動詞という名の名詞
星野廉
2020/09/25 08:09
言葉について考えていると、頭の中がごちゃごちゃになってくる。そんな意味のことを、前回に書きました。なぜなんでしょう。考えるときに、話し言葉の助けを借りる。あるいは、言葉で考える。よく見聞きする話であり、分かりやすい説明です。でも、それだけではない気がします。というより、そんな単純な話ではないでしょう。
たとえ、考えたことをそのまま口にして書き取ったとしても、出版社などで働く編集者や校正をする人たちから、注意されない文章になるだろう。考えたままに言葉たちを組み合わせていけば、ちゃんとした文章をつくれる。そうした言葉のありようを想定して、言葉で考えるというのなら、ずいぶん大雑把で、考えの足りない説明だと思います。たわごとを言ったり書いたり、たわけるのにも、それなりの仁義を持ってほしいです。
考えるとは、どういう作業なのでしょう。頭の中でうろちょろする、さまざまな言葉の断片たち。ごちゃごちゃぐちゃぐちゃ浮かんでは消えるイメージたち。ゆらゆらぶらぶらゆれている、「何か」としか言えないようなものたち。幾重にもだぶって見えたり、次々に姿を変えていく像や絵に似たものたち。考えるとか、思うということをめぐって、考えるとわけが分からない状態になります。
言語をめぐっていろいろ考えるさいだけでなく、何について考えるときにも、以上のような、わけが分からない状態になると思います。そのとりとめなない状態から、「ま、いっか」とか「ええい、面倒だから、このさい、すぱっと、やっちゃおう」という感じで、口から出てきたり、文章としてつづられたものを、話し言葉or話や、書き言葉or文章というのではないでしょうか。
そういう感じで出てきた文章の特徴を挙げると、決まり文句に満ちているということです。「ま、いっか」とか「ええい、面倒だから、このさい、すぱっと、やっちゃおう」という、言葉への姿勢に、妥協めいたあきらめ、あるいは、横着さを感じます。既成の文章の型に、ごちゃごちゃぐちゃぐちゃやゆらゆらぶらぶらを無理やり合わせてしまうという意味で、横着であり、杜撰(ずさん)なのです。でも、それでいいのです。そうでもしなければ、いわゆるコミュニケーションとか、相互理解というものを期待するわけにはいかないと言うべきでしょう。コミュニケーションを成立させたければ、お互いに決まり文句を言えばいいのです。決まり文句の交換ですから、楽です。決まり文句をかわしあうことで、めでたしめでたしとなります。
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大学に入学したころに、何かで読んだフレーズというか悪態を思い出しました。「言語学者の悪文」という、ののしりの言葉なのですが、サンプルとして挙げられていた、言語学を研究している何人かの人たちの書いた文章の一部を読んでいて、確かに「分かりにくい」と感じました。どのような分野の文章であれ、そのテーマに詳しくない人たちにとっては、専門用語や専門知識を知らないと、「分かりにくい」ものです。
今思うと、「言語学者の悪文」という悪態の背景には、言語をコミュニケーションの道具としてとらえる、実利的な言語観を感じます。言語を研究する者を一種の科学者や技術者とみなす、言語をあなどった態度も感じます。今だから言えることです。当時は、「言語学者の悪文」というフレーズを見聞きすると、顔をしかめ、うなずいていたものでした。昔を振り返ってみます。
大学の外国文学科に在籍し、文学ではなく言語に興味を覚えるにつれ、「言語学者の悪文」という罵倒に、疑問をいだくようになっていきました。もともと、哲学科に入りたかったのですが、結局は外国の文学をまなぶ学科を選びました。「哲学なんか勉強している人間は、いずれ自殺するか路頭に迷うのがオチだ」という、親の意見というか思い込みに従わないわけにはいかなかったからです。学費を出してくれる親には、逆らえなかった。それだけの理由です。
で、大学では、外国の小説や戯曲や詩よりも、そうした文学作品の批評に強い関心を持つようになっていきました。哲学の論文とみなしてもいいような、ややこしい書き方と内容に満ちた文芸批評を、たくさん読みました。というより、流し読みや、拾い読みをしていました。翻訳されたものには、特に苦労しました。わけが分からなかったのです。日本人によって書かれたものを読むのにも、苦労しました。そんな読書ばかりしていたためか、「言語学者の悪文」や「翻訳調の文章」や「翻訳書の文章」を気にしなくなっていきました。
言語そのものや、文学作品における言語について書かれた文章を「分かろう=理解しよう」というスタンスには、大いに疑問を覚えます。「分かる=理解する」にあらがう。そういう身ぶり、仕草、表情をまとった言葉たちに満ちた文章だと感じられるからです。だから、そうした身ぶり、仕草、表情をまねればいいのです。まなぼうなどという、見当違いな姿勢で臨んでも、何もまなべないでしょう。言うまでもなく、あくまでも、個人的な意見です。人それぞれですから、「まねる」を想定し「まなぶ」を想定していないと思われる言葉たちから、何かをまなんでしまう人を非難しているわけではありません。
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「言語学者の悪文」という悪態を、前回の「言葉の乱れ」という罵倒同様に、揺さぶり、ずらして、考えてみます。すごく好意的にずらすと、言語という「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」を学問分野の対象とすると、「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」になってしまうと言えそうです。一方で、言語をあつかっているはずなのにもかかわらず、「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」ではなく、「すっきりはっきり」した論文や書物になっているのなら、かなり重要な部分を切り捨てた「すかすか」な文章を読んでいるとも言えそうです。
というわけで、前回に引き続き、次のように申し上げたいと思っております。「すっきりした」「単純明快な」「理路整然とした」「よく分かる」「コピーライターの制作したキャッチフレーズのように、陳腐で分かりやすい」文章には気をつけましょう。とりわけ、言語を対象にした、あるいは、言語と深くかかわっているはずの「分かりやすい」文章には、眉につばを塗って臨むか、読むのをやめましょう。もちろん、これまた、人それぞれですから、言語について書かれた明快な文章を読みたい方に、けちをつけているわけではありません。愚見を述べているだけです。
なお、「言語学者の悪文」と言ってもいろいろありますので、さきほどとは違い、すごく好意的にずらすのではない方法をもちいて、ずらし、考えてみます。次のようになります。言語という「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」を学問分野の対象とすると、「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」になってしまうと言えそうです。ありゃ、上と同じになってしまいました。まさに、たわけのたわごとです。ただし、上述の「言語を対象にした、あるいは、言語と深くかかわっているはずの『分かりやすい』文章」よりは、ましだと言えそうです。
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話を変えます。
>「分かる・分かっている・分ける」という「状態」
>「考える・思考する」という「行為」
前回の記事からの引用です。「分かる・分かっている・分ける・見る・知る・名付ける」を「状態」だと考えている。そんな意味のことも、書きました。ここでは、さらに次のように付け加えたいです。
「思う・ぼけーっとする or ぼーっとする」という「状態・ありさま・ありよう・かすかな揺らぎ」
「考える」という「行為・動き・激しい揺らぎ」
こんなふうに「ことわり・言割り・事割り・断り・理」をしていますが、あくまでも、素人のたわごとです。要は、そんな気がするというお話です。蛇足とは承知しつつ、念のために、お断りしておきます。
【※ 上記の「ぼけーっとする」に関して論じた「ぼーっとする、ゆえに我あり」と「「あつい」と「わからない」」に、ちらりと目を通していただくと嬉しいです。】
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「揺らぎ」には、3種類あるような気がします。1)自ら揺れる。2)何かによって揺らされる。3)たがいに、揺れ合っている=揺さぶり合っている。このように、「ことわけして=たわけて」みましょう。なぜ、「ことわけ=たわけ」なのかと申しますと、いまここでやっていることを、良く言えば「実験・思考」と呼ぶことができ、悪く言えば「でたらめ・出まかせ」となるからです。「人それぞれ=見る人によって異なる」、今流行の大げさな言い方をすれば、「観測者による判断」の問題も言えそうです。
3つの「揺らぎ」のうち、個人的には、3)のイメージに惹かれます。そのなかでは、いちばんピンとくるという感じです。そんなことを、きのうの記事を書き終えてから、ずっと考えていました。
で、「思う・ぼけーっとするorぼーっとする」には、受動的な響きを覚えます。だから、「状態・ありさま・ありよう・かすかな揺らぎ」と勝手に決めつけました。「考える」には、能動的なニュアンスを感じます。だから、「行為・動き・激しい揺らぎ」としておきます。
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「思う」と「考える」という動詞について、きのうから、ああでもないこうでもない、ああでもありこうでもある、ああでもないこうでもある、ああでもありこうでもない、などと考えているうちに、あきてきました。そこで、気分転換に、いかにも動詞という印象をいだかせる「動く・揺らぐ・揺れる・走る・泳ぐ」などの言葉を、次々と頭の中でころがしてみました。
ころがし、ずらす。具体的に、どういうことをやっていたのかと申しますと、「動く・動き・動くこと」「揺らぐ・揺らぎ・揺らぐこと」「揺れる・揺れ・揺れること」「走る・走れ・走ること」「泳ぐ・泳ぎ・泳ぐこと」という具合に、いわゆる動詞を名詞化して遊んでいたのです。
日本語の動詞では、発音上、語尾に「 u 」が出てきますね。ugoku、hashiru みたいにです。その動詞を名詞化すると、発音するさいには、「 i 」か「 e 」で終わる形になります。たとえば、yuraki、yure です。不思議でなりません。言語学や国語学の文献に、そうした現象の規則性を説明する、何らかの「理屈=ことわけ=こじつけ」が書かれているなら、ぜひ読んでみたいと思いました。
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「動くこと」「走ること」のように、動詞に「こと」をつけると、名詞になります。とてもおもしろいです。で、そういう時に出てくる「こと」ですが、何なのでしょう。いかにも、あやしげです。不可解です。不思議でしかたありません。動詞を名詞化する「こと」を、広辞苑で調べてみると、「こと・言」ではなく、「こと・事」の項にあり、それなりに説明してあるのですが、今一つぴんとこないのです。
さらに、「動き」と「動くこと」、「走る」と「走ること」の「違い=間・あわい=隔たり=差異」についても、いろいろと考えてみたのですが、分かりません。どう違うのでしょう。
「ほら、彼の足の動きをよく見ているのよ」と言えても、「ほら、彼の足の動くことをよく見るのよ」とは、言わない気がします。後者では、「動くこと」の代りに「動き方・動き具合・動く様子」とすれば、言えるのではないでしょうか。そうであれば、「動き」=「動き方・動き具合・動く様子・動いている過程」となりそうです。いちおう、そんなかたちで、けりをつけたことにしておきます。異論や反論や悪態が予想されますが、研究やお勉強をする場ではないブログでの「けり」ですから、ご容赦ください。
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もう一方の「動くこと」、一般化すれば「・・・すること」についても、いろいろと考えているのですが、何なのでしょう。
何かではなく、どのような働き=役目をしているのかという具合に、ずらしてみましょう。「体が小刻みに動くことを、震えという」というセンテンスに対しては、違和感を覚えません。でも、「体が小刻みに動きを、震えという」とは、言いませんよね。少し変えて、「体の小刻みな動きを、震えという」なら、言えるでしょう。いずれにせよ、ずらしても、不可解なままです。広辞苑を参考に、ずらしまくってみました。
「こと・言・事・もの・物・者・さま・ありよう・ありさま・ありかた・わけ・かた・かたち・わざ・しわざ・しかた」
「こと・現象・状態・状況・様子・様態・事情・事態・理由・内容・中身・実体・経験・習慣・必要・願望・命令・禁止・感嘆・疑問」
ついでに、「・・・するもの」とも言える、「もの」についても、広辞苑を見ながら、ずらしてみましょう。
「もの・物・物体・物品・対象・存在・物事・事柄・内容・言葉・当然のこと・感嘆・理由」
「もの・者・人」
こと。もの。たった2文字なのに層が厚い、つまり、幾重にも重なった重い言葉ですね。どういう「動き=働き」をする語なのでしょう。こんな時に、よくやる作業なのですが、英語に直すというかたちで、ずらしてみましょう。
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英語の what と似た動き=働きをするようにも、思われます。OALD(=Oxford Advanced Learner's Dictionary とロングマン現代アメリカ英語辞典を参考にします。
I don't believe what you have just said.「あなたの言ったことを信じてはいません」/A dream is what you see in your mind while you are asleep.「夢とは、眠っているあいだに、頭に浮かんでくるかたちで見えるものである」
上の例文では、what =「こと・もの」と言えそうです。英語で、ある動詞を名詞化する場合には、1)to move、2)moving、3)move・motion・movement のようになりますね。1)不定詞の名詞的用法、2)動名詞、3)動詞と同源の類語、ということです。英語と日本語を比較してみましたが、結果としては、「ふーん」としか言えませんでした。
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で、思ったのですが、動詞を名詞とみなしてもいいのではないでしょうか。当たり前ですよね。「詞」を辞書で調べると、語義のひとつとして「言葉」と書かれています。ちなみに、広辞苑によると、以前には動詞を作用言とか活語と呼んでいたそうです。すると、「詞・言・語」というふうに、ずらすことができます。やはり、動詞=名詞となりそうです。
「『動く』行為や状態」に名を付け、名詞化すると、「動く・動き・動くこと」となる。「言葉を介する=言葉を代理とする」限り、「動く・動き・動くこと・動くさま・動き方・動くという行為・動くという動き・動くという揺らぎ」を、名詞としてしか認識できない。そう言えるのではないでしょうか。動詞という名の名詞ということです。
ヒトである限り、動きを動きとしてとらえることの限界性=不可能性を、ひしひしと感じます。狭い意味での言葉、つまり、書き言葉と話し言葉をもちいる限り、動きを動きとしてとらえられない。極論を言えば、「動く」であれ、「揺らぐ」であれ、名詞でしかない。なぜなら、「言葉=言語=言=語=詞」の使用においては、そういう仕組みが働いていているからだ。そんなふうに思っています。この前提に立つと、ヒトの限界性をイメージしやすくなります。空間的広がりや時間的経過を、知覚すること。さらに、認識・記憶・想起すること。ならびに、空想・想像すること。また、思考・捏造(ねつぞう)すること。以上の「すること」の限界性=不可能性。そんな感じです。
【※ ヒトの空間的広がりと時間的経過の処理について触れた記事として、「「揺らぎ」と「変質」」、「不自由さ」、「ぐるぐるゆらゆら」を紹介しておきます。】
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森羅万象の動きや揺らぎを、名詞としてしかとらえられないヒトという生き物――。ヒトにとって名詞でしかないものを、名詞以外のものとして認識するためには、広義の言葉をもちいることを視野に入れるべきだと考えています。話し言葉、書き言葉をはじめ、表情や仕草や身ぶり手ぶりを含む身体言語=ボディランゲージ、手話、指点字、点字、音声(発声)、音楽、合図、映像、図像、さまざまな標識や記号や信号などを、ひっくるめた「こと・もの・行為・状態」、すなわち広義の言葉から、話し言葉と書き言葉を除いたものに、森羅万象の動きや揺らぎを、名詞以外のものとしてとらえる可能性を感じます。
とはいうものの、広義の言葉と言っても、しょせん、何かの代わりに何かでないものをもちいる、という「代理の仕組み」を免れないわけにはいきません。万物を「名付ける・なつける・てなずける」という、ヒトに備わった習性、つまり名詞至上主義とでも呼びたくなる性癖に対する、ささやかな抵抗。その抵抗として、たとえば、音楽や映像に期待を寄せています。でも、いちばん、気になるものを挙げるとすれば、日本語や中国語や英語などと同じく言語である、手話です。
中途難聴者としては、いつか中途失聴者となる可能性を視野に入れておかなければなりません。ひとごとだと言って片づけるわけにはいきません。
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今回の記事では、「動く・動き・揺らぐ・揺らぎ」をあつかいました。今回も、このアホ独特の「企み=戦略=お遊び」をしてみました。つづられるテーマを、つづる言葉たちに演じてもらうという酔狂です。お気づきになったでしょうか。ものすごく馬鹿馬鹿しい試みなのですが、「・・・は or が――する or です」という具合に、「主語+述語」or「主部+述部」という、センテンスレベルでのステレオタイプ化した書き方を避けたのです。
そうすることで、述語 or 述部に出てくる動作・状態をきわだてたい。とりわけ、動作を演じる動詞に、思う存分おどってもらいたい。読者に躍動感を体感してもらいたい。そんな思惑をもっていたのですが、今読み返してみて、失敗だと気づきました。図式化すると主語=名詞、述部=動詞・形容詞・名詞という感じですから、動詞ばかりが、おどってくれるとは限らないのです。
そもそも、日本語で書かれた文には「主語+述語」or「主部+述部」という、言葉をつづるうえでの定型を見いだせないから、主語を回避しても、徒労に終わる。また「主語+述語」にならないようにしたと言っても、たった今書いたセンテンスの途中にある「定型を見いだせない」を「定型は見いだせない」の書き換えとするような小細工に、終始していたにすぎない。上で述べたように、動詞を含むあらゆる品詞を「詞=言=語=名」のついた名詞だとみなせば、名詞だらけ。たとえばスポーツといった躍動感のあるテーマを語っていない文章に、躍動感のある動詞の出番はなく、読者に動詞の躍動感を体感してもらおうと期待しても、無理というもの。だから、失敗=徒労でした。
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要するに、きわめてアホなことをやっていたということになります。アホのきわみです。です・ます調でブログの記事を書く場合に、「私」に当たる主語を使わないというこだわりと同様に(※「テリトリー(5)」をご参照ください)、アホな癖です。アホな癖に、反省もせず、アホな癖で書いているという、いかにもアホらしい話なのです。
でも、動詞であれ、名詞であれ、形容詞であれ、つづった言葉たちに備わっているはずの表情・身ぶり・目くばせ・動きという意味での「揺らぎ」を読者の方々に感じ取っていただけたなら、さらには読者の方々に何らかの「揺らぎ」を誘発できたなら、とても嬉しいのですけど……。無理ですよね。たった今、苦笑なり、嘲笑なりをしていただいた方に、感謝いたします。かすかに揺らいでくださったのですから。すっきりしゃっきりとした笑いではなく、ぐちゃぐちゃごちゃごちゃした笑いだったにちがいありません。もし、そうであれば、揺らぎに共振し、まなぶのではなく、まねてくださったのですから。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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