かりる・かる -3-
星野廉 2020/10/31 15:31 『存在と無』 かっこいいタイトルだなあ。中学三年生の時にそう思いました。哲学したい。そう考えるきっかけになった本のひとつです。高校生になってから買いました。大部で難解。拾い読みしました。積ん読しました。 いつ処分したかは覚えていません。今はないことは確かです。 本の題名を眺めながら、いろいろ考えることが好きです。中身に興味がないわけではありませんが、もともと本を読むことは苦手です。 題名を知っているだけで、自分にとっては十分。そんな本がたくさんあります。『存在と無』も、そのひとつです。わくわくするタイトルです。いろいろなイメージ、言葉が頭に浮かび、収拾がつかなくなります。それなのに、たのしい。愉しい。楽しい。 存在と無 上の文字をよーく見てください。少なくとも、十秒は見つめてください。時計の秒針を見ながら、十秒たつのを「待つ」と分かりますが、十秒って意外と「長い」ですよ。 固有名詞は強い光を放つ言葉です。前後の言葉たちの影を薄くし、時には読めなくしてしまうほどの、まばゆさが固有名詞にはあるので、注意を要します。 『存在と無』 恐縮ですが、すぐ上の文字を、また十秒間ほど見つめてください。 さっきの、存在と無、との違いを感じませんか? 『存在と無』と、かぎ括弧でくくったとたんに単なる名詞が本のタイトルとして固有名詞に変化する。そして、その固有名詞は強い光を放ちます。その差異を感じ取っていただきたいのです。 存在と無、と、『存在と無』との差異。それは、両者の「存在」から生じたと言えると同時に、両者の「無」から生じたとも言える。その両義性について考えてみたいのです。 * <私家版『――――』>というタイトルのもとに、文章をつづりたいという夢があります。 「――――」の部分には、既に書かれて存在する書籍のタイトルが入るのですが、その書籍とは無関係だとお断りしておきます。なにしろ読んだこともない本。過去に、買った、あるいは借りたが、全然読まずに終わったか、拾い読みはしたけれど、その内容の断片すら記憶にない本。名前しか知らない本。そうした本の名前が、<私家版『――――』>、という形で、自分の書く文章のタイトルとして記載されることになる。そんな荒唐無稽とも言える夢があるのです。 かつて、哲学や文芸批評関連の書...