翻訳の可能性と不可能性

げんすけ

2020/09/13 08:57


 このブログでは、「わかる」という「表象=代理=でたらめ=恣意(しい)的なもの」としての「言葉=語」について、調べたり考えたりした時期がありました。「かわる(1)」~「かわる(10)」という連載です。


 なぜ、タイトルが「わかる」ではなく「かわる」なのかは、


*「わかる」という「言葉=語」は、「表象=代理=でたらめ=恣意的なもの」である。


からにほかなりません。上記の連載をお読みいだければ、その


*でたらめぶり


がお分かりになると思います。


     ■


 上記の連載から必要な部分をコピーペーストしながら、


*「わかる」とはどういうことなのか。


を、以下にまとめてみます。前回の「わかるはわかるか 」でも書きましたが、「わかる」というのは、日本語という「枠=限界」の中での「イメージ・意味・表象・代理」です。


 その意味では、


*他の言語に「翻訳不可能」


なのです。つまり、


*日本語の「わかる」と全く同じ語義を備えた語は、他言語には存在しない。


ということです。


 とはいえ、


*「翻訳の不可能性」は、「翻訳の可能性」でもある。


点を忘れてはなりません。つまり、


*「わかる」と部分的に重なる語義を備えた語


は、他言語に存在するでしょう。


     ■


 要は、


*どの程度の「精度=重なる部分の大きさ」を期待するか。


です。その期待度によって、可能か不可能かの判断が分かれます。


*「ま、いっか」と、つぶやく = 翻訳が可能かどうかなど大した問題ではないと考える


か、


*「こんなはずはない」と、腹を立てる = 翻訳は可能だと信じたくてたまらない気持ちをかかえて悶々とする


か、


*「これでいいのだ」と、居直る = 翻訳は可能だとあっさりと思い込む


か、


*「こんなもんでしょう」と、つぶやく = 厳密な翻訳は不可能だという見方で妥協する


くらいのスタンスが考えられます。


     ■


 どういうわけか、尻尾のないおサルさんの中でも体毛の薄い、特にうだつの上がらない種(しゅ)が、言語を獲得してしまった。同時に、肥大化した脳を持ってしまった。そして、ヒトとなった。という、「お話=説=でまかせ=フィクション=作り話=神話」があるみたいです。


 素人のまた聞きであり、聞き間違いや思い違いの可能性も高いので、このブログでは、とりあえずそういう与太話があるという前提で話を進めると、理解してください。


 で、不思議でならないのは、その


*言語がヒトの集団によってばらばらである。


ことです。それなのに、


*言語を習得するために必要な「経路=回路=道筋」が、ヒトに共通して備わっている。


らしいのです。


*ヒトであればどの人種や民族の赤ちゃんであっても、ある言語を用いてある年齢まで育てると、その言語を母語として習得する。


ようなのです。


*外部(=世界の諸言語)はばらばらなのに、内部(=たぶん脳)には一本筋が通っている。


という感じです。これが不思議でなりません。


     ■


*翻訳とは、「ばらばら」を「一本の筋」を頼りに「つなげる=こじつける」ことである。


と言えそうです。


 うろ覚えで恐縮ですが、ヒトの言語の「多様性=ばらばらぶり」の一つに、


*膠着語(こうちゃくご)、屈折語、孤立語という分け方


があるそうです。


 簡単な例を挙げます。


*「わたしはあなたを愛している。」


における、


*「は」「を」みたいなものが、語と語を接着剤のようにねちゃねちゃねちねちつないでいるのが、膠着語。日本語、朝鮮語、モンゴル語、トルコ語、フィンランド語、ハンガリー語、タミル語、スワヒリ語など。


であり、


*「 I love you. 」


における、


*「 I, my, me, mine 」「 love, loves, loved, loving 」「 you, your, you, yours 」みたいに語を「屈折=要するに変化=つまり屈伸体操おいちにーおいちにー」させて文を作るのが、屈折語。英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、アラビア語など。


であり、


*「我愛你.」


におけるように、


*「我」「愛」「你」は孤立していて変化せず(あら、ぼっちで寂しいわ……)、その語順で文の意味が変わるのが(あら、あたしって意外と器用みたい!)、孤立語。中国語、チベット語、ベトナム語、ラオス語、タイ語、マレー語、サモア語など。


だと記憶しています。間違っていたら、ごめんなさい。「正しい」ことをお知りになりたい方は、どうかお勉強なさってください。


 いずれにせよ、不思議です。どうして、言語にそんな違いがあるのでしょう。また、どうして、


*「わたしはあなたを愛している。」=「 I love you. 」=「我愛你.」


という具合に翻訳できるのでしょう。


     ■


 ここで、


 ほらほら、言語が違っても、翻訳は可能じゃないか。


と、おっしゃる方がいらっしゃっても不思議ではありません。でも、事はそれほど単純ではなさそうなのです。


 上で挙げた3つの例は、日本語と英語と中国語の書き言葉としての「センテンス=文」でした。


 ふつう、(1)「ちゃんとしたセンテンス」や、(2)「ほぼちゃんとしたセンテンス」や、(3)「ちゃんとしていないセンテンス」や、(4)「めちゃくちゃちゃんとしていないセンテンス」を、ヒトは話し言葉として発したり、書き言葉として記述します。


 日本語で言えば、


(1)「わたしはあなたを愛している。」


(2)「わたし、あなたが好き。」、「あなたのこと、愛してる。」


(3)「愛してる。」、「好きです。」、「好きだよ。」、「好きやねん。」、「好き。」


(4)「あのう……。」、「えーっと、ねぇー。」、「はあ、はあ。」、「(ちゅうーっ)【擬声語です】」、「(がばっ)【擬態語です】」


というところでしょうか。こんな具合に、(1)を除いた形で用いられているのが、現実ではないでしょうか。


 もちろん、これは日本語の話です。英語の「I love you.」だと、一応、そのままの形を保ちつつ、発声の仕方によって、(2)や(3)や(4)になり得る気がします。


 今思い出しましたが、米国のある映画で、自分を捨てて去っていく男性に対し女性が、


*「I love you.」


と叫ぶ場面がありました。その時の、字幕が


*「捨てないで!」か「行かないで!」


だったような記憶があります。確かに、あのシーンでは、


*「わたし、あなたが好きぃー!」


も、


*「好きよー!」


も、そぐわないと思います。


     ■


 要するに、言葉は、


*発信される、および受信されるさいの外的なTPO


や、


*発信者、そして受信者の、その時の気分や内なる事情


によって、「左右される=揺れる=ブレる=不安定である=でたらめである=恣意的である=テキトーである=どうにでも取れる=どのようにも観測できる」と言えそうです。


 言葉に「まとわりつく=こびりつく」、そうした要素は、翻訳不可能とも言えますし、器用な人ならそれを丹念にくみ取って、もっともらしく訳すだろうという意味では翻訳可能と言えるでしょう。


 ただし、すごく器用な「名訳者=迷訳者=迷役者=迷惑者」がもっともらしく訳した場合には、「意訳」、「訳しすぎ」、「超訳」とか、ひいては「誤訳」だのといった「クレームがつく=非難される=悪態をつかれる=挙げ句には素干される」ことがあります。


     ■


 ところで、「わたし、あなたが好きぃー!」とか「我愛你.」とか「I love you.」など、上で挙げた例はどれもが、


*「文=センテンス」


でした。


 今、あっさりと=しらっと「文=センテンス」と書きましたが、言語学なんかでは、この「文=センテンス」という抽象的な=人工的な=うさんくさいもの=嘘っぱちを、しかも主に書き言葉として分析や解釈の対象としますね。こうしないと、ぐちゃぐちゃになるからなんです。とはいえ、嘘っぱちにも一理=そこそこの有用性と有効性というものがあるので、言語学なんかは必死になってその一理に賭けるわけでございます。


 そんなわけで、話し言葉の文法がなかったり、研究の対象として話し言葉を避けまくるのも、同様の理由からなのです。ちなみに、話し言葉や口語の文法という名前がついたまぎらわしいものはありますが、話し言葉を書き言葉に落とした=置き換えたもの=やっぱり一種のセンテンス=大半の話し言葉を反映したものに非ず、でお茶を濁しているのが現実です。話し言葉の文法をつくるのは、「思考は言語でするのか」の究明および検証と同じくらい無謀=不毛な努力となると考えられます。つまり、巧妙にでたらめ=ズル=嘘=ペテンを言うしかないわけです。


 そりゃあそうでしょう。生きた=自然な=まっとうな言葉=話し言葉はぐちゃぐちゃです。また、切れば血の出るような生体(※比喩です)にメスを入れて(※比喩です)解剖しよう(※比喩です)ものなら、その生体は普通死にます(※比喩です)。つまり、もう生きていない=話し言葉ではない。ですから、学問をなさる方々は、わざわざ生きたもの=なまものを扱って自分もぐちゃぐちゃになったり、食あたり=ポンポンが痛いよーとか下痢ピーピーをするような愚はおかさないというわけです。さすがにお利口ですね。


 そう申す私はぜんぜんお利口ではありませんが、やはりぐちゃぐちゃやピーピーを避ける=事務的かつスムーズに話を進めるために、しらっと文=センテンスなんてズル=ペテンをしてしまいました。いい加減なやつですね。ごめんなさい。以上、良心がとがめるきわめて大切なことなので、長々と弁解をしました。では、話を進めましょう。


     *


 で、


 センテンスを構成している


*単語


のレベルで考えてみると、これまた実にごちゃごちゃしていて、「翻訳は可能だ」なんて、とてもじゃないけど思えないのです。


 たとえば、


*うみ・海(・膿)【ほぼ「 umi 」という発音になります。】


*sea(・see )【ほぼ「スィー」みたいな発音になりますね。】


*mer(・mère )【これはフランス語ですが、ほぼ「メール」みたいな発音になります。ちなみに mère は「母」という意味の名詞でもあり、「純粋な」という意味の形容詞でもあります。「私のママ」に相当する ma mère は「マ・メール」(私には豆と聞こえます)みたいな発音になります。余談ですが、「パパはモンペ、ママは豆」(mon père、ma mère)という初級フランス語学習者向けのダジャレを思い出しました。】


「うみ・海」の語義を国語辞典で調べ、sea を大きめの英和辞典で引き、さらに mer にどんな意味や用法があるかを仏和辞典で確認してみるとおもしろいです。


 海は海だろ、日本でも、アメリカでも、ニュージーランドでも、インドでも、フランスでも、カナダでも、タヒチでも同じじゃん。


といった単純な話ではないみたいです。


*言語というレベルでも、海は「海」ではない


し、


*言語を用いる各人という個人的なレベルでも、海は「海」ではない


し、また、


*同じ人でも、刻々と海は「海1」「海2」「海3」……という具合に「ズレて=ブレて=移り変わって」いく


のではないでしょうか。


 簡単な例を挙げますと、さきほどの


*うみ・海(・膿)


*sea(・see )


*mer(・mère )


みたいに、同音の語が、まるでノイズのように「海」を「侵して=犯して=冒して」くるのです。


 複雑な例を挙げますと、たとえば、この駄文を書いている者の個人的な「印象=イメージ」では、


*うみ・海(・膿・産み・生み・うに・グミ・怖い・臭い・気持ち悪い・世界地図・青……)


という具合に、さまざまなノイズがまとわりついていたり、頭に浮かんだりします。


 自己分析してみます。


 海から隔たった環境で育った。初めて海に近づいた時にその臭いに吐き気を催した。海で水浴びをしていて溺れかけたことがある。海と縁がないために海がさまざまな色を持つことを体感する機会がなかった。部屋の壁に貼られた世界地図の青の部分だけで海を考えていた。


「海」に相当するフランス語が「 mer 」であり、「 mere (母)」と同音だと知ったとき、「産み=生み」を連想し、それが頭を離れない。中途難聴者なので、「うみ」が「うに」や「グミ」に聞こえることがある。水浴びは別として、今でも泳ぐことができず、プール、大浴場、川、池、沼、海など多量の水がある場所が怖い。


 そんな幼いころから現在に至る体験があって、


*個人的な「海」のイメージ


ができ上がったのではないかと想像しています。このイメージを全く同じ形で共有しているヒトは、日本にも、世界にもいないと思います。過去にも未来にもいないでしょう。


 人生いろいろ。ヒトそれぞれです。多数のヒトたちが共同の幻想をいだくなんて、それこそ幻想です。私的=詩的幻想です。


     ■


 みなさんにお尋ねしたいのですが、


 あなたにとっての「海」って、どんなものですか? 今あたまのなかに突如として生じた「ごちゃごちゃぐちゃぐちゃ」と向き合ってやってください。あなただけの愛おしいものであるはずです。その「海」は、


*他人に伝えられるものでも、分かってもらえるものでもない。


 そんな気がしませんか。


     ■


 以上のように考えていますので、


*「言い換える=置き換える=伝える=知らせる=言葉にする=何かの代わりに何か以外のものを用いる」


という意味での


*「翻訳」


は、


*不可能


だというほうに傾いています。これを「翻訳」すると、


*異言語間の翻訳は大いなる妥協でしかない。


とか、


*個人レベルで、ヒトとヒトとは分かり合えない。


となります(※「翻訳」は不可能だという意味のことを書いた後に、「翻訳」をやっている。これが、「でまかせしゅぎ」です。どうぞ、よろしく)。


     ■


 ところで、


*世界一のベストセラーは、バイブル=聖書だ。


と聞いたことがあります。実際、あれほど多数の言語に翻訳された書物はないのではないでしょうか。しかも、


*何語で書かれて=訳されていても聖典だ。


ということらしいのです。


*聖典としての翻訳を絶対に認めないクルアーン(コーラン)


とは、考え方が対照的ですね。


 で、バイブルですが、たとえば砂漠やらくだや天使は、それに相当する言葉やものがない言語では、どう訳されているのでしょう。疑問です。きわめてテキトーな=でまかせしゅぎ的な匂いがします。


     ■


 それで思い出しましたが、


 タヒチ島では、わけあって、フランス語が広く話されているようですが、雪や四季に当たる語をタヒチの人たちは日常生活で使うことがあるのでしょうか。


 先の戦争中に、わけあって、南太平洋の島々で日本語で教育を受けた子どもたちがたくさんいたらしいのですが、雪や四季に当たる語をどのように受け入れたのでしょうね。


     ■


 今回も、前置きと余談ばかりになってしまいました。


*日本語という「枠=限界」の中での「イメージ・意味・表象・代理・でたらめ・恣意的なもの」としての、「わかる」


についての「考察=与太話=でまかせ」は、次回にこそ行いたいと思います。



※以上の文章は、09.12.05の記事に加筆したものです。なお、文章の勢いを殺がないように加筆は最小限にとどめてあります。



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