とりとめもなく
星野廉
2020/09/22 12:52
「ずらす」と「かえるのではなくてかえる」という2回の記事で、できるかぎり大和言葉系の語を用いて文章を書くという実験をしていました。酔狂というのでしょうか。でも、信じてもらえないかもしれませんが、真剣なんです。本気なのです。正気だと申し上げる勇気はありませんけど。
その実験は戦略でもありました。大和言葉系の言葉を多用することで、自分がとらわれている「枠」を揺らし、ずらす。そんな企みです。ヒトは誰もが「枠」にとらわれています。誰ひとりとして、免れることはできません。ただ、個人的には、「枠・縄・筋・糸」といった一連の言葉たちは、ヒトの知覚や認識や言動を「支えている」、あるいは「導いている」「力」のようなものとしてイメージしています。
「枠・縄・筋・糸」は、いくつもあり、それらがからみ合っているという感じもします。たとえば、母語である日本語という漠然とした「枠」、これまで自分が体験してきた結果として身に付いていると思われる多種多様な癖や行動の錯綜としたパターン、さまざまなこだわり、何を快と感じ何を不快と感じるかという気まぐれきわまりない好悪の判断などが、頭に浮かびます。
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これまでいくつか開設したどれかのブログの中でも触れましたが、「ネガティブに生きる」というタイトルで、自分にとって初めてのブログを書いていたころから、時折メッセージを送ってくださっている方がいます。仮にHさんとしておきます。先日もメッセージをいただきました。
>「あんた、このごろちょっと落ち着いてきたみたいだけど、もうブログを潰すのだけはお止めなさい。悪い癖よ。試しに "うつせみのあなたに" でも、"うつせみのうつお" でもいいから、キーワードにしてググってみなさい。消えたブログの記事がうようよ出てくるから。きったないったら、ありゃしない」
以上のような、心やさしいお叱りの言葉をちょうだいいたしました。言葉遣いはややきついですが、本当にやさしい方なのです。そのお言葉を読んで、ああ、これも自分の癖、つまり「枠」の一種だなあ、と思い反省いたしました。ただ、ちょっとだけ弁解をさせてください。ブログを削除・閉鎖したさいの自分の精神状態は、かなりせっぱ詰まったものだったのです。
あれは、いわば生贄をささげる儀式であり、あのような行為をしなければ、自死におよんだかもしれないほど精神的に追いつめられていたのです。うつのどん底というやつです。その中での「あがき」というか、癇癪とか、ヒステリーのたぐいだと言えるかもしれません。
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ヒステリーで思い出しましたが、どうやら自分にはヒステリックな性格の人を引き寄せる「筋」のようなものがあるみたいなのです。このブログは、家の者には内緒で書いているので、書いちゃいますが、親も癇癪持ちですが、わけあって一緒に住んでいる人も、かなりヒステリックな面があります。
物心がついたころの遠い記憶の中でも、母はしょっちゅうヒステリーを起こしていました。原因が、こちらにあったことは確かです。夫と別れた後、うじうじした性格で頭のとろい子どもをひとりで育てていたのですから、癇癪も起こるでしょう。
今、「夫と別れた」と書きましたが、実際には、あの男は借金を妻に押し付けて逃げたのです。そんな事情があって、自分が物心がついたときには、母子寮で生活していました。生活保護を受けていたとのことです。母は愚鈍な子を寮母さんに預け、朝から晩まで外で働いていました。この時機になると、夜遅く母子寮に帰ってくる母を待っていた自分が、寒い冬の宿直室で寮母さんと向かい合って火鉢に手をかざしていた記憶がよみがえってきます。
三人くらいいた寮母さんたちは、交代で寮に泊まっていましたから、子を預けっぱなしでどんなに遅く帰っても、心配は要らなかったようなのです。でも、当時の働く女性たちのほとんどがそうであったように、薄給での長期勤務は当たり前。母にとっては、さぞかし、苦しく、つらかった毎日だっただろうと思います。
だから、母のヒステリーを責めるわけにはまいりません。一種の甘えだったのでしょう、自分が母をわざと怒らせたことが頻繁にあったのを覚えています。それにしても、怖かった。母はものすごいヒステリーを起すのです。
「○○ちゃん、きのうの晩、お母さんがヒスを起したでしょう。こっちまで、声が聞こえたよ」
何度か、「おばちゃん」たち、つまり同じ寮に住むほかの家族のお母さんたちから、翌日に言われたものです。母子寮は「コ」の字形の大きな建物の中に保育園と「同居」していて、「コ」の真ん中が中庭、縦の線が渡り廊下だけの棟で、向かい合わせの二棟に分かれていました。「こっちまで、声が聞こえたよ」という上の言葉は、たいてい、向かい側の棟にある部屋に住むおばちゃんたちの口から出てきたものでした。
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すごいヒステリーだったということが、お分かりいただけたでしょうか。また、ヒスを浴びていたのが、すごい悪がきだったということも、お分かりいただけたでしょうか。
この種の話は、トラウマだの児童虐待だのといった物語に流れ還元されがちです。そうしたステレオタイプ化された話を聞かされることは、当事者にとっては、決して気持ちのいいものではありません。少なくとも、自分にはそう思えます。人によって違いはあるでしょうが、自分の場合には、過去の体験をそうした物語に置き換えても、何ひとついいことはありません。癒やされもしません。
自分にとって、今、関心のあるのは、過去の体験の断片や、過去の体験について自分がたぶん恣意(しい)的にいだいているイメージが、「枠・縄・筋・糸」となっているのではないかという点に絞られます。
枠は囲む。縄は縛る。筋は通る。糸はつながる。いずれも、ヒトを規制し、支え、支配し、導くものとして、働きかけるもののように思えます。その仕組みに興味があります。「枠」をずらすと称して、奇妙な日本語で言葉をつづりながら思考してみる。そんなとちくるったことをしていたのも、そうした関心からくる試みなのです。
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「枠・縄・筋・糸」といった言葉とイメージについて、このところ、ずっと考えているのですが、そのさいに思いが自分の遠い過去の記憶へと向かっていくのを強く意識します。思うままに書きつづり、考えを進めていくうちに、つい個人的な話になってしまいました。
上記のような私小説的なお話は書かずにおく手もあるでしょうが、きょうは、あえて書いてみようと欲する心向きに逆らうことなく、素直に従いました。暗い話になって、ごめんなさい。個人的な話になったついでにぶちまけるというわけでもないのですが、さきほど触れた「どうやら自分にはヒステリックな性格の人を引き寄せる「筋」のようなものがある」という点を、もう少し具体的に書き考えてみたい気になりました。
母も自分も交際が薄い性質の人間です。他人やほかの家族と親しく交わるということは、物心ついて以来、経験したことがありません。たとえば、母子寮で暮らしていた時期を思い起こしても、同じ屋根の下で住んでいるのは確かなのですが、ほかの寮生たち(※母子寮に住む家族たち)との間で一線を越えることはありませんでした。どこか孤立したところのある母子だという印象を、ほかの人たちに与えていたのではないかと想像しています。
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自分がいわゆる思春期をへて何年か経ったころの話に飛びます。
親から精神的にも物理的にも離れた生活をするようになり、友達とか親友と呼べる人とめぐり会うことなく生きてきた中で、まれに突如として、「一線を越えた」付き合いをするようになる人があらわれることがありました。この辺の事情については、ぼかした書き方をさせていただきますが、端的に言えば「一緒に暮らす」という意味です。
その相手がどういうわけか、決まってヒステリックな人なのです。なぜか、そういう人を引き寄せてしまう、あるいは、こちらが引き付けられてしまうのです。不思議です。わけがわかりません。気が付くとそうなっている。そんな感じだとしか言いようがありません。
運命、宿命、定めといった、手垢の付いた言葉や物語も頭に浮かびますが、実際問題として、そんな作り話はどうでもいいです。「そうなっていること」の大きさに比べれば、言葉や物語やイメージなんて小さなものです。ただ、ヒトはそうした小さなものを相手にするしかありません。
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ヒトは分けます。切り分けます。それは、自らが小さいために、おのれに合わせて小さく分けているだけだ。そう思います。その「分ける」さいの道具が、「枠・縄・筋・糸」なのだと言えそうな気もします。「分ける」「切り分ける」かに見えて、実際には「枠・縄・筋・糸」で「くくる」「囲う」「境目をつける」「線引きする」だけなのかもしれないとも思います。
とはいえ、ヒトの「線引き」や「縄張り」が、この惑星のほかの生き物たちの生態にまで大きな影響を与えている。そして、ついには「自然」や「環境」と呼ばれている、ひとつの「生き物」としてのこの惑星自体の「生態」にまで多大な危害を及ぼそうとしているのです。
きな臭いとか生臭いという気持ちは、自分の場合、ふつうヒト同士の争いで感じる個人的な思いなのですが、事態はヒト同士どころか、この星レベルにまで及んでいるようです。この数日間にわたってテレビのニュースや新聞で大きく報道されていた国際会議がありました。その報道を見聞きしていると、この惑星にとって、きわめてきな臭く生臭い事態が進行しつつあると思えてなりません。
つまり、この惑星を事実上掌握しているヒトとその子どもたちにまで及ぶ危機が進行しつつあり、やがては自らの破滅に至る事態が迫っているということにほかなりません。あの会議場の様子を、映像としてご覧になりましたか。やはり、きな臭いですね。会議場の外で叫んでいる人たちの映像も、きな臭いものでした。悲しいです。
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今回はあちこちと話が飛び、いつものトリトメのない文章に輪をかけた、まったくもってトリトメのない記事になってしまいました。肩がぱんぱんに凝ってきたので、この辺で失礼します。上で引用したHさんのお言葉を有り難く受け止め、それに従いたいと思います。
頑張らない。そこそこにして、作業はやめておこう。
足元にいたネコを抱き上げ、膝の上にのせました。お腹の部分がとても温かいです。ということは、ネコにとっては冷たいということか。ごめんね……。もう少ししたら、PCの電源を落とそうと思います。
※この記事は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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