ぼーっとする、ゆえに我あり
げんすけ
2020/08/20 09:01
"普遍性" か "普遍的" か、どちらか忘れましたが、キーワードにしてググっていたところ、懐かしいフレーズにめぐりあいました。
*「我思う、ゆえに我あり」
です。デカルト(René Descartes:1596-1650)というフランスの哲学者のことばです。そのフレーズが載っていたサイトでは、『方法序説』と邦訳されている書物の原文からの原語である
*Je pense, donc je suis.(ジュ・パンス・ドンク・ジュ・スイ、みたいに発音します)
だけでなく、そのラテン語訳、
*cogito ergo sum(「コギト・エルゴ・スム」とカタカナ表記される場合もよくあります。)
さらには、英訳、
*I think; therefore I am.
そしてドイツ語訳
*Ich denke, also bin ich.(イッヒ・デンケ・アルゾ・ビン・イッヒ、みたいに発音します)
まであって、けっこう楽しめる内容でした。で、英訳を見ていて、いつだったか、TIMEという米国の雑誌で、
*iPhone; therefore I am.
だったか
*I phone; therefore I am.
だったか、どちらか忘れましたが、見出しにつかってあったことを思い出しました。そういえば、アップル社のiPhone 3G Sの販売数が6月22日に100万台を突破したというニュースが、ネットでも流れましたね(※過去の記事をつかっているため、鮮度の悪い話で申し訳ありません)。
*TIME
という雑誌は、まだ英語もろくに読み書きできなかった中学2、3年の頃から、ずっと
*定期購読
しています。当時は学生割引があったので、軽い気持ちで購読の葉書を出してしまい、以来ずるずると契約を継続しています。飽きっぽい自分としては珍しく長続きしている習慣の1つです。決して読みやすい文章の雑誌ではありません。また、論調や内容も、
*アジア版
とはいえ、いかにも
*米国寄り=米国中心的
なのは確かです。
*英国の週刊誌 the Economist
のほうが、視野も広いし、偏り=片寄りも目立たないような気がします。でも、TIMEに慣れているので、未だに毎週斜め読みしています。好きというか、楽しみなのが、各記事の見出しを読むことです。さきほどご紹介した、
*iPhone; therefore I am.
か
*I phone; therefore I am.
みたいに、引喩(allusion)や、もじり=ダジャレ=オヤジギャグをつかっていることがよくあり、それを考えるのが楽しみなのです。上の例ですと、
*「我iPhoneを使う、ゆえに我あり=iPhoneなしでは生きられない」か「我通話する、ゆえに我あり=ケータイなしでは生きられない」
という感じでしょうか。
英語のしゃれ、言葉遊び、反語、ジョーク、ほのめかし、といったものは、非ネイティブ・スピーカーには、よく分かりません。なかにはネイティブ・スピーカーでも、ある程度、専門知識とか、いわゆる教養みたいなものがないと、分からないのではないかと思われる引喩もあります。
ちょっと古い例ですが、オーストラリアで11年9カ月も続いた与野党の交代が、2007年の12月にありました。自由党の党首兼首相として総選挙で、現首相の労働党党首ケビン・マイケル・ラッドに敗北した、
*ジョン・ウィンストン・ハワード(John Winston Howard)
が首相の座を降りたとき、TIME誌は小さな記事を載せ、そのタイトルを
*Howards End
としました。これは、
*「ハワード首相の最後」=Howard's End
という意味にとれると同時に、世界的にも有名だった英国の作家E・M・フォースター(1879-1970)の作で、映画化もされ、アカデミー賞を受賞した
*『ハワーズ・エンド』
という小説のタイトルでもあったのです。このブログを書いているアホは、たまたまこの小説の名前を知っていたので、「ああ、これはあれのもじりだ」と、思いましたが、
*英語のネイティブ・スピーカーなら誰でも知っている
とは言い切れない感じがします。
つまり、一口に英語のネイティブ・スピーカーと言っても、南アフリカや、カナダや、オーストラリアや、ニュージーランドや、今は中国領の香港にも多数いますし、いくら同名の映画がアカデミー賞を受賞したといっても、文芸作品が原作の映画に興味をぜんぜん示さない米国人もいたりします。そんな具合に、
*分かる人には分かる、分からない人には分からない的な、ほのめかし
がTIMEの記事には多いのです。
*
で、似たような話として、
*英国人が得意な、「sarcastic =いやみっぽい=意地の悪いまでに辛らつな」、「irony =反語表現=皮肉」
については、「出る」で触れました。こうしたことに興味のおありの方は、どうかお読みください。
先日、ちょっと大きめの書店に立ち寄る機会がありました。あまり時間がなかったので、早足で通り抜ける感じで店内をぐるっとまわった時に、
*ピーター・バラカンという英国出身の人の『ロックの英詞を読む』
という本が、棚にあるのをほとんど偶然に目にしました。もちろん、解説は日本語で書かれているのですが、表紙に見える
*Rock Between The Lines(「ロックの行間を読む=行間まで読んでロックする」という感じでしょうか、read between the lines=「行間を読む」という慣用句のもじりですね)
という英語のフレーズに目を引かれて、ちょっと立ち読みしました。ほんの一部分だけ目を通したにすぎませんが、
*英国人でなければ感じ取れない英詞のニュアンス、ほのめかし、時代背景
までが説明してあり、すごく欲しいと思いましたが、懐具合が良くなかったし、たとえ良くても、3日分の食費になりそうな値段の本だったので、買うのは諦めました。
ちなみにピーター・バラカンという人の話す日本語ですが、とてもというか、おそらく、今まで聞いたいろいろな人のしゃべる日本語のなかで、
*いちばん好きだ
と言っても言いすぎではないほど、好きです。今は、介護の必要な高齢の親といっしょに暮らしていて、生活のリズムが完全に超早寝早起きですので、見られませんが、
*「CBSドキュメント」
という深夜というより未明に放送されている番組がありますが、かつてはよく見ていました。プロンプターを使用して字幕を読んでいるのかもしれませんが、その日本語の流れ、文章の組み立て方、ことばの選び方、バラカン氏のちょっと鼻にかかった声に心酔していました。
*しびれるウ~
なんて感じです。失礼。米国のテレビネットワークであるCBS制作の番組のスタンス=報道姿勢にも、共感していました。
*
話をもどします。とはいっても、どこにもどしていいのか分からなくなりました。
*TIME誌の見出しや本文に、引喩(allusion)や、「もじり=ダジャレ=オヤジギャグ」が用いられている
と
*英国人が得意な、「sarcastic=いやみっぽい=意地の悪いまでの辛らつな」、「irony=反語表現=皮肉」
と
*英国人でなければ感じ取れない英詞のニュアンス、ほのめかし、時代背景
あたりにもどします。
「出る」でも書いたことですが、
*ある特定の言語に普遍性がそなわっているということはあり得ない
つまり、同じ「英語」でも、世界各地でいろいろな英語が話されているわけで、「世界で一様に通じる英語」=「普遍的な英語」は存在しませんが、
*言語という表象の仕組み(=「何か」の代わりにその「「何か」以外のもの」を用いる)には、普遍性がそなわっている
らしい。そのように言えそうです。なぜなら、世界のほぼあらゆるヒトが、手話を含む、広義の言語を程度の差はあれ、用いているからです。で、さらに、
*ヒトは、言語という表象の仕組みを、生後に学習する前に既に生得している
のではないかと思えて仕方がないのです。これは、上述の
*デカルト(1596-1650)
そして、米国の
*チョムスキー(1928-)
という言語学者が共通していだいている考え方みたいなのです。チョムスキーについては、「「人間=機械」説(2)」でも触れましたので、ご興味のある方は、ご一読ください。
実は、自分はこの考え方に両義的な感情をもっています。
*「うさんくさいなあ」=「嘘だろうなあ」/「本当だったらすごいなあ」=「信じてみたいなあ」
という感じです。
*嘘っぽいけど魅力的だ
とも言えます。これが、
*「普遍性」という考え方
で、個人的にもっとも興味深いと思っているテーマです。
*表象の仕組みは、ヒトにとって生得的なものであるかどうか?
とコンパクトに言い換えることもできそうです。これが、疑問というか、謎というか、心引かれるというか、気になって仕方がないのです。
1)ヒトが、自分をとりまく世界が発するさまざまな信号=情報=データを、主に知覚器官で知覚し、
2)それが、ニューロンを通して脳に伝えられ、
3)それが、脳細胞によって処理され、
4)次に、それが、意識というきわめて不安定で誤作動の多いスクリーンに提供されるが、
5)意識というスクリーンは、きわめて性能が悪く=精度が低く=低画質で、
6)さらには、脳細胞から受け取りもしない映像を映し出すこともある。
というのが、このブログを書いているアホの想像している=妄想している=捏造(ねつぞう)している、
*知覚と意識のありよう=知覚と意識という現象
です。その
*知覚と意識のありよう=知覚と意識という現象と、かぶっている=からみ合っている=もつれ合っているのが、言語をはじめとする表象の仕組みである
と妄想しています。
*
話をさらにもどします。この記事の冒頭で、
*「我思う、ゆえに我あり」
と、その英訳である、
*I think; therefore I am.
をご紹介しましたが、きのうの記事で、半分自棄(やけ)、半分泣きそうになって(※このアホは、涙もろいし、うじうじした性格なので、いい年して、すぐに泣くんです、はい)、
*みんなで、ぼーっとしようじゃありませんか~!
とか、
*暑いところで熱いままに悟っちゃいませんか~!
とか、
*さようにうけとる=そのようにうけいれる=あるがままにうけいれる=さからわない、努力をしませんか。
なんて書き=泣き叫んでいました。で、今も、基本的には、きのうと同じように思っていまして、
*考える=分かる=知るは、罪なことだ。だから、進歩しよう、成長しよう、頑張ろうなんて、考えなくていい。分からなくていい。これ以上、新しいことなんて知ろうとしなくていい。
などと、短絡して=プッツン切れちゃって=すねちゃっているのです。また、上述の1)~6)みたいに思い込んで=妄想していますし、特に5)6)については、自分はもちろん、いろいろなヒトの言動を日々観察しながら実感しています。そんなわけで、
*「我思う、ゆえに我あり」
とはとうてい考えることができず、
*ぼーっとする、ゆえに我あり
と言いたい心境にあります。
ちなみに、「ぼーっとする」や「ぼけーっとする」って英語では何というのでしょう。英語のアウトプットなんて、このところご無沙汰していますから、それこそ、ぼーっとしていて、「ぼーっとする」とか「ぼけーっとする」に相当する英語の表現が、あたまに浮かびません。
*ぼーっとする
と
*ぼけーっとする
で思い出したことがあります。かつて、
*カーペンターズ
という兄妹のデュオがいましたね。妹の
*カレン・カーペンター
が、ものすごく articulate =はっきりとした発音で、きれいに歌っていました。中途難聴者である自分にとっては、あれくらいの明瞭な発音と音域(※ちょっと低めですね)の女性の声がいちばん、聞き取りやすいので、数年くらいまえまで、20年ほどまえに録音したカセットテープに入っている彼女の声を楽しんでいました。今は、難聴が悪化して聞きづらいです。
ところで、
*エンヤ
という女性の歌声を聞きたいと思っています。テレビで彼女が歌っているのを聞いたことがありますが、自分の聴力には声域が高すぎるらしく、肝心の声がぜんぜん聞こえませんでした。
*補聴器
を通しても、バックの演奏の低い音しか、耳が拾ってくれないのです。
で、例のカセットテープには、カレンの声で、
*Don't they know it's the end of the world
という歌詞のある歌も入っているのですが、その歌詞は聞き取ったのではなく、調べてそういうフレーズだと知っているだけでして、自分の耳には、
*ぼーけーの、いっでぃ、えんどば、わーっどぅ
みたいに聞こえていたことを覚えています。で、
*ぼーけーのー(=Don't they know)
が、何度聞いても
*volcano(=火山)
と聞こえるのです。
そして、
*いっでぃ、えんどば、わーっどぅ
はかろうじて、
*it's the end of the world=世界の終わり
と聞こえたので、この部分を聞くたびに、火山があちこちで噴火していくなかで、地球が滅亡していくさまが、美しい声とともにあたまにちらついて仕方がありませんでした。
*ああ悲しい、でも、きれいだ
という切ない思いがしました。耳のなかに残っているあの歌声を呼び起こすと、今でもあの切なさがよみがえります。こういう
*聞き間違い=「正しくない」
は、
*外国語はもちろん、母語である日本語でも、頻繁に起きます。
難聴者ではなくても、こうした経験はよくあるみたいですね。
*
以前、
*タモリ
の司会していた
*ボキャブラ天国
という番組では、
*聞き間違いを意図的に誇張した形でメインテーマ
にして、けっこうおもしろおかしく
*日本語の歌詞をいじくっていました
が、いつの間にか放送しなくなってしまいました。
*著作権
の問題が厳しくなってきたからでしょうか。
*「正しくない」好き
としては、残念でなりません。あのボケ振りは、貴重です。ぜひ復活してほしい番組です。
*「ボケブリ天国」
なんて新しいタイトルで、歌詞をダシにして「正しくない」に徹し、ボケまくったら、おもしろいのに。
*
で、話をもどします。「ぼーっとする」とか「ぼけーっとする」に相当する英語ですが、形容詞で absent-minded (あたまのなかが「お留守になる」感じですか)なんてのがありますね。absent-minded と言えば、
*an absent-minded professor という、cliché = cliche =「手あかのついた決まり文句」
があって、
*「いつもぼけーっとしている大学教授」=「専門バカ」
というニュアンスがあるみたいです。英語のネイティブ・スピーカーのお知り合いがある方は、
*an absent-minded ――
という具合に、出だしだけ口にして、相手が何と続けるか試してみると、おもしろいかもしれません。若い方はどうか知りませんが、中年以上の方なら、10人に8人は、すかさず
*professor
と言うと思います。日本語で、誰かに対して
*アホの――
と言えば、おそらく10人に7人くらいは、すかさず
*坂田
と言うのに似ています。これが関西だったら、10人に9人は、「坂田!」と叫ぶと思いませんか? アホを自任している自分も、
*アホの――
と言えば、
*パリテキ(※パリス・テキサスというハンドルネームの省略形です)【注:かつての話です。今は、星野廉です。】【※さらに現在はげんすけです。】
というように、坂田利夫さんみたいに素敵でチャーミングな枕詞(まくらことば)がほしいです。いや、冗談ではなく、常々そう思っています。
*
で、 absent-minded に話をもどしますが、それでもつかってみましょうか。さて、
*ぼーっとする、ゆえに我あり
の英語版です。
*I am absent-minded; therefore I am.
なんだか、ピンときませんね。ピンボケでしょうか。いっそ、横着をして否定形にし、
*I cannot think clearly; therefore I am.
なんてどうでしょうか。
何だか、本当にぼーっとしてきて、目の前でいくつもの火山が噴火するもようが浮かんでくるので、きょうは、このへんで、とめておきます。
*
ぼーっとした文章をお読みくださった、心優しき方に、感謝いたします。どうもありがとうございました。では、また。
美しき この世の果てに 歌姫の声 (字余り)
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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