意味の論理楽(続・ふーこー・どぅるーず・でりだ)その3

げんすけ

2020/07/25 08:50


 ジル・ドゥルーズという、もう、お亡くなりになったフランスの哲学者がいました。ピエール=フェリックス・ガタリという人とよく著作を書いていました。かつて、そのドゥルーズとよく並んで評された、ミシェル・フーコーやジャック・デリダに比べると、個人的にはあまり興味を引かれなかった人です。


 興味が引かれなかったというより、何を言っているのか、何を考えているのかが、さっぱりといっていいほど分からなかったのです。自分の貧困なフランス語力を棚にあげて、邦訳に問題があるのかと思い、原文にも当たってみたのですが、フーコーやデリダと比較すると、やっぱり、分からないのです。


「波長が合わない」という、あやしげな言い訳がありますが、そんなフレーズを持ち出したくなるほど、分からないのです。ただ、比較的良心的で、また良質だと思われるドゥルーズの解説書が何冊かありまして、それを読んでみました。


 解説書ですから、分かりやすく書かれています。でも、ピンと来ない部分が多かった記憶があります。今では、そうした解説書は手元にありません。ただ、1つだけ、すごく印象深い解説((※過去の記事ではもったいぶって書いていますが、蓮實重彦氏の『批評 あるいは仮死の祭典』です)の一節を覚えているのです。


*ドゥルーズは「と」の人だ


みたいな意味のことが、書いてあったのです。で、この1週間くらい、


*「かく・かける(1)~(8)」シリーズ(※安心してください。過去の記事を読まなくても分かるように書きますので)



*補遺=おまけ=付録=追加である3種類の記事


を、誰に頼まれたわけでもないのに、せっせと書いていたのですが、そのなかで


*「間(=ま・あいだ・あわい)」



*「際(=さい・きわ)」


ということについても、ずいぶん、いろいろと考えていました。


     *


 さきほど触れた「間(=ま・あいだ・あわい)」と「際(=さい・きわ)」という話ですが、これを「と」と言い換えることができるなあ、と思い、そういえば、ジル・ドゥルーズという人についての解説書に、「と」の話が書いてあったなあ、と思い出したのです。


 このブログは、あくまでも素人が誰に頼まれたわけでもなく、好きなようにやっている楽問=ゲイ・サイエンスの場であり、学問や学術や研究とは関係ありません。ですので、


*ジル・ドゥルーズにおける「と」


などと、肩に力を入れた文章を書くつもりはないです。


 で、「と」なんですが、ジル・ドゥルーズの場合には、正確にいうと、「 et 」なのです。フランス語では、「エ」にみたいに発音しますね。えっ? 「 t 」はどこに消えたの? と不思議に思われている方のために説明いたしますと、とても大雑把な言い方になりますが、フランス語では、「 c、f、l、r 」以外の子音が語尾に置かれた時には、発音しないのです。たとえば、Pas mal. (英語で言えば Not bad. =悪くないね=いいね)は「パ・マル」みたいに発音します。s は読まない。l は読む。ということです。


 で、et は英語の and と、とてもよく似たつかい方をします。すごく簡単に言うと、


*「単語A et 単語B」なら、「AとB」


*「語句Aor文A et 語句Bor文B」なら、「A、そして、B」


のように、つかわれます。


*「と」と「そして」の意味がある


と考えていただいて、かまいません。


 大切なことは、いわゆる接続詞であり、


*AとB、またはそれ以上の複数のものを「つなぐ」役割がある


ということです。このことだけは、つかんでおいていてくださいね。


 で、この


*「つなぐ」


ということですが、「つながる」、あるいは、「つなげる」からには、AとBのあいだには、何か


*「関係」


があるわけです。ここで、整理しましょう。


*「間(=ま・あいだ・あわい)」「際(=さい・きわ)」「と」「そして」「関係=関・係」


 以上の言葉たちに共通するのは、


*「つなぐ・つなげる・つながる・つながり」


という意味=仕組み=働き=メカニズム=運動=表情=仕草です。(「と、いうわけです(1)」より)



     〇



 ところで、ここまで書いてきた記事のなかで、「と」と「そして」に当たる意味の言葉をどれだけつかったでしょう。たくさんつかったはずです。このブログでよく出てくる、


で、


というのも、場合によっては、「そして」に近いつかい方をしていますね。


 これ、癖なんです。「それで」なんかに比べると、ちょっと失礼で軽薄な響きのある言葉ですけど、愛着があって、つい、つかってしまいます。ごめんなさい。


 で、「つなげる」のはいいのですけど、どういう具合につながっているのかは、きわめて「曖昧=テキトー=あんまり考えていない」場合が多いですよね。結論から申しますと、


*「AとB」に真ん中にある「と」は、「何でもありー」だ。


と言えそうなんです。


 ややこしい言葉をつかうと、順接(=「それで」「だから」)あり、逆接(=「しかし」「だが」)あり、並列(=「と」「そして」)、理由(=「というのは」「なぜなら」)あり、等値(=「つまり」「言い換えると」)あり、例示(=「たとえば」「例を挙げれば」)あり・・・という具合です。


 で、それを、さきほど述べたことと「つなげて」書くと、


*「AとB」に真ん中にある「と」は、「何でもありー」=「間(=ま・あいだ・あわい)」=「際(=さい・きわ)」=「関係=関・係」という、「つなぐ・つなげる・つながる・つながり」という運動=作用が、働いている=機能している「場=空間」である。


と、言えるように思います。手短に言うと、


*「つなげる」=「こじつける」=「何でもありー」とは関係性の乱交=乱舞=混乱である。


となります。


 これでは、あまりにもあっさりしすぎて、良心がとがめますので、もう少し詳しく説明させてください。この現象について、「めちゃくちゃこじつけて」という過去の記事から引用してみます。


     *


 ちょっと、ここで、関係性について、


*一般論


という横着で杜撰な作業=手続き=ズルを、用いて=使って、考察してみます。


*関係性という抽象度の高い言葉=イメージ


について考えるとき、大雑把に=テキトーに=でまかせ=連想ゲーム的に、言葉=イメージを並べてみる方法を取るのが有効であるように思われます。たとえば、


*AとBというものがあるときに、両者の間にどんな関係性があるか。

と単純に考えてみて、思いつく言葉をどんどん出るに任せて=でまかせに、列挙するのです。では、やってみます。まず、


*対義語を並べるやり方


でいきます。


*大と小・○と被○・やるとやられる・観測すると観測される・マクロとミクロ・無限と有限・絶対と相対・一般と特殊・単数と複数・粒子性と波動性・線形と非線形・受け身と能動的・支配と被支配・SとM・依存と自立・男女・成熟と未熟・もうとまだ・多いと少ない・有ると無い・早いと遅い・速いと遅い・長いと短い・動と静・増えると減る・無限大と無限小・本物と偽物・真と偽・正と誤・安定と不安定・可と不可・可能と不可能・偶然と必然・秩序と無秩序・整合と不整合・論理的と非論理的・快と不快・高いと低い・強いと弱い・硬いと軟らかい・複雑と単純・優れていると劣っている・プラスとマイナス・陰と陽・ポジティブとネガティブ・白と黒・裏と表・偶数と奇数・熱いと冷たい・激しいと穏やか・右と左・初めと終わり・中心と周辺……


 こんな感じです。次に、


*動き・運動に注目する方法で試してみます。


*引き寄せ合う・反発し合う・しりぞけ合う・連動する・シンクロする・共振する・共鳴する・触れ合う・くっつく・集まっている・散らばっている・同化する・矛盾する・○であって△ではない・△であって○ではない・○であって△でもある・○でもなく△でもない・○ときどき△一時□・かかわる・影響を及ぼす・影響を及ぼし合う・一方がもう一方の周りを回る・くっ付いたり離れたりする・一方がもう一方をおかす・一方が一方に取って代わる・交代する・代行する・代理を果たす・まじり合う・一方が一方にとけ込む……


 また、


*関係性を状態・状況・構造としてとらえる


こともできそうです。


*似ている・同じである・等しい・等しくない・異なっている・違う・差がある・ばらばら・つながっている・結ばれている・からみ合っている・かかわりあっている・重なる・重ね合わせ状態・対称・対称性・対称性の破れ・円環状・等価・ひも状・パラレル・まじわる・まじわらない・不確定・不確定性・ずれる・ダブる・かぶる・はずれる・仲がいい・仲が悪い・親和性がある・一方がもう一方から派生している・一方がもう一方を生む・一方がもう一方を生じさせる・上部構造と下部構造・入れ子構造・ツリー構造・フラクタル・リゾーム・複雑系・カオス・二次元・三次元・四次元・恣意的・表裏一体……


 もっとも安直なやり方ですが、


*「○○関係」という決まり文句=紋切型を集めてみるとか、そのたぐいの類推で言葉を思い浮かべる方法


も有効かもしれません。


*相関関係・因果関係・相互関係・位置関係・二項関係・2項対立・離散関係・関数関係・ねじれた関係・主従関係・親戚関係・親子関係・利害関係・力関係・上下関係・比例関係・反比例・相似・相同・写像・関係がある・無関係・依存関係・共依存・関係が逆転する・関係が交互に逆転する・両立する・両立しない・共存・共生・阿吽の関係・触媒・相乗関係……


 以上のようになりましたが、いずれも基本的に2者を前提としたものですし、他にもいろいろあるはずですが、この辺でやめておきます。ブレーンストーミングとかいう方法に似ていますね。あれは、いわゆるひとつの「でまかせしゅぎ」ですから、似ているのは当然です。それはさておき、分かったことは、


*関係性というものはトリトメがない


という点です。実を申しますと、トリトメがないものが好きです。関係性について、もっと考えたり、でまかせに何か書いてみたいです。


 以上が引用です。


「と」という「一字」については、これくらいややこしくご託を並べることができるのです。


 試しに、ドゥルーズの著作名(副題も含む)の邦訳にある「〇〇とXX」の「と」(=関係性)についてあれこれ考えてみませんか? その邦訳を読む作業よりも、案外「正しく」ドゥルーズすることになるかもしれません。(改訂版「と、いうわけです(2)」より)



     〇



 一方、


*そのテーマを、そのテーマについて書くつもりの文章に登場する=用いる言葉たちの表情・めくばせ・身ぶり・運動に、演じさせる=模倣させる方法


を試みようとする場合もあり得ます。


 具体例を挙げると、ノイズがテーマになれば、「と、いうわけです(2)」でのように、言葉たちにノイズを演じさせます。すると、とうぜん、読みにくくなります。また、「書く・書けることは賭けることだ」がテーマの場合には、「書く・書ける(2)」のように書きます。正確に書こうとするあまり、文章がややこしくなっています。


 さらに、自分の書いた文章の読み方を解説するという、まことにみっともない邪道をしている例が、「あう(4)」と「あう(5)」です。万が一、興味がおありでしたら、ご一読いただければ、嬉しいです。アホにはついていけないとお感じの方は、パスしちゃってください。


 なぜ、こんな一種の言葉遊びをしているのかと申しますと、言葉は表象である。つまり、言葉は、言葉が指し示す「もの(=形や動き)」の代わりでしかないからです。諦めと言ってもいいです。ですので、この言葉遊びは、


*言葉たちが「ある形や動き(=実体=不可能性)を描いている『振りをしている』(=演技=ほぼ可能性)だけ」にしかすぎないのなら、その言葉たちが描いている形や動き(=実体=不可能性)を追求することは放棄して、その「振り」(=演技=ほぼ可能性)自体を、鏡に映すように、その言葉たちが描いている形や動きの「振り」(=演技=ほぼ可能性)自体を言葉たちに再演(=ほとんど可能性)させる。


ことを選ぼうという、方法=戦略とも言えるみたいなのです。


 ただし、この方法=戦略は、このブログを書いているアホが勝手に思い込んでいる一人受けギャグである可能性が非常に高いのです。したがって、まことに失礼であると承知のうえで、あえて、そういう方法で書かれているのではないかと、勝手に想像=妄想している他人様の著作の名を挙げてみたいと存じます。


 なお、その著作のタイトルをご紹介するにあたっては、著者名はあえて省かせていただきます。なぜなら、著者は関係ないからです。著者名も、しょせん、固有名詞=言葉ではあるといえ、生身の人間として実際にその著作を書いたのではないか。そう言われれば、はい、ごもっともです、と答えるしかないのですが、固有名詞のそなえているパワーというのは、とてつもなく強いのです。


 この点については、初期のブログ記事「あえて、その名は挙げない」、「遠い所、遠い国」、「横たわる漱石」で書きました。まだ、とちくるい文体に染まっていく前の文章なので、比較的読みやすいと思います。お時間があれば、どうか、ご一読願います。


 では、ご本を紹介いたします。


『批評あるいは仮死の祭典』、『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』、『泉鏡花論―幻影の杼機』、『谷崎潤一郎―擬態の誘惑』、『余白とその余白または幹のない接木』、『砂の顔』、『引用の織物』、『紙片と眼差のあいだに』


です。


 残念なことに、現在、これらの本は手元にありません。でも、ある意味では、そのほうが自分には幸せなのです。夢のなかでしか出あうことができないからです。今は、読むことより書くことに専念しています。夢は、個人的な秘密=謎=空間=イメージの詰まった箱です。書くという作業は、自分にとって、その夢を見ることと大差はないのです。さらに、妄言を申しますと、書くことは読むことと大差はないのです。


 上記の本たちと再会できないのには、経済的余裕がないとか、図書館や古本屋に行こうとしても、家事と親の介護で長時間の外出ができないという、事情もあります。でも、そんな事情より、インプットはもういい、アウトプットするだけで精一杯だし、それで満足だ、という現在の心境のほうが強く働いています。だから、別に悔いはありません。


 書くという作業は、事を書くと同時に事欠くこと、つまり、不自由さを実感する行為でもあります。きりがないです。息がこと切れるまで、「書く=欠く=読む=詠む」ことができれば、自分にとってそれ以上の幸せはありません。


     *


 で、ご紹介した本たちに話をもどしますが、なかには大きな図書館でなければ、もう閲覧できない本があるかもしれません。比較的入手しやすいものもありそうです。検索をしたり、実際に本を手に取れば、著者名は目に入りますが、できれば、


*その本に書かれた言葉たちの表情・めくばせ・身ぶり・運動に身を任せて、じっくり読んでみる。


という作業を実践してほしいなあ、と思っております。


 ところで、坂田利夫さん、高倉健さん、故・忌野清志郎さんは、自分自身という生身の存在として、有名人としての自分のイメージと、どうやって折り合っていらっしゃる(or いらっしゃった)のでしょう? でも、有名人に限らず、ヒトは誰もが、同じように、


*自分自身と、自分のイメージとの「間(=ま・あいだ・あわい)=際(=さい・きわ)」で宙ぶらりんで、ぷかぷかと、揺れ動いている。


のではないでしょうか。


 だいいち、自分自身=自我とであれ、自分のイメージとであれ、本当に、


A)あう・であう ⇒ みる・ちかくする ⇒ あらわれる・でる

B)合う・出合う・出遭う ⇒ 見る・知覚する・近くする ⇒ 現われる・洗われる・あら、割れる・出る


できているのか、と自問してみるなら、でてくる、


*答えそのものが、宙ぶらりんで、ぷかぷかと、揺れ動いている。


つまり、問いそのものを、


*模倣する=真似る=鏡に映った自分にまなざしを送るだけ


と、とりあえず and/or せいぜい、言葉にしてみるしかないのです。


 あとは、


*全身で知覚する=運動する=生きる=息るのみ


という状況を、素直に身に引き受ける。そんだけー、ではないかと思います。ややこしいことを書きましたかもしれませんが、どうしても、書きたかったことなので、ご容赦いただければ、幸いです。


 あすは、「あらわれる・あらわす・出る」につきまとう、幽霊のような、「イメージ」という言葉について、書いてみたいです。ぜひ、遊びに来てください。


 清志郎 歌は祈りと 夢で言い


 アホひとり 言葉は言葉 夢で書き(「あらわれる・あらわす(6)」より)



     〇



 大学生時代に、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ、ジャック・ラカンといった、哲学や精神医学や精神分析を横断して活躍していた人たちの本や講義録を読んでいた割には、そうした分野・領域がどうからんでいるのかについて、自分が無頓着で無知だったことに、後になって気づいた。要するに、そんなお粗末な=恥ずかしい話です。


 ちなみに、日本の大学の心理学科は、実験を重視した学派と、臨床、つまり、カウンセリング的なスキルの養成を目的とした学派とに、分かれるみたいです。以前は、実験重視の学科のほうが多かった記憶があります。現在は、カウンセラーなど臨床心理関連の資格が複数設けられているため、臨床心理学のコースのある学科が増えているもようです。


 思い返してみると、かつて岸田秀(きしだしゅう)という人が、精神分析をテーマにした面白い本を立て続けに書いたり、訳したりしていました。岸田氏は文学部の心理学科出身であり、大学の心理学科の教員をしていた人だったので、日本の心理学科では、フロイトみたいに、ちょっとエッチで、ちょっと難しくて、ちょっといかがわしそうで、ちょっとわくわくするような研究やお話つくりをやっているのだろう、と決めつけていたのです。


 ところが、当時は、実際には、そうとは限らなかったというわけでした。その英訳・和訳のアルバイトで知り合った人たちから、次のような愚痴みたいな話をよく聞かされました。


 フロイトやユングの研究をしようと思って、心理学科に入ったのに、白衣を着てネズミの行動を観察したり、その行動を統計をつかって数値化するようなことばかりやってんだよね。岸田秀みたいな先生の授業を受けられると思ったのに、大間違い。だまされたなあ。あ、はは――。なんて調子でした。


 本当かどうかは知りませんが、むしろ、医学部のなかで精神医学を専門にしようとしている人たちのほうが、文学作品や哲学関連の著作を読んだり、実験とは無縁だったり、数字や、まして統計なんかほとんどつかわなかったりで、よほど文系的な勉強ばかりしている、なんて話も聞かされました。学問における領域=分野=テリトリーも、いろいろわけありで、ややこしいのですね。(「テリトリー(6)」より)



     〇



 のっけから、自己輸血=自己引用をして恐縮ですが、前回の「夢の素(2)」(※安心してください。過去の記事を読まなくても分かるように書きますので)から、必要な部分をコピペさせてください。


>ヒトは、生まれて間もなく誰か(※助産婦・医師・看護師・乳母・母親・父親など)に抱かれた時に、同時に「何か・誰か・どこか」を抱く。


>「抱く=抱かれる」は、「接触・触れ合い・関係性・一体感」を意識することである。その意識は確認である。つまり、「抱く・抱かれる」は、既に「織り込まれている」。


 以上が引用部分です。以前から、気になって仕方がないことがありまして、それを今回はテーマにしてみたいので、上の2カ所を写し=移しました。


 このさい、もっとコピペしちゃいます。


     *


>で、これまでずっと不思議に思っていたことが思い出されて、頭の中がごちゃごちゃぐちゃぐちゃ状態になりました。


 そもそも位置って何? 視点・視座って何? 主語って何? 主体って何? ついでに、客体って何? 語・語句・文・文の連なり・文章・作品・文献における視点・主語ってあるの? 夢や夢想にも視点・主語ってあるの? 絵・写真・漫画・映像のコマ、そしてそのコマが連続した動画における視点ってどうなってるの? ヒトは時間を円環や線状に「たとえる=こじつける」なんてやってるけど、それって有効性はどれくらいあるの? 


 前後なんて、空間と時間のこじつけごっこやってるけど、どこまで正気なの? ついでに、上下左右斜めまで頭に浮かんだけど、それって重力があってこその言葉とイメージちゃうか? 宇宙空間では、位置とか視点とか主体って意味があるの? 宇宙船でいろいろやっているけど、しょせん、地上のイミテーションじゃないの? 宇宙ステーションでイミテーションってイミあるの? 「発想=枠組み」の転換が必要だなんて、やっぱし素人であり、しかもアホの浅知恵?


 ついでに、ヒトが生まれてから死ぬまでの「間・あわい・過程・プロセス」を、植物なんかの成長にこじつける、また、その逆方向でこじつけるなんてやっているみたいだけど、有意=意味あり? 生から死を流れにこじつけるのも、意味ありなの? それともヒトに通じるだけの仲間内ギャグ? 進化・発達・発展・退化・衰退・段階なんて言葉とイメージで、生物や無生物の移り変わりを語っているけど、騙っていることにならない? そもそも「移り変わり」って何? それって有り? それとも、ヒトの思い込み? 知覚・意識という枠組み内での話だけのこと? 


 以上挙げたのは、ごちゃごちゃぐちゃぐちゃ状態のほんの一部なのです。


    *


 以上の*と*の間に挟まれた文章は、「もどるにもどれない」から引用したものです。「夢の素」について書いているのですから、頭の中の「ごちゃごちゃぐちゃぐちゃ状態」をめぐっての最近の記事から必要部分を取り出してみました。自分は、たとえば、上述のようなとりとめのないことを、あれこれ考えながら=ぼーっとしながら日々を送っています。


 冒頭で引用した前回の記事の断片では、「抱く・抱かれる」がキーワードです。次に引用した文章では、「視点・視座って何? 主語って何? 主体って何? ついでに、客体って何? 語・語句・文・文の連なり・文章・作品・文献における視点・主語ってあるの? 夢や夢想にも視点・主語ってあるの? 絵・写真・漫画・映像のコマ、そしてそのコマが連続した動画における視点ってどうなってるの?」がいちばん気になる部分なのです。


 共通するのは、「する=される」「 to do = to be done 」です。英語が添えられているのは、酔狂=お遊び=景気づけ=活性化です。というか、きょうは母語である日本語を用いて少々込み入った作業をする予定なので、念のために英語バージョンもくっつけておきたいのです。日本語を使う以上不可避な言葉の綾やレトリックがからんできそうなので、念のため=気休めに英語でも確認すると言ってもいいです。


     *


 おびたただしい数があると思われる「する=される」のうちで、特に「抱く・抱かれる」にこだわっているのは、ヒトが生まれて間もなく経験する他者との接触のひとつだからです。母親に相当するヒトの「乳首を口に含んで吸う」、あるいは「乳首に相当する人工のものを口に含んで吸う」でもいいのですが、長くて扱いにくいので、「抱く=抱かれる」「 to hold = to be held 」(※「 to nurse = to be nursed 」もあるみたいですが、hold にしておきます)を使って話を進めます。


 等号、つまり「=」で能動と受動が結ばれているのは、今回の記事の主張である、「する」と「される」は近い、あるいはほぼ同じ、思い切って言えば、ヒトという枠内においては同じ、という点を意識してのことです。よくこのブログでは、「=」を用いていますが、それは「意味=sense=判断=方向」の固定化を防ぐという「戦略=企み=方法=お遊び」です。つまり、言葉にもてあそばれるさいに経験する「偶然性=いい加減さ=うろうろ=よろよろ=うじうじ=どうなるのだろう=どうしよう=ま、いっか状況」に身を任せるうえでの誠実な態度の表明であり、「たしなみ=倫理=仁義=礼儀」にほかなりません。


 前置きは、これくらいにして本題に入ります。


     *


 ヒトが現実・真実・事実と呼んでいるものは、嘘っぱちであり、「似ているもの」という意味での「偽物」である。さらに言うなら、人は過去を再現などできない。再現とは捏造するという行為に他ならない。記憶も同様で、捏造に他ならない。


 まず、上記の「フィクション=話=意見=思い=『夢の素』」を前提にします。自分には、そうとしか思えないし感じられない。理由は、それだけです。学者や研究者のように、実証とか論証とか検証とかいう官僚的なたわごとは申しません。そうしなければ、仲間から、あるいは業界の中で馬鹿にされるとか干されるという恐れもありません。そうした作業を生業にしてご飯を食べているわけではないからでしょう。上に書いたように思っている。それだけです。


 で、その森羅万象が偽物だらけであるという環境の中に、ヒトは生きているとします。その偽物たちを、ヒトは見たり、触ったり、耳にしたり、舌で味わったり、その匂いを嗅いだり、その気配を感じたりしているわけです。それが、知覚器官からシナプス経由で脳に至るプロセスで起こっている「情報処理・データ処理」だと考えましょう。


 その情報処理は、ヒト以外の生き物たちも行っているみたいです。ヒトの場合には、そこに話し言葉としての言語を始めとする、広義の言語=表象=代理による「情報の処理」および「情報の蓄積と引き出し・情報の混同・情報の錯誤・情報の捏造」を行っています。そうした操作=プロセス=運動が、多層的なイメージを担っている「思い・思う」のうちの、「意識する・認識する・思考する・混乱する」です。


     *


 なお、ここで言う広義の言語=表象=代理とは、話し言葉と書き言葉だけでなく、表情や仕草や身ぶり手ぶりを含む身体言語=ボディランゲージ、手話、指点字、点字、音声(発声)、音楽、合図、映像、図像、さまざまな標識や記号や信号などです。言葉と思考or思想とがイコールだとか、ヒトは言葉を使って思考する、といった言い回しがあります。その場合の言葉が、狭義の言語、つまり話し言葉と書き言葉に限られるものであるという前提に立っているなら、個人的には支持しません。当然のことながら、話された言葉、あるいは書かれた言葉を、思考or思想というプロセスにすり替えるなんてズルはなしですよ。


「思い・思考」というごちゃごちゃもやもやの結果としての、ある程度整理された「音(おん)=話し言葉=耳で知覚できる空気の振動」と、インクの染みや画素の集合である「文字=書き言葉=目に見える物質」はあくまでも「もの」であって、脳内で起きている情報処理という「動的なプロセス=こと」ではありません。その両者は別物です。


 ヒトは言語(※話し言葉や書き言葉)を使って思考する。


 ブログでたわごとを書いている自分ですが、そこまで抽象的で「よく出来た=こしらえられた=捏造された」、耳に心地よい美辞麗句=たわごとは吐けません。そんな「高度な=低俗な=見え透いた=何か思惑ありげな」芸は、真似できません。狭義の言葉で思考する? できるものなら、目の前でやって見せてほしいです。もっとも、見えるものじゃないですけど。そうか、だから、自信ありげに言えるんだ。可視化できないものは、何とでも言える。納得しました。


 ついでに罵倒しておきたいフレーズがあります。


 事実と意見を分ける。


 論文などのつづり方教室で言われたり、そのたぐいの分野のハウツー本に書かれているたわごとですが、これも、ブログでたわごとばかり書いている者ですら首を傾げる、見え見えすぎるたわごとです。せめて、次のように記述するのが誠実な態度ではないでしょうか。


 見たあるいは伝聞による報告と自分がいだいている感想を分ける。


 これでも、百歩ほど譲っての話です。


     *


 話を、「抱く=抱かれる」「する=される」に戻します。


>ヒトが現実・真実・事実と呼んでいるものは、嘘っぱちであり、「似ているもの」という意味での「偽物」である。


 という、さきほどの前提にもうひとつ前提を加えます。


「思い・思う」の一部である「意識する」においては、いわゆる「夢=ぼけーっ=思考」も「現(うつつ)=はっきり=思考」も同列に扱う。


 以上のフレーズを土台とします。目が覚めていようと、うとうとしていようと、ぐっすり眠っていようと、「思い・思う=思考する」が働いている=作動している=スイッチが入っている限りは、「夢の素」の破裂・炸裂に促されて「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」から「もやもやぼんやり」を経て「はっきりくっきり」という「グラデーション=濃淡=階調」状の「何か」の真っ只中にヒトは「居る=在る=有る」。そう思うからです。


     *


 たとえば、あるヒトが目が覚めた状態で走っているとします。走っているヒトは、自分が走っていると知覚し認識し意識しているでしょう。その場合、走っているヒトの思いの中で、「走る」とは「走られる」とも言えるような気がします。「走られる」という言い方は、今まで見聞きした覚えがありません。みなさんは、どう思われますか? 日本語には方言がありますから、「走られる」という言い方が、「走る」の活用形として何らかの意味を成し、違和感を覚えない方がいるとしても、全然不自然ではありません。たとえば、尊敬語や丁寧語として「走られる」という活用形が使用されている地域が、この国にあっても不思議ではありません。


 尊敬語として「走られる」という言い方をするヒトたちがいるとします。その場合の「走られる」のは、「あなた」あるいは「あのお方」でしょう。「走っていらっしゃる」という感じでしょうか。この「走られる」における「言説の主語・言説の視点・観測者の位置・観測する者とされる者との関係」はどうなっているのでしょうか。個人的には、「言説の主語・言説の視点・観測者の位置・観測する者とされる者との関係」といった、もっともらしく小ざかしげな言葉とイメージで処理できることだとは思えないのですけど。ただ、「られる」に含まれている「尊敬」と「受身」が「身を任せる=もてあそばれる」でつながるような気がして、とても興味があります。


 それはさておき、形式上=形態上は、「走る=走られる」「 to run = to be run 」となります。しかし、「走られる」は破格っぽいし、「 to be run 」において、run は自動詞の「走る」ではなく「運営する・経営する・作動させる」という他動詞の受動態とみなされてしまいます。「走る=走らされる」「 to run = to be made to run 」とすると、ここで言いたい意味にはなりません。「走らされる」ではなく、あくまでも「走られる」という受身の意味を問題にしているのです。


 そういう「言い方・言い回し」がないのなら、そういう「こと・もの・状態・行為」はない、という考え方もあるでしょう。でも、それはレトリックというトリック、言葉の綾という「ありゃりゃ」にとらわれているだけだと思います。「走られる」という言い方でイメージしているのは、「走る・ to run 」の主体が、「何か・誰か・何らかの状況」によって「走らされる・ to be made to run 」という意味合いではありません。そうではなくて、「走る」という行為・動作が「見られている」「 to be seen running / to be seen to run 」、あるいは「視点・視座・主客・主述」といった「フィクション・捏造された話・筋・経路・習性・意識・思考・知覚・思い」の枠外にある、と言いたいのです。


     *


 ややこしいですね。単純化してみましょう。


 今、目が覚めた状態でAさんが走っています。Aさんは、自分が走っていることを自覚しています。そのAさんは、たぶん、自分が走っているさまを思い描いているからこそ、走っていると自覚している、つまり思っている。背後へと飛び去っていく風景、耳に聞こえる風を切る音、露出した肌で感じる空気の流れ、次々と変わるまわりの匂い、舌で感じる渇き、あるいは額から頬を伝って口に入った汗の味、体内の諸器官が激しく機能している気配。そうしたさまざまな情報が脳で処理されて、自分が走っていると感じている。同時に、そういう自分を「思い描いている」。簡単に言うと、自分は走っていると思っている=意識している。


 一方、頭の中では、いろいろなものが浮かんだり消えたりしている。体でもさまざまなものが感じられたり、体感的な記憶としてたちあらわれる。無我の境地とか無我夢中というのは、走った後の記憶=追想=後知恵だと思います。走っている最中には、話し言葉や書き言葉や表情や仕草や身ぶり手ぶりを含む身体言語や音声(発声)や音楽や合図や映像や図像や標識や記号や信号などが、頭と体に「浮かんでは消える」という状態にあるような気がします。このブログで用いている言葉とイメージを使うなら、多種多様な「夢の素」がぱちぱちと弾けている、という感じです。


 またもや、ややこしくなりそうなので、簡単に言います。Aさんは、走っていると自覚すると同時に、走っている自分を「見ている」「 to see O running / to see O run」のです。それが「走る=走られる」「 to see O running / to see O run = to be seen running / to be seen to run」です。


     *


 以上の状態を仮定した場合、「自分が見ている=自分が見られている」視点・視座・主語・主体といった言葉やイメージは、意味を成さないと思います。上で、便宜上、「(Aさんは)走っている自分を『見ている』」と書きましたが、Aさんには、ほぼそんな感じがするだけで、「見ている=見られている」主語と「見ている=見られている」対象はなく、「見ている=見られている」という行為=動き=身ぶり=状況=光景があるだけなのです。「自分=主体」と「対象=客体」がない、匿名的で非人称的でニュートラルな「行為=動き」というイメージです。


     *


 次に、Aさんがうとうとしながら自分が走っている、あるいは、自分以外のヒトや動物や物(たとえば自動車)が走っているさまを思い描いた=思い浮かべた=思い出したと仮定してみましょう。Aさんが寝入って夢を見ていると仮定してもいいです。Aさんが、目を覚ましていてテレビで何かが走っている映像を見ている、誰かから何かが走っている話を聞かされている、何かが走っている場面を小説で読んでいる、といった場合を仮定してもかまいません。「差異・際・あわい」はないからです。


 いずれの場合にも=条件下にも、さきほどの「走る=走られる」「見ている=見られている」という行為=動き=身ぶり=状況=光景があるだけの状態を意識している。そんなふうに考えています。考えている=思っているだけです。以上述べたこと全部が、個人的に「いだいている=だいている=いだかれている=だかれている」、数々の「夢の素」がぱちぱちと弾けているさなかに、イメージした断片を「継ぎ接ぎした=パッチワークにした」、「手仕事=ブリコラージュ=織物=テクスト」となって、今、みなさんがお読みになっている。そんなふうに言えると思います。


     *


 今回の記事を書きながら、ずいぶんたくさんの「夢の素」=粒が炸裂しました。特に、印象に残ったのは、「ジル・ドゥルーズ」「フェリックス・ガタリ」『機械状無意識』「モーリス・ブランショ」『文学空間』『来るべき書物』「宮川淳」『引用の織物』『紙片と眼差のあいだに』『鏡・空間・イマージュ』「豊崎光一」『余白とその余白または幹のない接木』「ミシェル・フーコー」『外の思考』「クロード・レヴィ=ストロース」『野生の思考』です。残念ながら、『 』でくくった書名を持つ書籍はもう処分して、うちにはありません。だからこそ、「夢の素」なのです。いや、たとえ手元にあったとしても、ものぐさでアホな自分にとっては、「夢の素」でしかないでしょう。


 これらの「夢の素」は同名の固有名詞や書名とはほとんど関係がないかもしれません。あるかもしれません。どちらとも言えないかもしれません。仮に関係があっても、ごく少しだけかもしれません。また、みなさんがいだいていらっしゃる同名の「夢の素」とも重なる部分がないかもしれません。あるかもしれません。どちらかだと言うべき話ではないのかもしれません。


「夢の素」とは、きわめて個人的なものです。わたしの夢は、あなたには見えません。逆も同じです。でも、ヒトは同じような身ぶりや仕草や行為や合図や目くばせをする時があるようにも思えます。そうした匿名的でありながら具体的な「動き」があちこちで反復されているとしたら、それはそれで美しい光景だと思います。


     *


 なお、「する=される」「見ている=見られている」という、今回のお話に興味をお持ちになった方に、ぜひ目を通していただきたい記事を以下に紹介いたします。


「なる(6)」、「なる(7)」&「なる(8)」、「なる(9)」&「なる(10)」、「たとえる(3)」です。キーワードは、「なりきる・なりきり」です。今挙げた記事は、今回の記事よりも、読みやすいかもしれません。お時間のある時に、お読みいただければ嬉しいです。(「夢の素(3)」より)



     〇



 ある作家の作品を読んでいると、その作家の「夢の素」らしきものを感じることがあります。自分の場合には、複数の作品を読んだことのある作家はあまりいません。例外はスティーヴン・キングです。多作な作家ですから、本屋さんに行けば、たいてい何冊もの作品に出会えます。


 処分してしまったため、手元にあるキングの本は数冊しかないのですが、文庫本の後書きなんかに記してある作品リストでタイトルを眺めていると、内容が断片的によみがえってきて、「ああ、あれがキングの『夢の素』だ」と思い当たることがあります。たとえば、雨です。冒頭に雨、それも暴風雨の描写がある作品が多い気がします。


 キングファンだと自称なさっている宮部みゆきさんもそうです。2人に共通するのが、雨と火と少年( or「少女」とされながら説話的要素としては「少年」の機能を果たしているキャラクター=登場人物)でしょうか。キングの場合には、子ども、特に男児にいたずらをする性的虐待者がよく出てきますが、それも「夢の素」だという気がします。「サバイバー」である自分は、その「夢の素」に敏感に反応=感応=感光=共振します。これもまた、きわめて個人的=ひとりよがりな=妄想的なものですけど。


 雨が降ると物語が始動する。性的虐待者 or 変質者(※これって差別語でしたら、不快な思いをされた関係者の方々にお詫び申し上げます)がストーリーの展開を促してくれる。キングの作品には、そうした不思議な「癖」があります。プロの文芸批評家なら、それだけの材料で論文を1本書けるでしょう。


     *


 そうした作家の「癖」=「夢の素」に注目する文芸批評のやり方があります。学生だったころに、よくその手の本や論文を読みました。小説や詩よりも、小説や詩を論じた批評のほうが好きで、作品をそっちのけで批評ばかり読んでいました。そのあげく卒論には、ロラン・バルトがバルザックの中編小説『サラジーヌ』を批評した『S/Z』を批評する、という屈折した方法をとりました。


 指導教授が理解のあるヒトだったので、その方針でオーケーになり、1週間ばかり、それこそ昼も夜も区別できないほど熱中して書き上げました。押入れに積んである段ボール箱のどれかに、卒業論文のコピーが入っているはずです。


 作家の「癖」=「夢の素」に注目する批評家にも、いろいろな「癖」=「夢の素」あります。作品の語り方=説話の方法に注目するとか、作品に頻出する語にこだわるとか、作品にあらわれるイメージを体系化して理屈をつけるといったやり方が頭に浮かびます。


 ガストン・バシュラールというヒトの批評もおもしろかったです。よく覚えていないのですが、確か火・水・土みたいなものをキーワードに作品を論じるのです。批評とは、「こじつける」作業が基本となりますから、その「こじつけ」の奇抜さが醍醐味というか面白さとも言えます。ジャン・リカルドーというヒトの「こじつけ」もアクロバティックで、おもしろいというより、馬鹿みたいにおかしかった記憶があります。手品みたいなのです。


     *


 そうした批評家の批評行為を始動させるのも「夢の素」=「癖」=「方法」なんです。


 話を飛躍させると、ヒトは誰もが「夢の素」=「『思い・思考・空想・妄想・錯覚』を促してくれる要素」をいだいているように思います。「夢の素」が、動作・行動へと「移る=変わる」。「転写されて」動きになる。そんな感じです。


     *


 話を飛ばします。


 夢にもいろいろありますが、幻覚も「夢=重い思い=多義的で重層的な思い」のうちのひとつです。抑うつと一緒に暮らしている身ですので、ドクターからお薬を処方してもらっています。ドクターに言わせると、とてもお薬に弱い体質なんだそうです。


 ある日、処方せんを持って薬局へ行き、お薬を買って家に帰ってきて、あまりにもふさいだ気分だったので飲んだところ、自分では覚えていないのですけど、親が言うには、壁を伝わりながら家の中を這い回っていて、居間でひっくり返ったそうです。頬っぺたをつねっても、補聴器をしたままの耳に向かって怒鳴っても、まんじりともせず、5時間ほど爆睡(爆酔?)状態にあったらしいのです。もちろん、そのお薬は捨てました。後日ドクターは、「ええっつ? あんな「なるい」やつで、そうなっちゃったの?」なんて言って、あきれていました。


     *


 まだ見たことのない甘美な、あるいは激烈かつ刺激的な夢を見たくて、お薬を飲むヒトたちがいます。昔からいたようです。で、その体験を書いて残しているのです。さまざまな形式のものがありますが、次のような「固有名詞」が「夢の素」となって、思い出されます。「トマス・ド・クインシー」『阿片服用者の告白』「オルダス・ハクスリー」『知覚の扉』「ウィリアム・バロウズ」『裸のランチ』「アーヴィン・ウェルシュ」『トレインスポッティング』。


 また、直接には関係ないのですが、その水脈の水先案内人となってくれた「由良君美」『椿説泰西浪漫派文学談義』。自分からあえて「夢」を求めたわけではないエピソードをつづった「澁澤龍彦」『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』。この記事を書きながら、そんな「夢の素」がぱちぱちと弾けます。他人事のように、ただ今、その線香花火のささやかな炸裂を見ているところです=見られているところです=傍観しているところです。けだるくて、とてもいい気分です。あっ、「高山宏」も弾けました。懐かしい。


     *


 話を戻します。いや、戻っていくのか、飛んでいくのか、ずれていくのか、わからなくなりました。


     *


「うつせみのくら」と「うつせみのうつお」で、自分がこれまで書いてきた数々の記事を読み直すと、「夢の素」だらけ、それも金太郎飴状態、つまりワンパターンギャグであることがよく分かり、恥ずかしくなります。全然、芸がない。同工異曲=変奏=変装=変相=返送=変造というやつです。それも、ひとりでしこしこやっていますから、笑点の仲間受けギャグより憐れな、ひとり受けギャグ。ひとりツイッター。「うつせみついたうつせみのおと」(※「ブログ廃人と呼ばれて」をご参照願います)。つぶやき屍蝋=耳聾=痔瘻。


 そろそろ、打ち止めにした方がいいのかもしれません。


     *


 久しぶりに澁澤龍彦のエッセイが読みたくなりました。押入れのふすまを開けて、段ボール箱を漁ってみます。初めて泰西へ目を向けるきっかけを与えてくれた「夢の素」。


     *


 La chair est triste, hélas ! et j'ai lu tous les livres.

 Fuir ! là-bas fuir ! ……


(肉体は悲しいよな、やれやれ、私は書物という書物をすべて読んでしまったし。

 こうなったら、逃げようかな。かなたへと逃げるのだ。……)


 学生時代に暗唱させられた詩の冒頭が口をついて出てきました。マラルメの Brise maraine (海のそよ風)という詩です。こういうふうに不意に訪れるのも、「夢の素」です。


 là-bas あなたへ、fuir 逃げよう――。いや、逃げたい。消えたい。


 ma・larme・mais


 ま=間=真=魔=目=身・ら=裸=螺=羅=喇=螺・る=流=縷=弄=榴=瘤・め=目=芽=女=奴=罵


 ゆ・め・の・も・と


 yu・mai・nos・mot・taux


 こういうのって、あやういです。決して、よくはありません。よい兆候ではありません。そう、おもいます。あす、違うドクターを訪ねてみます。


     *


 やっぱり、そろそろ、打ち止めにした方がいいのかもしれません。



  何見てた まなこ開けた ネコに聞く


  夢の素 さらし続けて うつおぎに


  うつせみの 声にもあきて あなたへと


  卒塔婆(そとば)立て 耳を澄ませど 音はなし


  つぶすなよ ふみにもやどる たまのこえ


  以前なら あやめたブログ 夢をまけ(「夢の素(4)」より)



     〇



 以前に、



*「信号学」



*「信号論」


なんて言葉をつくって、


*「学問ごっこ」


をして、はしゃいでいました。まさに、


*テリトリー本能=なわばり行動=マーキング行動=「汁・おしっこ・知る・印(しるし)・標(しるべ)」=「地・知・血=地を知って血を流す」


ですね。このへんの独り受けギャグ=アホの自己満足ギャグに、ご興味をお持ちの方は、「かく・かける(4)」と「地と知と血(2)」(※安心してください。過去の記事を読まなくても分かるように書きますので)をご一読願います。こんなくだらないギャグはどうでもいい、とお思いの方は、どうかこのまま読み進みくださいませ。


 で、「学問ごっこ」ですが、このアホもしょせんヒトの子=アホもいちおうヒトのはしくれ、というわけです。ああ、恥ずかしい。でも、恥ずかしいのって大好きです。そんなアホの馬鹿さ加減をご覧になりたいご奇特な方が、万一、いらっしゃいましたら、「スポーツの信号学(1)」を一瞥=一蔑し、


*「この、アホめっ」 or 「この、ぬけさくぅー」


と、罵倒=叱咤激励してやってください。「この○そ暑いのに面倒くさい」とお思いの方は、他のサイトに飛ばずに、どうかこのまま読み進みくださいませ。


 で、性懲りもなく、恥ずかしながら、「恥ずかしいのって大好き」企画=「太宰治生誕100年を記念しての自意識過剰的・自虐的・道化的性向を見直そうキャンペーン(別称:「生まれてきてすみません」運動)」の一環としての「学問ごっこ」をしてみます。えっつ? 「勝手にやれば~」ですか? お許しをいただき、ありがとうございます。


     *


 今回は、


*「記述論」


または


*「記述学」


または


*「一般記述学」(※どうして「一般」を付けたのかと申しますと、"記述学" でググってみたところ、既に使用中=occupied だったから頭に何かを付けよう、それだけの理由なのです。大した意味はありません。ちなみに「記述論」も使用中みたいですけど、「ま、いっか」でいきます)


でして、英語では、


*descriptionology


あるいは


*general descriptionology(※どうして「general」を付けたかは、上記の「一般」の際の理由と同じです。検索の結果、記述=既述でした。)


となり、フランス語では、


*descriptionologie


を予定しており、ドイツ語では、外来語扱いで、そのまんま


*Descriptionologie


とするか、ゲルマン系の語を勝手に=でたらめに、接木=造語して、たぶん


*Beschreibungwissenshaft


あたりが、適当=テキトーではないかと考えております。


     *


 冗談=本気はさておき、ヒトという種(しゅ)が、何かに取り付かれた=憑り付かれたかのように、せっせと、やっている、


*記述 or 記述法 or 記述術 or 記述癖(※右にいくほど、胡散(うさん)くさく=いかがわしく響きませんか? 大差ないんですけど)


という作業=いとなみ=行為=行動=習性=「くせ・癖・曲」について、考えています。こんなことをやっていますのも、きのうの記事で、恥ずかしくも(=「恥ずかしいのって大好き」=失礼しました)書きましたように、


*広義の「人工言語」という「言葉=物語=ガセ=フィクション」


に振りまわされ、20冊もの本を見て≠読んで、過去数日間、せっせとメモを「つくっていた=記述していた」後遺症みたいです。このとちくるいは、暑さのせいばかりではない気がいたします。


 で、暑いのですが、とちくるいついでに、ちょっと本気で


*記述という、わけの分からないヒトの行動


について、考えてみようと決意しました。実際、


*記述


って、


*分かるようでよく分からない


のです。みなさん、どうお思いになりますか? 


     *


「唯○論」という言い方があります。ある特定のものごとや現象や特質みたいなものを用いて、森羅万象をひっくるめて面倒みよう、といった場合に用いるネーミングの産物、あるいはブランドのことです。グーグルなどで検索するさいに、半角の「*」を使うことがありますね。試しに "唯*論" で検索してみたところ、あるはあるは、そのヒット数の多さにびっくりしました。まず、以前に見聞きしたことのあるものを列挙します。


 唯幻論=唯心論=唯物論=唯臓論=唯言論=唯我論=唯脳論=唯神論=唯金論……


 次に、初めて見たものの中で、特に印象的だった使用例を並べます。


 唯ゲーム論=唯エネルギー論=唯情報論=唯退屈論=唯創論=唯遺伝子論……


 この言葉の羅列を見て感じるのは、


*「唯○論」というのは、メタな立場=「これですべてが解決=説明=解明できるぞ。大したものだろ」という視座に立ちたいという欲望である。


と言えそうです。でも、これまで見聞したところでは、メタな位置に立とうとするとメタメタ=めちゃくちゃになることは確かです。だから、わざと上の言葉を全部「=」で結びました。ちなみに、「=」は一種の感字であり感覚的なものです。「すべての面倒をみる」というメタな心意気があれば、ほかの「唯○論」と「=」で結んでもいいことになります。


 なにしろ「何でも面倒をみよう! まかせとき!」というのですから。ということは、「=」は権威のあるお墨付きの印(しるし)であり、5つ星とか勲章みたいな「栄誉」のシンボルということになりませんか? つまり、


 幻=心=物=臓=言=我=脳=神=金=ゲーム=エネルギー=情報=退屈=創=遺伝子……


という「存在の偉大なる連鎖」が形作られると言えます。やっぱり、「ぜんぶ、わたしに、まかせなさい!」状態です。


     *


 それにしても、すごく野心的な考え方ですね。思わず、占いを連想してしまいました。星、タロット、水晶、姓名、生年月日、動物、風水、色、夢、手相、人相、鼻糞の色と質、オーラ……。「何でもあり」が「何でも占っちゃう」。


 それは脇に置いて、上記のような列挙作業をしたのには、理由があります。このブログでやっていることが、


*「唯○論」という「まぼろし」を形成する作業に似ている


からです。そういうわけで、このブログにはそんな野心は毛ほどもありません、と断っておきたいのです。


*このブログでいろいろやっていることは、ぜんぶ「お遊び」


なんです。「本気のお遊び」と言ったほうが適切かもしれません。本気でテキトーなことをする。そんなことができるのか、という疑問を抱いている方もいらっしゃると思います。でも、できるんです。というか、たぶん、やっているのです。少なくとも、やっているつもりなんです。


 ちなみに、「テキトー=適当」や「いい加減」は、たぶんポジティブな意味がネガティブな意味を産んで=生んでしまったのではないか、と推測しています。辞書では両方の意味が、語義として別個の項に記載されています。つまり、並列=併記されています。したがって、


*ヒトは言葉を使用することによって、自らが知覚している森羅万象=世界=宇宙=まぼろしに、一時的に、あるいは部分的に「なる・なりきる」。


というフレーズは、


*「ポジティブであり、かつネガティブ」であるという両義的な意味で「テキトーに」、「森羅万象=世界=宇宙=まぼろし」と「言葉」を「本気で」関係づけている。


のだ、という意思表示なのです。「絶対にこうだ」とか「これしかない」なんて、主張してはいないのです。そんなことは自分にはできないし、そんなことを言う度胸もありません。単に、「こんなふうにも考え=受けとり=感じ=とらえることができますよ」、「ここで書いていることは、正解とか真理とかとは無縁ですよ」と言っているに過ぎません。お山の大将の気分はとは、ほど遠いです。ただし、言葉はきわめてやっかいなものですよ、とは強く言っておきたいです。


 たとえば、


*森羅万象は、おそらく、すべてがまぼろしであり、広義の言葉(=話し言葉、書き言葉、表情や仕草や身ぶり手ぶりを含む身体言語=ボディランゲージ、手話、ホームサイン(=家庭だけで通じる断片的な手話)、さまざまな標識や記号など)としてしか、ヒトは知覚できない。


と書いた場合には、そのフレーズ自体さえも、例外なく含んでの話だという理屈になります。少し飛躍すると、「わたしは嘘をつく」とかいうフレーズに、ちょっと似ていますね。正しいのか正しくないのか判断できない。こういう場合には、「正しい」「正しくない」という枠組み=仕組みを疑ったほうが、いいような気がします。


*正誤、真偽は言葉のあやである。


 以上のように書いても、あややという感じで、あやうくてあやしげで事態は好転しそうもありません。さきほど「……という理屈になります」と書きましたが、「理屈=物事のすじみち=論理というヒトの発想あるいはヒトの思考のパターン」自体に「問題点=欠陥=無理=テキトーさ=穴とすき間だらけ状態=まだら模様=むら」があるに違いありません。でも、それしか使用する選択肢が見当たらないので、それと付き合っていくしかない。きっと、そんな感じ=状態=状況なのではないでしょうか。


     *


*言葉とは、Aの代わりにAでないものを用いるこじつけである。言葉というこじつけが、ヒトをヒトとならしめている。


 このフレーズは、以前このブログで書いたものです。「こじつけ」という「作業=行為=いとなみ」で、「広義の言葉」の仕組みを説明する考え方です。この「Aの代わりにAでないものを用いるこじつけ」という仕組みは、「うまくいく」こともあれば、「うまくいかない」こともあります。たとえば、


(1)ヒトが仲間を月面に降り立たせたり、

(2)コンピューターやインターネットを作ったり、

(3)がんの治療において完全とは言えなくてもある程度の成果をあげている。


 これらは、言葉の使用がうまくいった例でしょう。一方、


(1)家族内でコミュニケーションを円滑に進められなかったり、

(2)言い間違いや失言や誤解をきっかけに争い(or 戦争)が起こったり、

(3)文書の解釈をめぐって利益(or 国益)が失われたりする。


 これらは、言葉の使用がうまくいかない例でしょう。今挙げた2種類の例について、さらに屁理屈を言うなら、前者のグループの3例がネガティブな結果を生む場合もあれば、後者のグループの3例がポジティブな結果を生む場合もあります。


     *


 たとえば、コンピューターの発明と普及は大したものです。でも、それがどれだけ地球温暖化を進め、また戦争でいかに大きな役割を果たしているか。一方、家族内のコミュニケーション上の問題がきっかけで一悶着あり、「雨降って地固まる」式に、かえってその後に深い和解が成立する。あるいは、文書の解釈で相手国に押し切られ一時的に損失が出たが、その損失に打ち勝つために国民が努力して長期的な高度成長を成し遂げる。


 今挙げた例に類したことは、ざらにありますね。ということは、「うまくいく」「うまくいかない」という「分ける作業」自体に、無理=限界=不具合があるのではないでしょうか。「うまくいく」「うまくいかない」とか、「正しい」「正しくない」は、表裏一体=見方の相違、極端に言えば、同じこと。あえて、区別する必要なし。何もかもがつながる。やっぱり、根本に「こじつけ」という仕組みがあるからだ、「らしい=かもね」。


 言いすぎでしょうか? 「人間様も、言語様も、もっと偉いんだぞー」ですか? でも、もしも言葉の大前提である「こじつける・こじつけ」がテキトー(※ポジティブ=ネガティブな意味です)ならば、その使用も「テキトーに(※ポジティブ=ネガティブな意味です)」を意識して行わないと、言葉に裏切られてがっかりしたり、それどころか、とんでもない事態に陥ることもあり得るのではないでしょうか? 要するに、言葉を過信するのは禁物。使用には十分注意しましょう。などという、製造物責任法=PL法の精神が必要なのではないかと思います。


 つまり、


*言葉は欠陥品である。


「らしい=かもね」。さて、蛇足的な弁解で、道草をしてしまいました。次回は、本題である「ヒトが言葉を使用することで「森羅万象=まぼろし」になりきる」という状況について説明する予定です。(「なる(8)」より)



     〇



 ところで、


*唯○論


って、ありますね。「なる(8)」で、暑かった、失礼、入力間違いです(※この記事はかなり前の夏に書いたものです)、扱ったテーマです。で、「記述」について考えていて、その「唯○論」が不意にあたまに浮かび、思い出したのですが、


*唯幻論と唯言論とのあいだで論争があった


とか、なかったとか、そんな話がありました。昔の話です。いわば、


*ゲンちゃんとゲンちゃんとの喧嘩


です。声に出せば、同じ「ゲンちゃん」なんだから、それに、両方とも結局は同じことなんだから、喧嘩はやめましょう。当時、そう思ったことも、思い出しました。


*「げん・幻・言」、ついでに、「現・減・元・源・呟・眩」


と並べてみると、どうにでも、話=フィクション=物語=口上=こじつけ=でまかせを、かます=つくる=捏造することができそうな気がします。つまり、


*唯幻論=唯言論=唯現論=唯減論=唯限論=唯元論=唯源論=唯呟論=唯眩論……


という感じです。さらに言うなら、「ゲンちゃん」でも、「ケンちゃん」でも、「ゴンちゃん」でも、「アンちゃん」でも、「ワンちゃん」でも、同じ「こと=操作=作業=手仕事=ブリコラージュ=お話」つくりができそう、いや、きっとできます。というか、たぶん、できるようになっているのです。ぶっちゃけた話が、


*何でも言えるのが言葉である=言葉を用いれば何とでも言える


という、例の話です。


*色即是空(しきそくぜくう)


じゃありませんが、


*幻即言=言即幻=原則幻=原則言=元素苦言=げんそくげん=んげぇくっそぅんげぇ


です。マジな話、そうお思いになりませんか?


 ゲンちゃん同士の喧嘩がどういう内容だったかは忘れましたが(※喧嘩、口論、議論、論争、紛争、殺し合い、戦争に内容や意味なんてないので、何かと理屈=言葉をつけても、みんな忘れてしまいます。傷ついた人、殺められた人がいたという記憶だけが残るのです)、


*言と幻が「素材=原料=材料」なら、こんな話になり得る


という横着な乗りで、勝手に考えてみます。


     *


 まず、


*「言は、物=物質=具体的」 vs. 「幻は、現象 or 意識=こと=抽象的」


と形式的=図式的に処理しておきます。


蛇足とは思いますが、誤解を避けるために、申し添えますが、言=言語=言葉は、話し言葉=音声=空気の振動、書き言葉=文字 or 活字=刻んだり引っ掻いた跡 or インクのかすなど、という具体的な物質です。したがって、知覚の対象になります。見たり鼓膜を振動させたり触ったりできない、意味やメッセージのことではありませんので、よろしくご理解とご了承をお願いいたします。なお、意味やメッセージは、幻さんの担当のようです。


 ここで、視点=支点という点を考慮しなければなりません。最初から、どちらかに加担=支持=配慮する形になっては、2人のゲンちゃんが、ひがんで腹を立てますので、公平にいきましょう。


*言から見れば=言に重点を置けば、すべては言=言語=言葉である。


となり、


*幻から見れば=幻に重点を置けば、すべては幻=幻想=まぼろしである。


となります(※同じなんですけどねー。事務的に、そういうことにしておきます)。で、


*言が、特権的=メタな立場にある、根拠=基盤=背景=理由として、ヒトは広義の言語=言葉でしか関係を築けないし、言葉によってしか知を継承できないという説=フィクション=イメージ=物語がある(※「説=フィクション=イメージ=物語」という言葉をここに持ってくることには、言ちゃんの強い抵抗が予想されますが、無視します)。


一方、


*幻が、特権的=メタな立場にある、根拠=基盤=背景=理由として、ヒトはしょせん本能が壊れた生き物なのだから「狂え! 狂え!」という説=フィクション=イメージ=物語がある(※「説=フィクション=イメージ=物語」という言葉をここに持ってくることには、幻ちゃんの強い抵抗が予想されますが、無視します)。


となります。


 さて、今、上で並べた2つの文章ですが、同じことを言っています。意識的に=故意に、同じことを言わせた、同じことを書いた、やらせだ、出来レースだ、八百長だ、とも言えます。何とでも言えます。いずれにせよ、


*両者が同じことを言っている


というのが顕著にあらわれている個所は、


*ヒトは広義の「言語=言葉」でしか関係を築けない = ヒトは本能が壊れた生き物だ


という部分です。


*ヒトにおける、言語の存在=本能の壊れ


と単純化すると分かりやすいと思います。あとは、いわゆる、


*「卵が先か、にわとりが先か」の問題


です。今、「先」という言葉=イメージをつかいましたが、問題になっているのは「前後関係」という「比喩=話を進めるうえでの柱・基盤・骨組み」です。


*「前・後」という言葉=イメージは、時間的経過と空間的広がりという、時空=宇宙空間の両方の側面に対し、ヒトが共通して用いているという点が、きわめて重要である。


ことについては、「「揺らぎ」と「変質」」で、詳しく論じましたので、ご興味のある方は、ぜひ、ご一読願います。


 ここでは、


*「言語の存在=本能の壊れ」のどちらが先かは検証も実証もできないし、結論も出ない=出しようがない


と言うにとどめておきます。こういう議論に熱を上げる、血の気の多いヒトたちのお仕事=あたまの体操・撹乱・撹拌・混乱=おそらく世界的規模のガス抜き or ロボコン or 合コンです。例の、「熱い! ヤバい! 間違いない!」的錯乱状況= orgy です。ただ今のフレーズは、もちろん、冗談=荒唐無稽=支離滅裂=景気づけ=暑さ冷まし、です。不快な記憶を呼び覚まされた、元関係者の方にお詫び申し上げます。ごめんなさい。


 2人のゲンちゃんをめぐる喧嘩の仲裁は、以上です。


     *


 みなさん、ここで、この記事のタイトルをご覧ください。


*3人のゲンちゃん


となっています。そうです、


*ゲンちゃんは、もう1人いる


のです。ひょっとすると、もっといるかもしれませんが、4人にすると「四」で験(げん)=縁起が良くないし、5人だと、ただでさえ暑いのに扱いきれなくて誤認(ごにん)する恐れがあるので、3人にとどめておきます。


 では、ご紹介いたします。


*唯現論のゲンちゃん


です。


*"唯現論"


でググると、使用中= occupied ですが、そのご使用中のゲンちゃんのことは、存じ上げません。世の中には、同名のヒトがたくさんいます。ここでの、ゲンちゃんは、


*「げん・現・現実・事実・うつつ」という連鎖


を信奉していまして、さきほどの「言」と「幻」にならってフレーズ化しますと、


*現から見れば=現に重点を置けば、すべては現=現実=「今、現に在る事実・状態」である。


となり、また


*現が、特権的=メタな立場にある、根拠=基盤=背景=理由として、ヒトは現実に「現在する=現に存在する」事象以外を認識できないという説=フィクション=イメージ=物語がある(※「説=フィクション=イメージ=物語」という言葉をここに持ってくることには、現ちゃんの強い抵抗が予想されますが、無視します)。


ともなります。


で、この現ちゃんの意見ですが、上述の言ちゃんと幻ちゃんの言っていることが同じだったのと同じく、同じことを言っています。事務的な手続きを繰り返しますと、いちばん大切だと思われる


*ヒトは広義の「言語=言葉」でしか関係を築けない  =  ヒトは本能が壊れた生き物だ  =  ヒトは現実に「現在する=現に存在する」事象以外を認識できない


という部分が同じことを言っています。さらに単純化すると、


*言語の存在=本能の壊れ=現実の認識


は同義です。


「どこが同じなんだ?」「なぜ同義なんだ?」と疑問をいだいている方のために説明しますと、3人のゲンちゃんは、


*ヒトには、知覚、および、認識の両面において、限界=欠陥がある。


言い換えると、


*ヒトは、全知全能ではない。=ヒトには、出来ないことと、分からないことがたくさんある。


あるいは、


*ヒトは、この惑星に生息する一介の生き物にしかすぎない。


と認めている点で、同じだという意味です。


 決定的に、同じなのは、


*唯言論=唯幻論=唯現論が、どれも「ゆいげんろん」と読める。=3人とも、「ゲンちゃん」だ。


という点です。というのは、もちろん、冗談でして、そうではなくて、


*唯言論=唯幻論=唯現論が、どれも「唯○論」である。  =  3者とも、「ぜんぶ、私に任せなさい」「ぜんぶ、私が面倒見よう」と言っている。  =  できもしないことを言っている。  =  夢を語っている。  =  希望を述べている。


という点が同じです。蛇足ですが、


*すべてを「げん」に還元(かんげん)する(※「還元主義= reductionism 」の「還元」です)。  =  すべてを「げん」で説明する。


ことはできません。なぜなら、


*たった今、記述した立場=考え方は、言=言語だからであり、幻=幻想だからであり、現=現実だからである。


からです。


*問題は、「唯」と「すべて」にある。


と言えます。


*「唯」と「すべて」は、肯定に見える=思えるが、実際には否定である。「唯」と「すべて」という言葉=イメージで、何かを特権化する=メタな立場に置く=上位に置くという作業を行ったとたんに、ヒトは不可能性に直面している=もてあそばれている。


事態に陥ることを、忘れてはならないと思います。早い話が、


*「唯」と「すべて」という言葉=イメージは、「ヒトにとって荷が重すぎる」=「ヒトには扱えない」。


ということです。


     *


 ここで飛躍しますが、だからこそ、


*ヒトは、必死で記述する。 = 記述するしか方法がない。 = 記述することで自らの「無力=無能=敗北」を認めている。


のです。


*万が一、ヒトが全能に近い存在であれば、記述などという、まどろこしい=ほぼ愚かな作業に、没頭=熱中しない。


とも言えます。したがって、


*メタな立場にたつ=この惑星の王者を気取るなんて、10年早いどころか、100万年早いと言ったとしても、言い過ぎ or 言い足りない。


と言えそうです。ちなみに、100万年後にヒト=ホモ・サピエンスは太陽系に存在していないだろう、という説=お話は、ガセとは言えない気がします。で、話をもどして小さくしますが、


*「唯○論」という言葉=イメージは、ジョーダン=戯言=ガセ=いわゆるひとつの「お話」である or にすぎない。


と言えるのではないでしょうか。ですので、もし、


*「唯○論」という文字が入ったタイトルの書物


を目にしたら、いわゆる、


*トンデモ本


だとお考えになっても、かまわないと存じます(※念のために書き添えますが、トンデモ本というレッテルを貼られた本たちは愛すべき存在だと考えております)。このブログが、いわゆる、


*トンデモブログ


であるとお考えになっても、かまわないのと同じです。


     *


 とはいうものの、3人のゲンちゃんは全知全能でなく、「ぜんぶ、私に任せなさい」「ぜんぶ、私が面倒見よう」という立場には全然ないにもかかわらず、それなりに有効性=効果=影響力を備えていて、ヒトびとのためになっていることは確かです。


*誰がいちばん偉いか


なんて考えることはありません。それぞれの活躍の場はあるわけです。ですから、その位置関係が、


 言――現――幻


なのか


 現――言――幻


なのか


 現――幻――言


なのか


    言

   /  \

   現 ―― 幻


なのかは知りません。


 みなさん、お気に入りの立場から、お好きな位置関係=パターンをお選びください。もちろん、これ以外にも、チャート化=図式化は可能でしょう。


*何とでも言える=書けると同時に、どんなふうにも描けるのが、「記述」の特性だ。


と言えます。


 それはさておき、現実問題として、要は、


*ヒトは生きていくうえで、自分にとって「気持ちいい=快である」ゲンちゃんと付き合えばいい。


のです。ただし、


*「唯○論」の、「唯」は外しましょう。「○論」だけで、いいじゃありませんか。


 そうすれば、唯言論、唯幻論、唯現論、が全部、「げんろん」となります。「げんろんの自由」は保障されています(※公平を期するために、あえて「言論の自由」とは記述しませんでした。気遣いと気配りが何よりも大切でございます)。


     *


 あっ、ネコが部屋に入ってきました。あっ、暑いから逃げていきました。追いかけて、遊んでもらいます。


 では、事務的で恐縮ですが、きょうのまとめに入ります。


 以上、見てきましたように、ほんの3例ですが、


*ヒトの世の中には、いろいろな「世界=宇宙=森羅万象」の記述の仕方がある。


ようです。注意すべきことは、


*「絶対」、「完全」、「唯一」、「すべて」といった類の言葉を発しない


謙虚さを持つことではないでしょうか? たぶん、おそらく、メイビー、パハップス、そういう類の言葉=イメージは、ヒトにはふさわしくないのではないかと思われるみたいなんですけど……。


 いずれにせよ、


*言・幻・現のうち、どれがいいかなんて、「とろい」=間が抜けた=答えなんて出ない議論をする


よりも、


*妥協して「トロイカ体制」を敷く


か、


*トロイカより、「エロイカ(=英雄⇒独裁者)に支配されたい願望」=ファシズム=全体主義=思考停止状態・常態に陥らないように警戒する


か、


*そんなきな臭いことにはかかわらず=変な形で頑張らずに、せいぜい自分のPCがトロイの木馬にやられていないか気を配る


か、


*「トロイ(ア)戦争」は本当に起きたのか、をネット検索して調べるか、議論する


などして暇つぶしをするか、


*「トロイカとエロイカでは、どっちがとろいか?」「さあ?」「トロイカよ」「なんで?」「三人四脚では、動きにくい」なんて、くだらないオバハンギャグをとばす


か、


*「トロイカとエロイカでは、どっちがエロいか?」「さあ?」「エロイカですねん」「なんで?」「英雄色を好む」なんて、どうしようもないオヤジギャグをとばす


か、


*回転寿司のカウンターで「トロとイカのどっちにしようか」なんて、うじうじしながら迷っている


ほうが、よほど建設的ではないかと存じます。で、いろいろ「おふざけ」を書きましたが、


*相手の上に立とうとか、どっちが偉い or 正しい or 優れているかを命をかけてまで争うとかは、やめましょう。お遊び感覚=楽問=ゲイ・サイエンスなら、いいですけど。


と言いたかっただけです。(「3人のゲンちゃん」より)



     ◆



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