日本語にないものは日本にない?(2)
星野廉
2020/09/22 13:22
前回の最後のほうで書いたように、「日本語にないものは日本にないのか」という問いは比喩とお考えください。比喩とは、ある言葉やフレーズやイメージを「ずらす」「言い換える」「ほかのものにこじつける」ことにほかなりません。では、「日本語にないものは日本にないのか」とは、どんな言葉やフレーズやイメージを「ずらしたもの」なのでしょう。
ここで、妙なことが起きます。図式化して説明しますと、「A→B」と「ずらした=言い換えた=こじつけた」とします。これって、「B→A」と大差がないと言えるような気がしませんか。妙というより当たり前のことなのかもしれません。論理的思考に欠陥がある、この駄文を書いている者には、どう受けとめていいのか分からないのですが、そんなふうに思えます。
何を言いたいのかと申しますと、「日本語にないものは日本にないのか」という問いは比喩とみなし、いろいろな問いに「こじつけて=化けさせて」、ああでもないこうでもない、ああでもあるこうでもあるをやりたい、ただそれだけなのです。
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では、まずご本尊からまいります。「日本語にないものは日本にないのか」を文字通り取ってみましょう。前回の記事で、うろ覚えのことだと断ったうえでご紹介した「説=お話=与太話」を、再度うろ覚えだということをお断りしたうえで取り上げてみます。つまり、「『社会』という『言葉』が日本語にない」と「『社会』という『もの』が日本にない」とが両立するという作り話です。
前言撤回します。やっぱり「うろ覚え」は「無し」でいきます。作り話とはいえ、あまりにも、馬鹿らしいからです。そんなことは読んだことがなかったことにします。ひょっとしてそういう意味のことを本気で書いていたヒトがいたとするなら、それを「馬鹿らしい」とか「アホちゃうか」などと述べれば名誉毀損になりそうだからです。
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というわけで、話を振り出しに戻します。
単純化すると、「日本語にない『社会』という『もの』は日本にはない」、あるいは、「日本語にない『社会』という『もの』は日本にはなかった」という馬鹿話を、今思いつきましたので、検証してみましょう。答えはすぐに出ます。検証不可能です。日本語に「社会」という言葉が存在したかどうかは、言葉の専門家の方が文献をお調べになれば、いつ、どの文献で初めて使われたかぐらいは、検証できると思われます。問題は、「社会」という「もの」の存在です。
日本に「社会」という「もの」が存在するかどうかは検証不可能です。テクニカルな面から考えてみましょう。英語の society と、たとえばドイツ語、フランス語、イタリア語、ロシア語あたりの、それに相当する単語が、明治維新以前に存在したと確認できたなら、その意味を当時の辞書で調べるか、当時の文献で使われ方を調べる。これは可能だと思われます。ついでに、現在の辞書での語義や使用例を調べてみるのもおもしろいでしょう。
次に、日本語の文献や辞書で「社会」という言葉について、上と同様の手続きで、意味と使われ方を調べます。ここまではいいでしょう。それからが大変です。欧米での「社会」に相当する語義の対応物(※単数とは限りません)、および、日本語としての「社会」という語の語義の対応物(※単数とは限りません)が、日本に「存在していたか」、および「存在しているか」どうかを検証するのです。言うのは簡単ですが、そんなことが実行できますか。
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ぶっちゃけた話が、欧米でも「社会」(※単数とは限りません)が明治維新の、そうですねえ、ほぼ50年前に「存在していた」か、そして現在「存在しているか」を検証するだけでも、「難事・ほぼ不可能・いや、やっぱり不可能」だと思いませんか。「社会」はいわゆる抽象的な言葉です。見たり、触ったり、ハンマーで叩いたり壊したりできない「もの」です。そんな曖昧模糊とした「もの」の存在を、「検証する」などという、いかにも学問ぽい高級な(※もちろん、アイロニーです)言葉で処理できるはずはありません。
屁理屈という言葉がありますが、今、述べたのは屁理屈と言われるにちがいありません。これまでの経験から考えると、屁理屈というのは、どうにも反論できない理屈に対する悪態=罵倒です。論破できない理屈に、白旗を掲げているのに等しいとも言えるでしょう。つまり、どうにも相手にできないから、反論を放棄するのです。
屁理屈もただの理屈も別に偉いものでも、立派なものでも、正しいものでもありません。屁理屈もただの理屈も、単に言葉を連ねただけのフレーズであり、「説=お話=作り話=でたらめ=ガセ」にほかなりません。屁理屈やただの理屈を言い換えるとすれば、「道理・筋道・論理」(※漢語系の言葉ですね)や、「ことわり・事割り・理・断り・いいわけ・もうしわけ・わけること」(※やまとことば系の言葉ですね)という言葉たちが、あたまに浮かびます。今挙げた言葉たちって何ですか?
上記の言葉たちを別の言葉たちに言い換えるのではなく、いったいどんな「もの」、あるいは「こと」なのかが「分かっている・体感できている」ヒトはいるのでしょうか。辞書や哲学事典に、上記の言葉たちの説明が載っているでしょうが、それは「言葉」です。今問題にしているのは、「それらの言葉によって、五感が反応するか」という点です。あるいは、「それらの言葉が、ヒトという生体=生き物にどう働きかけるか」という点です。
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ややこしくなってきましたので、話をうんと単純化してみます。「社会」というような抽象語を、ヒトは情報のデータとして処理できない。それだけのことです。なぜ、そうなっているのでしょう。
言葉=語は、その語義に対応する「もの」があるという前提で、ヒトは言葉=語を使って、言語活動(※つまり、言葉=語を組み合わせて、ひとりでつぶやく、あるいはほかのヒトたちとやり取りするくらいの意味です)を行っていると考えられます。
問題なのは「対応する」です。あっさり見逃してしまいがちですが、正直申しまして、きわめて「不明確=テキトー=でまかせ=でたらめ」な意味=イメージを喚起する言葉です。たとえば、「AとBが対応する」と言うとき、どんなイメージあるいは意味を思い浮かべになりますか。
個人的には、「A→B」、「A←B」、「A⇔B」、「A=B」、「A≒B」なんて感じです。要するに、「AとBの間に何らかの関係性がある」と言い換えられるのではないでしょうか。
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ここで話を止めて、これまで書いてきたことを振り返ってみます。書きながら考えるというやり方で、この記事を書いていますので、ここまでどんなことを書いてきたのか、ちょっと気になるのです。
たった今、ざっと読み返しましたが、あれーっつ、という感じです。ご本尊である「日本語にないものは日本にないのか」を文字通り取るという意味のことを、冒頭近くで書いておきながら、いつの間にか、「言葉」と「もの」との「関係性」に話が流れてきました。
これでいいのです。「論理的に展開する」とか、「筋道を立てる」とか、「道理をはずさない」とかいう、もっともらしい「流れ」にはなっていないみたいです。安心しました。今、挙げた3つのフレーズは、自分にとっては「世の悪しき習慣」とでも呼ぶべき「流れ」なのです。
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いつの間にか「言葉」と「もの」との「関係性」という、これまたきわめて「不明確=テキトー=でまかせ=でたらめ」な意味=イメージに話が移ったという事態を歓迎しましょう。ここでお断りしておきますが、「不明確=テキトー=でまかせ=でたらめ」とは、全然悪いことでも、恥ずかしいことでも、忌むべきことでもありません。まして、あってはならないことでもありません。
「言葉=語=言語」という「代理・かわり・代わり・すり替え・かたり・語り・騙り・ことわり・事割り」の仕組みを用いる以上、「不明確=テキトー=でまかせ=でたらめ」は当然のことなのです。さもなければ、言葉をめぐってヒトが、毎日振り回され、もてあそばれ、混乱し、争い、場合によっては血を流し合い、その挙句には他者あるいは己をあやめるなんていう事態が常態化しているわけがありません。
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とりあえず、ここで話をまとめるという、きわめて事務的で官僚的な操作をさせていただきます。どうか、おゆるしください。それが、いちばん、ヒトにとって妥当なやり方のようなのです。
さて、「日本語にないものは日本にないのか」という比喩としての問いは、比喩であるという属性の必然として、いろいろなバリエーションに「化けさせる」ことができます。たとえば、今回は、紆余曲折をへて、「言葉」と「もの」との「関係性」という物語にたどり着きました。
とはいえ、大切なことは、たどり着いた「ところ=場」ではありません。そこに着き、留まり、静止し、落ち着くことが目的で、この記事は書かれていません。そのように読むヒトがいても、それはそのヒトの好みですから、とやかく申しません。ただ、こちらの好みを申し上げますと、「過程=プロセス=道中=途中経過=旅の途中の光景」という「動き=疾走感=あれよあれよ」が大切なのです。
「途中=まとめに至るまで」が大切だという「到着点=まとめ」。簡単に申しますと、そんな感じです。
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言葉は、ヒトに動きを喚起します。沈思黙考とか瞑想なんていっても、「あたま」の中は、ごちゃごちゃぐちゃぐちゃ、あれよあれよ、きょろきょろ、うろうろなんて感じではないでしょうか。いきなり、「脳」という言葉を使った話になりますが、脳ではいろんな筋や糸や道がからみ合っているらしい、という誰も見たことのない「お話=説=ガセ」があります。要するに、ぐちゃぐちゃということでしょうか。
その「あたま・脳」の中のイメージを「あたま・脳」の中でいろいろ描いて楽しんでみましょう。そのさいには、間違っても、「正しい」とか、「科学的」とか、「医学的とか」、「実際には」とかいう、抽象的な言葉にまどわされないように気をつけましょう。それは、言葉です。欠陥品です。「対応」なんて嘘ですから、対応する「もの」なんか探しても無駄です。もっとも、その無駄が、これまたおもしろいのですけど、あくまでも「お話」として楽しみましょう。
それより、むしろ、言葉が喚起する「でたらめ」としか思えないようなイメージに身を任せるとか、言葉によって何やらわけが分からない状態になったら、いったん言葉はさしおいて、そのときの気分に身を任せて、あたまを含めたからだを使って五感を働かせてみるほうが、よほどスリリングだと思います。
言葉に身を任せる。言葉に身を負かせる。言葉に身を負けさせる。そんな感じです。大切なのは「み・身・身体・からだ」です。たとえば、「社会」という言葉の対応物をさがすことは、言葉に身を任せる行為ではありません。「社会」という言葉で、「からだ・五感」が反応しなかったら、それは「社会」という言葉が単なる言葉で、対応物など存在しないと考えるべきです。
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「社会」という言葉の対応物をあたまで「分かった・理解した」と思い込むことはできます。ふつう、ヒトはそれこそが「分かる・理解する」だというふうに「決めています」。「決めている」だけです。そのようにヒトが「決める」行為を「抽象」と呼んでみましょう。
「抽象」は「からだ・五感・身」とは無縁の行為です。同時に、きわめてヒト的な行為でもあります。その意味では、ヒトである限り決して免れない「枠」だとも言えます。その「枠」を意識するかどうか。
「社会」という言葉を見聞きして、その対応物を「とらえた」と思った瞬間、ヒトは抽象という「枠・わな」にはまります。「社会」という言葉を見聞きして、「ん?」と感じた=わけが分からなくなったとき、ヒトは対応物の不在を体感します。でも、格好が悪いし、危うそうだし、ほかのヒトたちから馬鹿だと言われそうだと思い、その体感を放棄し、「分かった」ことに「します=決めます」。でも、その「分かった」は「分かったと思い込んだ」というのが正確な言い方でしょう。
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まとめるなんて書いておきながら、最後に来てまたうろうろしました。これって、いちおう「戦略=たくらみ」だったのですが、うろうろにお付き合いくださり揺らいでいただけましたか。「ああ、馬鹿らしい」とか、「こいつ、やっぱり、とちくるっているわ」などと、お思いいただけたなら本望です。
決して、皮肉で申しているわけではございません。それで、いいのです。そうお考えになるのが当然なのです。分かっていただけるでしょうか。「わざと」を「本気で」やっているだけなのです。あくまでも「わざと」、あくまでも「本気で」です。
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今回は、主に抽象語に対し悪態をつきました。次回は、具体語・具象語を罵倒しようと思います。
ここまで辛抱強くお付き合いくださった、心やさしい方々に感謝いたします。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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