ふーこー・どぅるーず・でりだ(その1)
げんすけ
2020/07/09 14:17
ミシェル・フーコーとか、赤塚不二夫とか、ロラン・バルトとか、ジル・ドゥルーズとか、ジャック・デリダとか、サルトルとか、ヴィトゲンシュタインとか、ゲーデルとか、道元とか、の書物から引用しないと、ちょっと言葉が足りなすぎると思うけど、今はもう、そんな本は手元にない。
でも、理解してほしい。こうやってブログに書いているわけだから、他人に自分の思いを伝えたいと願っているのは確かだ。(「地図は現地ではない」より)
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大学生になって文学を勉強していて、文芸批評というものを読むようになった。どれも退屈だった。その中で自分と波長の合う文章があって、その作者の本をよく読むようになったが、自分の周りの学生たちのその人(※その文章というべきか)に対する評価は割れていた。
なにしろ、センテンスが長い。「、」ばかりの文が数行にわたって続く。また、修飾語と名詞、主部と述部とのつながりが奇抜。そのため、何度か読み返さないと意味がとれない。表面的な意味がとれたとしても、その内容の理解に苦しむ。
「簡単なことを、わざと難しく言っているだけ」「難解なのではなく、混乱しているのだ」「只者じゃないよ。だって、ミシェル・フーコーと吉本隆明の対談を通訳したんだぜ」「読者をおちょくっているだけだよ、あいつは」「精神年齢100歳だよ、どう考えても」
おおざっぱに言うと、三人のうち二人は否定的な意見を持ち、残る一人が熱烈な信奉者という感じだった。そんな文章の書き手の名前をここで挙げることは簡単である。忘れたわけではない。だが、あえてその名は挙げない。理由は、この記事を読んでいるうちに分かってくると思う。(「あえて、その名は挙げない」より)
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自分の場合には、ヒトである自分の顔を鏡で見たりすると、いかにもそんなことをしそうな異様な気配を覚えます。鏡の中の自分に「相貌的知覚」(※何かに人の表情や動作を見るという意味ですね)を覚えるということです。これは、少なくとも自分に関して言えばの話です。顔に顔の気配を感じる。なんだか、不気味ですけど。鏡に映った自分の顔や姿は、自分の顔や姿そのものではないということを思い出しましょう。
あれは光の反射を映し出す「鏡というもの」なのです。それに「映った像」なのです。自分の顔や姿でないものに自分の顔や姿を見てしまう。当たり前のようで、不思議な話だとはお思いになりませんか。写真、ビデオ、テレビの映像、パソコンのモニター、映画、絵画――これらは、それにヒトが見いだす物自体ではないのです。
「これはパイプではない。」
という名の付いた、パイプが描かれたルネ・マグリットの絵を題材にして、ミシェル・フーコーが何やら書いていた記憶があります。その原文を大学の授業で読まされたような気がします。それとも、似た話ではないでしょうか。鏡の中の自分に「相貌的知覚」を覚える。ちょっと、ジャック・ラカンの曲解をしてみました。このことは、いつか詳しく書きたいです。(「ひとかたならぬお世話になっております」より)
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*ロラン・バルトは、非常に飽きっぽい人だった。次々と、「クルージング=とっかえひっかえ=ハッテンバ巡り」しまくっていた(※これ、意味深です)。その意味では、部分的に、ミシェル・フーコーとそっくり(※これ、スキャンダラス=ゴシップ雑誌的です)。故人のご両人に鞭打っては、失礼というもの。 ただし、フーコーさんなら、無知ならぬ鞭ペンペンを喜んで、例のおサルさんのような笑い声を上げるかもしれない。キッキ、ヒッヒなんて。ところでフーコーさんとポールソンさんてそっくりじゃありません? いずれにせよ、ごめんなさい、バルトさん、フーコーさん。なお、バルトさんが忘れっぽかったかどうかは、不明。(「飽きっぽくて、忘れっぽい」より)
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文学作品において「作者はいない」という意味のことを書いたのは、ミシェル・フーコーでしたっけ? もし、自分の記憶が正しければ、フーコーは大した人でしたね。あれだけ理屈っぽい人たちが住んでいるフランスという国で、説得力を持って、あんな挑発的なフレーズを書いたのですから。
ところで、どうして自分はいきなり「作者はいない」なんて文句を思い出したのでしょう? ひょっとして、今この文章で書いていることと、関係があるからかもしれません。このフレーズも含めて、これから先いろいろ考えてみたいです。おもしろそうじゃありませんか?(「女か男か?」より)
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大学に進学して外国文学科に籍を置いたころには、新しい批評が流行していました。英米の「ニュー・クリティシズム」、フランスの「ヌーベル・クリティック」が盛んにこの国にも紹介されていました。「パイデイア」、「エピステーメー」、「ユリイカ」、「現代思想」、「海」といった雑誌や複数の出版社が、そうした新批評の紹介の場として一翼ならぬ幾翼かを担っていました。雑誌には、外国語で書かれた書籍の一部や論文を訳したものが掲載されていたわけですが、わくわくしながら読んだものです。
自分の場合には、「パイデイア」が休刊か廃刊し、「エピステーメー」が創刊された時期に、大学生になりました。ミシェル・フーコー、ロラン・バルト、ジル・ドゥルーズ、ピエール=フェリックス・ガタリ、モーリス・ブランショ、ジャック・デリダなどの訳書も、ぞくぞくと出版されていました。どれもが難解でした。訳が悪いのか? そもそも翻訳が不可能なのか? こっちの頭が悪いだけか? 判断に苦しんだことを覚えています。
そうした新しいタイプの批評や哲学書を翻訳するだけにとどまらず、日本語で海外の批評家や哲学者の「仕事=作品」を論じたり、海外の作家の文芸作品を新手法で批評したり、あるいは日本の作家の作品を新手法で批評する試みをする人たちも出てきました。日本版「新批評」の登場という感じですね。その中でも刺激的な仕事をしていたのが、蓮實重彦氏でした。自分は、同氏の影響をかなり長い間受け続けていました。今、考えると、洗脳されちゃった、に近い状態でした。(「作者はいない」より)
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あなたはSですか、それともMですか?
この質問をエッチな意味でとってくださって、けっこうです。どうでしょう? あなたはサディスト( or サディスティック)ですか、それとも、マゾヒスト( or マゾヒスティック)ですか? どちらでも、ないですか? 両方の要素がありますか? 時と場合によりますか? TPO次第で変わるから一定していない、ですか?
ジル・ドゥルーズという人の書いた本の邦訳である『マゾッホとサド』の訳者が、蓮実重彦=蓮實重彦氏です。内容や詳細はすっかり忘れましたが、要約すると、
いわゆるSとMとは反意語でない
ということが書かれていたと記憶しています。比喩的に言えば、反意語というより、両者のベクトルが違うという意味だったような気もします。これもまた、蓮実重彦=蓮實重彦氏が、何かに書いていらっしゃったことですが、マルセル・プルースト作の、例のとてつもなく長い小説『失われた時を求めて』は、「長い」の反対が「短い」ではないことをめぐって書かれた作品である、という意味の文を読んだ覚えがあります。間違っていたら、ごめんなさい。(「ああでもあり、こうでもある」より)
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一昨日の記事で出てきた、あのいかがわしい本を書いたフランス人、ロラン・バルト氏はその「遊び心」をもった粋な「おじさん」でした。享年65歳でしたら、「おじいさん」と呼ばれるギリギリのところでしょうか?
「なぜか」並べちゃいますが、ミシェル・フーコー氏が亡くなったのは58歳の時です。現在のような治療法が存在しない時期の死は、壮絶なものだったと言われています。モデル小説とされる『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』(エルヴェ・ギベール著)を読んで、涙が出ました。フィクションとはいえ、病状の書き表し方がすごくリアルなのです。まだ若かったのに……。もっと知的に楽しませてほしかったと思います。
そういえば、クロード・レヴィ=ストロース氏は、今年(注:この記事は2009年に書かれました)の11月で101歳ですよ! すごいじゃありませんか。もっと長生きしてほしいです。悲しい話もありました。ジル・ドゥルーズ氏のことです。70歳まで生きたとはいえ、自宅のアパートから投身自殺しました。マルクス研究を土台に哲学を論じ、テクスト分析をしたルイ・アルチュセール氏も、最終的には不幸な生涯を閉じました。奥さんを絞殺したというニュースには、本当にびっくりしました。心神喪失とみなされ免訴にはなりましたが、今でも信じられません。享年72歳でした。
なんだか、芸能ニュース的な記述になりましたが、このところ、学生時代に大学で読まされたり、自分から読んだテクストの断片がやたら頭に浮かび、あのテクストを書いたあの人はどうなったのか? みたいなことを考えてしまうのです。抑うつがひどくなりそうなので、話題をもどします。
そうでした。遊び心が大切だという話です。バルト氏は、批評の対象をどんどん変えていきました。あるものに一時的に没頭するけれど、決して真剣になりすぎない。ある領域でけっこういい仕事をしておきながら、すぐに目移りする。浮気者だったのですね。遊び人だったのですね。でも、いろいろ楽しませてくれました。
そのバルト氏の著作のなかに、Mythologies (邦訳名:『神話作用』および『現代社会の神話』)というおもしろい本があります。プロレス、石鹸、俳優、ストリップ、スポーツカーなど、フランスのさまざまな文化現象をその「言説」にこだわりながら論じたものです。ああいう「めまい」を誘うような愉楽を提供してくれるのが、バルト氏の魅力でした。
卒論で、『S/Z』という著作を中心にバルト氏について書いたのですが、その種本にしたのが、スティーヴン・ヒース(※Stephen Heath)という、主に映画評論を手がけていた英国人作の Vertige du déplacement (※日本語にすれば「変移のめまい」つまり、「あちこち目移りして、とっかえひっかえしているうちに、目が回っちゃった」)という書物でした。「めまい」というのは、「めくばせ」とは違いますが、何か気になる言葉です。(「スポーツの信号学(1)」より)
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こんなふうに、うつという言葉(※あくまで言葉ですよ)を使って遊んでみましょう。もてあそびましょうよ。うつむいた顔を上げ、うっとうしいこの世のうさを晴らしましょう。少なくとも、そんなふうに、うつと共生する生き方もあるんです。
さらに言わせていただくなら、ジャック・デリダも、ジャック・ラカンも、それぞれ哲学者、精神病理学者として一部の人たちから崇め奉られながらも、ひたすら言葉と戯れていたじゃありませんか。あの人たちの本をちゃんと読んだわけでは全然ありませんが、あれって確かオヤジギャグ以外の何ものでもなかったですよ。
しかもフランス語で言葉の遊びをしているため、邦訳は、「概念」なり「意味」なりをくみとって日本語にするという、2人のジャックさんご両人が最も望まない倒錯に陥ってしまわざるを得ない。なのに、その邦訳を手に深刻さを装い、しかめっ面をして、デリダ様を、ラカン様をありがたく読むなんて、「デリダする」ことにも、「ラカンする」ことにも、ならないのではないでしょうか。概念? 害念、ですよ。意味? 忌(いみ)(※この「忌(=斎)」の意味は広辞苑あたりで調べてください)、ですよ。
デリダ、ラカン――。またもや、必要に迫られて、固有名詞を出してしまいましたが、権威など嫌いです(※この点については、当ブログの「その点、ナンシー関は偉かった」の記事で書きました)。固有名詞の放つ、まばゆい光を利用しようという魂胆(※「虎の威を借りる」とも言います)など、毛ほどもありません。(「うつとあ・そ・ぼ、あるいは意味の構造について」より)
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ここで、一句浮かびました。
けさもまた じゃっく よめども ひびきなし
ジャック・ラカン、ジャック・デリダ、そして彼らの惹句。言葉のアクロバットの名人たちと、ヒトを「概念へ」ではなく「言葉の運動に」誘おうとする、彼らが書いた、あるいは彼らが口にしたことを誰かが書き取った、プロパガンダ的な言葉たち――。それを積極的に模倣し、徹底して、言葉にこだわろう。言葉と戯れよう。(「名のないモンスター、あるいは外部の思考」より)
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英語に次のようなことわざがあります。
Beauty is but skin deep.(美は皮膜にあるのみ)
<またかよ。きのうと同じじゃないか。>
ちょっと待ってください。確かに出だしは同じですが、きょうはきのうとは違ったお話をします。ジャック・ラカンもジャック・デリダも、出てきません。(「見えないものを見る」より)
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印欧祖語、インドヨーロッパ語族、サンスクリット語、比較言語学――
言葉だけですが、何となく覚えています。でも、その内容や、からくりや、手法については分かりません。
ソシュール、バンヴェニスト、あるいはチョムスキー(※チョムスキーは、ここでは、ちょっと場違いかな?)――
学生時代によく聞いた名前です。読もうと思いましたが、難しそうなんで、やめました。生意気なことを言いますが、まだバルトやラカンやデリダのほうが、肌に合っていたのです。そんなことは、どうでもいいですね。話を戻します。要するに、
親戚だから、似ていて当然
ということでしたよね。そこだけは、思い出しました。うっすらと、分かりかけました。
ところで、上で、中と韓(※朝、ハ)が出て来ないことは、まことに恥ずかしい、と感じております。この国に陸上の国境はないにしても(※ここでクレームをつけないでください、国際政治の話は苦手なんです)、とにかく隣国なんですから。(「「ん」の不思議」より)
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では、飛躍します。大学などで働いていらっしゃる「偉い」先生方から非難される、あるいは罵倒される、あるいは嘲笑される、あるいは無視されるのを覚悟で言います。
アウフヘーベンしよう!
で、「アウフヘーベン=止揚(※「しよう」と読みますね)」ですが、「しようがない」の「しよう」と似ていますが、ご面倒でも「止揚(しよう)」を辞書で引いてみてください。さっそく、そう「しよう」と言っていただければ幸いです、面倒な方は、辞書を引かなくても大丈夫です。大したことではありません。「アウフヘーベン=止揚」とは、要するに「飛躍 = こじつけ = だじゃれ = オヤジギャグ」なのです。さて、シリアスにいきます(※ほんまかいな)。
*「間(=ま)」とは「隔たり」、つまり「差異」である。(※さいですか?(= そうですか?)当ブログでは、何度か使ったオヤジギャグです。リユース、リ「サイ」クル、なんちゃって、失礼)。
*「差異=différence 」とは、たとえばジャック・デリダというフランスの、オヤジギャグの達人(※ 哲学者とも言われています)が、シリアスに考え続けた「もの=こと」です。そして考え続けた結果、別の名を持つ、「差異」の「双子の片割れ(※ちょっと顔立ちが違うだけの「さえん=différance 」奴なのです)」をでっち上げたのです。ただし、ややこしい話なのですが、いつか、この「もの=こと」については別の機会に、書きたいなと、身の程もわきまえずに思っております。(「それは違うよ」より)
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「差異」=「間」とは、言語化するのが困難です。不可能といってもいいほど、難しい。
【ここで、1つお願いがあります。このブログ日記を読んだあとにでも、フランスにいたジャック・デリダという人が勝手に作った、différance(※ différence ではなく )という語について、グーグルでぜひ検索をしていただければ、幸いです。いろいろな訳語がありますが、「差延(さえん)」(※さえんなあ、などと冴えないギャグを飛ばせば、ダジャレが大好きだったデリダさんは、お墓の下できゃっきゃいって喜びますよ。もし、お墓にいればの話ですが)をキーワードに、ウィキペディアで検索されると、かなり良質な解説にたどりつけます。これが、てっとり早いでしょう。ただ、その解説に目を通して、「ん? こんなの読む気はしない」と、少しでもお思いになれば、即、おやめください。頑張るのは、よしましょう。】
繰り返します。
「差異」=「間」とは、言語化するのが困難です。不可能といってもいいほど、難しい。
難しいのも当然です。「差異」=「間」=「空間」=「からっぽ」=「無」なんですから。<何にもない状況 or 事態>を、「何にもない」と言葉にしたところで、何にもないことに「変わり(=代わり)」はないですよね。
でも、それをやっているのが、ヒト(=狂ったサル)なんです。この難しい、または不可能なことを、やすやすとできると錯覚する。この鈍感さなしに、ヒトは生きられない。この鈍感さなしに、ヒトとして存在できない。と、いうことなんです。(「ま~は、魔法の、ま~」より)
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既に、お気づきの方もいらっしゃると思いますが、きょうは、ちょっと気分を変えて「フロイト」しています。あるいは、「ジャック・ラカン」しています。フロイト、ラカンについては、グーグルなり、または、いきなりウィキペディアで、お調べになってください。
ただし、お調べにならなくても大丈夫なように、書いていくつもりです。ご安心ください。なお、「ジャック・ラカン」を検索すると、頭がぼーっとなったり痛くなる恐れがありますので、そんな気配がしたら、こりゃアカンということで、即、ご愛用のポータルサイトにでも、逃げ込むことをお勧めします。
蛇足ですが、「ユング」は、当ブログでは、出てこない予定です。これから先、ぜんぜん、出てこないとは、言いきれませんけど――。ユングファンの方、すみません。「あんたに、ユングを出してほしいなんて、誰も頼んじゃいねーよ 」。ああ、またもや、幻聴! ジャック・デリダ氏とマラルメ師を、きょうお招きしなかった、罰(ばち)が当ったのでしょうか?
フロイトとラカンは、エロくないと理解できません。エラくなる(=偉くなる)必要はありませんが、エロくならないと絶対に理解できません。一方、ユングは、エラくないと(=偉くないと)理解できません(※このあたりのオヤジギャグは、デリダ氏にちょっと助けていただきました)。
「ユング」するためには、宗教、神話、哲学などといった古今東西のいろんな知識も必要です。何しろ、集団的無意識=普遍的無意識=集合的無意識と呼ばれる、壮大な大風呂敷、いや、失礼、壮大な理論を繰り広げますから、自分のような怠け者にはついていけません。
また、占い、霊、スピリチュアルなどとも親和性がある、つまり、仲がお良ろしいので、お金がかかってしかたありません。自分の場合、いろいろ訳ありの身なので、先立つものがございません。ですので、お布施も、お月謝も、鑑定料も払うことができないのです。要するに、「偉く」なければユングに近づくな、という意味だと勝手に理解しております。
以上、別に喧嘩を売っているわけではありませんので、誤解なきよう、お願い申し上げます。(「交信欲=口唇欲」より)
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「身分け」「言=事分け」という言葉を思い出しました。
チャーミングな用語で、自分は大好きでした。故・丸山圭三郎氏の造語です。丸山圭三郎氏がどんな人だったのか、をご紹介します。実体とか真理とかいう、狂ったサルがでっちあげたデタラメに、生真面目に義理を立てることなく、言の葉の表層で戯れた人でした。あの人は、ソシュールするだけでなく、デリダしていたなあ、ラカンしていたなあ、フロイトしていたなあ、マラルメしていたなあと、今になって思います。興味のある方は、「丸山圭三郎」「身分け」(※「見分け」ではありません)をダブルでキーワードにして、グーグルなりで検索されれば、適切なサイトにたどり着けるはずです。お勧めします。別に、面倒なら、検索しなくても、オーケーです。念のため。
で、「身分け」「言=事分け」という便利な言葉の「イメージ」を拝借しますと、次のように、言えるのではないでしょうか?
(1)ヒトは、言葉を使って考えることができる(※「言葉で考える」のではありません、「言葉の助けを借りて考える」という意味です、思考と言語との関係には、まだコンセンサスはないもようです)。これが「言=事分け」です。
(2)ヒトは、体(※当然のことですが、頭も、お腹も、膀胱も、胃も、五感も、手足も、皮膚も体内にある何もかもを含みます)を使って考えることもできる。これが「身分け」です。
で、今のヒトに欠けているのは、(2)ではないかと、自分は強く感じています。ラカンの理論とこじつけて、そう思っています。言い換えると、「わかっていいはずのこと」を、誰もが「わかろう」と努力していないのではないか、ということです。だから、体や心を病む。もちろん、自分を含めての話です。(「オバマさんとノッチさん」より)
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【※以上引用した抜粋の出所になるブログ記事は、パブーの電子書籍置き場にあります。パブーのリニューアルにともない、全電子書籍のレイアウトが崩れてしまったので、リンクが張れません。というか、各ページ(記事)へのリンクが張れないのです。意地悪をしているわけではありません。ご面倒をおかけしますが、興味のある方は、電子書籍にて閲覧ください。申し訳ありません。】
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ずいぶん前でも、つい最近でもいいのですが、とにかく自分の書いた文章を、あるキーワードなりテーマなりで束ねてみようと思います。実は、以前からしたかった試みなのです。note に来て、ようやくやる気が出ました。上の作文は、「引用の織物・余白に・連歌」というマガジンに収めます。そのマガジンでは三つの形式で作文をしようと考えています。
1.引用の織物:自己引用による標本箱みたいなもの。
2.余白に:ぼけた自分の書いた文章を受けて、書く。つっこみみたいなもの。
3.連歌:ぼけ+つっこみ ⇒ ぼけ(元つっこみ)+つっこみ ⇒ ぼけ(元つっこみ)+つっこみの連鎖。
今回の「引用の織物」は、そうした試みの初回となります。今後は、どうなるか分かりません。あくまでも見切り発車なのです。きょう、これをやってみて、自分が書いたのに忘れていることの確認になりました。その意味では個人的にとても有意義だと感じました。
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