もてあそばれるしかない

げんすけ

2020/09/11 08:56


 まず、前回の記事「でまかせ・いず・む 」のまとめをさせてください。


 このブログでは、


*「表象」


を広い意味でとっています。


*狭義の言葉である話し言葉と書き言葉を始め、手話、ホームサイン(※たとえば家庭内で使われている手話)、記号、符号、信号、アイコン、点字、指点字、仕草、表情、合図、身振り言語=ボディー・ランゲージ、音声、絵、映像(静止画像・動画)、視覚芸術、音楽など


を指しています。


 また、


*「翻訳」


を、


*「言い換える=置き換える=伝える=知らせる=言葉にする=何かの代わりに何か以外のものを用いる」


くらいの意味で使っています。


 そうした言葉遣いにそって、


*ヒトがどのように「表象」を「翻訳」しているか


について考え、記述してみたいと思っています。


     ■


 あくまでも、「我流=自己流=自分流=勝手流=でまかせ主義」で、


*「正しい」対「正しくない」、整合性対矛盾、真偽、正誤といった世迷言にはこだわらない。


方針でいきます。したがって、既存の学問や、誰々が何と言ったとか書いたとかいうお話とは、関係なく考え、言葉をつづっていきます。


 今、ここにある手持ちのものや、おぼろげながら覚えていることだけを頼りに、揺れて=ブレながら書いていきます。ですから、固有名詞や、何らかの定義されたギョーカイ用語が出てくることは、あまりないと思います。


 また、


*できるだけ正確を期すために矛盾をおかす、という矛盾を実践していく。


ことになるだろうと思います。


     ■


*固有名詞


とか


*専門用語=学術用語=ジャーゴン


が苦手です。というか、知りません。


 たとえば、「フェルディナン・ド・ソシュール」という固有名詞を、見聞きしたことはあります。「シニフィエ」とか「シニフィアン」という用語も、見たり聞いたことはあります。


 でも、「あなたはフェルディナン・ド・ソシュールを知っていますか?」とか、「シニフィエを知っていますか?」と尋ねられた場合、「はい」とは答えられません。


「フェルディナン・ド・ソシュールって、知っていますか?」


「はい。シニフィエとシニフィアンなんて言っていた言語学者ですよね。確か、構造主義のきっかけを作ったとか」


「そうですね。よくご存知ですね」


なんていう、紋切り型の会話が成立するというレベルのお話なら別です。そうした会話をやれと言われれば、やれないことはないと思います。けど、これだと、「いい天気ですね」「本当に」と変わらないじゃないですか。でも、世の中、こんなものじゃないでしょうか。


 人間関係を円滑にするという効用はありそうです。平和でいいですけど……。これはこれで結構なことなのでしょうね。だいいち角が立たない。漱石の『草枕』の冒頭にあるように「智に働けば角が立つ」。ところで、あの作品は拾い読みするのに最適なので、そばに置いています。愛読しているローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』 ( The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentleman )のように、筋がありそうでないというか、脱線の連続で筋を無視して読めるところが好きです。筋は苦手なのです。


     ■


「○○○の説によると、×××は△△△だから、☆☆☆もまた□□□ということになります」


といったフレーズも頻繁に見聞きします。各3個ずつ並べた記号の部分には、固有名詞や専門用語が入ることが多いのですが、個人的には、そのたぐいのお話=戯言には興味をそそられません。楽しくもありません。


 ネコとじゃれあっているほうが、ずっとスリリングです。


*絶対的他者との遭遇


の気配を感じます。


     ■


 ここで矛盾します。


「○○○の説によると、×××は△△△だから、☆☆☆もまた□□□ということになります」


といったフレーズも、さきほど挙げた紋切り型の会話も、言葉です。広義の「表象」です。そうした言葉の断片やフレーズ自体には、


*絶対的他者


の気配を感じます。


*「表象」とは、ヒトが自然物に手を加えたり組み合わせることによって作ったり、頭の中ででっちあげたり、自然物を加工したり、あるいはヒトが自然物に「意味」や「属性」を与えて喜んでいるものだ。


と言えそうなのですが、同時に、


*「表象」は、ヒトとは離れて存在するものだ。


とも考えられるようなのです。


 仮に、この現時点でヒトがこの惑星から突如として消え去ったとします。それでも、多くの「表象」は残るでしょう。記録されていない話し言葉や音声は別ですけど。


 たとえば、文字やいわゆる芸術作品やヒトが道具として用いたものたちは、残るにちがいありません。


 ヒトが作ったものではない、あるいは道具として使ったり、何らかの「価値=用途=意味=属性」を与えることのなかったもの、たとえば、ヒトが見向きもしなかった石ころと同様に残るでしょう。


 そうしたヒトとの関係性を絶たれた、あるいは、関係性とは無縁のものを、


*絶対的他者


と、ここでは呼んでいます。


*ヒトは、絶対的他者の気配しか感じられない。


し、


*ヒトは、絶対的他者と遭遇したと思い込むことしかできない。


と考えられます。以上の2フレーズを、


*ヒトは、絶対的他者を「表象=代理」としてしかとらえられない。


と言い換えることもできそうです。


     ■


 前回にも触れましたが、


*ヒトと「表象」つまり絶対的他者との「関係性」(※特に「関係性」という言葉に注目してください)


という「曖昧模糊としたもの=わけの分からないもの=たぶん、いや絶対にガセ=でたらめ=でまかせ」にこだわってみたいと思います。


 その「関係性」と「戯れる=遊ぶ=遊ばれる=もてあそばれる」鍵となるのが、


*「翻訳」


という「考え方=説=お話=作り話=フィクション=でたらめ=でまかせ」なのです。


     ■


 ここでは、


*ヒトの言うこと為すことのすべては、「でたらめ=世迷言=でまかせ」である。


という「考え方=説=お話=作り話=フィクション=でたらめ=でまかせ」から出発します。


 以上の主張に対して、「そんなことはない」と否定する「考え=希望=願い=信仰=暗黙の了解=掟=『そんなことはないって言ったら、絶対にないの!』」は、ヒトの世に満ちています。


*人間様としてのプライド


が許さないのです。この駄文を書いている者もヒトの端くれですから、その気持ちはよく分かります。腹を立てるのも、もっともだと思います。


 とはいえ、圧倒的多数を占める、ありふれた「考え=希望=願い=信仰=暗黙の了解=掟=『そんなことはないって言ったら、絶対にないの!』」とはズレた、上述の「考え方=説=お話=作り話=フィクション=でたらめ=でまかせ」の立場をあえてとります。


「あえて=わざと=企みをもって=戦略的に」、「少数派=はみっこ=へそ曲がり=偏屈者=天邪鬼」の立場をとります。


 実は、どっちの立場をとっても、同じことなのです。戯言という点では変わりません。要は、「好み=スタンス=おたんこなーす=なーすのお仕事」の問題です。ここでは、好きなように考え好きなように書く。それだけのことです。


     ■


 ヒトがどのような「立場=スタンス=考え方=でまかせ」を前提にしようと、


*いわゆる「宇宙=世界=森羅万象」という戯言(※ヒトが「表象」としてとらえているものという意味です。その「表象」が指し示している「何か」ではありません、というか、あり得ません)


は、びくともしません。それが「びくともする」と思い込んでいる=信じているヒトもいるにちがいありません。


 ちなみに、この駄文をお読みになっているあなたはどうですか? 


*ヒトのとる立場しだいで「宇宙=世界=森羅万象」はびくともしない。


とは、お思いにならないほうですか?


*ヒトの考え方しだいで「宇宙=世界=森羅万象」は変わる。


という「考え方=自己催眠法=精神衛生にとっていいこと=メンタルヘルス上プラスになること=気休め=ある種の処世術=自己啓発のステレオタイプの一つ=『ああ気持ちいい』=『何だか元気が出てきた』」があるみたいです。


 それはそれで、もっともだと思います。異議はありません。それで気が休まり、癒やされ、元気が出て、幸せな気分になるヒトがいるらしいことは見聞きしてきました。


 ただし、残念ですが、ここでやろうとしているのは、そういうたぐいの処世術や癒やしではありません。私に他人が癒やせるわけがありませんもの。


     ■


 上で述べたことは、個人の好みの問題であり、どの見方をとるかは、各人の自由です。どちらの立場をとるにせよ、できれば自分から選びたいというのが、この駄文を書いている者の願いです。


 さまざまな、宗教、カルト、心理学、精神医学、スピリチュアルなどと呼ばれている分野に関連した、おびただしい数の新旧の集団、組織、団体、流派、学派、派閥があり、そしてそれぞれにファンクラブがあり、追随者たちがいます。


 ファシズム、全体主義、個人崇拝、集団活動、徒党を組むこと、群れることが苦手な者にとっては、


*今ここにある、手持のものと、おぼろげながら記憶していることを頼りに、ひとり我流で考える。


ことだけが、自分に残された唯一のなぐさみであり、たのしみなのです。


 恫喝、勧誘、洗脳、強制、掟、脅迫、ルール、しきたり、思考停止、何となく、みんながやっているから――は苦手です。


     ■


 忘れていましたが、


*眠ること


も何ものにも代えがたいたのしみです。これも、基本的にひとりでやるものです。寝ることではありません。「眠ること=眠りに入ること=すりーぷ」です。念のため書き添えます。


 蛇足ですが、


*眠ること


がきわめて長く続くと、


*なくなること=亡くなること=無くなること


になります(無意識が長く続く昏睡状態や植物状態とは区別しての話です)。当然のことながらまだ体験したことはありませんが、たのしみです。


 眠りから緩やかに永眠に移行できれば最高なのですが、虫がよすぎますね。反省。


 凍死という手段が可能な冬は、個人的には危うい季節なのです。やばい話をしてしまいました。ごめんなさい。


     ■


 話を戻します。


 ここでは、


*ヒトの言うこと為すことのすべては、「でたらめ=世迷言=でまかせ」である。


という「考え方=説=お話=作り話=フィクション=でたらめ=でまかせ」を前提に、


*「表象」の働き


言い換えると、


*何かの代わりに何か以外のものを用いる


という、


*代理の仕組み


とも呼べるものについて、


*「翻訳」


という「言葉を使って=言葉にもてあそばれて」いきたいと思います。というか、むしろ、


*ヒトは言葉にもてあそばれるしかない


とかねてから感じています。言葉を使うとか使いこなすなんて、できっこありません。使うと思い込むことなら、できそうですけど。


 これは、言葉に限らず、表象全般についても言えそうだと思います。


*もてあそばれるしかない


とは、表象とヒトとの「関係性」の一つとして、


*ヒトは表象に対して主導権を握ってはいない。


事態だと言えるような気がします。


*主従関係でいうと、表象が主であり、ヒトが従に当たる。


という意味です。その逆ではありません。


     ■


 今後の見通しは次のようになると思われます。


*言語という世界に散在する体系の数だけあると推測される、ヒトが知覚・認識・意識・捏造(ねつぞう)・行為している「表象=代理=でたらめ」を、他の「表象=代理=でたらめ」に「翻訳」するという行動について考える。


あるいは、


*この惑星に生息するヒトの数だけあると推測される、各ヒトが知覚・認識・意識・捏造・行為している「表象=代理=でたらめ」を、他の「表象=代理=でたらめ」に「翻訳」するという行動について考える。


または、


*世界に生息する各ヒトが刻々と変化する=移り変わるさいに、知覚・認識・意識・捏造・行為すると推測される「表象=代理=でたらめ」を、他の「表象=代理=でたらめ」に「翻訳」するという行動について考える。


 ややこしいですね。うんと単純化します。


*ある「でたらめ」を他の「でたらめ」に「翻訳」することについて考える。


あるいは、


*ある「でたらめ」を他の「でたらめ」に「翻訳」するさいに生じる「ズレ」について考える。


です。


     ■


 話が総論になってしまい、申し訳ありません。


 焦らず、ぼちぼちいこうと思います。


 次回は、以上の「でたらめ」と「翻訳」と「ズレ」について、具体的に書いてみる予定です。



※以上の文章は、09.12.03の記事に加筆したものです。なお、文章の勢いを殺がないように加筆は最小限にとどめてあります。

 


#エッセイ

#言葉


 

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