究会などという名称で、サークル活動をしている人たちが大学にいましたが、現在はどうなのでしょう? たった今、ネット検索してみましたが、まだいらっしゃるみたいですね。
思い返してみると、自分のまわりだけの現象だったのか、もっと広範囲でそうした、つかわれ方がなされていたのか知りませんが、
*何でもありぃ=分けわかんない
みたいな意味で、「現代詩みたい」とか「現代詩的な表現 or 文体 or 文章」などという、ほぼ悪態=ほぼ罵倒と言っていいフレーズをよく耳にしました。今述べたフレーズのニュアンスがピンとこない方は、このブログの文章をご覧ください。好例というやつです。きょうの記事のタイトルを、一瞥(いちべつ)なさるだけでもかまいません。
「現代詩みたい」とか「現代詩的な表現 or 文体 or 文章」とは、こんな=そんな感じです。つまり、「何でもありぃ=分けわかんない」ですよね。
そもそも、定型詩をのぞく、
*詩、特に自由詩
というのは、論理や筋道とは隔たりのある=遠ざかった言葉のつかい方をするジャンルであるわけですから、イメージもどき、比喩もどき、自動書記もどき、総書記もどき、がんもどき、明らかなこじつけ、支離滅裂、尻滅裂、荒唐無稽、江東剥鶏に満ちていて当然なのです。いや、むしろ、そうでなければならない=必然なのです。
*
で、現代詩は、「詩」という言葉に、
*駄目押しの「現代」という冠をいただいている
のですから、こうなると、もう「何でもありぃ=分けわかんない」です。ごちそうさま=もう結構=悪いけどそろそろ=勝手にしやがれ、というわけです。
*
話を現代詩から、普遍性にもどします。普遍性についてのイメージという点から、ここまで書いてきたことの要点を、箇条書きにしてみます。
*「な」と「わ」に「重なる=かぶさる=ダブる」形での、「普遍性」という言葉。
*マクロコスモス÷無限大、ミクロコスモス×無限大。
*宇宙(universe)は、とてつもない1つの大きな台風である。
*宇宙(universe)は、大小さまざまな貝殻状をして、あちこちに散らばっている=遍在している。
*general / genus / generate とは、おびただしい数の卵細胞の詰まった卵巣である。
*卵巣とは、産む=生む=有無までには、まだ至らない可能性のかたまりである。
普遍性についての、ほとんど根拠のないに等しいイメージについては、だいたい、こんなところでけりをつけておきます。なお、今見てきましたような、
*イメージのテキトーさ
については、「あらわれる・あらわす(8)」と、「つくる(1)」でかなり詳しく論じておりますので、ご興味のある方は、ご一読ください。
*
さて、普遍性を思考の対象とする場合には、上述のような形でイメージを利用する以外に、さきほど述べました、筋道を立てて考えるという作業=選択肢=アプローチも活用できます。上で箇条書きにしたイメージがあまりにも頼りないので、今度は、ちょっと理詰めっぽく考えてみます。
まず、1つのアプローチとして、普遍性の類語を挙げてみましょう。
*一般性、汎用性、万能、国際標準、共通性、有効性
という言葉があたまに浮かびます。
次のアプローチとして、辞書っぽい定義をしてみましょう。たとえば、
*普遍性とは、広い範囲にわたる物・事・現象に通じるということである。
と言えそうです。辞書によっては、普遍性の定義として、「すべてのもの or 場合」「に通じる or 当てはまる」と言い切ってしまっている、すごく勇気のある=ナイーブな=能天気な言葉を並べているものもあります。
そこまで言うとかえって嘘くさいというか、空想=妄想=迷妄=「あり得ない!」=「いい過ぎだってば!」の、においがプンプンするので、この記事では、上記のように控えめな定義にしておきます。
何となく、
*普遍性の感じ
がつかめてきたような気がします。こうやって理詰めで考えたあと、さきほどの頼りない=テキトーなイメージに再度目をやると、違ったものに見えてきます。これも一種の
*バランス=舵取り
でしょうか。
で、イメージと類語と定義を見比べているうちに、ある言葉があたまに浮かんできました。それは、
*つかう・つかえる
です。
*「うん、これは、つかえるよね」
などと日常会話でつかっている「つかう・つかえる」の意味です。広辞苑に書いてあることを自分なりに整理すると、
*「つかう・使う・遣う・支ふ・付かふ・着かふ・使える・遣える・仕える・事える・支える・閊える・痞える」
があり、とりわけ、
*「つかえる・使える・仕える・事える」がつかえる
ように思われます。要するに、
*用を足す・用にあてる・役に立つ・役割を果たす・ちゃんとはたらいてくれる
と言い換えることが可能だということです。こうやって言い換えてみると、普遍性の類語として挙げた、
*汎用性、国際標準、有効性とも、かぶって=ダブってくる
ような気もします。
で、上記の定義からすると、「用を足す・用にあてる・役に立つ・役割を果たす・ちゃんとはたらいてくれる」という言葉たちの意味内容が、広い範囲でフルに「つかえる」という一種のトートロジーになります。簡単に言うなら、
*「うん、これは、つかえるよね」 ⇒ 「おおっ、これは、すごい、何にでもつかえるじゃん」
という具合に、
*「つかえる」の適用範囲が広がり、機能が強化される
わけです。これって、ひょっとして、
*言葉
のことではないでしょうか? つまり、
*言葉以外に、広い適用範囲と強い機能を発揮してくれる、すごい「何でも代行屋さん」はない。
とも言えるわけで、この状態=「ありよう」=現象こそ、まさしく、
*言葉は何とでも言える
とか、
*言葉は何でもつなげる=こじつける
とか、
*ヒトは、森羅万象を名づけることにより、森羅万象を手にしたという錯覚に陥る
など、このブログでさまざまなバリエーションで言い換えてきた、
*言葉の「節操のなさ」=「何(誰)とでもくっつく性質」=「何(誰)とでも番(つが)う習性」(※「つがう」を辞書で引いてみてください、エッチなニュアンスの語義だけがあるわけではありませんので、念のため)
に「通じる=つかえる」特性だ、と言わざるを得ません。でも、ここで肝に銘じなければならないことは、
*言葉は、ヒトによってつくられたものであり、また、不断につくられつつある=生成しつつある「過程=運動」のさなかにある。
という点です。
*言葉は人工物である
と簡単に言ってもよろしいかと思います。当初、普遍性という言葉でイメージしていたものは、人工物とは異なる
*人知 or 人為を超えたもの=人知 or 人為とは無縁のもの
だったので、ここでがっくりきました。
*「またもや、言葉か!」=「ブルータス、あんたもかい?」= Et tu, Brute? = Not again! =「冗談は顔だけにしてくれ!」
という感じです。とはいえ、
*普遍性をそなえたものの1例として、言葉があるのではないか
というところまで来たのは、収穫と言えば収穫でしょう。プラスに考えておきます。でも、このまま終わらせたくないので、引き続き、普遍性について考えてみます。
ここまで辛抱して読んでいただいた方に、感謝いたします。では、また。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77