日本語にないものは日本にない?(5)
星野廉
2020/09/23 08:21
今回は、このシリーズのまとめをしたいと思います。
「日本語にないものは日本にないか」という問いをめぐって、文字通りに意味を取ったり、問いのフレーズをずらして屁理屈をこねたり、横道に逸れまくったりしました。読者の方から、「読みにくい」「何を言っているのか、さっぱり分からない」という意味のお叱りのメッセージも頂戴しました。ですので、今回は小論文を書くつもりで、なるべく「ふつう」のことを「ふつう」の書き方で書いて連載を締めくくるつもりです。
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この連載のテーマを簡単に述べますと、「各言語における語彙(ごい)は、どのように決まるか」と要約できます。みなさんも、何かでお読みになったか、どこかでお聞きになったと思われる例を取ります。
日本語で、米(こめ)、稲(いね)、苗(なえ)、米粒(こめつぶ)、ご飯(ごはん)、飯(めし・いい)、ライス、もみ、白米(はくまい)、精米(せいまい)と呼ばれているものは、すべて英語では基本的に rice と言うそうです。「基本的に」と条件をつけたのは、差異を詳しく述べる必要がある場合には、修飾語を加えたり、説明的な言い方になるという意味です。
次に、英語の単語を並べてみます。(1) cow、(2) ox、(3) bull、(4) calf、(5) cattle、(6) heifer。番号を付けたのには理由があります。これらは基本的には、日本語で「牛・うし」と呼ばれているものなのですが、英語では区別するというか、以上のような別個の単語を当てるというのです。順番に、日本語訳を並べます。
(1)雌牛・乳牛、(2)雄牛・去勢雄牛(主に食用・荷役用です)(3)雄牛(去勢していない繁殖用の雄牛です)、(4)子牛、(5)畜牛、牛の群れ、牛の総称(複数として扱います)、(6)(三歳未満で、まだ子を産めない)雌牛。
【※ 日本語では、すべてに「牛」という言葉がついているのに対し、英語では見た目ではまったく別の単語が与えられていることに注目してください。】
日本語を母語としているヒトたちにとっては、「なんで、牛をわざわざ区別して、まったく違った単語で呼ぶのだろう」という疑問が浮かぶのではないでしょうか。一方、英語を母語としているヒトたちは、「全部 rice なのに、どうして区別して言うのだろう」と不思議に思うにちがいありません。
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中学か、高校の社会科か、英語の授業で聞いた話なのですが、主に砂漠を移動して生活しているヒトたちが使っているアラビア語では、移動の手段でもあり、衣食住に密接にかかわっているラクダに関する言葉=語が、100以上あるらしいのです。それも、地面に座っているラクダと立っているラクダでは別の単語を当てて区別しているとか。うろ覚えですけど、そんな話でした。
やはり学校で習ったことなのですが、イヌイット(かつてはエスキモーと言っていました)の諸語では、雪を表す言葉=語が、これまたたくさんあるそうなのです。雪の水分や降り方によって、その呼び方つまり言葉が違うという話でした。
虹についても、同じような話を教わりました。日本語を母語とするヒトたちにとっては、虹は七色ですが、これは世界で一様ではなく、言語や地域によって、色の数や色自体の認識も異なるらしいです。
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所変われば品変わる、なんて言いますが、世界には多種多様な気候・地勢・生態系・環境がありますから、ある土地に住むヒトたちは、その土地での生活という「枠」にとらわれて暮らしているわけです。その「枠」が言葉に表れてくる。そんなふうに考えれば、上で述べた言葉の違いや、ものごとのとらえ方の違いが、ある程度納得できるのではないでしょうか。
業界語とか、専門用語というのにも似ていますね。同じ日本に住み、日本語を話しているヒトたちの間でも、自分とは違う仕事や趣味を持ったヒトたちが、自分が知らない言葉=語を使っているのを見聞きしたり、ある物や事を指して自分ならそうは呼ばない、または言わない言葉を使うのを耳にした経験があるだろうと思います。
「日本語にないものは日本にないか」と問いを、以上のような例に照らし合わせて考えると、そんなにややこしい話でもないと思えるのではないでしょうか。日本語は、日本という社会での生活を「枠」にして出来上がっている。そんなごく当り前な話として簡単にまとめることもできそうです。
上の文の最後のほうで、「社会」という言葉を使いましたが、そもそもこの連載は、「社会」という言葉をきっかけに書かれたのでしたね。「日本語にないものは日本にない?(1)」の冒頭近くから引用してみます。
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確か、その本には「日本語にないものは日本にない」という意味のことが書かれていたような気がするのです。タイトルも著者名も覚えていません。ただ、「日本語にないものは日本にない」の一例として、「社会」が挙げてあったことだけは覚えています。
明治維新以後に欧米の文化を取り入れるさいに、「社会」という言葉と、「社会」に当たるものが、この国に存在しなかった。で、英語の society やそれに相当するヨーロッパの言語の単語を日本語に翻訳しようとして苦労し、「社会」という言葉を造語した。
そんなような話でした。
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以上が引用です。
辞書を引けば、「社会」と「society」には、いくつかの意味が載っています。単に「ヒトの集まり」とか「群れ」という意味に取れば、たとえ明治維新前に、「社会」という言葉が日本になかったとしても、「社会」は「在った」ということでしょうか。「社会」を今述べたのとは別の意味に取ったり、屁理屈または理屈をこねれば、「いや、そんなことはない」、ごくふつうに考えれば「そうみたいね」となりそうです。
本当は、あたまのなかで、ごちゃごちゃぐちゃぐちゃが、うずうずしているのですが、体調並びに抑うつ状態があまり良くないので無理をせず、本シリーズはこんな具合にまとめて、終了させていただきます。
ごちゃごちゃぐちゃぐちゃについては、また別の機会に書きます。どうせ、またいつか、この種の話を蒸し返して、ごちゃごちゃぐちゃぐちゃを、うろうろおろおろやるにきまっていますので。
この連載をお読みいただき、どうもありがとうございました。
では、また。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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