揺さぶり、ずらし、考える

星野廉

2020/09/25 07:54


 日本語は、話し言葉や書き言葉に関して言えば、規制がゆるやかな言葉だと言われています。話し言葉の場合には、まず、たくさんの方言があります。また、世代間の違いも顕著です。一方で、話し言葉と書き言葉の両方について、「日本語の乱れ」とか「最近の日本語は乱れている」という手垢のついたフレーズが、これまでにおびただしい数の人たちによって、口にされ、または書かれてきました。うんざります。これからも、そうでしょう。


 自分は、その種の話題をテレビや新聞で見聞きすると、画面から目をそむけるか、記事を無視します。「乱れ」とは、悪態です。自分の育った環境で経験したもの以外のものを認めない、自分にとって快でない異物は「異形(いぎょう)」のものと断じるという姿勢ですから、こちらとしても相手にしないのが最良の選択です。わめかせておけばいいのです。


 あえて、反論させていただくなら、次のように言いたいです。どの時代においても、言葉は変わる。言葉は、特定の人たちの占有物ではない。天は言葉の上に言葉を造らず、言葉の下に言葉を造らず。乱れていない言葉って何? そういう、あんた、つかってんの? という具合に、反論もまた、つい悪態に転じてしまいます。みっともないですね。


 書き言葉について言うと、日本語での表記の基準はきわめて曖昧です。いちばん厳しい基準を設けているのが、フランス語だと聞いたことがあります。国家が、積極的というか、半ば強権的に介入しているのです。「これはフランス語と認定するが、そっちのやつはフランス語じゃない」みたいにです。ドイツ語にも、厳格な正書法があるらしいです。ただし、最近というか、世紀の変わり目に大きな改定が行われて、以前よりは使い勝手がよくなったという話を聞いたことがあります。英語の正書法は、比較的ゆるやかなのではないでしょうか。世界で広く用いられているからでしょうか。


 すごく簡単な例を挙げると、英国では、Mr であったり、programme であるものが、米国では Mr.や、program となりますね。スペリングの問題ではないので、詳しいことは、「正書法」または「正字法」をキーワードにして、グーグルなどで検索なさってください。今思い出しましたが、インターネット上の英語で書かれたブログを読んでいて、一人称の I が、i、二人称の you が、u とつづられているのを目にされた方も、多いかと思います。母語ではありませんが、個人的には、結構なことだと喜んでおります。


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 そんなスタンスでブログを書いている者ですから、ネット上で見かける、さまざまな日本語のつづり方を目にすると、わくわくします。顔文字やアスキーアートも、自分ではつかいませんが、というか作成法を知りませんが、ほほ笑ましいと思います。話は少しずれますが、中学生のころに、町中やテレビや新聞で見かける、いわゆる和製英語や、不正確な英語表現やスペリングについて、批判的な意見を吐く人たちの怒った様子を見て、「あほちゃうか」と感じたのを思い出しました。


 自分は、ああいうものは、言葉というより、絵や模様やデザインの一種だとみなしていたからです。デザインした人が、格好いいとか、きれいだとか、しゃれていると思っているのなら、それでいいじゃない。そんなふうに、思っていました。


 百歩か何歩か知りませんが譲って、英語を解する外国人向けの標識での誤記であったとしても、それが通じなかったり、誤解されても、何の不都合もないのではないか。言葉というのは、通じるよりも通じないことのほうが、ふつうなのではないか。おかしいと感じたら、知恵を働かせて自分で解決すればいい。間違った表記や表現でも、状況を敏感に察知すれば、何となく意味は分かるのと、ちゃうか。たぶん、生死にかかわるような話じゃないだろう。漠然とですが、そんなふうに考えていました。英語を習うようになって、世界にはいろんな英語があると知ってからは、いわゆる「正しくない英語」に対する抵抗感は、皆無に近いものになりました。


 言葉が通じないところを旅するさいには、言葉にかぎらず、身ぶり手ぶりなどをつかうのも、知恵であり、楽しみではないか、とも思っています。旅行にかぎらず、日常生活においても、文字、あるいは話し言葉だけに頼るのは、ちょっと芸がなさすぎるように感じます。中途難聴者だから、よけいに、そう感じるのかもしれません。


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 思えば、幼いころから、とろくて鈍いところがありました。早い時期から、へそも曲がっていました。勘違い、外れた思い込み、間違い、誤解、曲解、どじ、あるいは「確信犯的」へま、の多い毎日を送ってきました。今でも、そうです。特に、中途難聴に見舞われ、徐々に聴力が低下していますから、聞こえの悪さが原因のトラブルには事欠きません。でも、何とか、ない知恵を絞って、こうじゃないかな、ああじゃないかなあ、という具合に生活しています。重大なトラブルでなければ、楽しむように心がけてもいます。聞き間違いを思い出して、あとで、自室でひとりで大笑いなんて、しょっちゅうです。


 さて、前回の「「外国語」で書くこと」という記事の冒頭で、<「母語」の中で「外国語」で書くこと>、と書きました。そのフレーズにある「外国語」とは、広く取れば、ひとりひとりが話したり書いている「母語」のことではないかと、きのう記事を投稿したのちに、ふと思いました。その記事の中では、「うつせみのたわごと」という連載でつづっていた、あやしげな日本語を指していたのですが、あれは意識的にできるかぎり大和言葉系の語をもちいて書くという「実験=企て=ひとりよがりの愚行」でしたから、日本語をベースにした人工的な言語とも言えないことはありません。その意味では、「外国語」(※括弧つきです)であり、「あやしげな日本語」でしょう。


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 でも、「あやしげではない日本語 or きちんとした日本語 or 標準的な日本語 or 正しい日本語 or 美しい日本語 or 乱れていない日本語」なんて、あるのでしょうか。ない、と思います。と言うか、人それぞれの「日本語」=「抽象的な『日本語』(※括弧つきであることに注目してください、確たるものはないという意味です)の中にある『外国語』」(※括弧つきであることに注目してください、比喩です)」がある、としか言えないと思います。


 誰もが「外国語」を話したり書いている、とも言えます。日本語に限らず、どんな言語においてもです。どの言語も、つねにずれつつあり、揺らいでいます。個人のレベルで、誰もが、移り変わりつつある、いわゆる「標準語」から外れた言葉を話し、書いてもいる。そんな感じです。ずれの中でずれている、とも言えそうです。


 文体という言葉があります。曖昧で嘘くさい言葉です。です・ます調、だ・である調、口語体、文語体、漢文脈、和文脈など、主に、語の選択を基準にした呼び名があります。名文、悪文、美文、翻訳調という、自分の好みを基準にした褒め言葉や罵倒もあります。さらに、○○さんらしい文体という言い方もありますね。


 何とでも呼ぶのはけっこうというか、その人の勝手です。しかし、「正しい対正しくない」とか「美しい対美しくない」とか「分かりやすい対分かりにくい」という線引きの仕方で、ひとさまの文章のつづり方を批判するのは、はしたないし、説得力がない。また、ひとさまの書き方を、自分に合わせさせようという意味にとれる主張は、身勝手すぎる。そんなふうに思います。


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 人はつねに変わりつつある存在だ。人はTPOに応じて、さまざまな自分を演じる。という前提で話を進めるなら、人は文章の書き方や話し方を、時と所と場合しだいで、使い分けると言えるのではないでしょうか。確かに、その人なりの癖というものはあります。でも、言葉を使い分ける、あるいは、異なる役目を演じ分けるというのは、誰もが日常的に経験していることではないかと思います。


 で、たとえば、ある人がAさんに話しかけるさいには、ある話し方をする。Bさんに対しては異なった話し方になる。AさんとBさんの両方を前にすると、また、微妙に違った口調となる。こんなことは、ざらにあるのではないでしょうか。書き方も同様だと考えられます。そうした、具体的な、日常的レベルでの言葉の使い方の総体が、たとえば「日本語」なのだという気がします。


 ですから、「標準的な日本語」というのは、抽象的であり、そんなものは言葉の綾でしかない。つまり、うそだと思います。こうした考え方でいくと、「ふつうの日本人」とか、「ふつうの人」という言い方も、うそだというか、曖昧すぎて何も言っていないに等しい、ということになりそうです。


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 人は考えることが好きではない。考えることが苦手だ。ひょっとすると人は考えることができないのではないか。よく、そんなふうに思います。この場合の「考える」という言い方は、「思う」とはちょっと違う意味合いで使っています。「考える」とは、言葉になっていない「何かの思いや感情やイメージやごちゃごちゃ」を言葉として他人に向けて送り出す作業だ、くらいにイメージしています。


「考える」をこのような作業だと取れば、真剣に臨めば、ややこしいし、面倒くさいし、失敗したときのことを思うとこわいし、できれば簡単に済ませたいことです。では、どうすればいいのか。「考える」を、簡単に済ませる方法はないのか。あります。「決まり文句」を使えばいいのです。こういう時、こういう所で、こういう場合には、こう言えばたいてい無難に事が運ぶ。人は、言語を身につける過程で、今述べたような「決まり文句」をどんどん覚えていくのではないかと思っています。


 言葉を、話し言葉と書き言葉という狭い意味に取るのではなく、その両者を含め、さらに表情や仕草や身ぶり手ぶりを含む身体言語=ボディランゲージ、手話、指点字、点字、音声(発声)、音楽、合図、映像、図像、さまざまな標識や記号や信号などをひっくるめた「こと・もの・行為・状態」と取ってみましょう。


 難しく考えないでください。こういう時、こういう所で、こういう場合には、こうすればいいのだ、という感じです。校長先生 or 社長 or 先輩に、道端で会ったら、頭を下げて、「こんにちは」と言い、見えないところで舌を出す。人が集まっている場所では、間違っても大きな音を立てておならはしない。どうしても我慢できなかったら、音を立てずに注意し、身動きもしないで、少しずつ漏らす。例を挙げれば、広い意味での「決まり文句」とは、そんなことです。


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 思考停止という言葉があります。決まり文句を重ねて人と話をすることは、わりと簡単ですし、だいいち楽です。


「オリンピックだね」「そうそう。バンクーバー」「金メダル、欲しいよね」「うん。メダルほしいよね」「○○は、金とれるかな」「とってほしいよね。とれるって、きっと」「□□の××が、調子いいから、ちょっぴり、心配じゃない?」「あんなの、めじゃないって」「そうだよね、めじゃない」「頑張れ、にっぽん」「頑張れ、にっぽん」(※この記事は2011年に書かれたものです。文章の勢いを生かすために加筆は最小限にとどめてあります)


「不景気ですね」「そう、何もかも停滞して嫌になっちゃう」「ほんと。『世界の△△社』が、今、やばいことになっていますね」「リコールだろ。大変な問題だよ」「今回の件は、△△社だけの問題にとどまらないのが、こわいとか」「そのとおり。うちも対岸の火事じゃすまないぞ」「本当ですか? 何か情報でも?」「うん、ちょっと、専務と話していて気になるデータを耳にしたんだ」「さすが、社内きっての事情通。お伺いしてもよろしいでしょうか」「機が熟したら、話してやるよ、はっはっは」


 以上の会話で、「思考する=考える」が感じられますか。何だか、当たり障りのない、言葉が行きかっているだけという気がしませんか。相手がこう言えば、こっちはこう言う。相手がこうすれば、こっちはこうする。そんなお気楽な、やりとりが、「決まり文句」の機能する場なのです。


【※ 人の話し書く言葉が、ある意味で、すべて「決まり文句」ではないか、という疑問については、「げん・言 -6-」と「げん・言 -7-」で論じています。ご興味のある方は、ぜひ、参照ください。】


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 一方で、少々ぎくしゃくした会話もあり得ます。


「オリンピックだね」「バンクーバーで開催中の、冬季オリンピックのことか。その次の五輪まで視野に入れなきゃ」「金メダル、欲しいよね」「メダルより、内容だね」「○○は、金とれるかな」「さあ、データを知らないから何とも言えないな」「□□の××が、調子いいから、ちょっぴり、心配じゃない?」「その根拠は? えっと、今、ネットで検索してみてみるよ――。えっと、確かに、世界選手権で優勝したときのタイムはxx.xxだね。記録的には、選手権には出ていなかった○○のほうが確かにいい」「そうだよね、めじゃない」「予断を許さない状況としか言えない」「頑張れ、にっぽん」


 以上の会話だと、一方の人は、それなりに「思考する=考える」しているように、感じられませんか。ただし、その人のことを苦手だと思っている人たちや、その人と話すと疲れると言う人たちが多いという気もしませんか。そうなのです。「思考する=考える」とは、多くの人にとって、苦手なことであり、疲れる作業なのです。楽な行為ではないことは、確かです。話をがらりと変えます。


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「権利」をやさしく言うとすれば、あなたなら、どう表現しますか。辞書を引いちゃだめですよ。「人がしていいこと」なんてフレーズが口から飛び出しました。まさに、出まかせです。「基本的人権」だったら、「だれでも生まれながらにしてもいいと、みんなで決めたこと」という感じでしょうか。「義務」なら、「人がしなければならないこと」とか、ちょっとだけもったいぶって「人としてすべきこと」なんて、どうでしょう。


 素人の出まかせですから、きっと異論や反論はあることでしょう。真剣にとらないでくださいね。なにしろ、「たわごとシリーズ」を思い出して、たった今即席につくった、漢語系の言葉を大和言葉系の語に言い換えるサンプルです。連載では、こんなようなことをやっていたというだけの話です。


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 聖書が多数の言語に翻訳されていることや、明治維新後に日本でいわば言語革命が起こったらしい話について、以前にブログ記事で触れたことがありました。そのときにも、ある言語を話す人たちの日常生活において、ないことやものやさまが、どう訳されるのか、という問題を論じました。そのさいには論じきれませんでしたが、日本にないもの、あるいは、日本語にない言葉を、日本語に翻訳する場合には、さまざまなテクニックが用いられてきたのではないか。そんなふうに想像しています。


 前回に書いたことを少し変えて、整理してみます。言葉を言い換えるのには、大きく分けて4つの方法があるのではないでしょうか。


1)ほぼ同じ意味の別の語を用いる。


2)説明する。


3)比喩を用いてほのめかす。


4)造語する。


 以上のうち、


1)は、運次第というか、そうした語があるかの問題でしょう。


2)は、その語が指し示すものをよく理解していなければならないと同時に、表現上のさまざまなテクニックが必要だと思われます。言い換えると、「思考する=考える」ことが不可欠です。


3)は、詩を書くのと似た想像力の有無が鍵となりそうです。


4)は、比較的簡単にできますが(※ギャル語や新語・流行語大賞の候補を思い浮かべてください)、ほかの人たちが乗ってくれるか、乗り続けてくれるか、という問題に突き当ります(※新語大賞の過去の落選例や同賞出身の死語を思い出してください)。


 同じ言語の中での言葉の言い換えを、広義の翻訳ととらえてみる。また、言葉の言い換えを、誰もが日常的に行っているごくありふれた行為とみなしてみる。すると、広義の翻訳とは、言葉と言葉の入れ替えという単純な作業ではなく、ある言葉で各人がいだいているイメージや、多数の人たちがほぼ同じように受けとめているイメージを、とらえなおすことだと思われます。


 個人的には、言葉の言い換えとは、まさに「思考する=考える」行為であり、各人が当然だと思っていることや「何となく分かっていること」に「揺さぶり」をかける行為だと受けとめています。「行為」である。つまり、「運動」であるという点が、大切です。「状態」や「さま」ではありません。比喩的に言えば、ゆらゆら、ぶらぶら、「揺れる」ことなのです。ですから、「思考する=考える」は、疲れるし、好きな人はあまりいないし、苦手意識をいだいている人が多いし、簡単にはできないから「決まり文句」で代用している場合がほとんどではないか、とさえ思えるのです。


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 話を戻します。


「日本語の乱れ」「最近の日本語は乱れている」。そうつづったり、口にする人は、おそらく、日本語についても、言語というものについても、考えたことがないのではないか。誰かの言ったフレーズ=決まり文句を、誰かが言ったようなかたちで、繰り返しているだけなのではないか。そう思えてなりません。


 もしも、言葉を対象にして思考を重ねたのなら、もっとぶらぶら、ゆらゆらした、とりとめのないフレーズを口にしたり、つづったりするはずです。日本語が乱れている、などという、コピーライターが鼻くそでもほじりながら思いついたみたいに、耳に心地よく響く、すぱっと竹を割ったようなフレーズは、出てこないはずです。言い換えると、あんな「何となく分かった気にさせる」フレーズには、ならないだろうということです。


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「分かる・分かっている・分ける」という「状態」は、「考える・思考する」という「行為」とは遠いです。まず、「状態」と「行為」という点で隔たりがあります。「分かる・分かっている・分ける」は、「見る」に近いと思います。「知る」と「名付ける」にも近いと思います。「分かる・分かっている・分ける・見る・知る・名付ける」は、「状態」だという気がします。


「状態」というふうに、括弧を付けていることからも、お分かりになるとおもいますが、通常の意味合いでもちいてはいません。比喩や、言葉の綾や、レトリックをもちいているとも言えます。一応、断っておきますが、この駄文を書いているアホ流のひとりよがりなギャグですから、真剣に取っていただく必要はありません。


 このアホの意見では、「状態」とは、たとえ動詞であっても、必ずしも、「動作」とは言えず、「ありさま」である場合が多いみたいです。一方、「考える」は「行為」つまり「動作」だというのが、このアホの意見です。「状態」と「動作」の違いは、「揺れる・揺さぶる・ぶらぶら・ゆらゆら」があるかどうかだ、と勝手に思い込んでいます。


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 話が抽象的になってきたので、ここで、ちょっと実際に「揺さぶる」を実行してみましょう。


 先ほどから何回か引用した「日本語の乱れ」と「最近の日本語は乱れている」というよく見聞きする、「何となく分かっている」「分かりやすい」フレーズを「分かる・分かっている・分ける」のではなく、「思考する・考える」=「揺さぶる」の対象にしてみます。


 日本語という言語は、上で述べたように「具体的な、日常的レベルでの言葉の使い方の総体」です。1億人以上の人たちが日々、用いているはずです。方言も多数あり、それにさまざまな世代による多様性が重なり、刻々と感情が変化する各人がTPOに応じて複数の「自分」や役割を演じるさいに言葉遣いを変え、誰もがいわゆる言い間違いをし書き間違いをしています。


 また、不幸にも、病気やけががもとで、言語上の障害に見舞われている人たちが少なからずいます。帰国子女や、母語が日本語ではない人たちの中には、日本語の習得や使用に苦労している向きもあるにちがいありません。また、日本語は、日本に住んでいて日本国籍を持っている人たちだけによって使われているわけでも、ありません。


 何を言いたいのかと申しますと、言葉について「考える」とぐちゃぐちゃごちゃごちゃになる、ということです。ヒトが大前提としている枠組みが、揺さぶれ、ずれるからです。「すっきり」「単純明快」「理路整然」「よく分かる」「コピーライターの制作したキャッチフレーズのように、陳腐で分かりやすい」(※以上は、あくまでもイメージです。何となくそう感じられるだけという意味です。思考は働いていません)という具合にはなりません。


 話を戻し、さきほどのごちゃごちゃした日本語をめぐっての諸事情を念頭に置けば、日本語は「乱れている」し、「揺らいでいる」と考えられます。そうした意味であれば、「日本語の乱れ」と「最近の日本語は乱れている」とも言えるでしょう。ただし、ヒトの言語における当然のなりゆきであり、常態だという意味です。このように、たとえ、思考停止に等しい決まり文句であっても、その言葉を「揺さぶる」ことにより、「ずらす」ことができます。そうした「行為」を「思考する・考える」と呼んでもいいのではないでしょうか。


 最近の日本語は、とてもよく健闘している。生き生きしている。という、お話でした。えっつ? こじつけ、牽強付会、曲解ですか? はい、そのように、ずらすこともできます。



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77



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