ネット上に安全な墓などない。
廉@スキとフォローをしないnote生活
2020/09/26 09:01
最後に書いたのが7月26日ですから、久しぶりの日記です。自分と向き合う余裕がなかったのでしょう。久しぶりと言っても、最後に日記を書いたのは前のアカウントです。
利用していた電子書籍作成サービスサイトの運営会社が今年の春に変わり、リニューアルがおこなわれました。私はそこに10年ほど前に書いたブログ記事を電子書籍化して置いていたのです。そのサイトのマイページは私にとってはお墓みたいなものでした。自分が生きて考えていた証しとして、自分の書いた全ブログ記事を、そこで供養したつもりになっていたのです。
リニューアルにともないテクニカルなシステムが変わったらしく、全電子書籍のレイアウトが崩れてしまいました。さらには各記事へのリンクも消えてありません。ショックでした。
私はいささか変わったレイアウトの記事を書いていたので、「被害」は絶大です。字面がめちゃくちゃでとても読めたものではありません。というか、レイアウトが崩れていなくても、そもそも私の文章はめちゃくちゃで読みにくいのです。大雨とか地震でお墓が破壊されたような気分と言えば、お分かりいただけるでしょうか。
レイアウトが崩れたくらいは、まだましなのかもしれません。よく聞く話ですが、長年書いたブログ記事を記念に残すとか、生きた証しとして残したとしても、そのブログサービスがいつか停止や終了しない保証はないそうです。
ネット上に安全な墓などない。これが教訓です。
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ちょうど複数の持病が悪化していたときだったために、ひどく落ちこみました。10年ほど前に、1年以上かけてほぼ毎日長文の記事を書いていたのですから、全記事のレイアウトを直すとなると400本以上の記事をいじらなければなりません。あんな破格の(ぶっちゃけた話がめちゃくちゃな)文章をいじれるのは、書いた私しかいません。蒔いた種は自分で刈り取るしかない、とかいうやつですね。
どうしよう。
もう、あのままにしておいて、きれいさっぱり忘れようか。先も短いみたいだし、もういいや。墓じまいをしよう。でもなあ……。やっぱり、少しずつ電子書籍化された記事のレイアウトを修正していこうか。いや、もうあそこは懲りたから、いっそのこと、どこかのブログサイトで再投稿してみるのもいいかもしれない。
気持ちが定まらずに、ネット上をあちこち見てうろうろしていました。そのときに見つけたのが note だったのです。全体的に白くて清潔感のある、格好いいブログだなあ。フォントが美しいのがうれしい。これなら各記事へのリンクも貼れるから、自分の書いたものをいつでもどこでも自由に検索できる――。
で、試しに再投稿を始めて、気がついたらはまっていました。個性的で優しいフォロワーさんにも多数恵まれ、居心地がとてもいいのです。過去の全記事を時系列に沿って再投稿するのはとうてい無理なので記事を選び、試行錯誤しながら必死で投稿していました。
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再投稿しているうちに、その記事の元となっている全11巻のブログ記事集が一編の小説であることに気づきました。その時々に考えたことに思い出や私的な出来事が織り込まれ、脱線や逸脱を繰り返しながら展開する長い長い小説なのです。
約10年前の冬、春、夏、秋、そしてまた冬。ほぼ1年間の記事の数々。
若干の加筆をしながら投稿するうちに、かつての自分が思い出されて、懐かしかったり切なかったり、そのうちに苦しくなってきました。今と同様に当時の私はこころのやまいをかかえていましたが、夏までは比較的元気でした。ところが夏の終りあたりから、心身ともに大変な危機におちいりました(10年前の自分と今の自分が同じ状況にあるのが不思議であると同時に、同じことを繰り返している自分が情けなく思えました)。
当時の嫌な記憶が次々とよみがえってきます(すっかり忘れていたのですが、何度も死を試みていたのを思い出しました)。文章からリアルな細部が立ち現れてくるのです。
そうした過去の自分をたどるのは実にしんどい作業になりました。現在の自分も心身ともに調子が良くないのに、10年前の自分が幽霊のように取りつき追いかけてきたと言えば、お分かりいただけるかもしれません。再投稿を何度かやめようと思いましたが、幽霊が許してくれないのです。
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今の私には人生で最後の望みがあります。心身の具合は決して良くはありませんが、どうしても書きたいものがあるのです。それに取りかかるためには、まず10年前のブログ記事を供養してやる必要があると感じました。自分にとって最後のものになるであろう新しい作品は、長い長い一編の小説としても読める過去のブログ記事の延長上にあると悟ったのです。
自分に残された時間は少ない気がします。
ある程度は妥協をしてもいいから、何とか納得のいくかたちでブログ記事の再投稿を終了したい。それもできるだけ早く――。
そんな思いから、1週間前の9月18日に別アカウントをつくりました(要するに、元アカウント、別アカウント、今みなさんがアクセスなさっているこのアカウントの計3つがあることになります)。
病を押してその別アカウントに毎日10本以上のペースで再投稿を続けました。かつてネット上の知り合いから、ブログ廃人と呼ばれたことのある私らしい無茶で自暴自棄な行動だと言えそうです。なにしろ、私は無軌道なうえにかなりの凝り性なのです。
言い訳になりますが、ネット上での人間関係を絶ち、静かな環境でひたすら投稿をする必要があったのです。隠れて別アカウントをつくり、こそこそ投稿をするなんて、前のアカウントのフォロワーさんたちには失礼な行動を取りましたが、必死だったのです。もし、この記事をお読みになっているユーザーさんで、心当たりのある方がいらっしゃいましたら、お詫びします。ごめんなさい。
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ほぼ加筆なしの再投稿とはいえ、日に10本以上は堪えます。投稿の合間に、前のアカウントを覗いて、フォロワーさんたちの記事に目を通すのが唯一の癒やしであり楽しみでした。
私は note が好きなのです。愛していると言っても過言ではないと思います。
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1週間が過ぎました。
本日、ようやく再投稿が終了しました。投稿した記事は全部で89本になります(元のアカウントでは3か月で158本投稿しました)。今は疲労と安堵とむなしさのまじった妙な気分です。
これで次の段階に進めます。この世を去る前にどうしても書いておきたいものに専念できそうです。
そんなわけで、このアカウントの最初の記事に書いたように、今後ここではスキとフォローをしないかたちで、「下書き」機能を利用して小説の執筆をしていきます(その小説は文学賞に応募するので投稿はしません)。そして、ときにはこうして記事を投稿するつもりです。
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顛末記のようなこの記事は、元アカウントかそれの別アカウントに投稿するべきだったのかもしれません。とはいえ――またもや弁解になりますが――、note での当初の目的は果たすことができました。お墓はできました。今の私は供養し弔う側の私です。格好をつければ、私は生まれ変わったのです。自分を弔う者が自分のお墓のなかでお経を唱えるのも変なので(生前供養というのはありますけど)、ここでこの記事を書くかたちで供養させていただきます。
合掌。