目は差別する
げんすけ
2020/07/14 08:34
「見る」「聞く」という知覚をキーワードにして、言葉について思うところを書いています。誰もが毎日体験している知覚です。視覚や聴覚に障害を持った方も、程度の差はあれ、「見る」「聞く」という動作を日々の現実の一部として生きています。
視力や聴力を、完全に失った人はまれだと聞いたことがあります。完全な「闇の世界」、完全な「沈黙の世界」というのは、まれだというのです。視力を失った人の場合には、明暗や、空気の温かさと冷たさを感じ取ることが「視力」となり得るそうです。また、聴力を失った人にとっては、手足を始めとする体に感じる振動や、空気の揺れ・流れという形での「聴力」が備わっている。そんな話を思い出します。
後者の場合は、中途難聴者である自分にはよく分かります。ドスンとか、バターンという大きな音を、足元や手元にある物の揺れとして感じ取ることが実際にあります。このように障害というものは、たとえば聴力においては、「聞こえる」対「聞こえない」という白黒の区別がはっきりつくものではありません。濃淡というグラデーションのイメージが現実に近い気がします。つまり、その濃淡は各人で異なるのです。各人がそれぞれのグレーの世界に生きている。そんなふうに感じられます。
要するに、
*「見る」も「聞く」も、いわゆる「健常者」の特権などでは断じてない、
ということです。
冒頭で「程度の差はあれ」と書いたのは、そうした意味です。他意はありません。そのことに、自分は敏感でありたい、そしてほかの方々も敏感であってほしいと思っています。
*
日常的な動作であればあるほど、慣れ親しみすぎて感じ取れなくなってしまっている。ということが、人には案外あるものです。たとえば、「見えているはず」なのに「見えない」。または、「見ようとしていない」。「聞こえている」のが現実なのに「聞こえていない」か、「聞いていない」。そんなことが自分には気になって仕方ありません。
ここで、一般論をさせていただきます。多種多様なマイノリティーを無視した、残酷で粗雑な話になりますが、どうかお許しを願います。
うつで苦しい時などに自分がついついやってしまう、ある「遊び」があります。それをやっていると、子ども時代に戻ったような心持ちになり気がまぎれるのです。
大したことではありません。虫眼鏡を使って身の回りのさまざまなものを見る。それだけのことです。
パソコンのそばに、虫眼鏡が一枚あります。恥ずかしいながら、虫眼鏡を「枚」や「面」で数えることを、たった今、ある辞書を引いて知りました。まあ、どうでもいいことですけど――。虫眼鏡を一個、一つと数える人がいても、その人の勝手です。言葉に関しては、辞書や世間のルールに振り回されたり縛られたりしたくはありません。
辞書といえば、辞書は好きで、よく読みます。引くというより、読むことのほうが多いかもしれません。各語の成り立ちや定義を知るためなどいう、格好をつけた言い方はしたくはありません。ズバリ言って、だじゃれのネタ探しのためです。で、虫眼鏡について今引いたのは「かぞえ方」の載っている便利で小型の辞書です。
*
さて、虫眼鏡ですが、細かい字の辞書を引いて必要な個所を「読む」以外に、「見る」ためにも使っています。
たった今、愛用の虫眼鏡のレンズの直径を測ってみましたが、4.5 センチきっかりです。小学校時代、いや保育園に通っていたころから、家にあったような気がします。レンズの枠や柄は青のプラスチック製ですが、もう古ぼけて色がくすんで見えます。でも、レンズ自体は劣化してはいません。愛着があって今でも使っています。
一時活字のデザイナーになりたいと思ったことがあります。大学を卒業して最初の就職に失敗し、ぶらぶらしていたころです。活字を製作している会社で、短期間アルバイトをしたり、東京の六本木という所にあった、こぢんまりとしたグラフィックデザイン専門の塾に籍を置いたこともあります。どちらも長続きしませんでしたが。
上で「活字」と書きましたが、正確には、活版印刷で使う「母型(ぼけい)」と呼ばれる金属製の型のことで、これを鋳造(ちゅうぞう)して活字を作るのです。今も、そうした印刷の方法が行われているのかは知りません。
もしも手元に虫眼鏡があれば、辞書でなくてもかまいませんから、文字を拡大してじっと眺めてみてください。
上で挙げたくらいの小ぶりの虫眼鏡で十分です。というか、それくらいの小ささのものが、文字を拡大して「見る遊び」には適しています。個人的な趣味というか、一種の暇つぶしでやっていることですから、みなさんが楽しめるという保証はまったくないのですが、自分とっては不思議な気持ちを味わらせてくれる密かな慰みです。
文字が、意味を持つ音声としての言葉(=声に出す言葉)の代理であることをやめて、形そのものに見えてくる。
活字が、書道で書くさいに経験する文字のように見えてくる。
そんな感じです。
*
書道を、思い浮かべてみてください。筆で書かれた大きな文字を、頭の中で描いてみましょう。あるいは、近くに書(しょ)の現物や印刷されたお手本があれば、ぜひ取り出して見てください。虫眼鏡ではなく、裸眼で見つめてください。
毛筆独特の柔らかさと勢いや、刻印された筆圧だけでなく、書いた人の息づかいや上手下手、あるいは性格まで感じ取れるような気がしてきます。
文字というより、絵という気がしてきませんか?
自ら筆を使い、墨で文字を書いたときのことも、思い出してみましょう。緊張しながら何度も練習したり、お手本を見つめているうちに、
*文字が文字でなくってくる
ような不思議な感覚がしたという記憶はありませんか?
もし、したとすれば、それなのです。
きょう、お話ししたいのは、その感覚なのです。
*
自分の場合、虫眼鏡を使って拡大して眺めているのは、文字だけではありません。写真も、いいです。写真でもいいではなく、写真もいいです。実にいいです。
写真を虫眼鏡で拡大して見ると、文字よりも強烈なイメージや、思わぬ発見があるので、抑うつ状態が激しいときには、自分は避けます。体が震えるほどの、衝撃を覚えることすらあります。誇張や嘘ではありません。ぜひ試していただきたいです。
見慣れた写真に思いがけないものが映っているのを発見する、という興味本位の驚きもあります。ただ、きょう、ここで問題にしたいのは、そうした驚きではありません。
何が映っているかは知っている、と高をくくっている自分が見逃していた「何か別の被写体の発見」ではなく、「見て知っているはずのもの」の拡大された細部に「確かに見たことはあるものの思いがけないもの」を見て、はっとするのです。不意打ちをくらう、という感じでしょうか。
*
話を、少し変えます。
プリントされた(※印画紙に焼き付けられた)写真ではなく、新聞に載っている印刷された写真を拡大してみましょう。雑誌の場合には、画質がかなり向上してきていますから、ぜひ紙質も画質も悪い新聞の写真で試してみましょう。カラーではなく、なるべくざらついた感じの解像度が悪そうな白黒写真を選んでください。
拡大してよく見れば分かりますが、画像は細かな点から成り立っています。質の悪い紙にぽつぽつと並ぶ点の集まり――。自分の場合には、画像の細部を拡大して眺めていると、ある一連の言葉やイメージが頭に浮かぶことがあります。
異形(いぎょう)、醜さ、奇形(=畸形=畸型)、気味が悪い、気持ち悪い
そうした「差別語」と理解されても言い訳ができそうもない、言葉やイメージを連想してしまうのです。上に並べた言葉たちを見て不快な思いを抱かれた方に、心よりお詫び申し上げます。
新聞の白黒写真を拡大して細部を見るという「遊び」をしていて、きれいだとか美しいと感じることも時にはあることを、書き添えておきます。とはいえ、やはり、そう思うことは少ないです。ネガティブな印象のほうが多いのは、ひょっとすると個人的な傾向なのかもしれません。
何しろ、こうした密かな「趣味」=「遊び」をひとさまに打ち明けるのは、これが初めてです。自分以外の人が、どう感じるかは見当がつきません。そう考えると、私小説的か身辺雑記的な随筆のように、ごく個人的な経験を書いていることになります。この記事をお読みになっている方に、上記の 「不思議な感覚」が伝わったかどうかは、まったく自信がありません。
いずれにせよ、そうした不思議な感覚を前提にして、強く訴えたいことがあります。
*目は差別する
のです。
*
きょうの記事で書こうとしているのは、いわゆる「差別語」の差別とは重なる部分もありますが、少し違います。
区別する、という言葉があることは、十分承知しています。でも、「差」という漢字に、徹底してこだわりたいのです。
差異、誤差の「差」です。「さ」 は音読み、つまり漢語です。昔々、支配者や知識階級や帰化人が用いていた書き言葉から来ています。
一方、「違う」の「ちがう」は訓読み、つまり大和言葉です。上で書いた 「昔々」以前から、この列島に住み着いていた人たち (※断じて単一民族などではありません)のうちの一部が話していた言語(※複数の方言や異言語があったらしいです)から来ています。
「差」と「ちがう」という語たちが、列島のあちこちで長年にわたって、他の言語や言葉のかけらとくっ付いたり離れたりしながら、現在に至って辞書に収められもし、文字として書かれもし、活字として印刷されて流通もし、人びとの口を通して話され(=放され)もしているのです。
言葉を用いるとは、「差」・「別」することです。「ちがい」 を意識化し、顕在化する行為です。
「AとBとの違い(=差異)」をみとめ(=認め・見留め)、あるいは聞き取る。そして、それを口にし、または文字にする。
「AとB」などと、何げなく書きましたが、「Aそのもの」と「Bそのもの」(※つまり、「実体」や「概念」という大問題です)にこだわるだけの余裕は、きょうはありません。ここでは、素知らぬ顔をしてすっとぼけるだけに、とどめておきます。こういう卑怯な態度を、「抽象化」とか、「一般化」と言います。「抽象化」や「一般化」という作業の「虚構性」=「嘘であること」については、いつかこのブログで書いてみるつもりです。
と、大見得を切ったものの、「頑張らない」が、このブログのスタンスのひとつなので、長い目で見てくだされば幸いです。
目は残酷です。もちろん、耳にも残酷さが備わっていますが、きょうは耳は扱いません。ただ、いくつか例を挙げるとするなら、声の良し悪しや、方言・訛り、おならの音などです。特に、訛り・発音の違いに関しては、英国ではほかの国では考えられないような「残酷さ」が存在すると聞きます。
*
目に話を戻します。
じろじろ見る。じっと見つめる。
物心のつき始めた子どもの目が、一番残酷かもしれません。大人の不躾(ぶしつけ)な凝視は、残酷には違いないものの、ある種のずるさと計算が含まれていて、実に嫌なものです。
子どもの目の残酷さについて、想像してみましょう。見慣れないものをじっと見つめる。幼いほど、悪気はないのです。でも、ヒトの子です。すでに、大人の目の萌芽がちらつきます。「賢い」と言われる子ほど、そうです。
*障害、形、美醜、階級、所得差、人種・民族……
といった「差異=違い」を、残酷な目がとらえるさまを思い浮かべてください。難しく言うと、今挙げたのは具体的な「もの自体」が、目という知覚器官を介して転じた抽象的な「概念」を表す言葉ばかりです。
具体的なもの自体は、あえて列挙しません。というか、列挙できません。あまりにも、差別的な言葉の羅列になってしまいます。悲しくなります。必要以上に、読む人たちの心を傷つけてしまいます。だから、想像してください。
たとえば、「○色の肌を持つ人は△だ」――という具合に。
「もの」が「意味」あるいは「概念」に転じるのは、その目の瞳、その奥にある網膜、そこに並ぶ多数の細胞、神経線維(せんい)、さらには、大脳皮質で、ほとんど瞬間的に「知覚」という現象が起こっているからです。
簡単に言えば、これが「ヒト(※このブログでは、しばしば「狂ったサル」とも呼びます)であるということ」= human being なのです。たった今、視覚を特権化したうえで一般化し、「これがヒトであるということ」だという表現を用いたことについては、視覚に障害を持った方々に対しお詫びを申し上げます。
言うまでもなく、今論じているのは、「そうではない人たち(※視覚を論じる場合には、見ることができない人たち)」を排除した「一般論」です。一般論とは、ある線引きをし、その線から外れた物や者を選り分けて排除することです。でも言葉を用いる以上、「選別と排除」から免れることはできません。致し方ありません。
*
で、繰り返しますが、
*目は差別します。
当たり前のことだと、おっしゃる気持ちは分かります。でも、ここで、ちょっとだけ遊んでみませんか?
虫眼鏡を用意してください。新聞や雑誌の文字でも、写真でも構いません。拡大して、じっとご覧になってみてください。「知っているはずのもの」「分かっているはずのもの」が、そうでなくなります。不思議です。このような、休日のひとときの過ごし方、あるいは暇のつぶし方もあっても、いいのはないでしょうか。
そのさいには、差別という抽象的な言葉やイメージは忘れてください。忘れていいのです。さもないと、「見えるものも見えなくなります」から。意味や概念や抽象から、たまには離れる努力(※いや、遊び)をしてみませんか。
要領は、上述の、書道で経験する、「文字が文字でなくなる瞬間」に立ちあうことです。文字の代わりに、何らかの被写体を映した写真であっても構いません。
*「『何か』が『何か』でなくなる瞬間」
を意識的に体験してみませんか?
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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