名詞という名の動詞 (後半)

星野廉

2020/09/25 08:50


 テーマを、知覚から言葉に変えます。


 きわめて「粗雑な=分かりやすい」考え方をするなら、すべての言葉は名前である、と言えそうです。このうさん臭い考え方を、物語っぽく語った=騙った「な、いいだろう?」、「テラ取り物語(続・「な、いいだろう?」)」、「宇宙法廷審理中(1)」~「宇宙法廷審理中(4)」という、一連の記事がありますので、ご興味のある方はご笑覧ください。


「すべての言葉は名前である」と言うなら、「すべての品詞は名前である」とも言えそうです。大げさですよね。肩に力が入りすぎています。頑張りすぎて、うつが悪化するといけないので、話を絞ります。


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「固有名詞+する」という言い方が気に入っています。固有名詞といっても、たいては人名です。「デリダする」「バルトする」「マラルメする」「アホの坂田する」という具合です。ブログ記事の中でも、何回かつかった記憶があります。「固有名詞+する」というのは、このアホが「夢の素」と呼んでいるものとほぼ同じ働きを指す言い方です。


 たとえば、「夢の素(2)」では、「渡部直己」という人名が出てきますが、「渡部直己する」というのは、簡単に言うと、前回の記事で書いた「つづられるテーマを、つづる言葉たちに演じてもらうという酔狂を行う」ことです。人名という固有名詞が名指していると信じられている「ある人」は、おびただしい数の「自分」を意識的に、あるいは無意識のうちに演じています。


 このアホを例に取ると、親や知り合いに内緒で、あやしげなブログ記事を書いていたり、親の介護をしていたり、親の年金で食べていたり、節約料理に凝っていたり、抑うつ状態や被害妄想に悩まされていたり、ネコにご飯を出したり、とにかく、いろいろな役割を演じています。ここでの役割とは、ある行動を定期的に繰り返しているという意味です。


 その行動を名詞的に言い表すと、へっぽこブロガー、介護者、親のすねかじり、節約料理人、ビョーキの人orうつ病患者、愛猫家、という感じでしょうか。要するに、ラベル=レッテルを貼ることですね。何か大きな事件で有罪の判決を受け、刑に服しているorいた人のように、1度だけの行動で、世間から「○○した人」というラベルを貼られることもあります。1回だけ、オリンピックで金メダルをとった人も、「○○した人」と呼ばれるでしょう。「○○した人」「○○人」「○○家」「○○者」と呼ばれる裏には、いろいろなケースや事情があるでしょう。


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 このブログで出てきそうな「固有名詞+する」、つまり、「夢の素」のうちの人名バージョンを解説付きで挙げてみます。


*「(ロラン)バルトする」 : とっかえひっかえ興味の対象やテーマを変える。


*「(ステファヌ)マラルメ」する」 : 1)言葉に徹底的にもてあそばれる。; 2)言葉というサイコロを振ることで、思索=詩作=試作する。


*「(ジャック)デリダする」 : 駄洒落と「考える」をシンクロさせる。


*「蓮實重彦する」 : 1)言葉の表情・身ぶり・目くばせに目を凝らしながら、読む、あるいは書く。; 2)映画を好きだとは、ほかの人に言わせないと言うほどまでに、映画に淫する。


*「坂部恵する」 : 大和言葉系の語にこだわりつつ、日本語で哲学する。


 書名バージョンもあります。


*「(ギュスターヴ・フローベール作の)『紋切型事典(紋切型辞典)』する」 : ヒトは決まり文句しか話さないという視点から物事を論じる。


*「(ギュスターヴ・フローベール作の)『ブヴァールとペキュシェ』する」 : 言葉で書かれたものが現実であると錯覚するというヒトの習性に注目して、物事を論じる。


*「(ニーチェ作の)『善悪の彼岸』する」 : 論理的矛盾や破綻といった批判を物ともせず思考を重ね、言説の断片を積み重ねていく。


 以上のように、だいたいが一面的で、その固有名詞で呼ばれている各人の、業績や仕事や私生活でのさまざまな役割を切り捨てています。それ以上のことを望むわけにはまいりません。たとえば、基本的に「見る」人であると思われるミシェル・フーコーについて、多面的に「固有名詞+する」しようとすると、次のようになります。


*「ミシェル・フーコー」する : 見て、観て、見つめ、認められ、見られ、見入られ、魅入られ、見せられ、魅せられ、身を張り、身をかけ、見舞われ、診られ、看られ、看取られる。【※ 合掌。】


 書物であれば、上記のように、ある書物のある部分だけをとらえた、ひとりよがりで根拠の乏しい印象だけに焦点を絞ることになります。つまり、ごく個人的なイメージをもとにして、遊んでいるだけです。ですから、こうしたひとりよがりな言い回しをもちいるさいには、どんな意味で使っているのかが読者に伝わるように、前後関係の記述に工夫をします。


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 これまでに書いたブログの記事では、固有名詞、とりわけ、人名や著作名をなるべく出さないような工夫もしてきました。このブログでは「こんなことを書きました」というタイトルの記事を定期的に掲載し、その中で、それまでに投稿した各記事について短い解説を書きます。その解説の最後のほうに「直接書かなかったキーワード」として挙げるものに、本当は「固有名詞+する」とつづりたかった人名や著作名が混じっています。


 固有名詞は、強く、また多様なイメージを各人に喚起させる言葉です。あるテーマを論じる場合に、ある固有名詞を登場させると、たとえば、その固有名詞を名に持つ人に対する読者の多様なイメージが次々と呼び覚まされます。それがいわば「ノイズ=ラベル」となって、そのテーマを演じている言葉たちの「表情・身ぶり・目くばせ・働き」などに、読者の目が行かなくなる。つまり、つづられている言葉たちへの注視の妨げになる。それほど、固有名詞のイメージの喚起力は強いのです。


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 ある話や文章に、ある人名が登場すると、その名前を聞いたり目にした人が、「条件反射的行動=思考停止状態」に陥ることがよくあります。その人名にまつわる紋切り型のイメージや言葉の断片が、頭に浮かぶということです。


「ああ、あの有名な哲学者か」「難しい本を書いていた人だな」「あっ、構造主義者だ」「左翼だ」「右翼だ」「自殺した人だ」「危険思想の持ち主だと何かで読んだことがある」「あの人の顔、お笑い芸人の△△にそっくり」


 以上のように、読んでいる文章のテーマとは無関係であったり、それほどテーマとからみ合わないイメージや言葉のかけらが、まるで「ノイズ=決まり文句(※夢の粒とも言えます)」のように頭の中に現れます。その「ノイズ=紋切り型のイメージ」の分だけ、話されている言葉たち、あるいは、つづられている言葉たちに注意を向けなくなります。これは、致し方ないことのようです。ふだんヒトが認識できる範囲は、ヒトが思い込んでいるよりは、かなり狭いと思われます。また、あるものやことに集中する力も、意外と弱い気がします。


【※ 固有名詞のイメージ喚起力については、「あえて、その名は挙げない」、「横たわる漱石」、「「東京」× 無限大」で、そして、ヒトの意識の狭さをめぐっては、「1人に2台のテレビ」、「人面管から人面壁へ」で触れました。お時間のある方は、ざっと飛ばし読みをしてください。】


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 読解を助けるにしろ、読解の妨げになるにしろ、固有名詞は、それを耳にする人や目にする人に強く働きかけます。個人差はあるでしょうが、名詞の中ではいちばん人の心や意識を揺さぶります。品詞の中では、特に名詞と動詞が激しい「揺らぎ=動き」を人に「送ってくる=発してくる」気がします。そのほかの品詞も、人を揺さぶります。言うまでもなく、個人的な感想であり意見です。


 品詞などという言葉をもちいて、「ことわり=言割り=事割り=断り」をする必要はない。品詞ではなく、言葉=言の葉でいい。言葉は、人に働きかけ、「揺らぎ=動き」を人に「送ってくる=発してくる」。その「揺らぎ=動き」と同調し共振した人は、「考える・思考する」にいたる。そんなふうに、思っています。イメージしています。その意味で、すべての言葉=語は、動きを宿した「動詞」(※もちろん比喩です)であると言ってもいいのはないでしょうか。



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77




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